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三十

 数週間にも及ぶというサルゴウの凪の影響は、ローベルトたちを乗せた船にも等しくふりかかった。浮遊物の多い海域に入ると、たちまち船足は鈍り、やがて、帆はまったくふくらまなくなった。

「蒸気船は凪をものともせずに進むんだ。船の両側に水車のような車輪がついていて、それが回ることで推進力を得るそうだよ」

「ローベルトは見たことがあるの?」

「俺も興味はあったけど、観艦式には出なかったからね。聞きかじった知識しか持ち合わせがないよ」

 ふたりでのんびりと風待ちをしながらおしゃべりをしていると、見張り台にいた男が望遠鏡を片手に鋭く叫んだ。

「船だ!」

 よもや海軍の汽船ではあるまいか。相手方が目視できる距離に近づいてくるまで、望遠鏡のない自分たちには詳細がわからない。じりじりとそのときを待っていると、さほど間をおかず、見張り台の男がふたたび怒鳴った。

「兄貴ぃ! 例の依頼主の船だ!」

 ヘンドリクの行動は早かった。するすると帆柱を登っていくと、見張りから望遠鏡を奪い取った。片目をつぶって先を望み、顔色をかえる。

「戦いの支度をしろ! 味方だと思って油断するな!」

 船は凪いだ海を悠然と渡り、こちらにむかってくる。汽船か? ローベルトは頭によぎった自らの考えを即座に否定した。ありえない。民間には、まだ存在しないはずだ。石炭の手に入りやすい他国なら、あるいは。しかし、それならばそれで、ひとの口にその存在がのぼるだろう。

 その船に両輪は存在しなかった。穏やかな波間を滑るようにやってきて、こちらに接舷を求める。海賊たちは目配せして、求めに応じることに決めたらしかった。

 ようすを見たがって甲板から動こうとしないソフィアをやむなく背中に隠して、ローベルトは状況を見守った。相手方から、貴人の従者らしき壮年の人物が乗り込んできて、グリーズ号襲撃の首尾を高飛車に問うた。依頼主の策略を疑ってか、ヘンドリクはこの使者に慇懃な態度すら取らなかった。

「グリーズ号は衝角を使って沈めた。獲物は渡さねえぜ」

「結構。では、後金を持ってこさせよう。そなたらは、ねじろに向かうのか?」

「……いや、後金を受け取りに来ただけだ。いまから港に引き返して、宝石やら何やら売っぱらいにいくさ。ねじろに土産を買っていかにゃあならねえからな」

 ヘンドリクの嘘は下手だったものの、使者が気にしたようすはなかった。薄汚れた海賊の姿を目に映すのも嫌そうにしていたが、帰りがけ、ローベルトのほうを見て、明らかに顔つきが変わった。

 ──失敗したか。

 自分なりに海賊に紛れているつもりだったが、やはり、ソフィアの存在が目立ったのだろう。海賊船に女性というだけでも珍しいのに、杖をついたドレス姿の美少女がいるのだ。なかなか目に出来る光景ではない。

 使者はつかつかとふたりのいるほうへやってくると、ソフィアだけでなくローベルトのことも、じろじろと無遠慮に眺めまわした。

「不釣り合いな客人が乗っているようだが、こちらはグリーズ号の乗客か? すべて沈めろと命じたはずだ」

「身代金も取るなってのか?」

「部外者に我々の繋がりを見られてしまったではないか。それに、」

 その先を言おうとして、我に返ったようすで口をつぐんで、使者は後金をよこすように伝えてくると告げ、船を移る。ヘンドリクが動いたのは、その直後だった。ローベルトにソフィアを抱きあげるように言い、声を低めて、部下を何人か呼び寄せる。

「俺たちの恩人だ。むざむざ殺させるんじゃない」

 短い命令に、男たちは目を見交わし、すぐに行動に移った。接舷している側とは反対に小舟を下ろし、ローベルトたちふたりを乗せると、むこうへと蹴り出した。

 反論をする暇も、ここに残ると主張する間もなかった。

 海賊船の陰に隠れて、ふたりで精一杯小舟を漕げというのだ。ローベルトは、初めてながら懸命に櫂を漕いだ。車椅子になれているソフィアは、しなやかに腕を動かせている。か弱い彼女のほうが上手なくらいだ。

 依頼主の船の動力が蒸気でないなら、ローベルトにはひとつしか可能性が思いつかない。──魔術だ。そうであれば、いくら逃げてもたやすく追いつかれるだろうし、グリーズ号の護衛船を消したほどの力量なのだから、自分とソフィアの乗る小舟くらい消し去ることは訳ないことだろう。

 そうは思えども、ヘンドリクたちの心意気に接して、なお、諦めようとは考えられなかった。彼らは戦うつもりだ。全員が共有できていたかはわからないが、ローベルトには、使者のことばが不穏なものに思えたし、ヘンドリクも同じように感じたのだ。

 櫂にかかる重みに、息が上がる。ソフィアはもう何度も手を休めては、櫂を握り直している。それなのに、小舟は思うようには二隻の船から離れていかない。

 戦闘が始まったのが、音でわかる。そちらを見ている余裕はない。ヘンドリクは無事だろうか、食事のときに笑い話を披露していた彼は、ねじろに妻と子がいるのだと言ったあの弟分は。ほんの一日足らずのやりとりが、ぐるぐると駆けめぐる。

 気づけば、真向かいで、ソフィアは顔を真っ赤にして、肩で息をしていた。

「ソフィア、俺だけで──」

 その先は、音にならなかった。

 ソフィアの後方、あの二隻の方角から、飛来するものがあった。見る間に近づいてくるそれが、砲弾だとわかったときには、ローベルトは衝撃で海に放り出されていた。



 夜明けの海は、裾から赤く染まっていく。巻き上がるように夜空は逃げて、星は見えなくなった。

 エラは泳ぎ疲れ、波に揺られて休みながら、ぼうっと空を見上げていた。木切れを手放せば、このまま水底に沈んでいきそうなほど、からだは疲れ果て、とても眠かった。

 寒いからかもしれない。からだは冷え切っている。夜の海に放り出されたのだ。真冬でなくてよかったとは思うものの、真冬の水の冷たさでないからといって、いまの辛さが軽くなるわけでもない。

 うつらうつらしては顔に波をかぶり、木切れが手から離れそうになる。意識を繋ぐのでせいいっぱいだ。だから、最初にその音を聞いたとき、エラは『こんなところになんてたくさんの牛がいるのだろう』と思った。夢でも見ているのだ。海に牛がいるわけがない。

 だが、顔をあげて音の出所を確認して、悲鳴をあげるほど驚いた。船だった。タールを塗った黒い船が、エラの近くまでやってきていた。

 ついさっきまでは見えなかったのに、いったいどこからやってきたのだろう。そんなに長いこと夢うつつだったのか。それともやっぱり、これは夢なのだろうかと思う間に、目の前に投げ落とされたのは、綱のついた救命具だった。

 必死にしがみついて船に揚げられて、エラは空気と、ドレスの吸った水の重みに潰されるようにへたり込んだ。

「だいじょうぶですか?」

 硬質な女性の声がしてふりむくと、そこにはソフィアの従僕がしていたのとよく似た眼鏡をかけた中年の女性が、すぐ間近につんとしてたたずんでいた。まるで聖殿の神官のようなからだの線の出ない裾長の服を身に纏い、神経質そうな顔をした女性だ。地紋の織られた絹地や整った顔立ちを見て、エラは相手の身分の高さを推し量る。

 周囲には、軍人らしき人影が多い。これは、どうやら海軍の船らしいことは、教えられずともエラにもわかった。そして、この女性の自由な振る舞いを見るに、彼女は軍人よりも偉いらしい。そのことを見て取って、エラはいっそう縮こまった。命が助かりはしたけれど、とんでもない船に引き揚げられてしまった。

 女性は長くまっすぐな髪をうしろへやりながら、エラのところまでやってきて、おや、という顔になった。

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