8.ZEPHYR(ゼファー)の後部座席②
ティルは自己中な男の言い分に冷ややかな笑みを浮かべながら言った。
「まぁねぇ……けどさ、仕方ないでしょ。”不幸な人を笑うのが僕の運命”なんだから。でさ、話は変わるんだけど、外に停めてある黒いバイク、あれを僕に譲ってよ。そしたら、警官との銃撃戦がおこって、死んだとしても、僕のマスターがあんたの魂をもう1度……」
「お前っ! 勝手な想像で俺を殺すな!」
激高した男は、ナイフを持たない方の手で、ありったけの力で少年の体を自分の胸元に引き寄せた。
……がその時、はっと表情を変えたのだ。
「何だ……そうだったのか、ふふ……こりゃあいいもん見つけた」
それと同じタイミングで、パトカーの音が店の前を通り過ぎて行った。どうやら、まだ、このレストランの殺人事件は外に知られていないらしい。
にたりと下品な笑みを浮かべながら、若い殺人犯は、ティルを抱え込み耳元でこそりと呟いた。
「あのバイクに乗りたいなら、お前は俺と一緒に来い。まだ、警察はここの事件に気付いちゃいない。ここの従業員どもを閉じ込めて、レストランに火をつけよう。その騒ぎの間に俺はお前と一緒にここから逃げてやる」
「えー、そんなの嫌だよ。それに、あんたってホモ? 僕を彼女代わりにしたって、面白くもなんともないでしょ」
すると、ナイフを右手に握ったまま、男はティルの襟元に顔を近づけてきた。酒臭い吐息が首筋から胸元まで吹き込んでくる。
「あっ」
その瞬間、少年の顔色が青くなった。
「お前、女だろ? 何で男の成りをしてるかは分からんが、こんな別嬪なら子供でも……いや、変に熟し切ったババアより、成長過程の方が、ずっと美味しそうじゃねぇか」
「止めて……」
いやだ、いやだ、嫌だ!
「離して! お願いだから」
青い瞳から大粒の涙を流して懇願する。捕えられた男の腕の中で、視線を宙に浮かせ、高飛車な態度を急変させて泣き叫ぶ少女に殺人犯の男は、余計に興をそそられ、
「その声いいねぇ。とっとと、こんな場所は燃やしちまって、お前がお気に入りのゼファーでどこかのモーテルにでもしけこもうぜ」
いやだ! こんな汚い腕に抱えられて、クリスマスの町をあのバイクで走るなんて!
「助けて。助けて、助けて!」
その時だった。ティルを捕えた男が、背後から彼の首筋に手をかける強い力を感じたのは。
「うぐぐっ!」
突然、首を握りしめられた男の視界が暗く翳った。
「離せ、離せ、さもなければ、俺は本当にこいつを刺すぞ!」
得体の知れない背後からの恐怖から逃れようと、ティルの首に手にしたナイフを突き付ける。
「無駄だ。その娘はとっくに死んでる。その首はとうの昔に俺が切り裂いた」
響いてきた低い男の声に、ぎょっと、若い殺人犯は少女の首筋に視線を向けた。
彼女の顎の下から喉元に一直線に走る痛々しい傷跡。
「これ以上、その子を辱めるな。ただでも救われぬ魂が余計に穢れてしまうから」
有無をいわさぬ力に頚椎を締め上げられ、めりめりと音をたてながら神経根が壊れてゆく。
「イヴァン! 来てくれたのっ!!」
床に倒れ完全に意識を失う前に、殺人犯の男は、背後から現れた背の高い男の胸に嬉々として飛び込んで行った少女にもう1度だけ目を向けた。少女を両手で支えた男の瞳は、この世をすべてを儚んだような赤みを帯びた灰色をしていた。
「……お前らは亡霊か……それとも悪鬼か」
クリスマスだってぇのに……こんなのに会っちまうなんて、俺は本当についてねぇ。
「お兄さん、まだ、遅くないよ。あの黒いバイクを僕に譲ってよ。そしたら……」
イヴァンと呼んだ男の腕の中から、再び、取引を提案してきた少女。
漆黒のZEPHYR1100。
あのバイクだって盗品だ。そりぁ、あれで風を切って走るのは、すっげぇ、爽快だったけどよ……床に倒れた瀕死の殺人犯は、歪めた唇の隙間からぽつりと言った。
「もってけ……あれに……俺はもう乗れない」
その瞬間だった。レストランの灯りが眩い白銀に輝きだしたのは。
* *
「あれ? 俺たち、何やってたんだ?」
穏やかなクリスマスソングのBGMに目を覚まされた人々は、辺りの様子に目を瞬かせた。
ウェイトレスが運んできた七面鳥からオニオンパウダーのいい香りがする。テーブルのスープ皿から、温かな湯気がたっている。
ささやかなクリスマスディナーを振舞う町はずれのレストラン。
何もかもが元の通りだった。床を染めた血の色も、ツリーに飛び散った血糊も今は消えうせていた。
ただ、床に倒れた店長と、その傍にしゃがみこんだまま、呆然と理由のわからないことを呟いている男以外は。
「店長は……多分、発作を起こしたんだ……前から心臓が悪かったから」
店長は息耐えていた。レストランの人々が不思議に思うほど、安らかな顔をして。
* *
「ちぇっ、イヴァンのケチんぼ。結局、僕には天使を見せてくれなかったんだね」
レストランの扉を開けて外に出たティルは、続いて出てきたイヴァンに拗ねた顔を見せた。
「何がケチなものか。俺にもあれは見えない。実際、あれが天使かどうかも分からない」
「天使だよ。だって、聖なる夜に、突然舞い降りて、迷える子羊たちを救いに来てくれたんだから」
イヴァンはティルの言葉に微妙な笑みを浮かべた。
「救いか」
「だって、店長さんは生き返らなかったけれど、あの魂は天使に導かれて、今頃、きっと天国の道を歩いているんだから」