三十二
「ローベルト! ねえ、ローベルト!」
動揺のあまり、名を呼ぶ以外に声が出なかった。出てきた声すら、小刻みに震えていた。頬を叩き、肩を揺さぶったが、彼の返答はなかった。首筋の体温は低く、脈は異常なほどゆっくりに感じられた。
「起きてちょうだいっ、ねえったら!」
叫んだ、ちょうどそのときだ。耳がホラガイに似た大きな音を拾った。空耳かと疑いながら、ソフィアは弾かれたようにそちらを見た。
音とともに煙が空高く吹き上がる。黒くて、見たこともないような威容をした船には、煙突がついている。戦闘中の海賊船にも、例の船よりもずっと巨大な船だった。ずらりと並んだ大砲を見るまでもなく、戦闘艦だとわかる。
ソフィアは直感的に、あれが汽船だと諒解した。船の帆柱のうえには、二枚の旗がひらめいている。一枚が鷲獅子だとわかったとたんに、からだが動いていた。
あれは、ユラン王国の船だ。おそらく、ローベルトの話してくれた海軍の新造艦に違いない!
海軍の軍艦であれば、医師がいるかもしれない。ローベルトのことを知るひともあるかもしれない。
彼のためを思えば、迷っている暇はなかった。ソフィアはローベルトの重いからだを抱えなおすや、汽船にむかって一直線に泳いでいった。
事態を俯瞰できているのは、おそらく自分ひとりだけだろうと、シフは嘆息する。
式典の列席者のひとりである王弟が、コスタ・デ・サラームへむかう道中でフーヴル・パルクに立ち寄ったと知ったのは、シフにとって、ふたつの意味で誤算だった。ひとつは、中立を貫いていたはずのエンマルク公爵が王弟側につくかもしれないという意味であるが、もうひとつは、彼の居場所に関する不可解さを意味していた。
シフはかねてから不審な動きを見せていた王弟の側に、密偵を放っていた。その者からの報告によれば、王弟はそのとき、サルゴウ海域のむこうで、海賊と接触していなければおかしかった。
船に乗り込んだところまでは把握している。途中で降りた者はない。ならば、この不可解な事象に介在するものが何であるのか、魔術師であるシフにわからぬはずもないかった。王弟は、無許可の魔術で己が身体を移動させたのだ。
自己のために許しなく魔術を用いるのは、世のことわりを乱す可能性の高い行為だ。証拠をもって立件されれば、この国では、死罪をも与えられ得る大罪である。
それほどまでの危険を冒して、王弟は何のために海から公爵のもとまで移動したのか。この危険と天秤にかけられる利益とは、いったいどんなものなのか。
しかし、シフにはそんなことを考える余裕はなかった。観艦式を前に王太子が逃亡を図ったためだ。おそらくここで出会えるという場所を、王太子は通らなかった。連絡さえ途絶えた。
王が足を運ぶ観艦式を延期することはできない。王太子がいなければ、式典は成立しない。かくなる上は、死んで詫びるしかないか。腹を括った。王太子の不在に気づいた重臣からは、王弟を推す声がいつにもまして高かった。王弟を王太子役として、式典を予定どおり済ませることを望む声もあった。だが、たとえ代理としてでも、あの場に立てば、内実は違えども、民衆に与える印象としては、海軍の実権を、ひいては後継者としての地位を、王弟が得たように見えるだろう。
王弟は、周囲の予想に反して、代役すらも拒否した。いつもであれば、王弟派の意見には逆らわない彼が、断固として拒絶の姿勢を示したことに違和感を覚えたのは、シフだけではなかったはずだ。それでも、シフ以外に、王弟がすでに犯した罪を知る者はない。
シフは、確信した。王弟には、いまこの場で王太子に成り代わってはならない理由がある。──たとえば、王太子を追い落とすための策略をしかけたのかもしれない。そして、それはきっと、新型軍艦と切り離せない何かなのだ。
手元に戻ってきた襟飾り型通信機を見つめ、ややもすれば心痛のあまり奇声をあげたくなるのをグッとこらえる。
敬愛する王太子が、足の悪い公爵令嬢と手と手を取り合い、しまいには、豪華客船のうえのひととなっていたとは、完全に想定外だ。それでも、王弟の罠にはまらなかっただけよかったというべきなのか。
ともかく、いまシフのすべきことは、豪華客船の乗客をひとり残らず救い出すことだ。大勢のなかに王太子の姿があれば、ついでに公爵令嬢もいれば、それ以上の何を望もうか。
目の前で縮こまる娘から情報を搾りとっては船橋に方角などを伝えながら、シフはもう一度、こころの底から、王太子の無事を願った。
目を開けると、世界は黄金色に輝いていた。
涙でうつくしい顔をくしゃくしゃにしたソフィアが、覆い被さるようにこちらを見下ろしていた。
ぽたりと頬に落ちたしずくをたどって、彼女の手が肌をぬぐう。ローベルトは、その細い指を捕まえ、乱れた琥珀色の髪をなでつけてやった。その手に頬を寄せるようにして、ソフィアは顔をさらに歪ませた。
「死んでしまったかと思ったわ」
「あなたがそんなふうに泣いてくれるなら、死ねないよ」
からだを起こそうとしたのを手伝ってくれたのは、シフだった。散々ひどい目に遭ったであろうお目付役は、ローベルトと目が合うなり、くちびるを震わせたが、さすがに空気を読んでくれたらしい。何も言わずに部屋を出て行った。
その背を見送り、まわりを見回してみる。見たこともない設えばかりだが、どれも新しそうだった。周囲のようすを観察してから、ローベルトはソフィアをふりかえった。
「──ここは?」
「蒸気船のうえよ。わたくしたち、助けられたのよ。わたくしたちだけではないわ、エラも、グリーズ号に乗っていたひとびとも、みんなあの方が救ってくださったのですって」
自分でも涙を手で拭い、ソフィアは思いだしたように周囲を見回した。シフの計らいだろうか、人払いがされていることを確かめると、おもむろにドレスの裾をめくりあげる。
「ちょ……っ、ソフィアっ?」
手で目元を覆おうとしたローベルトを制して、ソフィアはスカートの下に隠れていたものを露わにした。
「ごらんのとおりの状況なの。このひれはもう、もとの足には戻らないかもしれないわ。杖を使って歩くこともできないし、いままでどおりの車椅子に乗るのも難しいわ。もしかしたら、ずっとこの海辺を離れられないかもしれないのよ」
ローベルトは、まじまじとソフィアの足であったものを見つめた。細かな銀の鱗を持った肌には光沢があり、まるで銀をそのまま機で織ったようだった。
「車椅子は、新しいものをつくればいい。ソフィアが海辺にしかいられないなら、俺が移り住めばいいんだよ。それより、聞かせて。どうして、こうなったの?」
「わからないわ。夢中だったの。砲撃のせいで海に落ちたのは覚えているでしょう? ローベルトは浮いてこなかったのよ。だから、海の深いところまで探しにいったの。そうして気がついたら、海のなかで息ができるようになっていて、足もこうなっていたの」
ひれを見下ろすソフィアは戸惑ったようではあるものの、ローベルトが自分のもとから離れていくことは考えてもみないようすだった。その信頼が何よりもうれしくて、顔がにやけるのをこらえて、手を差しだす。
「ありがとう、助けてくれて」
「どういたしまして。でも、当たり前のことではなくて?」
はにかんで笑う彼女の、瞳のなかに瞬く星に囚われる。どちらともなくからだを寄せて、吐息がふれあうほどの距離で見つめ合う。ローベルトは好奇心からソフィアのひれに触れてみながら、人魚姫のものがたりのことを思いだしていた。




