後編 飛翔
あんな奴のことは忘れて、さっさと寝てしまおう。
時刻は夜の十一時。一人で夕食を摂り、お風呂に入って、柔軟も手入れもせずにさっさとベッドに潜った。どうせもうバスケットなんてやらないのだ。今日一日サボったところで罰は当たらないだろう。給仕がいつもバランスを考えた食事を用意している。今日は私の機嫌が悪かったし、部活をせずに帰ったこともバレていたので、夕食は軽めだった。ニクい心遣いだが、食欲もなかったので感謝している。
むしゃくしゃした気持ちをピアノにぶつけても良かったが、私の部屋にピアノはない。専用の音楽ルームに行けばいいのに、そこまでするほどの熱意もない。
私がお風呂に入っている間に峰子さんがルームメイクをしたのだろうか、出ていく前と見違えるほど整った部屋が出迎えた。荒れた羽毛布団は綿菓子みたいにふわふわで、新品のようだった。バスケットボールもネットに収まって、コートハンガーの枝に引っ掛かっている。
部屋の姿はその人の心を表す。ごみの散乱した部屋、荒れ放題の部屋の持ち主の心はささくれ立っているし、綺麗で清潔な部屋の持ち主の心は晴れやかであることだろう。
同意はしないが、強く否定もしない。事実、私自身が荒れていた時、部屋は散らかり放題だったのだから。
「…………」
最後に、と。私はベッド脇の電気スタンドの下で静かにしているスマホを手に取った。
連絡はない。私から連絡するつもりも、ない。絶対に私から謝ってやらない。学校でも無視してやるし、眼も合わせなければ事務的な会話もしない。必要なら人を頼んで、一切の接触を断ってやる。
それくらい私は怒っているので、電話が鳴ったとしてもワンコールで切ってやろうと思う。
スマホを置いて寝ようとしたその刹那、スマホがびっくりするほどけたたましい音を立てた。音量マックスの着信音。相手の名前を見て、私はさらにひっくり返った。
「な、菜緒……ッ!?」
掛け布団を引きはがし、勢いよく上体を起こす。片目を網膜剥離起こすほど擦って確認する。何度見ても、画面は菜緒の二文字を映している。
心臓が爆発しそうに高鳴っていた。顔が熱いのは入浴後だから、だけではないだろう。
一言目はどうするべきか。どんな調子で声を出せばいいのか。何を話すべきなのか。
絶対に謝る気はないし、絶対に許す気もないし、絶対に絆される気もない。
何も言わずに、何の相談もなしに、飽きたからという理由でバスケットを辞めた奴に遣う情もない。
私は、声なんて聴きたくない。本当の気持ちなんて知りたくない。きっと別な理由があるのだろうとか、微塵も思わない。
勝手にすればいい。どうせ私も辞める。バスケットに対して愛なんか欠片もなかったのだ。
「くっ……!」
だから、なんで私は菜緒から着信があった程度のことで、こんなにごちゃごちゃごちゃごちゃと考えているんだ。あいつの為に私が悶々と考えを巡らせることさえ腹立たしい。
「出ない。絶対に出ない!」
スマホを掛け布団の上に放り投げた。ボスンという柔らかい音を立てて、音の鳴る機械が羽毛の中に埋まった。着信音はくぐもった音に変わる。
コール音はすでに二十回を超えていた。
「……早く切りなさいよ」
スマホに向かって悪態をつこうとも、通話中ではないから相手に聞こえるわけもなく。さらに十回コール音が鳴った。
一回目で切ってやるという自分の宣言さえも忘れて、私はひたすら待ち続けた。
バカじゃないの? いつまでかけたところで出てあげないのに。そもそも、反省しているならあんなこと言わなければいいだけじゃない。そもそも、謝るくらいなら辞めなければいいじゃない。そもそも、相談くらいしてくれても良かったのに。
コール音は五十回を超えた。馬鹿々々しい攻防戦だった。
メッセージを送ってワンクッション置く、でもいいのに。なんで電話なのだろう。
今、菜緒はどんな気持ちでスマホを耳に当てているのかな。根気よくコーヒーでも啜りながら待っているのか、ベッドの上で私のように座っているのか、暗い部屋の隅で縮こまっているのか。まあ、小さくなるような奴でもないか。
コール音は六十を超えた。
私はうずくまったスマホを手に取り、通話ボタンを押した。
「なんですか? いつまでもかけられると、迷惑です」
自分でも驚くほど抑揚のない声音だった。夕方はあんなに感情をむき出しにしていたのに、今でもちゃんと怒っているのに、声は底冷えするほど重たかった。怒っているからこそ、なのだろうか。
『ねえ、今から公園、来れる?』
「は?」
部屋の時計に目を向ける。時刻は十一時を回っていた。普通の高校生が出歩いていい時間帯でもないはずだ。補導される可能性も視野に入れなければならないほど。
しかも、よくよく耳を傾けると菜緒の方からテンテンというボールが弾む音が聞こえる。風の音にかき消されて、菜緒の声は少し小さく届いていた。
こんなときにまで掴みどころのない女だ。それが美徳に映ることもあるのだろうが、場合によっては空気が読めていないだけの無責任な奴、と捉えられる。今がまさに、それだ。
少しずつ小さくなったはずの炎に、油が投下されたようだった。胸の中の怒りの火が、この身を焼き尽くすように燃え上がる。
「菜緒。この際だからはっきり言うけど、私は怒ってるのよ……。本気で怒ってるのよ。本気で――ッ!」
『わかってる』
「わかってたら言うべきことがあるでしょうが!! あの時も、今も!!!」
これまでにないくらい、私は菜緒に怒鳴り散らした。何がわかっている、だ。何もわかっていないじゃないか。わかってないから、飽きたから辞めるなんて言葉が出て来るんだ。
私の人生めちゃくちゃにしたくせに、自分から一抜けするなんて、正気の沙汰じゃない。
『ああ、だから。待ってる』
「行かない。顔も見たくない。そもそも公園なんていくらでもあるのに、場所の名前も言わないんだから行けっこない」
『わかるよ、麗華なら』
私は歯を食いしばった。喉が鳴りそうなのを懸命に抑える。
――あの日、夕暮れの日。出会ったのは、みすぼらしい翼を羽ばたかせた一匹の雛鳥。私にはそれが醜いアヒルの子ではなく、確かな白鳥の姿に見えたのだ。
『待ってるから。ちゃんと、言うから』
「行かない。どうせつまらない理由しかない。勉強に集中するとか、病気になったとか、引っ越しするとか」
『だから、待ってる』
「行かないって言ってるでしょう。あんたの言いなりになんかならない」
『うん。だから、ずっと待ってる』
「勝手にすれば。五万年経っても行かないから」
『だったら、六万年待つ』
「……絶対に行ってなんかやらない。絶対に行かないから。誠意を見せる気になるまで、眼もみてやらないし、口も利いてやらない。二度と電話になんか出ないから。さようなら、倉西さん」
言って、私は通話を切った。そのまま固まること、約三分。菜緒から再度電話がかかってくることはなかった。
あのバカは、こんな夜遅くにずっと待ち続けているに違いない。私は行く気ないから、補導されてしまえばいい。親にも学校にも怒られることだろう。ざまあみやがれだ。
私は掛け布団を引っ掴んで、ベッドに寝転がった。頭まで隠して、視界を暗闇にする。瞼の裏に、彼女が一人夜の公園に立っている姿を幻視する。
体は、勝手に動いていた。寝間着のパジャマを脱ぎ捨てて、半そでのシャツとパンツを穿く。自然体の髪の毛を後頭部で縛り、夜の寒さを考慮して薄手の長袖を羽織った。
笑ってやるだけだ。いつまでも私を待っているであろう女を、陰からこっそり観察して、笑ってやる。
それ以外の理由なんて、ない。
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公園。
ただ一言、その単語だけを菜緒は私に伝えた。固有名詞の共有もせずに待ち合わせの場所を決めるなんて愚の骨頂。何度も行った場所、何度も注文したメニューでない限り、認識の共有は不可能だ。
それでも私にはわかった。私と菜緒の間だからこそ理解し合えた。それが何となくむかつくと同時に、心中の雲が少しずつ裂けていく気分を味わった。
足取りは重い。夜の街は秋の寒気を伝えるように静まり返っている。この季節は一日の寒暖差が激しい。季節の変わり目は体調を崩しやすくなるとはよく言ったもので、夏の気分で過ごしていると一気に体温を持っていかれる。長袖のシャツを羽織って来て正解だった。
もうすぐ十二時になろうとしている。警察に見つかれば補導を受けること間違いなしだが、車道に車の影はなくひたすらに静かなものだった。
私の足音だけが、閑散とした夜に溶ける。普段の歩行速度とは比べ物にならないほど遅い。悶々とさせてやろうとしているのか、私が怖がっているだけなのか。視線はずっと運動靴のつま先にあった。普段のローファーではなく、運動靴を履いている。履きならしたランニングシューズを、意味もなく。
思えば、あの日も寒い日だった。今と違って、あの日は夕暮れ時ではあったけど。
思い出に浸ろうとして、立ち止まる。反射的に顔を挙げた。
綿素材の紐が勢いよく擦れる音がする。間を置かずに、何者かが着地する音。直後に、地面をバウンドするボールの音。
顔の位置より随分高い、フェンスの向こう側。私に背中を見せて、小さな影が踊っている。
「菜緒……」
こんなに寒いのに、彼女は半袖のTシャツ一枚だった。
私は怒っているのに。夜も暮れた深夜の時間帯に、バスケットで遊んでいる。バスケは飽きたから辞めたくせに。
足音を立てず、フェンスに近付いた。菜緒がこちらに気づく様子はない。
菜緒は長い腕を伸ばしてボールを拾った。スリーポイントラインのすぐ外側に立ち、軽く調整するようにドリブルを繰り返す。手の中に吸い込まれるかのような、鮮やかなドリブルだ。
彼女の視線はゴールリングにある。バスケットになると、なかなか周りのことが見えなくなるのは昔から変わっていない。あの時も、私はずっと見ていたのに30分くらい気付かなかったのだ。気付いて欲しかったわけじゃないけど。
ボールが菜緒の右手で静止する。右手のボールは腰の下あたりに流れ、左手が支えるように添えられた。肩幅のスタンスを保ち、膝を曲げた。菜緒の左足は後ろに下がっていた。シュートの態勢に入る菜緒の身体は、ゴールリングと正対していない。身体はやや左を向いていて、どちらかといえば肘がリングと直線で結ばれるような立ち方だった。そのフォームは、昔から変わっていない。
流れるように。踊るように。
菜緒の身体が、膝のばねに弾かれるように跳び上がった。
その時、私はなぜだが彼女の背中に真白な翼を幻視した。夜の暗闇を白銀の翼が塗りつぶす。なによりも尊く光り、高く跳ぶために、長く跳ぶために編み込まれた願いの結晶、祈りの形。あるいは、それは菜緒がそうありたい幻視したものではなく、私がそうであって欲しいと偶像したガラクタ細工だったのだろうか。
「――あぁ」
私はいつの間にかフェンスを握り込んでいた。ガチッ、という音が鳴る。金網が手の平に食い込む。私の視線は、菜緒のシュートフォームに釘付けになっていた。
近くでずっと見ていたはずなのに。けがで練習を休んだ時も、ベンチに座って外から見てきたはずなのに。
どういうわけなのだろう。私は懐かしさと切なさで、胸が苦しくなっていた。
それもそのはずか。だって、ここからの景色はずいぶん見ていないのだから。
始まりの場所。私と菜緒の原風景。私はこの傍観席からフェンスの内側へ誘いこまれた。
この景色が二度目のものだからこそ。懐かしく思うのだ。切なさに痛むのだ。
最高到達点で、菜緒の身体が一瞬停止する。彼女の視線は今もゴールにある。睨むように、挑むように。彼女にとってバスケットが戦いであるからこそ、決して外すわけにはいかない。例え、誰にも見られていなかったとしても。
直後、一切淀みのない動作で彼女の右腕が伸びた。黒い短髪の先に溜まった汗が、白色ライトに照らされて宝石のように光る。スナップの後も菜緒の身体は崩れない。茶色いバスケットボールは菜緒の手を離れ、鮮やかな放物線を描きながら、吸い込まれるようにリングの中へと消えた。リングにさえ当たらない、ゴールネットのみを揺らす音。パスン、という夜を切り裂く音。
菜緒の身体はまだ空中にあった。シュートフォームを崩すことなく、ボールの軌道を睨み続けていた。
――夜の景色が、一瞬だけ燃えるような夕暮れに変わる。瞬きをすれば元に戻るからこそ、私は眼を閉じたくはなかった。あの時はもっと距離が近かったけど、今はスリーポイントラインからも軽々入るようになってしまった。
私は、ひどく泣きそうな顔になっていたと思う。だって、こんなの酷い。そんな姿を見せられたら、とてもまともに怒れない。
菜緒がバスケットを辞める。疲れた翼が宿木を探している。跳ぶことができなくなった菜緒が、地に足を付けようとしている。
今日が、最期の飛翔となるのだろう。
しょうもない理由。そう思っていたのに。
「…………」
なら、私はどうやって彼女を送り出してあげられるだろう。私はどんな顔で、彼女の宿木を探してやらなければならないのか。
たぶん、答えは簡単には見当たらない。だけど湿っぽいのが苦手なあのおちゃらけバカ女のことだ。いつも通りに、何でもないように振る舞うのが、きっと一番だと思うのだ。
「菜緒」
私は彼女の名前を呼んで、入り口からフェンスの内側に入った。彼女に呼ばれたからではなく、私自らの意志で。
「麗華」
肩で息をしながら、菜緒は一直線に私を見た。
「人を呼んでおいて、気付かずに遊び続けるってのはどういう身分なんだか」
近くの自販機で買った缶コーヒーを菜緒に向かって投げつける。正直、缶コーヒーのおいしさは度し難いほど理解できない。だがこういうものは雰囲気で飲むのだし、だからこそ我慢できる。家でこのレベルのコーヒーが出たらさすがにテーブルクロスをひっくり返すしかないが。
一直線に胸目掛けてとんでくる缶コーヒーを、菜緒は慌てた様子もなく片手でキャッチした。
「ありがとう」
何か、吹っ切れたような表情で笑った。迷いはない、ということなのだろうか。一人で考えて、一人で納得して。
「すまん、わざわざ呼び出して。座ろっか」
菜緒に促され、私たちはコート脇のベンチに座った。普段だと選手の座る場所だが、深夜を回った今、私たち以外に座る人間はいない。フェンスの向こう側から時折車道を車が通る音がする。この時間帯は車の通りは少なく、歩行者を見るなんて稀だった。
「今日は、ごめん」
コーヒーのプルトップを開けながら、菜緒が単刀直入に謝った。視線は飲み口を向いていて、私を見てくれてはいない。
「何が?」
意地の悪い私は、とぼけて何も言わなかった。言わなければわからないことはある。他人の理解力に甘えてはならないことも。
プルトップを開け、一口流し込む。苦いんだか甘いんだかよくわからない、中途半端な味だ。下水を飲んでいるようにも感じる。
「突然、バスケ部を辞めるって言ったこと」
「謝るってことは戻ってくるってこと?」
「いや、そのつもりもないんだ。だから、ごめん」
また、私の心臓が締め付けられた。缶コーヒーが苦みしか訴えてこなくなる。頭をリラックスさせるような、豊かで芳ばしい香りはゼロに等しい。
「本当に辞めるの?」
「うん」
「もう部活には来ないの?」
「うん」
「じゃあどうして、貴女はここでバスケットなんてしているの?」
本当に、これを最期のバスケットにするつもりなのか。
菜緒は俯いて、スチール缶を眺めたまま相槌を打つ。その横顔を、私は見つめた。寂しそうな顔ではあったけど、やはりどこか清々しい顔でもある。なぜ、そんな顔をするのだろう。
「バスケに飽きたってのは、正直なところ本当のことなんだ」
菜緒がベンチの背もたれに背中を預けた。そして、夜の空を眺めながら温かいコーヒーを啜る。私は菜緒の顔を視線で追った。
「なあ、麗華。好きだったものなのに、唐突に飽きるってことはないか? お前の場合、ピアノとか、キーボード……というかバンドか。好きで好きで、本当に好きだったはずなのに。ふと、それに対してなんの感情も浮かばなくなる瞬間ってやつが」
ふざけた言葉の羅列ではあったが、菜緒の表情も声音も、真剣そのものだった。だから私は、鼻で笑うことはしなかった。
「今のところはないかな。ピアノは今だって続けているし、バンドも。まあロックは薄汚い音楽だと思っていたけど、今はそれなりに楽しくなってる。いろいろやることは増えたけど、それでもどれかを疎かにしたことはないし、まして飽きるなんてことは尚更なかったわ」
「そっか。それも原因だったりするのかなぁ」
「何が原因?」
菜緒はグイっとコーヒーをあおった。缶から口を離し、コートの真ん中に転がっているボールに、菜緒は視線を向けた。それは、菜緒の使っている個人練習用のボールだった。表面はボロボロで、随分使い込まれていた。
「私にはさ、バスケットをやる以外に何もなかったんだよ。勉強はたいして出来ないし、他のスポーツはからっきし。対人関係も麗華ほど優れてないし、ゲームも下手だし料理もできない」
非常に納得のいかない文言が出てきたが、今は突っ込むまい。私をまるで高度な猫かぶりだと思っているのならいずれは矯正しなければならないが。
「麗華みたいに美味いコーヒーを淹れられるわけでもないしな。私は昔からバスケットしかしてこなかった。それ以外に楽しいものを見つけられなかった。そんくらい、私はこのスポーツが好きだった。だから、正直ちょっと怖かったんだよ」
「バスケットを辞めるのが?」
「……ううん、ちょっと違う。『飽きた』ことを認めるのが」
きっと、それは菜緒にとってある意味半身を失うことに等しいのだろう。昔からバスケットしかやってこなかったことは知っている。それこそ、菜緒がそれ以外に興味がない人間だった。菜緒の格好良さにくっついて来る人間は多く居たが、浮ついた話の一つも挙がらなかったのは、まさに菜緒らしいと言えるかもしれない。
そんな菜緒が、自分の人生を注いだモノを捨てようとしている。他の何にも目をくれず、ただひた向きに打ち込み続けたモノから離れようとしている。菜緒自身の意志によって。
飽きた。その言葉を聞いて激情した私は、菜緒に罵詈雑言を投げつけた。菜緒があまりにも薄情に思えたのも理由の一つだ。菜緒にとってのバスケットが、飽きることができるほど浅いものだったなんて思わなかったのだ。
だけど、考えてみればわかる。一番苦しかったのは菜緒だったのではないか。
飽きたことを認めることこそが恐怖だ。それは当然だろう。だって、ソレを取りこぼしてしまったら、何も残らないからだ。倉西菜緒という人間を構成していた要素。その半数が砕け散る。残りの半数は、ただの遺伝子情報に過ぎない。菜緒という個人を構成するアイデンティティなるもの、人格なるものが消失する。その恐怖、その痛みは、きっと計り知れないものなのだろう。
「だから、まずあいつらに打ち明けてみたんだ」
「あいつら? あいつらってまさか、あの頭の悪そうな女三人組?」
「酷いな。アレでも幼馴染なんだぜ? 中学の時に先輩の影響で酒だの煙草だのピアスだのにハマりはしてたけど、根っこの部分は全然変わってない。可愛い奴らだよ」
「ふ~ん」
「ははは。信じてなさそうな顔だな。まあ軽薄な連中ではあるけど、冷酷な人間じゃあないよ」
私は、またさらにムカムカした感情が湧き出て来るのを感じた。私といるのに頭痛三人組の話が出てくるのも気にくわない。ちょっとは菜緒に納得しかけていたけど、今その優しさゲージは数直線上のマイナス方向に逆転した。
「菜緒。私は今とても怒っています。なぜ怒っていると思いますか?」
ベンチに手をつき、隣の菜緒に思い切り近付いた。鼻先数十センチのところに菜緒の鼻がある。間近で見ると、菜緒の顔は艶やかで綺麗だった。普通にしていたらハンサムの領域に足を突っ込んでいる顔だ。だけど、私が怒っているという情報を聞いてたじろぐ菜緒は、どちらかというと可愛い部類に入る。両目が泳ぎ右往左往する。一生懸命考えているのが丸わかりだ。
「やっぱり、バスケ部を辞めたこと、かな」
「最初に相談する相手が違うからです!」
「あ、そっちか……」
納得のいったらしい菜緒。申し訳なさそうに目を伏せて、頭をかいた。
「お前に言い出すのは、もっと怖かった。でも、真っ当に考えれば、まずお前に言うべきことだったんだよな」
再び、菜緒はごめんと頭を下げた。
「お前をバスケに誘ったのは私だから、尚のこと言い出しにくかった。飽きた、なんて言ったら麗華はどう思うだろう。そんなことばかり考えていて。ずっと一緒に頑張ってくれた人を裏切ることになる。それが、たぶん一番怖かったこと」
「――――」
目を伏せるのは、今度は私の番だった。
私はとてもずるい人間で、とても現金な人間だ。
「蔑ろにされたんじゃ、なかったんだ」
「ん、なに?」
「なんでもない」
菜緒は私を無視したから、バスケットを辞めることを伝えなかったわけじゃない。ずっと一緒に頑張っていた。だからこそ言い出しにくかったのだ。そして、最後の日までずるずると引きずってしまった。きっと、顧問には自分から言うから伝えないで欲しいとでも言ったのだろう。で結局、最後まで言い出せなかったと。
「だけど、大事なことはちゃんと伝えて欲しい」
「そうだな。うん、これからはそうするよ」
ふっきれたような表情をしていたのは、つまりそういうことなのだろう。
ことここに至り、ようやくその決心がついた。バスケットを辞めることにも。
だったらもう私には止められない。菜緒の人生を、菜緒の決断を、蔑ろにすることはできない。
大好きなものに飽きる。その感情は今の私にはわからない。けれどそれは菜緒にとってはとても大切なもので、重大なことだった。この一歩を踏み出すまでにどれくらいの勇気が必要だったのだろうか。果てしないほどの体力が必要だったことは、きっと確かなことだ。
私は、菜緒に甘すぎるのかもしれない。惚れた弱みということなのだろうか。まあ、惚れたのはあの夕暮れの菜緒なのだけど。
菜緒がベンチから離れ、コートに転がっているボールを拾った。
「麗華。ワンオンワン、しよう」
私は飲みかけのコーヒーを置き、立ち上がる。上着のシャツを脱いで、ベンチに投げ捨てた。半そでのシャツから伸びた素肌に冷たい秋の風が突き刺さる。
断頭台を歩く気分だった。ひどく悲しい。あまりにも辛い。彼女がいないコートを、私はどうやって走ればいいのだろう。
やっぱり辞めて欲しくない。バスケットを続けていて欲しい。私の隣で、まだ跳んでいて欲しい。
このワンオンワンが、きっと彼女にとっての最期のバスケになる。
「三ポイント先取でいいかしら」
「いいよ。オフェンスはゴールしたら勝ち。ディフェンスはブロックしてボールを奪うかもしくは外に出したら勝ち。ルールはこれでいいか?」
「構いません。オフェンス、先にどうぞ」
「そんじゃ、いっちょやるか」
――だからこそ。
腰を低く落とし、両手を広げてコースを制限する。常に腕一本分の距離を意識し、後手に回ることなくボールをカットすることを肝に銘じる。ディフェンスは、守るものではなく攻めるもの。もともと私は負けず嫌いだ。ただただ守るだけというのは性に合わない。
――だからこそ、本気で勝ってやる。これが最期のバスケになるのなら尚のこと。あの夕焼けに刻み付けられたように。私もまた、菜緒の結末に、私という存在を刻み付けるのだ。
菜緒は一定のリズムのドリブルを続ける。視線は私の眼に向いたまま、他には何も見えないかのように、鋭い目つきで睨んでくる。
ゾクリと。背中に汗が流れた。私の指先がぴりぴりと震え、稲妻が走る。
冷たい空気は一瞬にして凍り付く。聞こえるのはドリブルの音だけ。張り詰めた緊張の糸が、私と菜緒の間に橋を作る。
怖いくらいの緊張の糸。そして凍り付いた空気。それを、菜緒は圧倒的な熱量で以て粉砕した。
菜緒の視線が一瞬だけ正面のゴールリングに向けられる。瞬間、ドリブルのリズムが崩れ速度が上昇する。菜緒のふくらはぎの筋肉に力が入る様を、私は見逃さなかった。
これだ。これが菜緒の圧倒的な瞬発力。0のギアを唐突に全開にする静と動。氷そのものだった空間は刹那のうちに気体にまで変貌を遂げる。
針の穴を通すような繊細で鋭いドライブイン。菜緒の身体が目にも止まらぬ速さで私の脇を通り過ぎようとする。
「何年一緒にやってきたと思ってんだか!」
だが私もダテに六年以上もバスケットをやってきたわけじゃない。しかも、菜緒のプレーは一番近くで見ている自覚がある。
腕を伸ばしたまま、私は菜緒にぴったりと張り付いて走る。ボールをカットできる瞬間を決して見逃さない。ディフェンスは後手に回れば負ける。ドライブコース、シュートコース、全てをこの体一つで防ぎきる。
菜緒の猛虎の如きドリブルは止まらない。ボールを持っているのにボールを持っていない人間より速いというのは納得できないが、菜緒にはそれだけの身体能力と瞬発力がある。ちょっとディフェンスが強いだけでは強引に突破されたうえでバスケットカウントを取られる。そんなシーンを何度も見てきた。
その菜緒が、私の視界から唐突に姿を消した。
視線を投げると、菜緒はすでに私の遥か後方に立っていた。そこは、スリーポイントラインの外側。さっきまでニュートラルゾーン近辺で競っていたにも関わらず、菜緒は理屈に合わない疾さで戻っていた。
急激なブレーキと瞬発力。それはまさしく疾風怒濤。
「こん――ッ!」
菜緒がシュート態勢に入る。腰を落とし、視線はゴールリングを睨んでいた。
「――のォオ!」
弾けるようにその場からスリーポイントラインまで逆走する。一歩踏み込み、開いた距離をゼロにする。
「甘いよ、麗華。これは――」
「フェイク」
「――ッ!?」
ニタリ、と私は口角を吊り上げた。
菜緒は一拍遅れて跳び上がった。私がこの単純なシュートフェイクに引っ掛かると思っていたからだ。事実、私は腕を目いっぱいに伸ばして、あたかも跳躍しているように見せかけた。
ああそうだ。このために私は菜緒を視界から外したし、わざとらしい嬌声なんか上げて追ったのだ。全ては、菜緒にフェイクを出させることが目的だったからだ。
菜緒は華麗に跳んだ。その美しさに、かつての私は我を忘れたのだ。こんなに綺麗な跳躍は見たことがない、と。
音楽の美しさは目に見えない。音符は旋律とは違うものだし、音符だけで美しさを表現することはできない。音色は確かに美しい。けれどそれは眼に見えた絵画の如き芸術ではなく、感情に迫る芸術だ。でも、あの時の菜緒は、眼に見ることのできる『美しさ』だった。私がいったいどれだけ苦労して両親を説得したか、菜緒にはきっとわからない。やりたいと言えばOKと言ってくれる家ではないのだ。まして、バスケットみたいな接触の多いスポーツなんて。ピアノに影響が出たらどう責任を取ってくれるのだろう。スポーツだから、誰も責任なんて取ってくれやしないし。
それでも私はバスケットがやりたかった。私も、あんな風に跳んでみたかった。
あの瞬間は。シュートを打つこの刹那の跳躍は、何物にも代えられない、唯一無二の芸術である。
その究極に、菜緒がいる。もちろん菜緒より綺麗なフォームをしていて、上手な選手なんて探せばいくらでもいるのだろう。だけど、そんな情報はいらない、必要ない。だって、私にとっての一番は菜緒なのだ。世間が何をどれだけほざこうと、この事実は変わらない。この現実は変えられない。
菜緒が、世界で一番綺麗で、煌く姿をしているのだ。
「アアァァアアア!」
菜緒の身体が宙を飛ぶ。舞うが如く、旋律を刻むが如く。
それでも私は、跳び上がった。雄叫びを挙げて、夜の空に吠えて。
これが最期の本気の戦い。絶対に手は抜かないし、確実に攻められるならば、絶対にその手綱を離さない。
「麗華ッ!」
私は、折れた翼の白鳥の、みすぼらしくも鮮やかな跳躍を――叩き落とした。
勢いを殺すことができず、フェイク失敗によるシュートボールを、私は叩きつけるようにカットしたのである。
私の中の暗雲を、五里に亘る霧を払うように。月を隠す無明を斬り払うように。
私は、バスケットを続ける。キミの隣を跳ぶことはもうできないけど、キミのように跳びたいという願いはまだ死んでいない。なにより、キミが宿木で羽を休めていても、戻ってくる場所を見失わないように。
キミにも見えるように、高く跳ぼう。今度は私が、キミの為に跳ぼう。
ボールは勢いよくバウンドし、コートの外に躍り出た。
「これで攻守交替ね、菜緒」
「ちぇ。やっぱり猫を被るのが巧いな、お前は」
「こういうのを、猫を被るとは言いません。まんまと乗せられた菜緒が悪いんです」
「へいへい。どうせ私は単純な人間ですよ」
私はコート外に出たボールを拾い、センターラインに戻った。
「それじゃあ、ちゃっちゃと一本取って流れを作りましょう」
「あれ、麗華ってポイントガードだったっけ?」
「私はスモールフォワードです。体格には恵まれなかったもので」
「まあ、私もバスケット界隈ではそこまで大きいわけでもないけどね」
「170超えているのだから良い方でしょうに」
ドリブルをしながら、相手を抜き去るコースを選定する。ただ、やはり菜緒の身体は大きい。腰を低くし、腕を伸ばした状態の菜緒はまるで壁のような圧迫感がある。しかもその壁はこちらを殺す勢いで睨んできているのだ。
菜緒の指が動く。このまま一定のドリブルをすれば、リズムを読まれカットされてしまうことだろう。だが、菜緒もそう簡単には動かない。いくら攻めるディフェンスとは言え、相手を読み誤ればロールターンで抜き去られる可能性も有り得る。その程度で止まるほど菜緒がやわとは思っていない。どころか、それを逆手に取られる可能性もある。
そして、よく見ると菜緒の腕は時折下に下がる。ダッグインを読まれているのだ。なるほど、菜緒もダテに私とバスケをやってきたわけじゃない。いやいや、なにを生意気な。菜緒の方が歴は長い。
なら、と。私は体の横でするだけのドリブルを止め、自分の股下を通すレッグスルーを混ぜ合わせた。身体が小さい私は強引なドライブインやダッグインを決められない。真正直なクロスオーバーも菜緒なら完封してきかねない。
ならば、リズムを崩す。菜緒よりも小さい私は、テクニックで攪乱する。
右手から左手へのレッグススルー。左手でボールを受け取ると同時に、私は一気に加速し菜緒の左側へ躍り出た。スリーポイントラインをなぞる様に走るが、案の定菜緒は私にぴったりと張り付いていた。
「そう来ると思った」
菜緒の言葉に、私は条件反射で答えた。
「でもこう来るとは思った?」
私はボールを左手で受け取ると、そのままドリブルと見せかけてバックチェンジで切り返す。急激なブレーキと方向転換。バックチェンジはボールを体の後ろに通しボールを持ち変えることだ。
だが、それでも菜緒は私の視界に入る。常に私のボールに腕を伸ばす。
「レッグスルーからクロスオーバー、振り切れないならバックチェンジで切り返してドライブ。王道中の王道展開だぜ? しかもそこにヘジテーションを混ぜるのは麗華の十八番じゃないか。絶対に来るとわかっていたら止められない道理はないだろ?」
「あのねえ、まだ私の攻撃は続いてるんだけど。なにを勝ち誇った顔して解説なんかしてくれちゃってんの?」
「じゃあ、ここからどうやってシュートまで持っていくんだ?」
「灯台下暗し」
「は?」
「ペラペラ喋ってるのが悪い!」
私は再びレッグスルーで左手のボールを右手に持ち変えた。態勢の低いままダッグインのように菜緒の身体に密着する。
「通さない!」
「押し通る!」
ゴールリングはすぐそこにある。ここからならあと四歩走ればレイアップに持っていける。しかし菜緒の身体は大きい。私は菜緒の身体に背中を押し付け、力づくで中へ入っていく。
「体の小さい菜緒には難しいな。もうちょっと筋肉をつけてからやれよ!」
「淑女に筋肉を付けろなんて横暴もいいところです。それに、言ったでしょう。足元が見えていないって」
「なんのこった」
「レッグスルーよ」
「なん――ッ」
私は自身の股下にボールを通すと同時に菜緒の股下も貫いた。そのまま自分だけでロールターンし、菜緒の身体を振り切る。
「でぇ!?」
菜緒のドリブルが疾風怒濤ならば私は電光石火と言ったところか。うん、悪くない響きだと思う。ちょっとこっ恥ずかしいけど。
私は菜緒の視界から消え去った。菜緒の股下を勢いよく飛び出したルーズボールを左手でキャッチし、ゴールリングを睨む。
右足を踏み込んだ。片足をバネにして、大きく跳躍する。左腕をかかげ、リングに乗せるように柔らかくボールを放ろうとした。しかし、私の上から影が差す。
「菜緒!」
「麗華!」
菜緒が抜き去られた態勢のまま後方に跳躍し、腕を大きく伸ばした。このままボールを左手から離せば確実にブロックされる。
「でも、跳ぶだけがバスケットじゃない。私みたいに小さいと、小賢しい真似もいろいろと思い浮かんできちゃうのよね」
私は跳躍したまま左手の中のボールを強引に胸まで戻す。
「げぇ! ダブルクラッチ!?」
「信じていたわ菜緒。きっと貴女は跳んでくれるって!」
空中でボールを持ち変え、右手のスナップでゴールへ放り投げる。ボールはバックボードを直撃し、ゴールリングの中へ鋭角に突き刺さった。
ゴールを決めた私は悠々と着地し、ブロックに失敗した菜緒は思い切り尻餅をつく。そして、月をバックにして立つ私を見上げた。
「これで一点、私の先取ね。攻守交替、張り切って参りましょうか」
先に三点を先取した方の勝ち。いくらこれが最期であったとしても、私は手を抜かない。手を抜くことは菜緒への侮辱に値する。
悔しい。悲しい。とても苦しいけど。私にはこんなことしかできない。
私の本気を受け取って欲しい。その上でバスケットを去ってほしい。菜緒が選んだ人は、こんなにも強くなったんだということを、覚えていて欲しい。
菜緒はコートに手をついて立ち上がった。
「見事にやられたなぁ」
と呟きながらお尻をはたく。
ボールを受け取り、ゆったりとリズミカルなドリブルを繰り返しながらセンターラインに戻った。菜緒の表情は前髪に隠れて読めない。
だが、これで終わりではないことは容易に理解できた。菜緒の背後で、蒸気のような戦意が立ち昇っている。背後の景色が陽炎の如く揺らめいて、今にも爆発しそうだった。
一切合切を蕩かしてしまいそうなほどの熱気。
太陽もかくやという灼熱の闘志が、ここにある。
「麗華。今度は私が攻める番だぜ。準備は――」
「できてるわ」
「そうか。それなら、ぶっ潰さないとなぁ!」
「かかってきなさい、バカ女!」
前髪の奥に見えた菜緒の鋭い眼光。とても楽しそうな、バスケットを楽しんでいる眼。
私はその瞳を、永遠に見ていたいとさえ思っていた。
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「はい、三点先取で私の勝ち。お前、結局最初の一点だけだったな」
「喧しいわ!」
菜緒は肩で息をしながらも、人差し指の上でボールをくるくる回していた。私それできないんですけど。
今度は私が四つん這いになって敗北の辛酸を舐めることとなった。視線は床の上の、自分の手の甲に落ちる。女の子らしくなく成長した手。ピアノを弾くためだけにあったはずのものが、今は太く大きく、スポーツ選手としての手に成長してしまった。
菜緒がいたからだ。あの日、あの夕暮れの日。菜緒が私を見つけて、誘ってくれたからだ。
その菜緒が、バスケットを辞める。この日限りで、私の敗北で以て。
涙が出そうなほど悲しかった。だけどもう、決まったことだから。いつまでもうじうじなんてしていられない。私はビービー泣いている女が一番嫌いだ。まあ、ちょっと前の私もあんまり変わらなかったかもしれないけど。
こみあげて来るものを懸命に押しとどめ、ようやく菜緒の前に立った。じんじんと目頭が熱くなるし、今にも嗚咽を吐きそうだ。口を開いたらその瞬間、堰を切ったように止めどなく濁流が押し寄せてしまいそうだ。
深夜のコートに、私と菜緒が立っている。もう寒さはない。だいぶ体を動かして、どちらかというと暑いくらいだ。
互いに肩で息をしながら、正対する。
私は右手を差し出した。何のこともクソもない。どこからどう見ても握手だ。
「お疲れ様、菜緒」
ある意味では、菜緒にとっての新しい人生の始まりなのだろう。いろいろなものを見つけて、いろいろなものに感銘を受けて。そこから、また自分の好きなものを見つけていく。
そしていつか、私の隣に戻ってきてくれたら嬉しい。
あの頭痛三人組とは、これからも幼馴染として交友していくのかもしれない。それについてはもう何も言わない。菜緒に一歩踏み出させたのは連中の力あってこそなのかもしれないから。
たまには、私も菜緒のことを誘ってみようかしら。興味がないと思って美術館や観劇、コンサートのチケットを菜緒に渡したことはなかったけど、父に頼めば二枚くらい手に入るだろう。
菜緒は、思ったよりも強い力で私の手を握り込んだ。見上げるようにして菜緒の眼を見る。菜緒もまた、私を見つめ返してくれた。
ふっきれた表情だ。やっぱり、もうどうにもならないらしい。辞めるなと言って、じゃあ辞めない、となる程度の決意ではなさそうだった。
「ありがとう、麗華」
「ええ、どういたしまして」
「またここでやろうよ、ワンオンワン」
はい? 私の聞き間違いだろうか。
「……バスケもうやらないんじゃないの?」
「え、なんで?」
…………。
「は?」
「え?」
……頭が混乱してきた。こいつは何を無邪気な顔で言っているのだろう。菜緒はバスケに飽きたからバスケットを辞めるのではなかったのか。
「ちょっと整理しましょう。菜緒はバスケに飽きたのよね?」
「ああ」
「だからバスケ部を辞めたのよね?」
「そうだな」
「ということは、もうバスケットをやらないんでしょう?」
「だから、なんで?」
「…………」
「…………」
え、どういうこと?
「少しかみ砕いて説明してくれるかしら。あんたはバスケを辞めるのよね?」
菜緒は手を握ったまま、きょとんとした顔で私を見ている。
「いや、バスケを辞めるなんて一言も言ってないぞ、私。バスケ部は辞めるって言ったけど。あれだよ、ちょっとだけ距離を置きたくなったんだよ。だから、気が向いたらまたここで体動かしてるだろうし、バスケット自体は辞めないよ」
「……は、じゃあさっきまでの私の悩みは?」
「悩み?」
「盛大な独り相撲だったってこと!?」
菜緒に対して感じていたあれやこれやとか、菜緒がいかにバスケットを想っていたか、とか。所詮それは私の妄想であり、ただの考えすぎだったってこと!?
「菜緒ぉ、また私をコケにしたわね!」
握り潰すように、菜緒の手を私の手で圧迫する。全体重を乗せるように、握手した手を締め上げる。
「いって! こ、コケ? そんなつもりはないよ私ッ」
「だったら退部じゃなくて、休部でもよかったじゃないの! 変に悩ますだけ悩ませて!」
「顧問にも同じこと言われたよ。だけど、一年やそこらで気持ちが戻ってくるとも思えなかった。不誠実なのは私も嫌だからさ、きっぱり縁を切ったってわけ」
「……ッ」
いや、こいつのペースに乗っかってはだめだ。私は頭をグールダウンさせるように、大きく息を吐く。
「じゃあなに、バスケ部は辞めたけど、バスケそのものは辞めたわけじゃないってことでいいのね?」
「うん、毎日はやらないけどね。本当に気が向いた時だけ。ワンオンワン、またやりたくなったら連絡するよ」
「当然です。今度は絶対に膝つかせてやるから」
はぁ……。いったい何をやっていたんだか。
だけど菜緒も悪い。紛らわしい表情で紛らわしいことを言うのだから、文句を言う資格はない。
でも、私はどこかホッとした心持ちだった。菜緒はまだバスケットを辞めない。部として毎日打ち込むことはやめたけど、時々はこうしてボールをつついている。それだけで、今の私には十分だった。
菜緒から手を離し、転がっていたボールを叩き起こした。軽いドリブルでゴールへ近づく。ニュートラルゾーンよりも手前、スリーポイントラインよりも少し内側に立ち、ボールを両手で掴んだ。今の私は、この距離が限界だ。
膝を曲げ、ボールを腰の下へディップする。全身をバネのように軋ませて、跳躍した。
「おっ、綺麗」
菜緒の純粋な声が届いた。
体が宙を舞う。私の飛翔に翼はない。私はただ跳んでいるだけ。あいつのようにはまだなれない。私の目指すものがあの羽ばたきであるならば、私はまだバスケットを続けられる。
右腕を伸ばし、ゴールリングへ放った。鮮やかな回転と、惚れ惚れするような放物線軌道。絶対に入るという自信があった。我ながら綺麗なジャンプシュートだとは思う。でもそれは綺麗なだけで、理想形ではない。心に深く染み渡るような、あのジャンプシュートにはまだ遠い。
「なあ麗華。放課後、バスケ辞めるって言ってたけど、本当?」
「辞めません。私にはまだやることがある。それを思い出したから。何事も勢いで物を口にしないことね」
「そっか。じゃあスポーツバッグ持って帰れよ。忘れて帰ったろ?」
そういえば。
私は菜緒の指さす方向に視線を向けた。私たちが座っていたベンチのすぐ脇に、私の鞄があった。だけど水筒は壊れて中は水浸しだろう。すぐに洗わなかったから臭いが付いているだろうし、二度と使う気にはなれない。
「ああ、水筒は壊れてなかったぞ」
「え!?」
「ちょっとヘコんでたけどさ。お前相変わらず力ないなぁ、アッハハハ」
「笑うなバカ女」
バスケットボールを菜緒に向かって投げつける。
今日はもういい。それに、明日も学校なのだ。起きられなくなったら大変だし、家に外出がバレても困る。一刻も早く帰りたい。
「麗華。これは興味本位なんだけど、訊いてもいいか?」
「なに?」
菜緒は私の隣までドリブルで近付いた。だいたいニュートラルゾーンの位置。菜緒がジャンプシュートで外すことはない場所だ。彼女はゴールリングに視線を注いだまま、私に話しかけてくる。
「お前って、バスケット好きだったっけ? 常々、嫌いだ嫌いだって言ってたと思うけど」
「何を今更。大っ嫌いよ」
「なんで?」
「いつも言ってるでしょう? 汗臭くて泥臭くて、痛いし疲れるし、汗まみれの身体に接触するなんて今でも寒気がする。こんな四流スポーツ、なんでやってるのか自分でも不思議ね」
本当に、なんでやっているのか、昔の自分が聞いたらびっくりしてひっくり返ってしまうだろう。
お淑やかで、静謐で、上品で。絵にかいたようなお嬢様である私が、まさか殴り合いのようなスポーツに興じているなんて考えもしないことだ。
だけど、そんな私もすぐにわかる時が来る。出会いは、あまりにも早かった。人生をめちゃくちゃにされる瞬間は、唐突に訪れたのだ。
「ふ~ん。なら、やることってなに?」
「そうねぇ」
菜緒の身体が空に羽ばたいた。一枚の羽根が私の目の前を横切る。信じられないほどの滞空時間。翼が生えているのだから、当然と言えば当然だ。
痛んだ翼は、少しずつ生気を取り戻す。
ああ、やっぱりこれは、私の見ている幻覚なのだ。あの日に刷り込まれたものが、今になっても色褪せずここに残っている。
菜緒の放ったシュートは、当然のようにボールをリングの内側へと誘った。まるで、そこにあることが正しいかのように。
――やることってなに?
その答えは、ただ一つ。
――キミのように、跳びたいんだ。
「ま、いつか気が向いたら教えてあげるわ」
「なにそれ。ずるいなぁ」
バスケットは汗臭くて泥臭くて、痛いし疲れるしロクなスポーツじゃない。
だけど、シュートのあの瞬間だけは、何物にも代えがたい、震えるような美しさがある。
優雅で、絢爛で、荘厳な。
泥臭さは、ある意味ではカタルシスのためのしゃがみ込みのようなものなのだろう。高く跳ぶための、大きな屈伸。
キミのように跳びたい。キミと一緒に跳びたい。
だからこそ私は練習する。だからこそバスケットは辞めない。菜緒に私の姿が見えるよう、高く跳ぶことも諦めない。菜緒の隣で足並みをそろえて歩けるよう、強くなる。
そしてなにより。
菜緒がまた私とバスケットをしたいと言ってくれる日を、心から願っている。
今度は私が、菜緒の心に火をつける番なのだ。




