2.始まりはいつも戸惑い
ロンドンから電車で1時間ほどの小都市、ピータバロ。
その都市で、すんだもんだの事件があったのは、つい4カ月ほど前で、
ここは、その後に、悪の巣から本来の名門美術学校の姿を取り戻したピータバロ・シティ・アカデミアの中庭。
時は、12月25日 いわずとしれたクリスマス。午後4時。
「結婚してください! ……ううん、そうじゃなくて、結婚してくださいと言ってください!」
寒風にさらされたミルドレッド・カーンワイラーは、声を大にしてそう叫びたいのをこらえながら、もう1時間以上も、窓の下からアトリエの様子をうかがっている。
黒の巻き毛と漆黒の瞳。笑えば、アイドル級に可愛い16歳。
それなのに……、
キースの馬鹿っ。欧州の美術界を仕切るカーンワイラー家の跡取り娘で、超セレブな私が、あんたみたいな貧乏画家からのプロポーズを、待ってやってるっていうのにっ。何でいつまでも、のらりくらりとしてんのよ。
ふと、空を見上げると、ちらちらと冷たい小雪まで降ってきた。
寒いっ。でも、今さら、帰るのはいやだっ。
今日はクリスマスでしょうが。こんな恰好の日を逃す手はないっていうのに~。
* *
「聞こえてるし……」
窓の下を、不穏な? 台詞を呟きながら、右往左往する少女の姿に頭を悩ませながら、キース・L・ヴァンベルトは、はぁと深いため息をついた。
さらりとした小麦色の髪に琥珀色の瞳。背は高くもなく低くもなく、スレンダーな体型。それなりの格好をすれば、女の子には好かれそうな顔だちなのだけれども、本人はそんなことには全く無頓着。
お金はないが、絵を描くことと、急場をしのぐことにおいては、溢れるほどの才能を持つ19歳の青年画家は、彼の相棒、白い毛並に垂れた茶色い耳が可愛い中型犬 - パトラッシュ - の方に目を向け、また、ため息をついた。
「いくら、シティ・アカデミアを真っ当な学園に戻せた功績をカーンワイラー氏に認められて、ミリーとの婚約を勧められたっていったって……こんな金も地位もない貧乏画家の俺が、あんな超セレブなお嬢様に結婚を申し込めるわけがないじゃん」
すると、パトラッシュは、丸くてかわいい瞳をくるくると瞬かせて、くわんと一声鳴いた。
”なぁんだ。がっかり。けっこん、やめちゃうの”
「い、いや……やめたいわけじゃないんだけど……」
犬の言葉が分かるわけではないけれど、長年、相棒をやっていると、お互いに意思が通じ合うから不思議なものだ。
「パトラッシュ、そんな目をして、俺を見るなよ。これは俺にとっちゃ、すごい、プレッシャーなんだからな」
* *
”一緒に居ましょう、二人の夢が叶うまで”
”お互いの行く道が別れてしまうなんて、考えることができない”
「ふんっ、イヴァン・クロウが消えた後の二人の誓いは嘘ってわけね~。どうりで、キスの味が空気みたいにスッカスカだったわけだ。あ~あ、はい、はい。よっく分かりましたよ。分かりました。二人が結婚するなんてありえない話よね~」
アトリエの窓の下で、ミルドレッドが、ぶつぶつと呟き続けていた時、
「寒くない? そんな所にいないで中に入ったら」
突然、窓から顔を出して下をのぞきこんできた青年画家に、
「キ、キースっ。嘘っ、き、聞いてたのっ? 聞いたの? 聞いたんでしょうっ!」
ミルドレッドは、驚いて心臓が口から飛び出てしまいそうな顔をした。澄んだ琥珀色の瞳がこちらを見つめている。その視線に、このお嬢様はめっぽう弱いのだ。
「なにも……聞いてねぇよ」
「本当に」
「うん……」
「本当に、本当っ?」
「うんって言ってんだろっ」
アホか。クリスマス休暇で人っ子一人いない学園の庭で、あんな悩ましげな声で呟き続けてて、聞こえないわけがないじゃんか。
けれども、今は言わぬが得策だ。だって、俺、まだ、何の覚悟もできてないし。
「なら、お邪魔します」
顔を赤らめながら、窓をよじ登ってくるミルドレッドに手を貸しながら、何でいつも、こいつは窓から入ってくるんだろうと、キースは不思議に思った。
けれども、ミリーの絵を見る審美眼って、大したもんなんだよな。セレブな豪商の後継ぎだけあって、器も大きいし。
何だかんだと言っても、キースはミルドレッドを気に入ってしまっているのだ。
”なのに、ふたりはいつも、行きちがいばっかし”
そんな二人をアトリエの暖炉の前に座ったパトラッシュが、少し首を傾げながら眺めていた。
ピータバロといえば、私のイメージでは季節はクリスマス。次は6月。あまり意識しないうちに、そうなってしまってますねぇ。




