7.ZEPHYR(ゼファー)の後部座席①
1999年。
世紀末のクリスマスを迎えたロンドンは、ひどく底冷えしていた。浮かれ気分の人間たちは背後に忍び寄る暗い影に気づきもしない。1年に1度の聖なる日には、幸福の光しかこの世には降臨しないとでも思っているのだろうか。
風と混じり合いながら、ティルは通り過ぎていった漆黒のバイクの残響を追いかけていった。
通り際に買物客たちの服の裾を思いきり跳ね上げてやると、彼らは素っ頓狂な声をあげて驚く。そんな様を見るのは楽しかった。
雪になるのだろうか。けれども、湿気を帯びてきた冷気もティルには少しも寒く感じられなかった。
当たり前だ……だって、僕はただの砂粒。町の神父に銀の銃弾を撃ち込まれて、とうの昔にそうなってしまっているんだもん。
拗ねた気分で、街路樹の間を通り過ぎた時、ふと、弾んでいた少年の心に灰色の靄がかかった。
”あのバイクが欲しいなら、持ち主と直接、交渉してみることだな”
そう言ったあの男をマスターだなんて親しげに呼んでいたが、僕は本当は何も知らない。
素性も年齢も素顔も。
あいつは何百年も生きているのかもしれないし、とっくに死んでしまっているのかもしれない。声や雰囲気は男だけど、もしかしたら女か、そのどちらでもないのかもしれない。
まったく光の届かぬ場所から来た怪物。
とにかく、”あれ”は絶対的な恐怖であり、この世とあの世に蠢いている有象無象の邪の親であり、どんなに不本意でも、自分がここに戻ってこれたのは、”あれ”のおかげなのだ。
ということは、僕は邪な子供ってこと?
そう思うと哀しくてたまらなくなってしまった。
けど、イヴァンだったら……僕がイヴァンのようだったら……
ここにも白い翼が降ってくるのかしら。
「ちぇっ、ずるいや。人殺しのくせに、大天使の加護を背負ってるなんて」
町外れまで飛ぶと、追いかけていた漆黒のバイクが、古びたレストランの前に停車しているのが見えてきた。魔除けの柊をリースにしたクリスマス飾りが扉に付けられている。
あのバイクだ! 脳裏に、聖夜の街を疾走するZEPHYRの雄姿が思い浮かぶ。
ゼファー1100。それは、西風を運ぶ神、ゼフィロスからつけられた名のバイク。12月の寒気を、それよりずっと冷たくて鋭い西風に乗ってぶっちぎることができたら……想像するだけで、尖らせていた口元が緩んでしまう。
少年の姿に戻ったティルは、魔除けのクリスマスリースに触れないように、そっとレストランの扉を開くと、店の中に入って行った。
その途端、
レストランの中に怒号と嗚咽が響き渡った。
「店長!!」
「いやぁああ!!」
「ち、ちょっと、冗談じゃないわ! 本当に殺っちゃうなんて!!」
「だ、だって、こいつが悪いんだ。ぶっ殺されたくなかったら、今日の売上、全部出せって警告したのに!!」
「馬鹿っ! ちょっと脅して遊ぶお金が欲しかっただけなのに、本当に刺すなんてっ!」
店のフロアに男が一人倒れていた。辺りは血の海だ。彼が刺された時に飛び散ったのだろう、ぴくりとも動かない床の男の空っぽの生命と、生ぬるい血の匂い。出来たての死を当たりにして、またかと、少年はため息をついた。
「ちぇっ、せっかくのクリスマスが台無しだ」
あのマスターが降臨した日の、ディナーのメニューはこうなることは、薄々は分かってたんだけど……ね。
遠くから、風が抜けるようなパトカーのサイレン音が響いてくる。行く先はここなのか、どこか他の場所を目指しているのか、頻繁にパトカーが往来するロンドンの町では、その判断は難しかった。
「あわわ……俺、つい、かっとなって……」
「馬鹿っ! 私は関係ないからね! じゃあね、私、共犯なんてごめんだから!」
レストランの扉を開けてあたふたと外へ駆けだして行った仲間の女。
「おいっ、待て! 待ってくれっ!!」
男が手に持ったナイフから血がしたたっている。焦った男は、そのナイフを怯えるレストランの従業員たちに向けたまま、その場に立ち尽くしてしまった。
ティルはそんな修羅場に出くわしてしまったのだ。
ごくりと咽喉を鳴らしてから、ぶるんと首を横に振る。床に倒れた店長の胸の出来立ての血溜まりはまだ温かそうで、美味しそうな色をしていた。
駄目駄目、ここで誘惑に乗っちゃマスターの掌の上で踊らされてしまうようなもんだ。
被害者からぷいと視線をそらすと、血だまりをまたいで、出来たての”殺人犯”の傍につかつかと歩み寄って行く。
滑稽だった。背は高いが、安物のストリートファッションを上手く着こなすこともできず、心臓がすり減りそうなほど狼狽しているくせに、まだ強面を保とうとしている彼の姿は。
同じ人殺しでも、イヴァン・クロウとは、雲泥の差だね。
「お、お前、誰だ? 子供が一人で、ここに何しに来た?!」
ティルは焦る男に向かって高飛車な声をあげた。
「ちょっと、この店の前に停めてあるあるバイクの持ち主に話があったんだけど……さっき、飛び出していった派手な女の人って、お兄さんの彼女? あの女を後ろに乗せてたってことは、バイクの持ち主はあんただよね」
「そ、それがどうしたっ! 俺は今、そんなことを話してる場合じゃないんだっ!」
遠巻きに彼らの様子をうかがっている従業員たちの顔は蒼白だった。周囲をぐるりと見渡してからティルは、ああと納得し、
「そう言われてみれば、そこの人を殺しちゃったんだっけ。小遣い稼ぎの強盗のつもりが、終身刑クラスをやってしまったんだもん。二人で安いランチを食べるつもりが彼女に逃げられて、おまけに高級ディナーの支払いじゃ、割に合わないお勘定だねぇ」
「小僧っ、何を訳の分からぬことをっ!」
パトカーのサイレン音が徐々に近づいてくる。それが男をさらに焦らせた。
「 終身刑になんかなってたまるか! 俺は逃げるぞ。今だったらまだ間に合う」
「逃げ切れないよ。こういう場合は、無駄に抵抗しても最後は警官に撃ち殺されるのがオチと決まってる」
「ひ、人の不幸をそんな目で笑うな! こちとら、金は入らんわ、彼女には逃げられるわ、人殺しになっちまうわで、散々な目に合ってる真っ最中なんだからな」
「人の不幸?」
マジに笑っちゃう。こいつに刺されて命を失くした店長の方がずっと不幸だっていうのに。