日常1(仮)
「3人か。」
私の視界には大きな災害にでもあったかのように大きく崩れた
家屋が映っている。
未だに微睡む意識を頭を振って否定し、質素な毛布に横たえていた体を起こす。
体を攫うような寒風に身震いしながらも朝の支度を始める。
陽は東の山間から顔を覗かせ始めているが、駄々をこねる子供のようになかなか全貌を拝ませてはくれない。
そんな感想を浮かべながらも隣室で眠る彼女に起床を促す声をかける。
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カーテンから時折漏れる陽光に嫌気がさして、
明かりのある方向に腕を伸ばして適当に漂わせる。
なにかの布を掴んだようなので何時もの感じに手前に引っ張る。
レールを走る音が響き完全に閉ざしたのだが、揺れ続けるカーテンから再び起床を促される。
仕方なく体を起こし、わざとらしい程の大きなあくびをする。
「3人…ね」
自然とそう発してみたが、特に何か思いつく訳では無い。
さっきまで重要な役割を果たしていたであろうワードだが、
生憎と自分とは関係ない…………はずだ。
未だに残る肌寒さから守ってくれているエアコンに感謝しつつ、
私は窓を全開にしてやる。
……私? いや俺は…俺は…
どうやら久々に厨二菌を患ったらしく、俺は頭を抱える。
自分に向かって落ち着けと唱えつつ、洗面所に顔を洗いに行く。
エラく不安定な心持ちだが、冷水を正面から浴びてようやく目が覚めた。
中堅大学を出てから紆余曲折を経て県庁務めの29歳。
中学時代から始めた陸上の長距離を続けてきて今では休日の趣味として川原を走っている。
その積み重ねのおかげで朝のタイムロスを取り戻すために駅まで絶賛爆走することが出来ている。
普段の俺を知っている人なら今の姿を見ても気づかないだろう。
そのくらいに焦っている。
確か何時もの6時30分発の後の34分発ならギリギリ間に合う。
今日は議会の部署に移動させられてからの初仕事だ。
口の隙間から深く息を吐きながら足を早めて革靴の踵を削る。
汗で気持ち悪いシャツに纏わりつかれて鬱蒼とした気持ちになりながらもYahooニュースを確認し、今日会う予定の議員の先生との話題を収集する。
(何してんだろ……)
なんて思いつつ、スマホの時計をしきりに確認する。
同じ様な格好をしたどこかの会社員やおそらくは朝練に向かう
高校生に視線を巡らして扉に預けていた背を離し、
扉が開いたので一度外に出て、詰まっていた人達を通す。
何度か見た顔ぶれを発見したので、彼らも俺と同じだろう。
…地味に早足だったのを見逃さない。
アナウンスに従い車内の奥に行ってやりたいが、次の駅で降りなければならないので扉の横を陣取る。
入ってくるOLに視線を当てられるが、極力意識しない。
どうやら懸念していたよりも随分と余裕がある。
食堂の自販機でサンドイッチを買って事務局へ向かう。
「おはようございます」
気を引き締めるために少しだけ声を張る。
室内の人達からまばらに挨拶が帰ってきたので、少しの緊張がほぐれた。
「おはよう。今日は寝坊でもしたの?」
真後ろから声を掛けられて少し驚きつつも、何故遅れていた事を知っているのか疑問を抱く。
「おはようございます。どうして分かったんですか?」
(しまった。惚けておいた方がよかった……)
瞬時に失言を後悔したが時すでに遅し。
「おっまさかのあたり!?冷静な君にしては珍しいね~。」
ニヤける彼女に対する感情がポーカーフェイスに出ていたようで嬉しそうに解答してくれた。
「いつも同じ電車に乗ってたのに今日は居なかったからね。
あと先に部署にいなかったから。」
そういう彼女は俺と同じ大学を出て直ぐに議会事務局で働き始めたいわば先輩。
既に常任委員会の一つを受け持っていてこの時期は暇じゃないだろうに、数日前に移動を知ってから嬉しそうに絡んできた変人だ。 ……おそらく三十路。
(先輩が訝しむ様な視線を向けてきたが、唯の杞憂だろう。)
先輩の隣の席に腰掛けて早速パソコンを開く。
適当に少しの雑用を片付けて、渡された資料に目を通しておく。
先輩に声を掛けられ大会議室の整理をさせられ、さらにインターネット中継用のカメラの設定をやらされた。
事務仕事をこなしていると、急に消灯する。
(昼休みの合図だ。)
「ねぇ、昼一緒に食べない?」
「せっかくですが、訳あって懐が寂しいので……」
先輩に誘われたが他の職員さんに好機の視線を向けられそうなので遠慮しておく。
「なに? 私とは嫌……なの?」
少しムッとしつつも不安げな表情で問うてくる。
「いえ、先輩は良くも悪くも目立ちますから。」
本当はそれだけでは無い。
ああいう表情は非常に勘違いしやすいのだが、残念ながら俺に好意があるわけではない。
変な間違いを起こさないためには事前に芽は詰んでおいた方が良いからだ。
足早にその場から移動したが、ゆっくりと閉まるエレベーターの扉に誰かの足が挟まれ強引に開けられた。
開くボタンを押さなかったためか、怒気を含んだ瞳に俺の姿が映っている。
本当にコロコロと変わる表情に微笑を浮かべそうになるが、
無表情の仮面をつけて無難に取り繕おうとする。
「……」
ジトっとした視線が刺さる。
事務局に戻ってから机に今朝買ったサンドイッチを置き、
2個あるうち片方を素手で掴んで頬張る。
何度か咀嚼していると、無口だった隣人の口が開く。
「ほんとに懐が寂しいみたいね……」
憐れむような呆れたような声音で言われて耳が痛い。
隣で弁当箱をひろげ出した先輩に目を向けると、自慢げに目を合わせてきた。
「どう?」
と問われたが主語が欲しいところだ。
「綺麗な色合いですね。流石はセンパイ」
「ありがとう。 でも、そうじゃなくてどれか摘まない?ってこと」
主語どころか述語もないんじゃなかなかに難易度が高い。
不満げな雰囲気を感じた先輩が何を勘違いしたのか残念そうな 表情で弁当箱を下げる。
俺は空いている左手で玉子焼きをかっ攫った。
(甘くて、なんだか安心する味だ。)
少し口が空いている先輩に、お返しとばかりに右手の食べさしサンドイッチをはめ込んだ。
先輩は俺の手を掴んでそのまま全てたいらげてしまった。
眉間や額に深い堀がいくつもある褐色肌の先生と次の議会の打ち合わせをしている。
彼はさすが議長を担うだけあると言わざるを得ないほどの真面目な人で、せっかく集めた話題はお蔵入りのようだ。
当然だが、仕事の話ばかりで気が滅入りそうだ。
新人を信用し過ぎるのはどうかと思う。
「気分が悪いのかい?」
議長さんが心配してくれているが不満が顔に出ていたのだろうか?
最近自分の仮面が心許ない。
「いえ、少し緊張しているだけですので。」
一応大丈夫という意だけでも伝えておく。
個人的には今日の仕事をつつがなく終えられた。
筈なんだが、何故か先輩が心配そうにチラチラとこちらを見やる。
絡まれる前に仕事を引き上げ初日から定時で帰る。
少し肝を冷やす思いだったが、皆快く送り出してくれた。
紫色の空の下、一人で歩を進める。
ついさっき気がついたのだが、地面が上下に揺れている
…………というよりも震えている。
背筋に悪寒が走るが唯の気のせいだと言い聞かせる。
家の扉の前に立つ。
家に近づくにつれて体がだるくなる。
先程から身震いが止まらないのでもしかしたら風邪を引いたのかもしれない。
上手く入らない鍵穴にイライラしながらも呼吸を整えて自制する。
家に足を踏み入れてから、さらに「 」が苦しい。
ベッドの上に体を横たえる。
(シャワーは明日の朝でいいだろう)
気だるげな考えだが実際は体のあちこちで叫び声が上がっていて限界に近い。
寝起きはそこまで感じなかったが、どこかで無理をしていたのだろうか。
ベッドのスプリングが軋む音と、自分の浅い息使いだけが聞こえる六畳一間。
なんとなしに寝返りを打ち、視界を見知った天井から瞼の裏へブラックアウトさせる。
瞬間、体が浮いた。
と言うよりも地面が落ちた。
数秒間の無重力状態の中、思考回路にエネルギーを巡らして原因を考えてみるが、コンマ数秒後の地面にあたる衝撃に恐怖を掻き抱きそれどころではない。
死ぬ直前に何か助かる方法はないかと記憶を駆け巡らせる。
何故か、今朝のような夢が脳裏に幾度となく浮かんでは消える。
まるで幾つものもの人生を一度に体験したかのようで、自我が壊れてしまいそうになる。
1つ人生が流れる度にアイデンティティ・クライシスが脳を苛む。
か細く震える声でこの時私は
「……なるほどな」
消え入る意志の中で「何が」を自問自答するが、
発信者が知らないんじゃ誰も知るわけがない。
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ただただ黒が広がっている。
今、自分は目を開けているのか、それとも閉じているのか。
そんな些細な事を気にしている暇はない。
まただ…
また違った。
少しの焦燥感と憂いの滲む表情を浮かべ、
また1歩何処かに足を踏み入れる。