十五
「いったい何が」
「別に何も。何度も気の毒がられただけよ」
世間知らずの令嬢ひとりに婦人の相手をまかせたことを、ロビンはいくぶんか後悔した。気位の高いソフィアからしてみれば、憐れまれるのは気に食わないことだろう。それだけではなく、考えかたもあるかもしれない。案の定、ソフィアは人目を気にせず、ロビンにむかってぼやいてみせる。
「足が動かなければ、杖を使って歩けばいいし、車椅子を漕げばいいのだわ。足が動かなくとも、わたくしには腕があるのよ。進む気さえあれば、這ってでも進めるの。何を悲観することがあって?」
そう口にする横顔には、勇ましい女神のような神々しささえあった。ソフィアのことばは、揺るがぬ自信に支えられている。そのことが端からみても明らかなほど、星空をうつした濃藍の瞳には、力がこもっていた。
そこへ、奥からだれとも知らない男の声が飛んできた。
「そりゃあ、金持ちならそうだろうさ。羊を追わずとも畑を耕さずとも、食っていかれるんだからよ」
庶民であれば当たり前に出てくることばだったかもしれない。だが、痛烈なまでの言いように耐えかねて、ロビンは荷台の奥の暗がりを睥睨した。
腕にそっとソフィアが触れる。見下ろせば、かぶりを振るのが見えた。だが、止まれなかった。
「あなたの娘や妻が明日、足を失ったときにも、昨日までのように羊を追え、畑を耕せと言えますか。足を使わぬ別の仕事を探してやろうとは思いませんか」
「だから! その仕事がねえんだよ。足が動かなきゃあ、穀潰しになるだけなんだ。お大尽には、到底おわかりになるまいなあ?」
仕事がない? そんなはずはない。手仕事ならば職が見つかるだろう。ムキになって言い返そうとしたロビンの袖を、ソフィアが強く引いた。
「降りましょう」
ソフィアのことばを聞いて、言い合いをしていた奥の者がこれ幸いと、御者にむかって声をはりあげた。
馬車が停まったが、荷台から降りるための踏み台が用意されることもなく、返金もなかった。ソフィアを抱えて転げるように下車するや否や、御者は鞭を振るった。遅れを取り戻そうというように、乗合馬車は速度を増して去って行く。
街道に取り残されて、ソフィアを抱きかかえたまま、ロビンは呆然と馬車の影が小さくなるのを見送った。
「──杖を忘れてしまったわ」
ソフィアが苦笑いして言うのを聞いて、馬鹿なことをしたと思った。路銀だけは携えているが、そんなものよりもソフィアの大切な足代わりの杖を失ったことに衝撃を受けた。
何も言えずにいると、ソフィアの手が頬に触れた。
「迷惑をかけたわね。わたくしが不用意なことを口にしたばっかりに」
「それは違う!」
被せるように否定して、語気の強さに自分でたじろいだ。
「俺が世間知らずだっただけです。まさか、仕事がないとは思わなくて」
ソフィアを背負って立ち上がる。背中を覆う熱と、首筋を流れる柔らかな琥珀色の髪と、香りと、てのひらで支える足のやわらかさに激しく動揺する。重みなんて、まったく感じなかった。そして、鈴を転がす声は、容赦なく耳元で優しくささやくのだ。
「ねえ、ロビン。仕事があれば、足の動かないことは障害ではなくて個性になるのよ。糸車にも織機にも足踏みが要らなくて、手仕事をする女たちを雇い主が迎えにいくのが当たり前なら、そこに足の動かない者がいても不思議ではなくなるのよ」
「糸車に足踏みがあるんですか?」
驚いたロビンにソフィアはころころと笑う。
「水力を使うものもあるけれど、基本は足踏みで動力を得ているの。手で回すこともできるけれど、効率が悪いわ」
どうして、深窓の令嬢が自分よりも詳しいのかと思ったが、聞けば、『茨姫』に出てくる糸車を見たいとねだって、取り寄せたことがあるのだと言う。織機についても、似たような事情らしかった。ソフィアのわがままのおかげで、城の地下には糸紡ぎと機織りができる部屋があるのだと言う。
「外国では、蒸気機関という動力があるんですって。すてきよね、ひとが足踏みをしなくても、布がたくさん織れるらしいわ。そのおかげで、舶来の布地も以前より安くなったそうよ。針子がドレスを仮縫いに来たときに、世間話で教えてくれたの。輪入りスカートも流行が終わりそうだと言うから、うれしいわ。わたくし、あれが苦手なの。張り骨が邪魔で、車椅子に座れないし、杖もうまく使えないんですもの」
そこまでまくし立てて、ロビンがきょとんとしていることに気づいたのだろう。ソフィアの声は笑い含みになる。
「ドレスの流行なんて、めったに人前に出ないわたくしには関係ないことだったわね。車椅子でダンスをするのが珍しくなくなれば、わたくしも社交の場に出してもらえたのでしょうけれど」
「公爵がお嬢さんを社交の場に出さないのは、別の理由だとおっしゃっていましたよ?」
「昨夜のお話でしょ? わたくし、お父さまのおっしゃったことがよくわからなかったわ」
「……っ、その、真意を上手に隠せないと、社交の場では侮られるんですよ」
しどろもどろになったロビンの耳たぶの端を、背後からの指が不意にたどった。
「ひ、あっ! な、何するんですか!」
からだの芯がぶるりと震えた。どうにか衝動をこらえきり、とがめると、ソフィアは悪びれないようすで言う。
「だって、真っ赤だったんですもの」
「そういうことなんですよ、公爵がおっしゃってるのは! その場の気持ちにまかせてこうやって男に触ったり、足を見せようとしたり、あからさまに好意を表に出したり口にしたり! いま、俺たちふたりきりなんですよ、わかってます?」
「……あからさまに口にしたことはないわ」
むすっとした声に呆れて、ロビンはソフィアを背負いなおした。そうしながら、早口にたたみかける。
「婚約の相手が俺だったらよかったとか、俺のこと気に入ってるから辞めないでくれとか、好意を持ってるだの、こころを開いちゃっただの」
「最後のは言っていないわ! あくまで、女性がロビンに好意を持つのは当然だと」
「ほんとうはそういう意図だったとしても、そうは聞こえなかったんですよ、公爵にも俺にも。女性と見たら、だれにだって軽薄なことをする男が、いたずらにお嬢さんのこころを乱した。だから、人目につかないうちに追い出されるはずだったんです」
淡々と述べて、長い道のりを見据える。ソフィアは沈黙し、しばらくしてロビンの耳元で小さく問いかけた。
「いままでだれにも通じなかった海賊物語のことを、理解してもらえたから?」
「──知りませんよ、そんなこと」
「海賊の話をするのって、軽薄なこと?」
「褒められたことじゃありませんが、軽薄でもないですね」
大真面目に聞かれたので、真面目に答えると、ソフィアの声がいくらか明るくなった。
「それなら、わたくしはロビンに軽薄なことをされてなどいないわ。こころを乱されてもいません」
「はいはい、お嬢さんがそうおっしゃるならそうなんでしょうね」
投げやりになったロビンに、ソフィアはいかにも不思議そうにつぶやいた。
「女性にする軽薄なことって、たとえばどんなこと?」
いい加減にしてくれ! と、ロビンは煩悶し、それから、こころを乱されているのは自分のほうではないかと、ようやく気がついた。




