0ー2 夢と現実の狭間
目を覚ますと、突っ伏した机が消えていた。
クラスメイトの声もなく、ひたすら静かだった。
だが、別に夢の続きというわけではない。
俺は、何故かベッドの上で毛布を被っていたのだ。
白い天井と囲うように展開するカーテン、それに薬品の匂いでここが保健室だと分かる。
更にカーテン越しに透ける陽光は既に赤く、夕焼けだという事も知れた。
つまり、一時限目の前に寝た俺は、そのまま夕暮れまでとっぷり眠っていたようだった。
「もしかして対地ミサイルでも落ちて来るんじゃないか? 今の内に防空壕でも作っておくか」
それ位珍しい事だった。
そして、だからこそ内心は安堵と歓喜に満ちていた。
俺は不眠症だが寝溜めが出来る。一日眠れたなら二週間くらい起きていても何とか動ける程度には回復する。
正確に測るなら八時間くらいは寝ただろうから、四日は持つはずだ。
つまり、久々に体調のいい日が四日も続くのだ。これを幸せと言わずに何を幸せと言うだろうか。
いい夢も見られて、寝溜めも出来て、今日は本当に良い一日だったな。
「勉強の時間を不意にすることとなったが、それを加味しても非常に良いな」
「ん? 起きたのか?」
健やかな気持ちのまま伸びをしていると、カーテンが開いて保険医が出て来る。
彼女は学校で人気者の女医だ。
古臭い言い方をするなら、マドンナ。それか高嶺の花か。
だが実の所、その人気は男よりも女の方にある。
何せ雰囲気が男っぽく、短髪で四角い眼鏡もかけて、知的で男性的な雰囲気を持って居る。
とある女子の会話を聞くに、宝塚の男優のスッピン、と言った雰囲気らしい。
「君の友達が『寝かせる為に運んだ』と言った時は思わず追い出そうと思ったが、成程、本当に不眠症だったみたいだな」
「どういうことですか?」
「目の下だ。ちょっとだけ隈が取れてる」
睡眠の効果はテキメンだったらしい。もう隈が取れるとは。
俺の隈はリトマス試験紙並みの性能を有している様だ。
「だけど、不眠症は学生の内に治しておけよ。社会に出ると体のメンテナンスすらする時間が無いんだから」
「分かりました」
「後、ノートはきちんともらっておきなさい」
そんな世話焼きな一言に一礼で答えて、保健室を後にする。勉強なんて適当に山張ればいいだけだろうに、なんて思いつつ。
「と言うかこの学校に勉強を教えてもらう価値はあるのか?」
はっきり言ってこの学校は終わっている。少なくとも俺はそう思う。
理由は簡明だ。この学校は既に知識を詰め込むだけの機関と化しているからだ。
つまり勉強とは名ばかりの流れ作業を押し付けているのだ。
そもそも、俺の考える勉強とは人材育成の為に知識と判断力を養う物である。
国語は社会に必須な理解力、読解力を鍛えるものだ。
同時に、その場その状況における適切な語を選ぶ力を付ける授業でもある。
社会は世界や日本が辿った道を再確認し、どうやってこの世界が完成したのかを知る学問だ。
加えて、そこから未来を推察し、どう改良していくかを学ぶ。
理科、数学は総じて現代の高等技術を理解し、扱うための土台だろう。
そこから発展させ、開発する人材も育てる目的もあるに違いない。
外国語は諸外国と相互理解して世界的に団結する為に必須である。
以上が各方面の、学びの本分であり、本来目指すべきものであるはずだ。
が、現在この学校で行われているのは、こうである。
問い一、この作家の気持ちを答えろ。
問い二、何年に何が起きたか答えろ。
問い三、誰が何を開発したのか。
エトセトラエトセトラ。
正直に言おう。それを暗記して、一体どんな人材にしたいというのか。さっぱり分からん。
この作家の気持ちを答える前に、どうして数多ある単語の中でこれを選んだのか推察させろ。
何年に何が起きたよりも、どうしてそれが起きたのか教えろ。
誰が開発しようと物は変わらん。それの使い方と原理を解説しろ。
この学校は、人材を育てるどころか、廃材ばかりを作り出している気がしてならない。
「まあ、優秀すぎる人材が出てきたら困るのかもな」
読解力が優れて居たらペテンがバレる。
社会を改良する術を学ばれたら転覆されかねない。
数学理科の水準が高くなれば技術の独占が出来なくなる。
外国語が堪能になれば人材が流出しかねない。
理想的な人材と言うのは扱い易いという形容詞が当てはまる訳で、優秀と言う形容詞が好ましい訳ではないのだ。
「あー、塾とか行きたいなあ」
そう言う勉学を教える専門の場所ならもっと有用な、本当の勉強が出来るんだろうに。
まあ、金がないから無理だが。
結局世の中、金、金、金。権力者が泣いて喜ぶ世界は今日も平和と言う訳だ。
「ある意味ぬるま湯だよ。この世界は」
糞便が腐敗し熱を持ち、それで生ぬるくなったお湯だが。
深夜と言うのは不眠症の人間にとっては、苦痛でしかない時間だ。
今日も眠れないのだという事実をまざまざと見せつけられて、明日はより不調になるのだろうと先を憂う事しか出来ない。
そんな嫌な気分を紛らわたいのだが面白い番組もない。
現実逃避に便利な携帯機器も体内時計のリズムが狂うから見ることは出来ない。
暇で、嫌な事が頭を埋め尽くす。本当に苦痛だ。この鬱屈とした性格もこの不眠症に起因しているに違いない。
「人格崩壊も目前だな。これは」
自室のベッドから抜け出して、カーテンを開けて外を見て時間を潰す。
見上げる月は剥離したように薄く弱く、地上の電光に曝露されて、全く存在感が無かった。
美しさもへったくれもない景色だ。
そもそも美しさという物自体、移り行く曖昧なもので捉え処がないのだが。
「月を愛でるとか言う神経もピカソを称賛する口も、全く信用できないな」
月は今と昔じゃ随分と様変わりしていると研究ではっきり解明されているし、あの出来損ないのモザイク画みたいなものを称賛する気が知れない。
と、侮蔑混じりに思う俺も、実はピカソを見たことがあるし、今現在も月を見上げてしまうのだが。
もうどうしようもない位価値観を植え付けられているのだ。普通という枠に囚われているのだ。
全く、良い様に踊らされて愉快な限りだ。
「……歩くか」
今日も眠気は訪れない。それは分かり切って居た。
だからと言って勉強をするというのも、電気代がかかってしまう。
結局、俺には健康の為に歩くという選択肢しかなかった。
「睡眠障害には程よい運動だ」
まあ、そんな事で解消されるならとっくの昔に治っているが。
外に出て、街灯が照らすアスファルトを歩く。
散歩と言うのはどんな状況だろうと気が晴れるものらしい。
が、俺の場合、眠れない夜は何を陰鬱な気分になって来るものだった。
何がいけないと言われれば、環境がいけない。
アスファルト製の偏平な道は全く感慨を湧かせるものが無い。
街灯が降らせるのっぺりとした光も俺の心を動かさない。
人を拒絶する両脇の塀はただただ延々と続くばかりである。
これでは晴れる気も晴れない。人類はよくもまあこんなに下らないものを作り、維持しようとするものだ。
ここはまさに牢獄だ。生きる為だけの牢獄。そしてそこから人は奴隷育成所や家畜小屋へと出荷されるのだ。
そして、その牢獄と家畜小屋を往復していく内に、人は擦り切れていくに違いない。
あの、目の前をふらつく男の様に。
「……」
正面から歩いてきた男を見て、パッと思い浮かぶ単語はただ一つ。
犬だ。
しかも散々働かされて切り捨てられた、社会の負け犬である。
全身に疲労を背負って、だというのに何ら満たされた様子もない。
ただただ雇用主から苦痛を与えられ、そこから解き放たれる開放感のみを糧に生きて来た人間だと、易々と看破できる。
俗に言うワーキングプアだ。見返りを求めない、いや求める権利を持たない、現代の奴隷である。
が、この男はそんな奴隷としての人材ですらなくなったのだろう。
「おい何見てんだよ」
男は、バッドを持って居た。
しかもねっとりとへばり付く赤い何かで濡れている。
ドラマでたまに見るそれと似てはいるが、放っている空気が全く違っていた。
オーラなんて見えないが、語弊を恐れずに言うと、呪詛すら聞こえてきそうなほどの気配を感じた。
彼が一体何をしたか、簡単に分かる。そして、これから俺に何をしようとするのかも。
「俺は必死に働いて、税金も納めて、寄付だってしてきたんだ。 だのに何だその目は、何だ?」
いずれ俺もこうなるんだろうなあ、という眼だ、と言っても納得しないのだろう。
男はトロトロと歩いて、ただただ照らすだけの電灯の元に出て来て、晒される。
その顔は、既に狂っていた。
顏はもう死んだかのように土気色で、眼は爛々と輝いていて、口元はだらしなく開けられていた。
バットの血の主に抵抗されたのか顔が腫れている。ペッと何かを吐いたと思えば、血で濡れた白い何かが道路を打った。
そして歯の抜けた口で笑みを浮かべる。
「もう何もかもがどうでもいいんだ。お前もそうだろう?」
支離滅裂な自問自答、血まみれの姿、凹んだ金属バッド。完全にピンチだな。
きっと俺はこれから脱兎のごとく逃げて、町中に情けない悲鳴をに響かせて、そして男の前で命乞いをするのだろう。
で、結局殺され、二時間ドラマの様な殺人事件の幕開けだ。
とまあ、ここまで考えた。自分の死体がどんな状況になるかもイメージ出来た。
頭がパックリ割れて、街灯の元に倒れる所までくっきりと。
でも何故だろう。可笑しいな。
「全く恐怖心が湧いてこない」
不思議過ぎて、首を傾げ考えてみる。
こんな状況なら失禁もするくらい恐怖して然るべきなのに。
考えて、悩んで、行き当たった。
そうだ。全能感だ。
夢の残滓か、あの全能感が今更湧き上がってそれが俺を支配しているのだ。
今、狂気を持った大の男を前にして、それをひれ伏させる自信すら湧きあがっているのだ。
「止めておけ。もうスッキリしただろ」
まあ、こんな気持ちで死ねたらいいか。
俺は体力がない方だ。どうせ逃げても追いつかれる。ならば堂々と死んでやろう。
「それに、もしかしたら軍勢が来るかもしれないぞ。くくっ」
夢の出来事を反芻すると、思わず笑ってしまった。
今思い出しても余りに滑稽だ。余程ストレスが溜まっていたに違いない。
怒ったのか、トラウマでも抉ってしまったか、男から歯ぎしりする音が聞こえる。
だが、一端笑いのツボに入ればそれを止めることは不可能な訳で、精々手で口を押えるしか手段はなかった。
「き、気にするな。殺したいんだろう。ぷっくく。ご自由にどうぞ。ピエロの夢を見るかもしれんが」
「舐めんじゃねえええ!」
激昂した。遂に、バッドが振り上げられ、俺の頭に叩きつけられた。
きっとパックリと頭が割れただろう。もしかすると電灯にまで血飛沫が上がっているかも知れない。
それならそれで、光にちょっとした彩りが得られていいかも知れないな。赤色フィルムの代わりに、赤い絵の具と言う訳だ。
そんな事を考えていると、目の前を赤い何かが溢れて来て、目や口に入って来る。
さて……
「死なないな」
目の前の男が顔色を真っ青にしているのを見るに、恐らく致命傷だったのだろう。
現に上からドバドバと液体が降り注いで、目に入って非常に見難い。口に入ったものは微かに鉄の風味がして、血だと分かる。
下を見れば偏平なアスファルトを染め上げていて、ショック死が間違いない量が溢れていることも確認できた。
なのに、生きている。平然と立って自分の手を握ったり開いたりしている。
ああ、そうか。
「命は彼奴に上げたから、もう死ねないのか」
パッと突拍子もない事を思いついたが、まさしくそれが真実なのだろう。
途端に、自分にできる事が何となく分かって来て、再び全能感が湧き上がってくる。
成程、これは良い買い物だった。命なんてこれと比べれば安いものだ。
本能に近い天啓に従い、血だまりに膝をついて、それを掬い上げる。
そしてゆっくりと練り上げると、直ぐに血は弾力のある塊に代わり、透明となった。
指の間をすり抜けて、動き出すそれは、テレビ画面などでよくよく見知った不定形の生命体。
「スライム……」
手の平大の塊がのっぺりと血の海を泳ぐ様は、とても愉快だ。
それに、血を取り込んで大きくなり、分裂も始めているらしい。
「はは、餌は人の血か。これはレバーを一杯食わないとな」
それか、俺以外の血を与えるか。
いやいや、いい考えかも知れない。何せ彼方は血気盛んだ。頭に血を昇らせるくらい余っている。
恐怖で些か活きは悪くなっているが、生まれたての赤ん坊に活きの良し悪しなど分かるまい。
「おい、スライム共。丁度あそこに血色の良い男が居るぞ」
腰を抜かしている男を指差してやれば、血の池を舐めつくそうとしていたスライムの動きが一斉に止まる。
考えている間に増えた計六匹が、同時にだ。
成程、人の話を理解するだけの知性はあるらしい。では心を読むのはどうだろうか。
一部を、壁の飾り穴からすり抜けて回り込ませろと考えてみる。
「素晴らしい」
きちんと気付かれない様に二匹がこっそり動き出した。
男は四つん這いになって逃げようとするが、それよりもずっと早くスライムは回り込む。
ああ、何とも情けない悲鳴だ。……さてと。
「例え何の理由があったにせよ。お前は俺を殺そうとしたわけだ。何をされても、文句は言えまい」
例えそれが、美味しい美味しいお食事として扱われたとしても。
スライムに内外から食い荒らされることとなったとしても。
「さて、スライム諸君。きちんと手を合わせて、いただきますを言うんだよ」
初めて聞く断末魔は、何ら感慨の湧かない雑音だった。