11.天使の鼓動
大聖堂がクリスマスミサの鐘を鳴らす午後7時が近づいてくる。
「俺って馬鹿か」
「いや、馬鹿っていうより、稀代の小心者だ!」
粉雪の舞う大通りを漆黒のZEPHERRを疾走させながら、キースは自分を責めまくった。
”俺は、将来、ピータバロ・シティ・アカデミアと聖堂美術館を手に入れる男だ!”
なんて、大口をたたいておいて、
俺は、あんな小さなキャンパスに描いたクリスマスツリーのオーナメントで、自分の気持ちを一番大切な人に伝えようとしていた。
雪交じりの向い風が吹きつけてくる。その中を突っ切って、重くて熱くて屈強なZEPHERを走らせるのは、百戦錬磨なイヴァンならお手の物だろうが、絵筆を握ることしか能のないキースには厳しすぎた。だいだい、右に左に今にも倒れそうになりながら走る大型バイクなんて、ビジュアル的にも美しくない。けれども、
怖いとか格好悪いなんて言ってられるか。追いかけてくる絶大な後悔を吹っ切るには、フルスピードでこのバイクをぶっ飛ばすしかないんだから。
その時、青年画家の耳元で、鈴が鳴るような声が聞こえてきたのだ。
”ああ、もうっ、下手っくそっ! 事故って死ぬのは勝手だけど、頼むからそのバイクを壊さないでよ!”
「……」
眉をひそめて、口をつぐむ。
一瞬、前に彼の元に現れた幽霊の少女の姿が頭に浮かんだ。けれども、アンナはこんな投げやりな話し方はしない。ってことは……
分かってるぞ……この手のアプローチに答えると絶対に後で面倒なことが起こるんだ。これまでの経験上、そのことを熟知していた青年画家は、
知らんぷりっと。
その声を完全に無視した。
”ちょっ、ちょっとぉ、シカトはないでしょ! 僕のZEPHERに勝手に乗ってるくせにさ”
「僕のゼファー? 」
無視するつもりが、うっかり、その声に反応してしまったとたんに、バイクのスピードががくんと落ちた。どんなにアクセルを回してもギアがロウから上にあがらない。そうこうするうちに、大聖堂から午後7時を知らせる鐘が鳴り響いてきた。
「あのなっ、どこの”この世ならざる者さん”かは知らないが、俺には文句を言われたり、恨まれたりする筋合いはないぞ。これはイヴァン・クロウが消える前にきちんと、あいつから譲り受けたバイクなんだ。それより、悪戯は止めてくれよ。今、俺は忙しいんだ。あのミサの鐘が鳴り終わるまでに、大聖堂まで行かなくちゃならないんだから」
”イヴァンが消えたって? まさか天使が迎えにきちゃったの”
「えっと、うん……多分」
愕然とした声が耳元に響いてくる。
”ひどいや……僕に一言も言わないで”
急にトーンを落としてしまった声が、くすんと背中に染みいってくる。この世ならざる者……その声の出所から考えて、それが自分が乗ったZEPHERの後部座席にいることは確かだった。普通は、これって怖いだろ。けれども、小心者を称するわりには、幽霊のアンナのこともあって彼にはおかしな免疫ができている。
この時のキースを焦らせたのは、後ろに誰かがいることよりも、むしろ、この子を泣かせたのは俺か? ということだったのだから。
「あのさ、哀しくさせてしまったんならご免。でも、お前、イヴァンの彼女か何か? 随分、子供っぽい声だけど、あいつってロリコンには見えなかったけど」
”彼女? 馬鹿言わないでよ。僕は男だよ”
「はぁ? 女の子だろ、声で分かるよ」
”……”
耳元の声が途切れた。そのとたんに、ロウから上げれなかったバイクのギアがトップにチェンジした。
「わわっ! 急にスピードを上げさすな!」
再びスピードを取り戻したZEPHER 1100が、聖堂美術館通りを爆走し始めた。
”だって、急いでるんだろ。でもさ、何であの鐘が鳴りやむまでに、大聖堂に行かなきゃならないのさ”
「後悔したくないから! 大切な人に伝えなきゃいけない想いがあるんだ。それも、このピータバロ市全部に知れ渡ったっていいくらいに堂々と!」
”へぇ……”
くすりと背中から笑う声が聞こえた。
”なら、もっと、マシーンのスピードをあげてクリスマスの町をぶっちぎらなきゃ! ただし、僕も一緒に着いてゆく。お兄さんだけだと、イヴァンと僕の大切なZEPHERを壊してしまいそうだからね”
「おいっ! いくらなんでも、上げすぎだあっ!!」
自分勝手にスピードアップしてゆくZEPHER 1100。思わず、車体から吹き飛ばされそうになって、青年画家は必死にハンドルを握りしめた。
その後部座席に姿を現した”少年の姿をした少女”は、笑い声をあげながら、彼の背中にしがみついた。
冷たい少女の胸元に、青年画家の心臓のどきどきした音が伝わってくる。
これは、僕らが遠い昔に失くしてしまった命の鼓動。
ふわりとした彼の小麦色の髪が頬をなぜてくる。
このお兄さん、あったかい。
その感触が、イヴァン・クロウが待ち続けた天使の羽のように思えて、少女はイヴァンが彼に漆黒のバイクを託した理由が少しだけ分かったような気がした。
”けど、ずるいよ。イヴァン……僕を置いて先にいってしまうなんて……”
ふつりと言葉を途切れさせてしまった背中の少女。すると、バイクの運転席の青年が、突然、声をあげた。
「お前のな・ま・え! お・し・え・て・よ!」
バイクの爆音が邪魔をしてそんな風にしか聞こえない。そんな質問に答えるもんかと口をとがらせたが、この世ならざる者の少女は、通り抜けてゆく風に紛らせてしまえとばかりに、
”ティル! ティル・ネーナ!”
そう声をあげた。
けれども、
「ティル! 俺の用事が終わったら、お前の話も絶対に聞いてやるから、それまでは我慢しててっ!」
やけに明瞭に伝わってきた青年画家の言葉に、少女は驚き、青の瞳を瞬かせた。




