二
風が吹いた。湖面にさざなみが立つ。岸辺に打ちよせる波を見て、ソフィアは大海原に乗りだした海賊船を夢想した。
横帆が風をはらみ、大きく膨らむ。隻眼の頭領が怒鳴る。
「おい、取り舵だ! この風を逃すなよ! うまくいけば、夕べには島に着くぞ!」
思わずこぼれ出た海賊の頭領のセリフは、可憐な薔薇色のくちびるには似つかわしくない。だが、鈴を転がすようだと称えられる自らの声も、いまのソフィアには、酒焼けした男の声にきこえている。
頭領のがなり声に、わっと海賊たちの歓声が上がる。根城にしている海賊島には、家族や酒が待っているからだ。
星空を閉じ込めたような瑠璃紺の瞳をきらきらさせて、ソフィアは妄想のなかの男たちといっしょに感極まった。
「よし、残りのラム酒はぜんぶ飲んじまえ!」
調子に乗って、高々と腕を天に突きあげたとたんのことだった。ぐらりと上体が傾いだ。あわてて車椅子の肘あてをつかんだが、間に合わない。助けてと声もあげられずに、ソフィアは波打ち際に転がり落ちた。
ばしゃん! 浅い波が伏せた頭に被さる。目を開けてみると、琥珀色の髪が藻のようにうねって広がっていた。痛い! 引き波で、砂が目に入る。
「っ、……ぷはっ」
息を継ぎ、水底に手をつく。からだを起こし、どうにか湖から這い出ようと試みたが、いかんせん、水を吸ったドレスは重たく、ソフィアの細腕ではどうにもならない。
──こんなことなら、泳ぎの練習をしておくべきだったわ!
もがく合間にも、波は容赦なく寄せ、ソフィアのからだを前にうしろにと翻弄する。砂でごろごろする目からは涙があふれ、視界すら思うようにはならない。
「うう……」
小さくうめいたときだった。
「──おい、だいじょうぶか!」
はりのある低い声が耳を打った。聞き覚えのない若い男性の声。どこから? ソフィアが答えを見つける前に、声の主はこちらへたどりついていた。
ざばっと勢いよく水から引き揚げられる。足の裏が地面につく感触がした。けれども、ソフィアの両足には、己のからだを支える力はない。自重で膝が曲がる。くたっと崩れ落ちそうになるのを寸前で抱きとめて、男性はとまどったようだった。
「わたくしを地面に下ろしてくださいませんこと? 車椅子を起こしていただけると、たいへんありがたいのですけれど」
やんわりとした口調で指示を出すと、彼はおそるおそるといった体でソフィアを地面に抱き下ろし、横倒しになっていた車椅子を起こした。ソフィアは自分で車椅子に乗ろうと這い寄ったものの、水を吸ったドレスの重みに負けた。見兼ねた男性の手を借りながら、どうにか車椅子へ戻ると、髪やドレスがびしゃびしゃで不快なこと以外は、いつもどおりになった。目のなかの砂も、涙でうまく流れでたらしい。
はっきりした視界には、なんとも野暮ったい風体の男性が映った。眼鏡をかけ、紺の詰め襟の服を着ている。顔立ちのほとんどが大きな黒縁の眼鏡に隠れてしまっていて、もう少し近づかなければ、目の色も見えそうになかった。
ソフィアはよそいきの笑みをかたちづくり、着座のまま丁寧に会釈をした。
「エンマルク公爵の長女、ソフィアと申します。さぞ驚かれたことでしょう。わたくし、足が動きませんの。そのためにお客様のお手を煩わせてしまい、申し訳ないことでございます。お召し物が濡れましたでしょう。すぐにも城へ戻りましょう」
立て板に水と口上をのべるソフィアに、男性は両手を振って否定を示した。
「いえ、俺は客ではありません。騎士団から紹介を受けましたロビンと申します」
この返答を聞いて、ソフィアの顔から笑みがすうっと抜け落ちた。
「騎士団からということは、おまえがわたくしの新しい従僕ね?」
問いかける声は冷ややかだ。それなのに、彼は気にした風もなく頭をたれる。
「左様でございます。精一杯つとめます」
「せいぜい長く勤めなさい。あなたの前任者たちはみな、三か月と保たなかったわ」
即座に車椅子を転回し、城への道をたどり始めると、ロビンはさすがにうろたえたようすで、車椅子を押そうと手を伸ばす。それを、ソフィアはつっぱねた。
「ひとりでできるわ。どうせ、おまえも三月保たないのに、頼るわけにはいかないもの」
自分で車椅子を漕ぐことを忘れたら、ただでさえ細いこの腕では、自分のからだを運ぶこともできなくなってしまう。
拒絶された彼は、ふところを探ってハンカチを取り出すと、こちらへと手渡してよこした。
つきだされたハンカチに目を落とし、ソフィアは視線で従僕に意図を尋ねる。
「せめて、お顔だけでも拭いてください」
「……ありがとう」
少し面食らいながらもソフィアは車止めをかけ、両手でハンカチを受け取った。それを見て、彼はうれしそうに笑い、主を追い抜いて城に向かって走り出す。
「先に行って、お召し替えの支度をととのえてきます!」
どうぞ、ゆっくりいらしてください! と、たぶん、そう言ったのだろう。だが、語尾はほとんど聞こえなかった。
「嘘でしょう」
ぽつりとつぶやく。初めての扱いだった。これまでの従僕はみな、片時もソフィアから離れたがらない輩ばかりだった。みんな、ソフィアに付き添う口実として、車椅子を押したがるのだ。ひとりでできると主張するソフィアの声など、だれの耳にも入らなかった。
父がソフィアの従者にと選んでくる若者は、騎士団の若手ばかりだ。騎士といえば、経済力に乏しい貴族の家の三男、四男がなるものと、この国では相場が決まっている。どの若者も、従者として長続きはしなかった。ソフィアを見るなり目の色を変える者ばかりだったのだ。きっと、公爵家の婿の座を狙っていたのだろうとは思う。そのせいで、みな半年も経たずに解雇されていった。
「……。」
新しい従僕は、腰に剣を帯びていなかった。
ソフィアは手元に残されたハンカチに、いまひとたび目をとめた。地味な生成り一色に見えて、そうではないことはよく観察してみれば明らかだ。茨の茂みが細緻な織りで描きこまれ、端には繊細なレース編みの施されたハンカチ。とても手触りがよい。きっと、絹の一級品だ。
(資力があるのに、わざわざこの家に仕えようと考えるかしら)
目的は、何だろう。
膝に乗せたハンカチが飛ばないように気を配りながら、車椅子を漕ぎだす。ロビンが飛ぶように駆けた城への道のりが、自分にはなんと遠く長いものであることか。
ひとりでできると言った手前、あまり遅くなっても示しがつかない。ソフィアは小さくうなずいて気合いを入れると、ゆるやかな勾配をのぼるため、両手にぐっと力を込めた。