三
濡れそぼったドレスを脱ぎ、頭のてっぺんからつまさきまで、すっかりと身を清める。何度もくしけずられて光沢を増した琥珀色の髪はまだ湿っていて、重たく肩に垂れかかっている。侍女が先程から、しきりに布で髪を拭って、乾かそうと試みている。
被害がもっとも大きかったのは、車椅子だ。クッション材に湖水が染みた車椅子は、天日で乾かす以外に打つ手がない。さっそく庭で丸洗いされている。乾くまで散歩はお預けだ。
ソフィアはしばらく、下女の働くさまを窓辺の椅子から見下ろしていたが、それにも飽きて壁の本棚に目を向けた。ソフィアの居室の壁は一面、本で埋め尽くされている。航海日誌に紀行文、図説図録の類に、伝承伝説を記した本、生物学に国史、世界史。そのほとんどすべてが海洋に関するものだ。物語もそろえてある。
「お取りしましょうか?」
ふいの声かけに思考を邪魔されて、ソフィアはぼんやりと面を上げた。
黒髪の青年だった。父よりも背が高く、肩も広い。二十代前半に見える。眼鏡の奥の目元は優しげだ。同じ青でも、ソフィアよりもずっと明るく深みのある色合いの瞳に見入る。
「きれいな瞳ね。海原の色だわ」
素直に口に出すと、青年は目を丸くした。
「海をご覧になったことが?」
「ないわ。図録や物語の挿絵で見ただけよ」
公爵領はすべて内陸にあるし、公爵令嬢たるもの、たとえこの足が自由に動いたとて、社交界にデビューする前に方々へ旅行にでかけることは許されなかった。
ソフィアは今年で十六歳。デビューの予定はついぞ立たないが、年齢的にはギリギリ『デビュー前』である。そうは言えども、海を見たことがない理由は、それだけではない。
ソフィアは秘して語らなかった。わざわざ語るべきとも思われなかった。エンマルク家に伝わる掟など、一従僕に教えてどうなるだろう。
黒髪の青年──ロビンは、感心したようにうなずくと、壁の本棚を見やる。
「さきほどの湖畔でのお芝居も、舞台は船のうえでしたよね。ひょっとして、海がお好きだとか」
「海というより、海賊が好きね」
素っ気ない返答にもめげずに、ロビンはにっこりと笑って見せた。
「ああ、じゃあ、やっぱりさっきのセリフは『宝島まで二千ファーリ』だったんですね」
そう言いながら、断りもなく本棚から一冊の本を取った。
「海賊ものと言えば、これは外せませんよね!」
従者が本を開こうとするのをみて、ソフィアは椅子に立てかけられていた杖を取った。侍女が髪を拭く手を止め、退いた。
「──そのとおりね」
両脇に杖を差し入れ、からだを立たせると、振り子のように両足を杖より前にぐいっと投げ出した。足裏をつき、膝が崩れる前にすかさず両側の杖を前に出す。
杖での歩行は安定が悪く、あまり好かない。だが、ソフィアにとっては、これが歩くということだ。一歩ずつ従者に近づきながら、ソフィアはたたみかける。
「わたくしが海賊好きだと知ると、『海賊と姫君』を推してくださるかたは多いけれど、あれは単に舞台化されて知名度が高いだけだわ。中身は甘ったるい恋物語と騎士道精神にあふれていて、陳腐きわまりない! 海賊もののなんたるかが、ちっともわかっていやしないッ」
パシッ。自分より背の高い男性から本を奪い返して胸に抱くと、ソフィアは陶然として声を張り上げた。
「冒険・友情・勝利! 義賊もいいけど、荒くれ者もお尋ね者もすてきッ! 宝は根こそぎ奪い取り、女とみれば拐かす。読み進めるのに背徳感が無いなんてつまらないわ!」
ロビンは一瞬、あっけにとられたようだったが、すぐに拳を握りしめて震えた。
「わかります。俺も子どものころには両親や家庭教師の目を盗んで読んだもんです」
り、理解者がいた! ソフィアは本をぎゅうっと抱いたまま、うれしくなってこくこくと首を上下させた。
「そうよ、そうなの……ッ! おまえ、よくわかっているじゃないの、ロビン。──でもね、許しも得ずに主の本にさわることはまかりなりません。次はないと思いなさい」
いささか興奮しすぎた自分に気がついて、後半は、こほんと咳払いをして伝えると、ソフィアはいったん『宝島まで二千ファーリ』を棚に戻した。話題を変えようと、適当なことばを探す。
「おまえも家庭教師に習ったのね。なぜ、学校に行かなかったの」
「通わせてもらえなかったんです。城下の私学校は許されませんでしたし、寄宿制の公学校にはむこうから断られちゃって」
私学校は、中流層の平民の子弟が通う。公学校は一般的には貴族の子息が通うもので、寄付金を積めば、一部の大商家の子弟も入れると聞く。ロビンの出身はその狭間か。当たりをつけて、ソフィアは納得した。
「お嬢様は女学校には?」
「この足で寄宿学校に通えて?」
笑って流し、杖を操る。窓辺に戻ると、庭には下女たちの姿はなく、天日干しのため、車椅子だけが取り残されていた。
「ねえ、おまえの読んだことのある本で、ここにないものは何かある?」
「海賊もので、ということでしょうか」
「私家版でもない限り、海賊ものでわたくしの手に入れていない本があるはずがないわ。海賊に限定しなくて構わないのよ。海に関するものなら、なんでもいいの」
ロビンはざっと本棚に目を走らせ、それから拳を口元にあてがい、海色の瞳をなかば伏せた。
「『人魚姫』はいかがでしょう? 恋物語なのですが」
人魚ということばを聞いて、そばに控えていた侍女が血相を変えた。
「従者殿! エンマルク公爵家において、水妖の話を姫さまのお耳にいれるなど、言語道断でございます」
語気も荒く話に割って入った侍女をてのひらで押しとどめて、ソフィアはロビンに笑みかけ、話を続けた。
「半人半魚の水妖にも、姫がいるのね。水妖の恋物語が世に存在するだなんて、考えてもみなかったわ」
「『人魚姫』の人魚はよき存在ですよ。人間の王子に恋をするお話です。あ、でも、恋物語はお嫌いなんでしたっけ」
『海賊と姫君』を否定したくだりを思い起こしたか、ロビンは顔をくもらせる。ソフィアは小首をかしげた。
「あら、嫌いだなんて、だれが言ったの? 『海賊と姫君』は海賊ものとしては失格だけど、恋物語としてはとてもよくできていてよ? それにね、わたくし、海が出てくる本なら何だっていいし、魔性が出てくるものも大歓迎よ」
「よほど本がお好きなんですね。それも、海に関するものばかり」
さすがに苦笑いをみせた従者に、ソフィアは開きなおって胸を張った。
「この城から動けないのだもの。本を読む以外に、どうして知識が得られるかしら。どの本も、三度は読んだわね。その人魚姫って本、ぜひ手配してちょうだい」
「では、さっそく発注してまいりましょう」
「代金は執事に請求なさいね」
ロビンは小難しい顔で、承知しましたと請け合い、部屋を出て行った。それを見届けて、文句を垂れながらソフィアの髪を結おうとする侍女を、片手で追い払う。
「ちょっと一人にして頂戴」
言い放って、本棚の前に戻る。さきほどの『宝島まで二千ファーリ』を手に取るころには、部屋にはソフィア以外だれもいなくなっていた。