前編 郷愁
私も少しは反省している。大衆の面前で、あのような醜態を晒すべきではなかったし、彼女に恥をかかせるべきでもなかった。
だけど、私にばかり非があるわけではないはずだ。そもそも、そんな大事なことをあの瞬間に言い放つ方がどうかしていると思う。
「はぁ……」
今の私は部活をサボり広すぎるベッドの中で大殿籠り中。布団に潜ってスマホの画面を眺めているだけ。部活の先輩や同期から心配のメッセージはくるのだが、バカ女から詫びの一言はこない。どうせあの時一緒に居た、頭の悪そうな連中と遊びに行っているのだろう。
スマホの画面がメキメキと軋みを挙げる。考えただけでもイライラしてくる。
なんで、なんで私ともあろう人間が、バカ女のためにこんなにも考え事をしなくちゃいけないんだ!
「だあああああああ! むかつくむかつくむかつく――ッ!!」
ベッドから跳び起きる。足元に転がる擦り切れたバスケットボールを拾い上げ、壁に向かってぶん投げた。ドスンという重い音が鳴り、ミルク色の壁紙が黒く汚れる。5号の小さなボールはほぼ同じ速度で跳ね返り――
「わぷっ!」
容赦なく顔面目掛けて飛んできた。壁までブチ切れて投げ返して来たかのような、鮮やかな顔面への返球である。
私は顔面の前でぎりぎりキャッチした。しかし勢いを殺すことはできず、ベッドに背中から落ちる。低反発の柔らかすぎるベッドは、そんな私を優しく受け止めてくれた。
その直後、焦ったような足音が廊下の方から聞こえてきた。それはすぐに私の部屋の前で止まる。遠慮がちなノックが、四度鳴った。
「麗華さん? やはりご気分が優れませんか? お申しつけくださればすぐにでもお医者様の手配を――」
専属のお手伝いの峰子さんだ。現在35歳の独身で見た目は物凄く若い、大人のお姉さん。私が小さいころからお世話になっている人で、いつまで経っても私に対する敬語が抜けない。必要ないと言っているのだが、規則規則と言って譲らないのだ。多大な感謝はしているが、その辺もう少し融通の利く性格でもいいと思う。
私はベッドに胡坐をかき、胸にバスケットボールを抱えたまま、ここから遠すぎる扉に視線を向けて呟いた。
「ごほん。呼ばなくても構いません。気分は上々、今すぐにでもウン万円の花瓶を割り散らかしたい程に元気溌剌ですから、本日はどうかお構いなく」
「……やはりご気分が――」
「放っておいてください。単純に、虫の居所が悪いだけです。有り体に言って、怒っているんです私は。皆さんに当たりたくはありませんので、どうか本日はお引き取りください。食事も一人で摂りますから呼んでいただかなくて結構です」
早口で捲し立て、枕を扉に向かって投げつけた。
我ながら、性格の悪いことだ。せっかく心配してくださっているのに、私はその優しさに答える余裕がない。
いつの間にか、扉の前から人の気配が消えていた。何時間こうやってベッドの上に座っていたのだろうか。窓の外は夜の帳が下りていた。
革がぼろぼろになった、ミニバスのボールを抱きかかえている。その上に顎を乗せて、私はただひたすらにあの瞬間を反芻する。
彼女がどうして、あのような結論に至ったのか。何がいけなかったのか。何が気に入らなかったのか。私にはわからない。
ああ、でも、私に何も言ってくれなかったことが、何よりこの胸を抉ったのだ。蔑ろにされたという現実が、ひどく私を空虚にした。
「いらつく……」
何もわからなくなった。
指先に視線を向ける。あの頃までずっと守り続けていた十指。ピアノを真剣に習っていた。そしてこれは、コンクールで何度も優勝に導いてくれた、鮮やかな指先。私自身もピアノが好きだったから、両親に手厚く守られたことも苦ではなかった。できることは少なかったけど、ピアノが好きだったから束縛にも不快な感情は沸かなかった。
その私の指が、今は見る影もなくささくれ立っている。ごつごつと岩のように可愛げなく成長し、白魚のような指は切り捨てられた。下手くそだった頃は何度も突き指をした。今でも癖になって指を突くことがある
なんで、なんでそうしてまで私は、ピアノだけの人生から遠ざかったのか。
今もピアノは弾いている。好きなクラシックもそうだし、バンド活動で弾くキーボードもそうだ。音楽はあの頃と変わらず愛している。だけど、それだけの人生ではなくなったのだ。
その意味を、思い出せなくなった。後頭部を殴打された私は、一時的な記憶障害を患ったのだ。
なんのために、私は。
「菜緒。世紀のバカ女。――もう、知らない」
バスケットボールを床に落とした。テン、テン、とバウンドし、扉の方へ転がっていく。
ベッドに寝転がった。食欲はわかず、お風呂に入る気にもなれなかった。しかし、淑女としてさすがによろしくないだろう。
私は未練がましくスマホを立ち上げる。何をいまさら、と電源ボタンを押そうとしたのに、私の親指はメッセージアプリに触れていた。
すけこましからの連絡はなかった。
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時間は放課後まで遡る。
終礼を終えた私は、いつものように放課後の部活に参加するつもりでいた。
白島高校女子バスケットボール部。県内有数の強豪校、というわけではなく万年インターハイ予選落ちの中堅高校である。二次予選までは毎年行っているのだから、別に中堅と言い切っても問題はないはずだ。
私はいたっていつも通りに、クラスメイトの倉西菜緒を呼びつけて更衣室に赴こうとした。バスケットというスポーツは好きじゃない。汗臭くて、泥臭くて、接触が多ければ怪我も多い。特に試合中、汗をかいた状態で密着するのは今でも寒気がする。まったく美しいスポーツじゃない。なのに、私は小学校のある日から今まで、ずっとバスケットをやり続けている。その理由は――
思い出話もそこそこに後ろの席を振り返ると、そこに菜緒の姿がなかった。
「あいつ、置いていきやがったわね」
教室後ろのロッカーからスポーツバッグを引っ張り出し、慌てて外に出る。周りを見渡し、あの女の背中を探す。
「まだ遠くには行ってないはずだけど」
と、私の眼に見慣れた背中が飛び込んだ。距離にして約10メートル。身長170センチの大女が歩いていた。
「なにやってんのよあいつ」
違和感があった。体育館はそっちからだと遠いのに、いつもその道は使わないのに、なぜ今日に限って別のルートを使うのだろう。なにより、彼女の周りには髪色の明るい、頭の悪そうな女が三人群がっていた。菜緒は当然のように彼女らの真ん中を歩いている。
菜緒は他と比較して顔立ちがいい。それは認めざるを得ない事実。バスケットをしている時に彼女から滴る汗は聖水である、と誰かが言った。そこまでとは断じて思わないが、いい女の表情であることは否定しない。
だけどそれはあくまでもコートの中での話だ。あの両手に花を持ってニヤけているような顔では断じてない。
「菜緒」
彼女に追いついて、背中に声をかけた。この時私は、彼女に対する違和感にようやく気が付いた。いつも持っているはずのスポーツバッグがないのだ。
菜緒は私に背中を向けたまま立ち止まった。
「部活、今日は休みなの?」
三人の女子生徒は鬱陶しそうに顔をゆがめていたが、残念なことに私は君たちなぞ眼中にない。
「ああ、まあ」
菜緒は奥歯に物の詰まったような調子で、曖昧な返事をした。
「理由は? 理由がないと、うちの顧問うるさいわよ。この間サボってボウリングに行ったときも、後々面倒だったこと覚えてるでしょう?」
なんで、いつもみたいに軽口を言い返さないのだろう。私の中の不満が膨れ上がる。言い様の無い不安が募る。
「う~ん、まぁ、いいか」
「菜緒?」
菜緒は頭をぽりぽりとかきなが振り返った。
いつもの菜緒だった。スポーツに適した短髪で、髪型には頓着しないのかツンツンにとがらせただけの無難な形。長い髪を後ろで縛っている私よりも、どちらかと言えばボーイッシュに映る。常に眠たそうな表情でありながら、バスケットの時は尖った目をする二重人格者。
その彼女が、高みから私の眼を見据えて言い放ったのだ。
「私、バスケ部辞めたから」
「――は?」
金属バットで後頭部をぶん殴られる、とはこういうことを言うのだろう。昏倒するほどの衝撃を受けたのは、これが初めてのことだった。だからこそ、現実に対して理解が追いつかない。
「え、ちょっと、待って。菜緒? 何言ってるの?」
「バスケ部やめたんだ。顧問にはもう退部届出したからさ、私はもう部活には顔出さない」
動揺して、スポーツバッグが肩から滑り落ちた。足元でエナメル光沢の鞄がどさりと音を立てた。
菜緒が嘘をついているようには思えない。嘘ではないからこそ、私の心臓はぎゅっと締め付けられた。頬が紅潮する。唇がわなわなと震える。口を開けても空気が入ってこない。ひたすら開閉することで精いっぱい。まるで、水面で餌を待つ鯉のように。
菜緒はしっかりと私の眼を見ている。情けなく目を逸らすのではなく、私を見据えて、私に語り掛けている。
「なんで、なんで辞め――。そんなそぶり、全然なかったのに」
「別にいいっしょ、部活程度いつ辞めたって」
しびれを切らしたのか、髪の毛を茶色に染めた女が私に食って掛かった。遊びに行く時間が削られているのが我慢ならないらしい。
私は強気な女をねめつけ黙らせた。彼女も私が視線を向けたことでたじろぎ、二度と言葉を発することはなかった。今は私と菜緒が話しているのだから、雑音が介入して欲しくはなかった。
「菜緒、なんで、どうして止めるの? チームが弱いから? だけど菜緒と私が出た試合は勝ち数の方が多かったじゃない。酷い言い方かもしれないけど、先輩たちが引退して私たちがスタメンになったら、きっと強くなって――」
「――たんだよ」
「あっ……は、え?」
その一言に耳を疑った。たじろぐのは私の番だった。
きっと何かの間違いだ。そうだ、廊下を歩く生徒たちの会話と勘違いしているだけだ。放課後にもなると廊下は生徒の人数が多くなる。帰宅に急ぐ者、部活に向かう者。人の数だけ話し声がする。だからきっと、今の言葉はいずこからか聞こえた雑音であり、誰かと誰かの会話の一部分 にすぎないのだ。
そう思いたいのに。さっきから廊下の喧騒はまったく耳に入っておらず、私には菜緒の声しか届いていなかった。
ならば、さっきの言葉も。さっきの、絶望的な答えも。あの菜緒から届いた空気の振動で。彼女が自ら発した声に他ならなくて。
「だからね、麗華。飽きたんだよ、バスケ」
なんでもないことのように言う菜緒。目の前に居る人間が何者なのか、わからなくなった。この人は、誰なのだろう。菜緒が、そんな台詞を口にするなんて考えられない。
だけど声音は紛れもなく菜緒で、顔面に穿たれた黒い双眸は紛れもなく彼女のもので。全てが菜緒でしかなかったから、私は自分の眼球と両耳を抉りたくなる。
翼が、破り捨てられた。羽が一枚一枚、泥の中へと落ちていく。雛鳥は俯き、汚い羽根を泥で汚していく。きっと童話の様に羽ばたけると思った雛鳥は、その実本当にただのアヒルの子であり、アヒルの子よりもさらに醜く生まれてしまっただけの、どうしようもない忌み子でしかなかった。運命に選ばれなかった醜いアヒルの子。何者でも、何者にもなれなかった、ただの歪な子。
「そういうわけだからさ、先輩たちにもよろしく言っといてよ。今までありがとうございましたって」
「じゃあね~」
だから、きっと私にばかり非があるのではない。そう、思いたい。
目の前が真っ暗になった。
次に光を受けたとき、私の手はすでに菜緒の肩を掴んでいた。止まらなかったし、気付いたところで止める気もなかった。
右腕を大きく振りかぶり、全体重を乗せるように腰を捻った。私の眼球は、ただ甘んじて受け入れようとしている、かのような菜緒の瞳を捉えた。
それがまた、余計に腹が立った。歯が砕けるほど食いしばって、私は右腕を振り抜いた。
「――ッざけんなァァアアアア!!」
菜緒の身体が横薙ぎに吹っ飛んだ。渾身の平手打ちは綺麗に菜緒の頬を直撃した。ジンジンと掌が痛む。倒れた菜緒の頬は真っ赤に染まっていた。私も、本気で人を殴ったのは初めてだった。
廊下で人が騒いでいる。みんなで菜緒の安否を確認している。菜緒はなんでもないかのように座り直し、照れ臭そうに笑って対応していた。
その無責任さに、とうとう堪忍袋の緒が切れた。先に叩いたのは私で、ともすれば悪いのは私なのかもしれないけど、そんな道理で制御できるほど私は窓辺のお嬢様ではない。
「ふざけんじゃないわよ! へらへらへらへらと、どうでもよさそうに! ええそうよ私のビンタなんてたかがしれてるわアンタくらい体が大きければたいした衝撃でもないんでしょうねぇ! そんなもんだったわけよ、あんたのバスケットなんてその程度でしかなかったわけよ、飽きたら辞めちまえる程度の、遊びでしかなかったわけよ! だったら私だって辞めるわよ、こんな臭くて泥臭くて、くだらなくて痛くて疲れるだけの四流スポーツなんて!! 勝手に新しい友達と遊んでろバーーーカバーーカバーカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカ! バカ! アホ! ボケ! タコ! バカ女!」
言いたい放題捲し立ててから自分のスポーツバッグの肩紐を両手で握ると、二度ほどぶん回して菜緒の股の間に叩き落した。ガツンという衝撃音。おそらく水筒が砕け散った音なのだろうが、もう必要のないものなのでどうでもいい。金持ちの私は水筒程度五千本買ったところで財布はまったく痛まない。
廊下の人間全員が私にドン引きしたのか、誰も一言も言葉を発そうとはしなかった。私は座り込んだ菜緒から視線を切り、通学鞄だけを持ち直して階段の方へ歩を進めた。
言い返してこないし、追いかけても来やしない。
腹が立つ、腹が立つ、腹が立って仕方がない。
バスケットを辞める。
なんで、そんな大事なことを私にまで黙っていたのだろう。それとも、彼女にとっては部活の辞退なぞ本当に大した話ではなかったということなのだろうか。
例えそうだったとしても、私に言ってくれても良かったのに。私が傲慢な人間だから、そう思ってしまうのなら、私は傲慢でも構わない。
わからない。わかりたくない。
私に言う必要もないほど、菜緒にとって私という存在は小さなものなの? 所詮ただのクラスメイト、所詮ただの部活仲間。所詮ただの、ただの、顔見知り。私は少女Aでしかなく。
彼女の特別になりたいわけじゃない。彼女の一番になりたいわけでもない。ただ、私は――
そうして私は一人寂しく帰路についたのだった。部活に出る気にもならないし、明日になったら学級会が開かれるであろうこと請け合いなので、ひどく憂鬱だった。
校門を出てすぐの歩道の真ん中に立ち、私はふと鞄の中からスマホを取り出した。スタート画面なんて一切見ずに、メッセージアプリを開いた。
菜緒からは、一言の詫びすらもなかった。
アプリを開いたまま黙って五分ほど待ってみたが、クラスメイトや部員からメッセージがとんでくるばかりだった。
一番上にあった菜緒の名前が、画面外へと消えていった。アプリを入れて以来、初めてのことだった。