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玲華の達観した表情を見た呉羽は、一瞬だけ、どこか複雑な表情を見せたが、すぐにそれを隠し、戯れるような口調で、こう尋ねた。
「相手は誰だか聞かないの?」
「……」
相手が誰であろうと、玲華がすべきことが降嫁であることに変わりない。そのため敢えて尋ねなかったのだが、呉羽が期待に満ちた目でこちらを見ているため、玲華は仕方なく口を開く。
「その方は、どなたでしょうか」
すると呉羽は、よくぞ聞いてくれました、といった様子で目を輝かせ、そして言った。
「龍綺だよ」
「?」
末端の第八皇女ゆえに社交場に出ることのない玲華は、ぽんと名前のみを出されても、それを顔や立場と一致させるのが難しい。困ったように首を傾げていると、呉羽は柔らかく微笑んだ。
「氷の王、と言えば分かるかな?」
「氷の、王……」
呉羽の言葉をオウムのように繰り返した玲華の困惑は、更に深まるばかりである。
それは相手が想像つかなかったからではない。見当がついたからこそ、それがにわかに信じられず、混乱したのである。
氷の王といえば翔の王を指す。
皇女が降嫁する可能性のある相手ではあるが、格は高く、自分のような下位の者が嫁げるような相手ではないはずだ。
「それは……」
本当ですか、と訊きたいところだが、仮にも第二皇子の言葉に疑義を唱えるのはためらわれ、言葉を濁す。すると呉羽は心得たように、玲華の意を汲んだ。
「冗談でこんなことを言わないよ」
そして、そっと手を伸ばし、玲華の頬に触れる。優しく労るように撫でながら、彼は改めて告げた。
「君は、氷の王、龍綺の花嫁になるんだよ」
と。
☆
結婚の話を受けてから、挙式までのことは、あまりに忙しすぎて覚えていない。ひたすら翔の国の風土や歴史を頭に叩き込み、そして「皇女としての気品溢れる立ち振る舞い」をにわかに仕込むために時間を費やす。そうして、矢のような勢いで日々が過ぎていったように思う。
その忙しさのせいか……それとも政略結婚の常なのか。玲華が実際に夫となる龍綺と初めて顔を合わせたのは、まさに婚礼の当日だった。
本格的な儀式の前の初顔合わせ。
目の前に立つ「氷の王」は聞きしに勝る美丈夫だったが、玲華は「挙式をつつがなく終わらせる」ことに精一杯で、その容姿に見惚れる余裕などなかった。ただ目の前にいる人は「翔の王であると同時に夫となる人」であり「礼を尽くさなければならない相手」である。
(失礼のないようにしなければ)
この皇国の花嫁ならば誰もが着る純白の民族衣装に身を包んだ玲華は、顔を隠す紗の覆いを手の甲で左右にかき分け、そして微笑んだ。
たとえ、この婚姻が政治的な判断によるものだったとしても、友好的な関係を結ぶことができるのであれば、それに越したことはない。だから、
「初めまして、龍綺様」
と微笑みを浮かべて挨拶した時も、緊張に微かに声は震えたものの「貴方と分かり合いたい」という意志を込めたつもりだった。
その時はじめて、お互いの視線が絡む。
龍綺が一瞬、驚いたように目を見開いて自分を凝視したことを覚えている。
しかし次の瞬間には、
「ああ」
と短く返しただけの龍綺に、すぐにつと視線を逸らされた。
そのまま彼は、玲華ではなく、彼の侍従に告げる。
「……顔合わせはこれくらいでいいだろう? どうせ、これから先、嫌でも顔を付き合わせることになる」
億劫げなその言葉。そして拒絶する硬い空気。それらの全てから、玲華は「それ」を悟らざるを得なかった。
つまり、自分が彼にとって「意に染まぬ花嫁」であることを。
踵を返し、素っ気なく背中を向ける龍綺の後ろ姿を見つめながら、玲華はどこか冷静にこんなふうに思った。
前途は多難である、と。