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思い出は夕暮れ模様  作者: お茶
3/3

序幕 記憶

 それは、夏から秋への変わり目の、ある寒い日の夕暮れのことでした。


 わたしはその日、ピアノのコンクール小学二年生の部で優勝を果たしました。演奏技術の面でも表現力の面でもわたしが一番巧かったのですから、優勝したことにこれといった感慨はありません。


 優勝の記念として、両親と親戚のおじさんやおばさんと一緒にホテルで会食しました。とても静かなレストランで、料理もとても美味しいところでした。だけどさすがにわたしも小学二年生の子供でしたから、じっとしているだけは苦手だったのです。


 お手洗いに行く、とだけ言い残し、わたしはホテルの外へ出てしまいました。白を基調としたワンピースのドレスは大通りに出ると目立ってしまいます。ドレスや靴を汚すのも勿体なかったので、ゆっくりと歩きました。


 ちょっとだけ歩くと、どこからか一定のリズムでトン、トンという小気味の良い音が聞こえてきました。


 音の鳴る方へ歩いてみると、フェンスの向こう側でなにやら玉遊びをしている女の子がいたのです。


 なんて不潔な人でしょう。彼女に対する第一印象はあまりよくありませんでした。


 擦りむいた膝小僧、汗だらけの身体、ほこりにまみれたシャツ。どれもこれもが違う世界の人のようでした。


 女の子は大きなボールを床について遊んでいます。確か、バスケットというスポーツだったでしょうか。


 その女の子が、自分の頭の位置よりも遥かに高い輪っかを睨みつけています。あそこにボールを投げ入れるのでしょうけど、あの身長では難しそうです。輪っかと女の子の位置は水平距離で約2メートルといったところでしょうか。


 泥だらけの女の子は、じっと空中の輪っかを見ています。


 寒い風が、わたしと女の子の間を突き抜けました。


 風が止み、静寂が包み込む。誰の音も聞こえない、何れの音も途絶する。


 寒い日の夕暮れのことでした。太陽が最期の命を焼き尽くして沈む、燃えるような夕焼け。


 女の子は小さな体を縮ませて、跳び立ちました。同時に、わたしはいつの間にかフェンスを握りしめていました。


 翼を羽ばたかせ、空気を切り裂く。風圧がこちらまで轟き、吹き飛ばされそうになる幻覚を見る。


 彼女を中心にした竜巻が起こったようでした。


 みすぼらしい雛鳥が、雄々しく美しい翼を広げ、跳んでいました。泥だらけのアヒルの子は、その実、何よりも雅な白鳥だったのです。


「きれい……」


 その姿に目を奪われたのは、言うまでもありません。


 こんなにも美しいものがあったのか。こんなにも心が締め付けられ、踊るような気持ちになるものがあったのか。


 すべては初めての体験でした。心臓を撃ち抜かれるような、頭を殴られるような、そんな衝撃でした。


 いつまでも見ていたいと思いました。もう一度跳んで欲しかった。何度でも見せてほしかった。


 わたしも、あんな風に跳んでみたいとさえ思ったほどでした。


 自然に顔がほころびます。指を酷使するスポーツだとはなんとなくわかっていたのに、後先も考えずにわたしは、思ってしまいました。


 何十分そこにいたのでしょうか。夕暮れは終わろうとしていて、紫色の空が炎の空を侵食しようとしています。


 そしてついに、女の子はわたしの存在に気が付きました。白い歯をむき出しにして笑う女の子は、ボールを脇に抱えて走り寄りました。


 がしゃん、と。フェンスを掴んでわたしに顔を近づけます。


 汗の臭いが酷い、ほこりの臭いで鼻が曲がりそうです。だけど、女の子自身はとてもきれいな顔をしていました。


 フェンスを挟んで、わたしと女の子が向き合っています。そして彼女は、あろうことか何の挨拶もなくこう言ってのけたのです。


「バスケやりたいの?」

「ひっ」


 こんなに馴れ馴れしい人間は初めてでした。わたしはびっくりして、怖くて、泣き出しそうになっていました。


「一緒にやろうよ、きっと楽しいよ」


 にっこりと、屈託のない笑顔がむけられます。


 わたしは赤面してしまい、思ってもないことを返しました。


「い、いたしません!」

「へ?」


 そう言い放って、わたしはその場から走り去りました。


 そしてようやく、わたしは両親を待たせていることを思い出したのです。戻ったら怒られるかもしれない。せっかくの祝賀会だというのに、気分を損ねさせたかもしれません。


 だけど、そんな些細なことが気にかからないくらい、わたしの頭はあの姿で一杯でした。


 どんなに目をこすっても、頭をゆすっても、女の子の跳び上がった姿が、焼き付いて離れないのです。



 それが、私とあいつの最初の出会い。


 私の中に稲妻を落とした、最低で大切な、夕暮れ模様の思い出。

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