金食い虫
某新人賞に出して一次落ちだったものです。
いつもは素通りしている駅ビルの占いコーナーに、貴博は引き寄せられるように足を踏み入れた。仕切りカーテンの隙間から見えた女の顔が、息をのむほどの美貌だったからだ。占いなんて信じていないし、普段どんなに綺麗な女性を前にしても、金を払ってまで近づこうと思わない。ところがこの時は違った。来月、地味な女と結婚することが決まっていたからかもしれない。少し悪あがきをしたくなった。結婚後、金のかかりそうな浮気は絶対にしないと決めている。たまには俺だって近距離で美女と話がしたい――ささやかで可愛い願望だった。
貴博が軽く会釈をして備え付けのパイプ椅子に座ると、女は自然な笑みを浮かべ会釈した。占い師なのに化粧っ気はなく、着ている服も神秘的なものではない。シンプルな白いブラウスだ。浮いた鎖骨は清潔さと色気を同時に醸し出し、長い睫は涙袋に影を落としている。
「こんばんは。私、占い師のヨウコと申します。本日はどのようなことを占えばよろしいですか?」
見惚れていて、彼女の言葉がすぐには頭に入ってこなかった。ひとつ咳払いをして、貴博は今さらながら何を占ってもらおうか考えた。やはり、結婚運についてだろうか。気になることといえばそれぐらいだった。仕事や健康に不安はない。
「来月結婚するので、彼女とうまくやっていけるか知りたい……かな」
「かしこまりました、その一件だけでよろしいですね?」
貴博が頷くと、彼女は机の隅にあるキッチンタイマーらしき物に手を滑らせた。
「一件につき十五分で、料金は五千円です。前払いして頂けますか?」
「え……ちょっと、高くないですか?」
五千円といえば飲み会一回分、昼食だと十日分だ。たとえ美女が相手でも、それは高すぎると異論を唱えたくなる。
「占いの相場は皆、これぐらいですよ。ぜひあなたを占わせてください」
占い師がニコリと目を細め、口角を引き上げる。
美女の笑顔は、財布の紐を緩くさせるらしい。営業スマイルだということは分かっていても、その笑顔を曇らせる勇気が貴博にはなかった。財布から千円札を五枚引き抜き、女の手元に持っていく。
「ありがとうございます。それでは始めますね」
女は机の引き出しに千円札を入れ、野球ボール大の水晶を撫でながら、空いた手でキッチンタイマーのボタンを押した。
「ああ……金食い虫がいますね、彼女には」
開口一番、占い師は声を低くして言った。
「……金食い虫?」
「ええ、もし結婚したら、あなたの家の財産、食いつぶされますよ。結婚はやめたほうがいいと思います」
いきなり「別れた方が良い」と言われて、面食らってしまう。そして、あまりにも占い師に言われたことが事実とかけ離れていて、貴博は失笑した。婚約者の美和子には、金食い虫と称されるほどの要素が一切なかったのだから。趣味は貯金、貯蓄額は一千万を軽く越えている。中小企業の一般事務でこの数字は賞賛に値する。実家住まいなのに家事も得意で、この前のデートでは手作り弁当を持ってきてくれた。安い食材を使っているにも関わらず、それなりに美味しく出来上がっていた。正直なところ、外見はまったく好みではない。体には全く締りがなく、ぽっちゃりというより、肥満体といったほうがしっくりくるような体型で、顔も平均より劣っている。赤ら顔で目が細く、手入れを怠っている眉毛は伸び放題でボサボサ。小鼻は毛穴が開いていて、苺のようにブツブツしている。その欠点を化粧で補うことさえしない。着ている服も時代遅れ。頭皮近くの髪はほとんどが白くなっていて遠目でも目立つ。白髪染めを今までしたことがないそうだ。こういったエピソードの数々が、貴博にとっては結婚を決意するポイントになった。こんなに金のかからない女はいない、と。
「……どうかされましたか?」
占い師の声で、貴博は我に返った。机上に目をやると、置かれていた水晶がさっきと違って見える。白い水晶だと思っていたそれは、スノードームだった。丸い硝子瓶の中には偽物の雪とキラキラ光るスパンコールが降り、真ん中あたりにはスキー板を履いた小さいシロクマが立っている。この女はインチキ占い師だと確信した。美貌だけを売りにして儲けているのだろう。貴博は、占い師に軽蔑の目を向けた。
「そんな物で人の運命が見えるんですか?」
美女と話せる、なんてはしゃいだ自分が馬鹿だった。女は照れたような笑みを浮かべ、「これがあると心が落ち着くんです、可愛いでしょ? 友人からもらった物なんです」と無邪気なことを言う。
「もういいです。帰ります」
苛立ちと呆れで、貴博は愛想笑いさえできなくなっていた。占い料金が前払いの理由がわかった気がする。
椅子から立ち上がろうとすると、占い師が「待ってください」と慌てたように腰を浮かせて声をかけてくる。切ない声音に、不覚にも胸がときめいた。
「時間が余ってしまいましたね、ほかに知りたいことは?」
「ないですよ。早く終わった分少しまけてくれませんか?」
「それは無理です。……では、金食い虫を追い出す方法、教えましょうか? 信じられないなら聞き流していただいて結構ですから」
残り時間、貴博は占い師の言葉を聞き流し、彼女の整った顔を見つめ続けた。
翌月、貴博と美和子は無事に結婚式と披露宴を行った。一生に一度のイベントなだけあって費用は三百万を越え、二人で折半して払った。痛い出費となったが、お互いの親族が望んでいるため、行わざるをえなかった。できるだけ安く済まそうとお互い努力した。美和子は一番安い貸衣装を選び、ブライダルエステにも行かず、友達に頼んで背中の産毛を剃ってもらったようだ。目立つ白髪は自分で黒く染めていた。貴博は披露宴で必要なペーパー小物と、二人の自己紹介DVDを手作りした。とにかく損はしたくない。お互い親族と会社の同僚しか披露宴には呼ばないという徹底ぶりだった。友人を呼んだところで、回収できるご祝儀の額はたかが知れている。下手をすると、非常識な金額を包む人間が出てくるかもしれない。貴博がそれでも気を使って、産毛を剃ってくれた友達ぐらい呼んであげたら? と提案してみたが、美和子はご祝儀が見込めないからと切り捨てた。
入籍し同居するようになってからも、お互い財布の紐が緩むことはなかった。夫婦で質素倹約をモットーに生きていけると確信し、貴博はこの女と結婚して正解だったとほくそ笑んだ。
金銭感覚が一致していると、喧嘩をすることもほとんどない。二人きりの新婚生活を、東京都下2K、家賃六万円のボロアパートで楽しみ半年が過ぎたころ、貴博は美和子に今後の話を切り出した。
「なあ美和子、そろそろ俺の実家に移らないか? 改築もこの前終わったばかりだし、良いタイミングだと思うんだ」
婚前から、美和子は貴博の両親と同居することを約束してくれていた。完全二世帯住宅ならば構わないと快諾してくれて、そのことが結婚の大きな後押しにもなっていた。
「母さんも、早く引っ越してこいって言っているんだ。昨日も催促の電話があって……」
夕食後のほうじ茶を美味しそうに飲んでいた美和子の顔が、みるみるうちに翳った。まだ同居の話は早かったのかもしれない。だが、貴博にも譲れない事情があった。
「結婚前にも言ったけど……俺の家は農家だし、あの家を継ぎたいと思っている。今勤めている会社も、継ぐ準備が整ったら辞める」
「本当に辞めちゃうの? せっかく税理士資格も取って、それを活かした仕事ができているのに……」
美和子は悔しそうに顔を歪め、持っていた湯呑をローテーブルの上に置いた。
「農業の経験だってないんでしょ? いきなりその年で始めて大丈夫なの?」
「大丈夫だよ、俺はまだ三十八だよ。親父が死ぬまでには、ちゃんと農業のノウハウを教えてもらうよ。小さいころはちょっとだけど手伝っていたしね」
貴博は宥めるように、彼女の不安混じりの質問に答える。穏やかで大人しい気質の美和子でも、舅、姑に対し好意だけを抱くのは難しいらしい。
「同居、嫌なのか?」
「嬉しがるお嫁さんなんていないと思う」
美和子は力なく頭を横に振り、あからさまなため息をついた。貴博が黙って見守っていると、彼女はおもむろに立ち上がり、テーブルに置いてある空の食器を重ね始めた。勝手に話を切ろうとする美和子に、貴博は若干の憤りを覚えた。いつもは夫の言いなりになってくれる従順で貞淑な妻は、ベテランウェイトレスの如く何枚も重なった食器を片方の腕で支え、粗末な流し台へと歩いていく。貴博はテーブルにまだ残っている湯呑を無視して、美和子の後をついていく。ここで有耶無耶にしたら、いつまでたっても同居できない。貴博は話を強引に続けることにした。が、百円均一で購入した陶器の小鉢を泡立ちの悪いスポンジでこする妻の猫背姿は、これ以上の会話を拒絶していた。彼女のふくよかな腰に腕を回して、貴博は極力穏やかに言葉を紡ぐ。
「子供ができたらお金がかかるし、早く家を継いで財産を確保したいんだ。俺たちが実際に親と同居すれば、姉さんも相続放棄してくれるって言ってるんだよ」
美和子は黙々と食器を洗い続ける。泡に包まれた食器がシンクの中で窮屈そうに並んでいる。美和子の両肩を軽く揉んで、彼女の首筋に軽く接吻する。ここでやっと、妻の体がびくんと反応した。
「母さんと揉めたら、俺は絶対美和子の味方になるからさ」
「本当?」
美和子の声がやっと柔らかく解れてきた。
「一緒に頑張ろう、な?」
同居一日目から、美和子の愚痴が始まった。「完全二世帯住宅だって言っていたのに、蓋を開けたら水場が共同で、実質は同居じゃないの」、「作った料理をお義母さんにけなされた」、「そもそも何で一緒に食べなくちゃいけないのよ!」と、寝室で二人きりになった途端訴えてきた。「水場ぐらい一緒でもいいじゃないか」「実際お前より母さんの料理の方が美味しいよ」「食事中、気を使って話しかけることもしないで、ばくばく食ってたのは誰だよ」と、反論したくなるような内容ばかりだったが、同居をしてもらっている立場だ、ただ黙って聞いていることしかできない。
貴博は、自分の身の程を知っている。農家の長男で、親と同居は必須。この条件を提示すると、二十代はもちろん、三十代後半の見合い相手さえも逃げていった。焦っているのはお互い様だというのに。十五人目の見合い相手、つまり美和子だけが、この条件を受け入れてくれた。
一日目からこれか……引っ越し作業で疲れた体に追い打ちをかけられた気分だ。このまま寝てしまおうかと、壁時計に目をやると、その隣に掛けてあったカレンダーが目に入る。今日の日付に赤丸が付いていた。貴博は気を取り直し、ベッドの上で枕に八つ当たりをしている美和子に近づいた。今日は排卵日だ。
「疲れてるから……今日は寝る」
美和子の肩に手を置き、そのまま押し倒そうとすると、彼女は拒絶するように体を捻じり、夫から目を逸らした。
「私は子供を産む機械じゃないし、この家の家政婦でもないんだから」
「そんなこと思ってないよ。明日、母さんにはちゃんと話すから。食事も別々に取ろう。そういう約束だったんだから、守ってもらうようにするよ」
優しく美和子の背中を摩り、彼女の隣に横になる。セックスする気にはなれなかった。貴博は、まだ怒っているであろう妻の首の下に手を差し込み、腕枕の体勢を作って目を閉じた。
すぐに睡魔は襲ってきた。
美和子の暴走に気が付いたのは、両親との同居を開始して二か月が経った頃だ。春の足音が聞こえ始めた、残冬の夕暮れ時、会社から帰ってきた貴博は、リビングテーブルに置かれてあったクレジットカード会社からの請求書を見て、思わず「ええ?」と大声を出してしまった。金額が一桁間違っているのではないか? と何度も目をこするほどだった。だが何度見直しても、請求額の欄には八十五万八千二百円という数字が印字されている。頭が真っ白になり、テーブルの上に両手を付き、茫然と立ち尽くすことしかできない。脳が考えることを拒絶している。落ち着け落ち着け、と自分に言い聞かせ深呼吸を何十回も繰り返して、やっと頭の空白を外に追いやった。
冷静さを取り戻して今一度、請求書の内容を確認する。宛名は自分の名前、クレジットカードナンバーから、最近作ったファミリーカードの引き落とし通知だということがわかる。ファミリーカードだから、貴博の両親、貴博本人、そして妻の美和子が利用できることになっている。貴博は、このクレジットカードを作るにあたって、一悶着があったことを嫌でも思い出した。
「家族用のクレジットカードを作らない? 支払い口座を一つにまとめれば、何かとお得よね?」
そう提案してきたのは貴博の母親だった。
同居を始めてすぐの、休日のお昼時。美和子が台所で料理をしている姿を、ちらちら横目に見ながら、母は貴博に向かってひそひそ声で話しかけてきた。父親は我関せずで、テレビのゴルフチャンネルをぼんやりと眺めている。貴博が小さい頃からずっと変わらない風景だ。母親は倹約家のしっかり者、父親は農業のことしか頭にない真面目一徹。テレビでゴルフの放送を見るのは好きだが、自分でプレイしたことは一度もなかった。そういう親たちに育てられた貴博は、自然と合理的な思考を持つようになり、散財は最も愚かなことだと思うようになっていた。だから母の提案に二つ返事で飛びつきたくなった。が、貴博の立場上、妻の考えも聞いておかねばならない。
「良いアイディアだと思うよ。あいつにも後で聞いてみる」
息子の言葉に、母親は少しムッとしたように眉をひそめた。
「あんたももう、お嫁さんに取り込まれちゃったわね。前は自分で何でも決めていたのに」
「よさないか、そんな言い方……」
のんびりテレビを眺めていた父が、ぼそりと呟いた。
「一見大人しそうだけど、気が強いわよ、彼女。ほら、今だってあんなに音を立てて洗って。食洗機を買って下さいっていうアピールかしら」
苦笑いを浮かべ、母は大げさに両耳を塞いで見せた。確かに、水音と共にガチャンガチャンと耳障りな音が聞こえてくる。貴博は慌てて妻の居る台所へと走った。昼ごはんを作ろうかと言い出したのは妻だったが、朝食後の食器洗いは彼の仕事だったのだ。焦る息子を尻目に、母親は声をひそめて話し続ける。
「大体、なんであんな不器量な子を選んだのかしらね。貴博は見た目も良いし、大学だって名の知れた所に行ったのに……」
父に耳打ちしているつもりなのだろうが、しっかりキッチンまで聞こえて来る。
「お前なあ、もっと冷静に物事を考えろ。きょうび、農家に嫁いでくれる人なんてそういないんだ。その上、同居までしてくれてるんだから、文句なんて言うもんじゃ……」
父親の抑え気味の声が、皿のぶつかり合う音で途切れた。耳に響いて鼓膜が痛い。貴博は、怒りを露わにしている背中に向かって、「気にするなよ」と声をかけた。恐る恐る美和子の隣に立ち、彼女が手にしていたスポンジを取り上げる。
「俺が洗うから、作るのに専念して」
美和子は何も言わずにガスコンロに前に立ち、フライパンに油を引いた。
貴博はオープンキッチンからリビングルームを見渡した。壮年のプロゴルファーがちょうどテレビの中でスイングをしている。それを見ながら寛いだ様子の父親の背中、その横に座って、まだ何か言っている母親の顔。父親が右の頬を突然擦った。母親の唾が飛んだのだろう。そんなのどかな光景に思わず笑みを漏らした。
「なにがそんなに可笑しいの?」
無機質な声が横から聞こえた。
美和子がガスコンロの火を消して、貴博の顔をじっと見ている。
「ああ……ごめん。ちょっと母さんたちのやり取りが」
「私の悪口を言ってるのに、笑ってるんだ?」
やることなすこと、裏目に出てしまう。美和子のことを嗤うつもりなんて、微塵もないというのに。
「ごめん、母さんは無神経なことばっかり言うよな。でも悪気はないんだよ。美和子と結婚するって報告をしたとき、誰よりも喜んでくれたんだから」
貴博は自分の口から出る猫なで声に、気持ち悪さを感じた。こんな風に人に気を使うのは、税理士になりたてのとき以来だった。自分の家にいるのに、寛ぐこともできない。ついつい溜息をついてしまうと、また美和子の文句が飛んできた。
「お義母さんが相手だと言い返すこともできないの? あなたの奥さんを不器量だって言ってるのよ?」
不満の溜まった目で美和子が睨み付けてくる。糸のように細い目がよけい細くなり、額の皺が深く刻まれる。腫れぼったい瞼は、まるで水まんじゅうのようだ。どう贔屓目に見ても普通を下回る容姿で、かばってやる気持ちになれなかった。――だって本当のことだろう?
何も言い返さない貴博に業を煮やしたのか、美和子は諦めたように首を横に振り、台所から出て行こうとする。
「おい、ちょっと……昼飯はどうするんだよ?」
声をかけたと同時に、「ご飯まだあ?」と、張りのある声がリビングルームに響き渡った。
美和子は顔を歪め、リビングとは反対方向の階段に走り出した。二階には夫婦の部屋がある。貴博は迷わず、妻の後に続いた。
「さっきお義母さんが言ってたことだけど。私はファミリーカード、反対よ」
寝室のベッドに腰を掛け足を組み、美和子は短い指で、自分の天然パーマの毛髪をいじり始めた。黒く太いくせっ毛は陰毛のようで、本来はコケティッシュな所作なのに笑いを誘う。
綻んだ口元を手のひらで隠し、貴博は今日何度目かの猫なで声を出した。
「そう言うなって。普段の買い物を家族カードで支払えば、ポイントも早くたまる。得することはあっても損することはないよ。何が嫌なんだ?」
「だって……それだと、お義母さんたちに、私たちが何を買ったか知られちゃったりしない? 明細書も同じになるんじゃないの?」
「知られて困る買い物でもするのか?」
貴博の冷静な切り替えしで、二人の会話はぶつりと切れた。
このような経緯があったから、クレジットカードの請求書を見た瞬間、妻の仕業だと直感した。すぐにでも美和子を問い質したい衝動に駆られたが、あいにく彼女は友達と飲みに行っていて帰りが遅く、話し合う時間が取れそうにない。
「このごろ美和子さん、帰ってくる時間が前より一時間遅いのよ」と、一週間ほど前に母親から耳打ちされたことを思い出す。この家にまっすぐ帰るより、外で寄り道した方が楽なのだろうと、あまり気にせずにいたが、会社帰りに散財しているのなら考えものだ。そういえば、家で携帯電話をいじったり通話をしている姿をよく見かけるようになった。相手は友達だと言っていたが、これも貴博の実家に住むストレスのせいなのか。女はなぜ、買い物と意味のない長電話を好み、贅沢ばかりしたがるのだろう。
今まで付き合った女たちの、デートで食事をした際、財布をバッグから半分出してすぐに引っ込めるシーンが脳裏に浮かんだ。顔が良くても、男に金を出させることしか考えない女だけはやめようと思っていた。美和子はレストランに入ることさえ戸惑う倹約家だった。
――それなのに、なんなんだ、この変貌ぶりは。詐欺じゃないか。
駅ビルの中の、比較的きれいなトイレに入った。通勤でこのビルを通るとき、必ずこのトイレに入って用を足す。水道代、ときにはトイレットペーパー代を節約するためだ。普段手を洗った後、壁に設置された鏡なんて見もしないが、今日は違った。鏡で自分の顔をのぞきこみ、髪が跳ねていないか、髭の剃り跡が青くなっていないかチェックをする。問題がないことを確認して、貴博はトイレから出た。
すぐ近くに占いコーナーがある。さっきまでぴっちりと閉まっていたカーテンが、半開きになっていた。貴博は逸る気持ちを抑えながら、カーテン越しに「すみません、占ってもらえますか」と声をかけた。
「はい、もちろん。どうぞお入りください」
九か月ぶりに聞く占い師の声は、高音で透き通っていて、女性らしさを感じさせる。
この前と同じように、占い師はスノードームに両手を当てて、集中するために目を閉じた。それを良いことに、貴博は彼女の顔と上半身を舐めるように見た。染めていないサラサラの黒髪、不健康には見えない程よく白い肌、細い首。整った顔と華奢な体型に、飾り気のないただのブラウスが似合っている。
突然彼女が目をぱちっと開けたので、貴博は慌てて自分の手元に視線を戻した。
「奥様の金食い虫が……とうとう目を覚ましたのですね?」
「金食い虫がどうか分かりませんが……金遣いが荒くなったのは確かです。昨日、クレジットカードの請求書が届いたんですけど、請求額が八十万を超えてたんです。このことと金食い虫に関係があるのか気になって……」
「少し説明させてもらっていいですか?」
「もちろん」
一呼吸置いた後、占い師はスノードームを見つめたまま、淡々とした口調で話し始めた。
「あなたの奥様には、もともと金食い虫っていう、無駄な浪費を促す虫が居たのです。彼女があなたと出会うずっと前……二十代前半ですね、その頃は金遣いが荒い方でした。二十五歳になったとき、これではダメだと一念発起して、お金を貯めるようになっています。金食い虫も、いつも稼働しているわけではなくて、二十五歳のときに休憩に入ったわけです。で、最近また、活動を再開した……そういう次第です」
「その、金食い虫って、追い出せるんですよね? 前におっしゃってた気がするんですが」
クレジットカードの件があって、貴博がまず思い出したのは、この占い師とのやり取りだった。
「前にも申し上げましたが、聞き流しちゃったんですね。良いでしょう。もう一度申し上げますから今度はちゃんと聞いててくださいね?」
苦笑しながら占い師は話を続けた。
「方法は二つあります。一つは、金食い虫にとって居心地の悪い状態を作って、自ら出ていかせる方法。もう一つは、あなたと宿主が良い関係を作って、宿主の負の感情を抑え込む方法です。金食い虫が活発に動くのは、宿主……つまり奥様がストレスや寂しい気持ちを抱えていたり、落ち込んでいたりするときなんです。心が満たされていれば、金食い虫も大人しくなります。また冬眠してくれればラッキーですよ」
「じゃあ、金食い虫は、弱みに付け込んでくるんですね?」
「そういうことです。買い物依存症の人は大抵、金食い虫を飼っているんですよ」
「一つ目の、居心地を悪く……とは?」
「人間も、居心地が悪いとすぐにその場を離れたくなりますよね? 生理的なことで言うと……金食い虫も寒いところや暑過ぎる場所が苦手なんです。だからずっとそういう場所にいれば、我慢できなくなって外に出るんです。ただ、出てくる場所は大抵水のある所です。水分のない場所では生きていけないんです。人間も水で出来ていますし」
占い師はずいぶん丁寧に金食い虫の説明をしてくれる。存在自体まだ半信半疑だが、彼女の言う通りに金食い虫を追い出し、また元のように美和子が倹約家になってくれればそれで良い。ただ、いくつかの疑問が生じた。
「あの……追い出したあと、どうすればいいですか。そもそもどんな外見をしているんですか、その虫は」
話しているうちに疑問がどんどん浮かんでくる。消滅させることは不可能なのか? どういう経緯で妻の中に住みついたのか……
占い師が口を開いたとき、ピピピとキッチンタイマーの音が鳴った。タイムリミット。
「延長できませんか?」
「もちろんできますよ。五分延長につき、二千円になります。前払いでお願いしますね」
残念ながら延長割引はないらしい。むしろ割高になっている。千円札を二枚財布から抜き、占い師に差し出す。女はうやうやしく両方の手で二千円を受け取った。またキッチンタイマーを操作したあと、話の続きが始まった。
「質問にお答えしますね。まず、宿主から金食い虫が出てくるところを発見したら、捕獲して水気のない場所に移してください。そうすれば勝手に消滅してくれます。もしくは」
言葉を切り、机の引き出しから小さい瓶を取り出した。医者から処方される目薬の容器ほどの大きさだ。女がそっと貴博の手元に置く。
「この中に入れて持ってきてくださったら、鑑定料を無料にいたします」
「……頑張ります」
「追い出すのはなかなか難しいと思いますけど。捕獲できなかったらその瓶、差し上げます。あ、いらないなら奥様にでもプレゼントしてあげてください」
そこでまた、キッチンタイマーが鳴った。
すでに七千円を失っている。もう少し話を聞きたい気がしたが、一日でこれ以上の出費は痛い。貴博は席を立ち、手元の瓶を摘まんで、占い師に会釈した。
「また来ます」
金食い虫の外見を聞けずに終わってしまったのが、心残りだ。
八十万のダイヤの指輪が、美和子の薬指で輝いている。キラキラ、ではなくギラギラという擬態語が似合う代物だ。ティファニーのフルエタニティで、ダイヤの粒が全周に敷き詰められている。ダイヤ一粒一粒が高品質だと、ジュエリーに無頓着な貴博さえも一目で分かった。とにかく眩しかった。そんなダイヤモンドリングが、家族のクレジットカードで勝手に購入されていた。まったくもって寝耳に水で、貴博は妻にどういう態度を取ればいいのか、はかりかねている。単純に怒っても、解決することではない――それだけは分かっていた。
――金食い虫が活発に動くのは、宿主……つまり奥様がストレスや寂しい気持ちを抱えていたり、落ち込んでいたりするときなんです。
占い師の言葉にも心当たりがあり過ぎた。美和子に対し、怒鳴りつけたい気持ちと謝りたい気持ちで一杯になっている。彼女にとって、やはりこの家はアウェイなのだ。過剰なぐらい優しく接して、必ず味方になってやるべきだった。実家という狭い世界と、無機質な職場の往復で、人間の機微というものに鈍感になっていたと、貴博は内省した。だが、いざ両親を目の前にすると、美和子を優先した行動がとれなくなってしまう。
「なに、ぼんやりしているの?」
気が付くと、夕食の準備が終わっていた。また美和子に家事をやらせてしまっている。これも彼女にとってストレスになっているのかもしれない。
「ありがとな、いつも……俺も家事やるからさ、教えてくれよ。共働きなのに美和子ばっかりやっていて、不公平だもんな」
こんなことが言いたいのだろうか? 自問自答した。――指輪のことを聞きたいんじゃないのか?
貴博の思いを知ってか知らずでか、美和子が椅子に腰を掛け、水を一杯飲み呼吸を整えた後、話を切り出してきた。
「この指輪、買っちゃったからね」
「知ってるよ。さっきからギラギラ光っているからね。すごいね、遠くから見てもわかるよ。輝いている」
貴博は淡々とダイヤの感想を告げた。
「そう、ありがとう。私の見立ても悪くないのね。今日、店で受け取ったばかりなんだ。申し込んだときに前金で八十万払って、今日五十万追加で払ったから。もちろんファミリーカードで」
「……じゃあ、合計百三十万も払ったのか」
「そうよ、百三十万」
だから何? と言いたそうな表情で、美香子が貴博を一瞥してきた。
「高すぎるだろ。なんで勝手にそんな大きな買い物をするんだよ」
自然と責める口調になる。
「じゃあ、あとで私の貯金から返すわよ。それで文句ないでしょっ?」
これじゃあ、逆切れだ。たとえ自分自身の貯金から買い物をするとしても、一言家族に相談するのが道理ではないか。前の美和子だったら、こんな身勝手なことは絶対にしなかったはずだ。
「あとね、他にももっと欲しいものがあるの。ここ最近、やけに物欲が――」
途中から聞くのを放棄した。妻が知らない人間になったようで少し怖い。彼女の顔を見ると、伸び放題荒れ放題だった眉が整えられている、薄くだがファンデーションが塗られている、口紅がひかれている。
散財だけではない。他のジャンルでも、妻は暴走している。
貴博は途方に暮れたまま、箸を動かした。妻と一緒に百円均一で購入した箸だった。懐かしかった。
翌日の朝、カード会社に電話を入れ、紛失したと嘘をつき、ファミリーカードの利用停止を願い出た。これで急場をしのげる。美和子個人のキャッシュカード、クレジットカードも預かりたい気分だったが、それは流石に躊躇われた。第一、彼女が承諾しない。ただただ、会社帰りに散財しないよう祈ることしかできない。
いつものように駅ビルのトイレで用を足し、そのまま地上に出る階段に向かおうとすると、昨日通った占いコーナーが視界に入ってきた。カーテンが開いている。思わず貴博は来た道を引き返し、机に向かって何か書き物をしている占い師に声をかけた。
「こんな朝早くから営業してるんですか?」
腕時計を見る。まだ九時にもなっていない。
少し驚いた顔をして、占い師は貴博の方を見た。
「ああ、昨日のお客様……まだ営業時間になってないんですよ。今、写経をしていたところです。精神を集中させないと、この仕事はできませんからね」
はきはきとした声で女は応えてくれる。
「早めに営業してもらえませんか? まだ聞きたいことがあるんです」
「お受けしたいのは山々なんですが、ウォーミングアップがまだできていないんですよ。占いはできませんが、話し相手にはなれますよ」
占い師の笑顔に引き寄せられるように、貴博はふらふらと昨日座ったパイプ椅子に向かっていた。
急に、美和子の笑顔が浮かんできた。
――最近、全然笑ってくれないな。
そうさせているのは自分だと思うと、やりきれない気持ちになった。
貴博が座り慣れてきたパイプ椅子に腰をかけると、占い師がさっそく口を開いた。
「お客様は……あ、お名前を伺ってもいいですか」
「ああもちろん。中野貴博と言います」
そういえば鑑定をしてもらう際、名前も生年月日も聞かれなかった。ふつう占いにはそういうデータが必要なのでは? と疑問が湧いた。貴博の表情を見て、女は慌てて「あ、すみません」と謝ってきた。
「私、最初の鑑定のとき名前を言いましたっけ?」
「あ……ええと、教えてもらった気がするんですが……」
「じゃあ、もう一回。私は、ようこと申します、ようこのようは、太陽の陽です」
「素敵な名前ですね」
外見と名前がぴったり合っている。なんとなくそう思った。
「あ、芸名ですよ。本名は秘密です」
ふふふ、と口に手を当てて笑う姿が、やけに子供っぽく見える。
「芸名は自分で考えたんです。占い師の芸名は、神秘的なのが多いけど、私は嫌だったんです。占いを求める人って、思い詰めていたり辛い気持ちを抱えていたりするから……そういう人たちにとってここが、陽だまりみたいな存在になればいいなって。あ、ちょっとクサイこと言っちゃいましたね」
照れ笑いを浮かべた後、思い出したように、途中になっている写経の半紙を机の引き出しに仕舞った。
「途中だったのに、良いんですか?」
「大丈夫です、気にしないでください。写経も大事だけど、色々な人とお話しする方が、勉強になりますから」
笑顔を欠かさない陽子の声が、貴博の心にすんなり入ってくる。自分が癒されているように感じ、なんだかくすぐったい。
「失礼ですが……陽子さんはおいくつなんですか?」
貴博は思い切って聞いてみた。外見は若々しいが、話していると自分と同年代かと思うほど落ち着いて見えるのだ。
いくつに見えますかあ? なんて焦らすこともなく、陽子は「二十五歳です」と、さらっと答えた。思っていた以上に若い。
――違う。彼女が大人っぽいんじゃない。俺が子供なんだ。
「中野さんは、お仕事は何をなさっているんですか? ここにいらっしゃるのは、いつも六時半ぐらいですよね。残業がない職種なんですか?」
彼女の悪気のない言葉が、貴博を自己嫌悪の渦へと容赦なく追いやった。
陽子はまだ二十五歳という若さで、占い師という仕事に誇りを持っている。真摯に向き合っている……
「俺はこれでも一応、税理士なんだけど……あんまり真面目じゃないな」
貴博が勤務している税理士事務所は、今、確定申告の時期で多忙を極めていた。会社内は残業必須の雰囲気なのに、それにも関わらず、無理やり定時であがっていた。同僚は「新婚なんだから、残業したら奥さんに悪いよな」と気を使ってくれる。事務員は忙しく電卓を叩いていても、貴博が「お先に失礼します」と声をかけると、顔を上げて笑顔で「お疲れ様でした」と送り出してくれる。通常業務に支障が出るため、確定申告の相談にやって来た人に気付いても、見て見ぬふりをしていた。誰か他の奴がやってくれるだろうと期待して。
「周りが忙しくて困っているのに、俺は自分の仕事だけ済ましてさっさと帰っているんだ。……最低ですよね。同僚のやつは文句言ってこないけど、実際はどう思っているんだろう」
「残業する人が必ずしも偉いとは思いませんけど……これって占うまでもないですよね」
話の途中で陽子は溜息を吐いた。
「このままじゃいけないって、中野さんもわかってらっしゃる。だから私に話したのでしょう? ふつうに考えたら、リストラされてもおかしくない状況じゃないですか」
定時の六時を過ぎても黙々と仕事を続けている貴博に、近くに座っていた二年先輩の同僚が「どうしたんだ? 家で何かあったのか?」と聞いてきた。他の同僚も、貴博の席をちらちらと盗み見しているのが分かる。
「何もありませんよ。私にできる仕事があったら振ってください」
入社間もない頃、いつも上司や同僚に言っていた言葉が口をついて出た。
自分だって最初の頃は誰よりも早く仕事を覚え、同僚からも上司からも頼られるようになって、出世したいと思っていた。人並みの野望と理想はあったのだ。いつからだろう、やる気を失ってしまったのは。どうせ頑張っても、いつかはこの会社を辞め、農業を継がなくてはならない。頑張っても無駄になるだけだ。そう思った瞬間があった。そこから先は、糸が切れた凧のように気が抜けた。やる気もなく覇気もなく、ただ会社に行っているだけ。
――リストラされて良いんですか?
陽子に尋ねられたとき、嫌だと思った。同じ辞めるにしても、自分がちゃんと納得できてから辞めたかった。
「あの……手持ちの仕事が終わったんですが、他にまだありますか?」
女子事務員が、貴博に声をかけてきた。腕時計を見ると、もう八時を過ぎている。いつもなら家でご飯を食べている時間だ。そう思った途端、お腹がぐうと鳴った。
「あ、お腹がすいてらっしゃるなら、何か簡単に食べられるものでも買ってきましょうか?」
気の利いた申し出に、貴博は驚いて顔を上げる。何年も一緒に仕事をしてきたのに、滅多に話したことがない女性だった。辛うじて「三田」という苗字だけは覚えていた。
「じゃあ、今残っている皆の分、買ってきてもらえるかな? サンドイッチとおにぎりと……甘いデザートも」
貴博はスーツの胸ポケットから財布を取り出し、そこから一万円札を抜き出して、驚いた顔をしている三田に手渡した。
一部始終を見ていた同僚に、「やるじゃん、中野」と笑いながら声をかけられる。
想定外の出費が発生したのに、貴博の気分は上々だった。
貴博が残業を終えて家に帰り着いたのは深夜一時を回った頃だった。一階の両親の部屋は真っ暗だったが、二階はまだ電気がついていた。
外階段を上って二階に上がり、鍵を使ってドアを開ける。玄関に入ると、目新しい物が増えていないかすぐに確認した。ぱっと見た感じ、初見の物はない。少しだけホッとするが、まだまだ油断はできない。むしろこれからが勝負だ。廊下を居間に向かって静に歩く。
「あ、貴博さん、お帰り。……遅かったね」
煌煌と明かりがついた居間から、美和子が小走りで近寄ってくる。今日は機嫌が良さそうだ。指に例の指輪をはめ、パジャマの上には緑色のガウンを羽織っている。このガウンは見覚えがなかった。
「そのガウン、どうしたの?」
「今日買ったの。バーゲンで安くなってたの。お得な買い物だった」
バーゲンで、と聞き、貴博は険しくなりかけた顔を緩めた。
「いくらだったんだ?」
「二万五千円。定価は八万円だったの。ほら、これブランドなのよ。マックスマーラって知ってる? 素材も良いんだよ、カシミア混で……」
心の中で耳を塞いだ。さっき会社を出た時は、なんとも言えない高揚感に包まれていた。きついマラソンコースを完走したような快感が、家の前までは確かに続いていたのだ。それなのに――すべて台無しだ。
美和子はまだガウンの性質の良さをしつこく力説している。その目は爛々と輝いていて、地味な頃の美和子とはかけ離れている。美和子はもう化粧を落としているはずなのに、なぜか派手な印象を受けた。
――そうだ、美和子は今日、会社帰りに美容院に行くと言っていた。
「髪の毛、染めたんだ?」
「うん、栗茶色に染めたんだ。カットとカラーリングとストレートパーマ代合わせて、三万五千円也~」
もう、我慢の限界だった。
「……いい加減にしろ」
自分でも驚くほど、低く冷たい声が出た。怒りのせいで語尾が震える。これが金食い虫の仕業だというなら、さっさと追い出せばいいのだ。追い出してやる。そうすれば堅実で無駄遣いをしない妻が戻ってくる。
「私だけ買い物するのが気にいらないのなら、あなただって色々買えば良いじゃない? 私はね、自分のお金を使ってるの! ……余っていた結納金は全部使っちゃったし!」
てへっと分厚い舌を出し、声を高くして美和子は笑った。
「結納金て……五百万もあったのに?!」
「実際はそんなにもらってないわよ。挙式披露宴代と新婚旅行の旅費と、家具一式に使ったじゃない。実質私の手に残ったのは半分以下。はした金よ」
この狂い方は尋常じゃないと思った。これはもう、金食い虫のせいだとしか思えない。そうでなければ困る。
異様なテンションでしゃべり続ける美和子の腕を掴み、貴博は玄関へと向かった。
夜の空気は冷え切っていて、冬の名残を感じさせた。吹く風は冷たく、コートを羽織った貴博さえ冷気で体が震える。美和子はパジャマとガウンだけだから、凍えるような寒さを味わっているはずだ。ぼんやりとした輪郭の月を目で追いながら、貴博は適当に道を選んで歩いた。
「貴博さん、どこに行くの?」
「どこにも行かないよ。ひたすら道を歩くんだ」
逃げ出さないように全身全霊の力を込めて、貴博は美和子の太い手首を握りしめた。
「痛いっ」
「だから何だよ」
自分でもよくここまで冷酷になれるな、と思った。やめて、いたい、離して! と掠れた声で訴えられ、自由になる手で背中を思いきり叩かれても、貴博は振り向かず、妻の存在を黙殺した。
少し脇の下が汗ばんできたのを感じ、街灯の光が届く場所まで歩いて自分の腕時計で時間を確認した。時計の針は二時半を差していた。家に帰リついたのが一時を回ったところだったから、一時間以上は歩いたことになる。いつの間にか、妻は静かになっていた。
「おい、大丈夫か?」
美和子の肩を掴んで揺すった。彼女の赤ら顔は若干の白みを帯び、唇は紫に変色している。ガウンは今にも脱げてしまいそうなほどはだけていた。名前を呼ぶと、「寒い」と返事が返ってくる。
「ごめん、やりすぎた」
貴博は自分が着ていたコート脱ぎ、美和子の腕に袖を通させた。サイズはそれほど違わない。はだけたガウンを前できっちりかき合わせ、その上のコートのボタンもしっかり留めた。
「あなたは私を……凍死させるつもり?」
「そんなこと思ってない。……カッとしたんだよ。お前があまりにも――」
「自分でもわからないのよ。ここ最近、急にお金をぱーっと使いたくなっちゃうの。今までは全然興味なかったものが、輝いて見えて」
カタカタと寒さで震える体を、貴博はそっと抱きしめた。
「ストレスのせいかもしれない。ごめん、辛いんだ私。あなたのお父さんとお母さんなんだからって、仲良くしなくちゃって自分に言い聞かせてるんだけど、やっぱり一緒にいると苦しくなる」
細い涙の筋が、美和子の頬にできていた。
「どこかで同居してやってるんだから、そっちが気を使ってよって……思ってた。それが態度に出てて、もしかしたらお義母さんたちに不快な思いをさせていたのかもしれない。それは私も悪かったけど……何で容姿のことをバカにされなきゃいけないのよ? たしかに私はブスだよ。高校のときも専門学校のときも彼氏ができなかったし、二十歳のときやっと彼氏ができたと思ったら、半年で振られちゃったし……」
堰を切ったように、大粒の涙が流れ出す。団子鼻は赤く染まり、鼻水が糸を引いて顎まで伝う。そんな姿が、なぜか愛おしく思えた。そして、号泣させたのが他ならぬ自分なのだと痛感し、胸が苦しくなる。
「美和子、ごめん。本当にごめん。俺がいけなかったんだ。親にもお前にもいい顔をしていたかったんだ。結局、お前ばかりに我慢をさせて……。これからは、どうすれば美和子が居心地良くなるか考えるから。一か月に一度ぐらい、良いホテルに泊まりに行こう。二人きりになってちゃんと息抜きをして、贅沢するんだ」
涕泣しながらも、美和子は貴博の背中に腕を回して、小さい声で「うん」と答えてくれた。
久しぶりの抱擁で、貴博の心臓が高鳴り始める。
――そうだ、俺たちはまだ結婚して一年も経っていない。新婚じゃないか。
美和子が泣き止み、貴博が渡したちり紙で洟をかみ終わるのを見計らい、彼は妻の耳に口を寄せた。
「さっそく今から、行こう」
貴博と美和子が仲直りをしてから二ヶ月後、思いもよらない吉報が、彼女の口からもたらされた。
その日も貴博は、残業で帰りが遅くなった。夜中の一時を過ぎ、さすがに美和子は寝ているだろうと思いながら玄関のドアを開けると、驚いたことに妻が上り框に立っていた。笑顔全開で、貴博に向かって開口一番、こう言った。
「妊娠したの、私、妊娠したのよ!」
美和子は両手を組み、バタバタと足を踏み鳴らして喜びを露わにしている。貴博の頭は残業で疲れていて、うまく美和子の言葉を理解できなかった。妊娠、妊娠、妊娠した……と、何度か彼女の言葉を反芻し、初めてその言葉の重大さを認識した。ここ最近、避妊はしていなかったが、排卵日を意識して性交をすることはなかった。美和子が喧嘩したときに言った「私は子供を産む機械じゃない」という言葉が、貴博の胸に燻っていたからだ。
「やったなあ! 美和子。俺たちの子供かあ!」
土足のまま上り框に乗りあげ、美和子の体をぎゅっと抱きしめた。その日は嬉しさのあまり興奮して、なかなか寝付けなくなった。
翌朝、朝食前に一階に下り、両親に美和子の懐妊を報告すると、母親は「まあ、まあ! やっとできたのね! ああ、良かった。本当に良かった。美和子さんありがとう、本当に良かった!」と、大声を出して喜び、美和子にがばっと抱き付いた。父親も顔を綻ばせて、「本当に良かったなあ」と何度も頷いている。相当孫を心待ちしていたということが、二人の態度で見て取れた。
「ああ、お父さん! やっと初孫の顔を見られるのよ!」
今度は父親に抱き付き、いい年をしてぴょんぴょん飛び跳ねている。
「久しぶりに笑ったから顔の筋肉が痛いわ!」
そう言って皆の笑いを誘った。
二階に戻り、二人で朝食を食べていると、美和子がぼそりと呟いた。
「お義母さん、喜んでくれて良かった。あのね……あなたが家にいないとき、結構煩く言われてたんだ。まだ子供は作らないの? とか、早く作らないと間に合わなくなるよとか」
自分のいないところで、母はそんなことを言っていたのか――貴博は、知らなかったとはいえ、美和子が辛いときに何もしてやれなかったことを悔しく思った。
「俺に相談してくれればいいのに。母さんに俺から一言言うよ」
「あ、いいのよ。もう終わったことだから。……貴博さん、最近変わったね。少し頼もしくなった気がする」
美和子が顔を綻ばせ、思い出したようにトーストにバターを塗り始めた。そのまま噛みつこうとして止め、皿にトーストを戻してしまう。
「どうしたの?」
「ん……なんか、バターの溶ける匂いがダメ。悪阻が始まったみたい」
「そうか……本当に美和子は妊婦になったんだな。食事はどうするんだ? 悪阻だと何も食べられない?」
「ううん、ダメな匂いと大丈夫な匂いがあるみたい。昨日買った本に載ってた」
美和子は居間のローテーブルに、何冊も積まれている本を指差した。分厚い育児書が三冊、妊婦向けの雑誌が二冊。まだ、美和子の中にいるであろう金食い虫は、その存在を誇示している。もう美和子を寒空の下に連れて行くことはできない。いや、しようとも思わない。ではどうすればいいのだろう? 答えは出ていた。美和子を大事にして、信頼関係を強くする。追い出すことが難しいならば、冬眠させるしかない。
美和子が妊娠してから、母親の態度が一変した。美和子に対して意地悪い言葉を浴びせることも、必要以上に干渉してくることもなくなった。
「貴博さん、最近お義母さん優しいんだよ。私が洗面所で口をすすいでるとすぐに飛んできて背中を擦ってくれるの。お義母さんも妊娠中悪阻が酷くて大変だったみたい」
そういう美和子の体は、若干痩せたように見える。丸く膨らんでいた頬は少し萎み、顎のラインがシャープになっている。腕や太もも、お尻も弛みが軽減したように感じる。
「あとね、気が早いとは思うんだけど、臨月になったら実家に帰りたいって言ったの。そしたらお義母さん、嫌な顔もしないでいいわよって」
「ふーん、母さんもやっと改心してくれたのかな。最近ほんと、我が家は良いこと尽くしだな」
「里帰り中、貴博さんも週末は私の実家に泊まってみたら? 私のいつもの立場が分かると思うよ」
少し意地の悪い顔を作って、美和子が貴博の腹を肘でつついてくる。
「それは勘弁だよ……そういえば美和子の家って古いけどかなり広いよな」
結婚の挨拶をしに美和子の家を訪問したとき、その敷地面積の広さに驚いたものだ。彼女の家も農家で、梨畑を営んでいるにも関わらず、一人娘が嫁に行くことを嫌がっていなかった。それどころか喜んでくれていた。豪華な夕食を用意して、貴博の来訪を待ちわびてくれていた。
「うちの実家、今度リノベーションするんだよ。綺麗になったら一度一緒に見に行こうよ」
「そうだな」
リフォームじゃなくてリノベーションか。ずい分羽振りがいいな、と羨ましく思いながら、貴博は止まっていた手を動かし始めた。
貴博が洗った食器を、美和子が布巾で拭く。最近は家事の分担もうまくできている。
嫁姑関係は良好、夫婦関係も良好、お腹の赤ちゃんも問題なく育っている。
「あ、貴博さん。私、悪阻が治まってきたのよ。またお弁当作ってあげようか?」
貴博は、すっかり忘れていた。クレジットカードの件があってから、美和子が弁当を作ってくれなくなったことを。
「いいよ、無理しなくても。最近同僚とうまい飯を出す店、発掘しているんだ。楽しいよ」
「でも毎日外食じゃ体に悪いし不経済でしょ?」と、美和子が口を尖らせた。その言葉に、貴博はあれ、と首を傾げた。まるで倹約家だった頃の美和子が隣にいるみたいだ。
「美和子、そういえばお前最近、無駄遣いしなくなったよな」
美和子がハッとしたように、皿を拭く手を止めた。
「本当だ! 物欲、なくなってるよ。最近全然欲しいものが浮かんでこないの。妊娠のせいかな?」
美和子は、貴博と仲直りしてから少しずつ笑顔を取り戻し、妊娠してからは人が変わったように饒舌で、明るい性格に変わった。それは良いことなのだが、何かが引っかかった。
「あれ、そういえば、貴博さんのほうが散財するようになってない? この前新刊でもないのに、本屋で本、買ってきたよね」
「ああ、そうだな」
辛うじて返事をしたものの、心の中は不安に取りつかれ、会話をするどころではなかった。
――俺、大丈夫か? いつもだったら新刊以外の本にわざわざ金をかけたりしない。昼飯も、最近は毎日千円以上使っている。考えてみたら勿体ない。弁当を持って行けばタダ同然なのに……。
考えれば考えるほど、自分がいつもと違うように思えてくる。もしや金食い虫は――
一度不安を覚えると、もうだめだった。そのことしか考えられなくなる。
――もう一度、あそこに行くしかないな。
「今日はいつもより早く帰るよ」
会社を定時であがり、あの占い師に占ってもらうことにした。財布の中身を確認する。
ふと、昨日の夕食が残っていることを思い出し、鍋とフライパンに入っているおかずをタッパーに移し替え、炊飯器で冷たくなっている白飯を掬い、おにぎりを作った。
スノードームをぺたぺたと触りながら、陽子が口を開いた。
「大丈夫、あなたに金食い虫はついていませんよ」
「本当ですか、それなら良いのですが……最近、俺、無駄遣いが多くなっちゃったんですよ。前は、読みたい本は図書館で借りていたし、図書館にも置いてない場合は、同僚に持ってないか聞くぐらいだったんです。それなのに昨日、本屋でたまたま面白そうな本を見つけて、そのまま衝動的にレジまで……」
「誰だって、衝動買いをするときはありますよ。人間なんですから。本屋での衝動買いが金食い虫のせいだというなら、中野さんが初めてここで鑑定を受けたのも、金食い虫のせいになっちゃいますよ? なんとなく気が向いて入ってこられたんでしょう? あなたらしくない行動を前から取っているじゃないですか」
そう言われても、まだ貴博は不安を拭えずにいた。貴博の衝動買いが始まったのと、美和子の無駄遣いが止まったのがほぼ同時だからだ。
「あの……妻の金食い虫はどうなっていますか? 妻の方は俺と反対に散財しなくなったんですよ。喧嘩してから作らなくなった弁当を、また作ってくれるようになって」
少し間をおいて、陽子は明るいトーンの声を出した。
「奥様からも、金食い虫はなくなっていますね。……追い出せたんですね」
「冬眠しているのではなく?」
「ええ、全く金食い虫の影が見えません。もう奥様は大きな無駄遣いをすることはないと思いますよ、ただ……」
陽子が声のトーンを低くしたので、貴博はなんだろうと耳を傾けると、タイミング悪く机の上のキッチンタイマーが鳴りだした。
「ああ、タイムリミットですね。どうしますか? 延長されますか?」
話の続きを知りたいと思ったものの、延長料金が払えないということを思い出した。財布にはわざと五千円札一枚しか入れてこなかった。延長して散財しないための苦肉の策だった。
「今日はやめておきます。また近いうちに来ますよ」
貴博が席を立ち、カーテンをめくって外に出ようとすると、陽子に呼び止められた。
「ここの占いコーナー、もうすぐ閉めることになりそうなんです」
「え?」
寝耳に水だった。もう、ここで占いをしてもらうことは叶わないのか。大きな落胆と不安が、貴博の胸に迫ってきた。
「いつ、閉店するんですか」
「まだ具体的な日にちは分からないんですけど、そう遠くない日には」
ずい分曖昧な言い方だ。駅ビルにテナント料を払っているんだろうから、自然と閉店日も決まるはずなのに。
「ひょっとして閉店詐欺?」
「なんですか、それ?」
陽子が不思議そう顔をして問うてくる。
「あ、いや……閉店セールって銘打って、客の購買意欲を高めるやり方ですよ。実際はそれほど安いものは売っていないんだ。閉店セールを一年以上続けている店を知ってる」
「私はそんなことしませんよ」
頭を横に振り、陽子は苦笑する。
本当にこの店が近いうちに閉店するのなら、今聞いておきたいことを聞かなくては。
「すみません、やっぱり延長してもらえませんか。カード使えます?」
クレジットカードを使うなんて、結婚の諸費用を出すとき以来だ。
「カードには対応してないんですよ。なにが知りたいんですか」
「陽子さんは、実際に金食い虫を見たことがあるのかなって」
「もちろんありますよ。中野さん、あなただって、もう既に金食い虫をご覧になっているんですよ」
笑みを浮かべ、陽子は机上に置かれたスノードームの瓶を指差した。まさか――。
「そう、この雪が金食い虫なんです。最初は小豆ぐらいの大きさだったんだけど、空気に触れさせていたらすぐに干からびちゃって。それをスノードームに入れてみたら粉状になったんです。このスノードーム、もともとはスパンコールしか入ってなかったんですよ」
そう言われても、貴博はまだ素直に信じることができない。だって、どう見ても、ただのスノードームだ。
「信じられないなら、それでいいですけど」
「あの、もともと小豆ぐらいの大きさだっておっしゃいましたが、人から虫が出てくるのを実際に見たんですか?」
「もちろん。この白いのは、私についていた金食い虫ですから」
驚きの連続で、言葉が出てこない。いや、この話が本当なのか全く保障がないし、むしろホラの可能性の方が高いのだが――
「口からにょろっと出てきたんですよ。その頃の私――二十歳だったんですけど。精神的に滅入っていた時期で、食べ物もろくに食べてなかったんです。だから、こんなんじゃ共倒れするって虫の方から逃げてくれたのかもしれません」
おどけた顔をして、陽子は話し続ける。
「口から出て来てすぐは、透明だったんです。でも確かに口から出てくる感触があったんです。で、そのまま洗面所に放置していたら白くなったんです。どうしてか分からないけど……私、いつも白い服着ているし、そのせいかなって気もするんですよ。あ、白は私のラッキーカラーなんです」
饒舌になった陽子は、女友達と話すような口調で貴博に説明を続ける。
「ついてこれてますか? もうすぐ閉店時間になっちゃうから急がないと」
陽子はスノードームを机から床に移し、パイプ椅子をおりたたんだ。
「……あともう一つ、聞いていいかな?」
貴博の口調もつられてフランクになる。もう一つ気になることがあった。
「もうなんでも聞いてください。もうすぐ閉店だから早口で!」
「妻が金食い虫につかれた理由、分かっていたら教えて欲しい。妻が誰かに虫をうつされたんだとしたら、移した人は彼女の身近な人物……ということになるよね?」
「ええと……言ってもいいのかな」
陽子が少し戸惑うような表情を見せる。
「知っているなら教えてください」
なにを言われようと怯まない自信が、貴博にはあった。予想通りの答えであっても、それはそれで仕方がないと腹をくくっている。
「二十歳のころ、付き合っていた恋人に」
貴博に過去があるように、美和子にだって過去がある。当たり前のことだ。
「それはそうと、中野さん。あなたに謝りたいことがあるんです」
声が軽いトーンに変わったが、彼女の口はへの字になっている。少し申し訳なさそうな表情だ。
「なんですか?」
貴博は少し緊張して聞き返した。
「私、この前サバよんで年を教えちゃいました。本当は三十五歳なんです」
ずっこけそうになった。
家に帰ると、もう八時半を過ぎていた。玄関で靴を脱いでいると、美和子が小走りで近づいてくる。グリーンのガウンを羽織っている。買った当初は、そんな高い物を、と憤っていたが、質とシルエットが良いため、太った美和子の体にもそのガウンは綺麗に馴染んでいる。高いには高いなりの理由があるわけで、安物買いの銭失いになるぐらいなら、値段が張ってもある程度良い物を購入した方がいいのかもしれない――そんなことをぼんやりと考えていると、美和子が貴博のコートを脱がしながら「大変なのよ!」と声を潜めながら訴えてきた。
「どうした? 最近平和だったのに」
「まずいことになったのよ。さっきね、部屋でダイヤの指輪を眺めてたら、お義母さんがいきなり部屋に入ってきたのよ。それで、これは何って問いただされて」
貴博は溜息をついた。疲れて帰ってきたというのに、また問題ごとに対処しなくてはならない。
「言っちゃったんだな? ダイヤの値段を」
美和子が頷いた。
「このガウンもいくらか聞かれたから……」
「正直に言ったわけね」
「うん。そしたら、凄い剣幕で怒りだしちゃって、一階に戻って、ほら、今お義父さんに言いつけてる」
二人とも口を閉じて耳を澄ますと、母親の怒ったとき特有のキンキン声が聞こえてくる。
「はい、俺が話してくるから心配しないで。あ、そういえば」
貴博は、玄関の下駄箱の上に置きっぱなしにしていた小瓶を、美和子の手に握らせた。もう捕獲はできそうにないし、女性の美和子のほうが、こういった物を使う用途があるだろう。
「これは?」
「タダで人にもらったんだ。もらってくれる?」
「もちろんよ。小さい瓶ね、可愛い。あ、私、丁度入る大きさのもの、知ってる!」
美和子は寝室へ、貴博は一階へと向かった。
一階のリビングに足を踏み入れると、待ってましたとばかりに、母親がつけていたテレビを消し、貴博にここに来いというように手招きをした。貴博はひとつ溜息をつき、父と母が座っているソファの近くまで歩み寄った。貴博は先手を打つべく、さっそく話を切り出した。
「母さん、まずは、美和子とうまくやる努力をしてくれて、ありがとう。感謝しているよ」
父親はとくに怒った様子もなく、ぼんやりと貴博の顔を見上げてくる。問題は母親だった。
「当たり前でしょ。妊婦に意地悪なんてできないじゃないの」
不機嫌そうな声で、母親は息子の言葉に応えた。
「なんであの嫁は、あんな高い指輪を買ったの? 嫁いだ身で、勝手に大きな買い物するなんて……あんたは何も言えないの?」
声の低さ、震え具合から、母親の怒りが相当なものだと推測できた。貴博は怯むことなく、自分が言うべきことを頭の中で整理した。
「その前にさ、母さんがしたことも良いことじゃないよね? ノックもせず勝手に俺たちの部屋に入るなんて、プライバシーの侵害じゃないか」
「……そんなこと言う為に、ここに来たの?!」
呆気なくも、母親の怒りは爆発した。貴博が小さい頃から、母親はこうやって事あるごとにヒステリーを起こしていた。
「指輪の件だけど、あれは俺がプレゼントしたから、もう良いんだ。母さんに怒る権利なんてないよ」
「貴博……!」
母親の、自分を呼ぶ声が鼓膜をびしびしと攻撃してくる。うるさかった。
「貴博、他にも話したいことがあるんだ。聞いてくれるか?」
このまま怒り心頭の妻に話をさせても埒があかない。そう判断したのか、今度は父親が話し始める。
「美和子さんが、子供を産んでも今の仕事を続けたいって言っているんだが……貴博はどう思う? 私たちは彼女に仕事を辞めてもらって、この家でのんびり子育てをして欲しいんだよ」
――よく言うよ。仕事を辞めさせたら、税金対策で彼女を社員として雇い、小遣い程度の給料で働かせる魂胆のくせに。貴博にはお見通しだった。なぜなら、貴博自身がつい最近までそう画策していたからだ。でも今は違う。仕事の楽しさ、やりがいを美和子から奪うのは間違っている。
「彼女がしたいようにさせてあげてよ。俺は、あいつが仕事をするの、賛成なんだよ」
「私たちには畑仕事があるから、一日子供の面倒を見るのは無理なのよ?」
母親は歯を剥き出しにして、怒鳴りたててくる。なにがそんなに嫌なのか、貴博にはさっぱり分からなかった。
「保育園に通わせるよ。文句ないだろ?」
「そんな、勿体ない……!」
父と母が同時に言った。そういえば二人とも、昔から金を使わない人間だった。子供のときに着ていた服は、ほとんど姉のお下がりだった。姉には男女兼用の上着ばかりを買って、次の子供が男女どちらでも対応できるようにしていたのだ。
「とにかく、俺たちのことは放っておいてくれよ。良い大人なんだから、親の指示ばっかり仰いでいられないんだよ」
「ねえ、貴博。美和子さんがダメだっていうなら、あなたが会社を辞めて主夫になればいいじゃない? 子供は良く寝るから、寝ている間に農業を手伝ってくれればいいわ」
「そんなの無理に決まってるだろう? 最近やっと仕事が楽しくなってきたんだ。四十までに課長になる野望だってあるんだぜ?」
言葉がどんどん荒くなるのがわかった。この人たちと話していると、心がこんなにもすさんでくる。
「じゃあ農業はどうするんだ? この家を継ぐって言ってたじゃないか」
いつも穏やかな父親が、怒気を含んだ声で聞いてくる。貴博は、農家を継ぐ気がないわけではない。
「まだ継ぐのは早いかなと思ったんだ。もう少し今の仕事を頑張りたいんだ」
「どうせ辞めるのに!」
母親の悪意のある横槍に、さすがの貴博も憤りを抑えることができない。父も母も、こんなに感情的な人だったろうか? 母は特に怒りやくなった。すぐに冷静な判断ができなくなる。
「最悪、田んぼを貸して、他の人に耕してもらえばいいじゃん」
「貴博……!」
母親が顔を真っ赤にして、立ち上がった。立っている貴博の両手を掴んで、強くゆすぶってくる。
「もう、あんたは! あの嫁に洗脳されて!」
「なんでそこで美和子が出てくるんだよ。俺の意思だよこれは。とにかく当面、仕事は辞めない。もっと冷静に話し合う必要があるな、母さんたちと俺たちは」
言い捨てて、貴博はそのまま階段の方に足を運ぶ。もうこれ以上話す気にならなかった。
両親は追いかけてこなかったが、背後で母親の声が聞こえてくる。
「あの子は嫁に洗脳された……」
陰鬱で、呪詛でも唱えているようだった。
翌日は土曜日で、二人とも会社が休みだった。カーテンの隙間からこぼれる光の束を瞼の裏に感じ、そろそろ起きようと思ったとき、美和子の素っ頓狂な声が聞こえてきた。
最近なにかとお騒がせな女だなあと、あくびを噛みしめながら上半身だけ起き上がる。
「ほら、これ、面白い!」
「なんだよ」
美和子が、硝子の小瓶の蓋の部分を掴んだまま、貴博の目の前に翳す。瓶の中には水がなみなみと入っている。底部には、砂のように細かい粒が沢山沈殿していた。緑色で、この砂を丸めたらマリモみたいになりそうだ、と思った。
「昨日、この瓶に入れる前までは、干からびてて葉っぱみたいだったんだけど」
「どこで見つけたの? これ」
美和子は首を少し傾げたあと、「洗面所の床」と答えた。
「発見したとき、美和子は何を着てた?」
「え? なんでそんなこと聞くの?」
美和子が、訝しむような視線を貴博に向けてきた。
説明するのは面倒だし、言ったところで信じてもらえないだろう。自分自身もまだ、半信半疑だ。
「そのガウンの色に似ているな」
「あ、たしかに」
「美和子って緑が好きなのか?」
彼女が頷いたのを見て、貴博は少しだけ安堵した。もし本当に、美和子の中から金食い虫が出てきたのだとしたら、それは目の前にあるこの緑の物体なのかもしれない。だとすれば、もう金食い虫がほかの誰かにつくことはないはずだ。とりあえず自分は、安心して良いことになる。
「ねえ、朝ご飯の準備できてるよ。早く食べよう」
そういえばさっきから、卵とハムをバターで炒めたような、食欲をそそる匂いが漂っている。
朝食後、部屋でのんびり過ごす予定だったのを急きょ変更し、貴博はいつもの通勤経路で、陽子のいる駅ビルの占いコーナーに向かった。土曜日だというのに客は一人もいなかった。開かれたカーテンの先には、退屈そうに机に肘をついている陽子が見える。
「金食い虫を持ってきましたよ」
陽子の目の前に立ち、緑の物体が入った小瓶を彼女の手元に静かに置く。
「ああ、捕獲したんですね。……やっぱり緑色」
陽子は驚きも喜びもせず、ただ可笑しそうに小瓶を見て笑った。
「やっぱりって? 占いで予測していたんですか?」
「占いじゃないですけど、予想はしてましたよ」
陽子は机上にあるスノードームの蓋を開けたあと、貴博から受け取った小瓶の蓋も開ける。そのまま瓶の口を傾け、水ごと中身をスノードームの中に流し込んだ。真っ白い世界だった球体に緑色のパウダーが溶け込み、数秒後には全体がモスグリーンの色合いに変わった。光を浴びた夏の深緑の中を、スキー靴を履いたシロクマがぷかりと浮かんでいる。どうにもミスマッチで、少し笑ってしまう。
「とりあえず……金食い虫が奥様から消えたわけですから、おめでとうございます。あ、座ってください」
貴博は、壁に立て掛けてある折りたたまれたパイプ椅子を広げて座った。どうやら、お客さんを受け入れる状態ではなかったらしい。
「すみません、もしかして、今日はまだ営業してなかったんですか」
腕時計を見ると、十時半を過ぎたところだった。この占いコーナーに辿り着くまでに見た、駅ビルの他のテナントはほとんどシャッターが開いていた。
「ええ、今日は占いはしないつもりでした。店の片づけをしようと思っていて」
「……じゃあ、今日で閉店なんですか」
近いうちに閉店する、とあらかじめ聞かされていたのに、貴博は動揺してしまう。本当に、本当に今日で最後なのか。
「お約束通り、無料で鑑定いたします。本日はどのようなことを占えばよろしいですか?」
初めて鑑定を受けたときも、こんな風に言われたな。そう思うと、懐かしさが込み上げてきた。
今一度、陽子の顔に目をやると、彼女はやっぱり笑顔を保っている。だが、いつもとはどこか違っている。
「ええと、占ってほしいのは――」
ここに来た目的をすっかり失念していた。緑の物体を渡すことだけを考えていた。金食い虫の件はもう解決しているのだ。他に占ってほしいことは何だ? 急いで考える。
「美和子――妻と、私は、これからもうまくやっていけますか?」
結局、貴博が気になるのは、これに尽きた。
「そうですねえ、中野さんが奥様の味方であり続ける限り、きっと円満な関係が続くと思いますよ」
スノードームを見ずに、貴博の首のあたりに目を向けながら、陽子が話しつづける。
「奥様は、過去に手ひどい裏切りを受けています。二十歳の頃付き合っていた彼を、彼女の友達に奪われたんです。高校のときからの親友に、です」
初めて聞く話だったが、そういえば、と思い出す。三か月前、深夜、外で大喧嘩をしたとき、美和子は言っていた。二十歳のときやっと彼氏ができたのに、半年で振られてしまったと。
「挙句――その彼からは金食い虫をうつされました。彼と友達の裏切りを知って、金食い虫が稼働して、買い物依存症になったんです。五年続きました――というか、立ち直るのに五年もかかった、と言うのが正しいでしょうね」
――そんなに、その男のことが好きだったのか。
少なからず貴博はショックを受けていた。五年も引きずる恋愛。そんなものを貴博は経験したことがなかった。正直なところ、妻の美しいとは言えない容姿と、人を傷つけたり諍いを起こすタイプではないが、決して社交的ではない性格を、どこかで軽んじていたのかもしれない。半年で終わった恋愛。男に遊ばれていただけで、妻だけが舞い上がっていた、勘違いに近いお付き合いだったのではないか――と。
うなだれている貴博を元気づけるかのように、陽子が明るい声で「大丈夫ですよ」と声をかけてくる。
「奥様はあなたのことをとても信頼しています。その気持ちに答え続けていれば、家族みんなが幸せでいられますから。生まれてくるお子さんも」
鑑定は終わった。
パイプ椅子を折りたたんだ貴博は、陽子に背を向け、カーテンに手をかけようとして、やめた。またいつか、陽子に占ってもらいたい。彼女は本物だ。そんな確信が過った。
「いつかまた、ここに戻ってきますよね?」
問うというより、願う気持ちから出た言葉だった。振り返りざま言うと、陽子は困ったように一瞬だが顔を歪め、すぐに力なく笑った。
「もう、占う機会はないと思います。あなたの奥様は今幸せですし、金食い虫もいなくなりましたし……」
「いや、妻のことじゃなくて。他にも占ってもらいたいことはありますよ。仕事運とか、健康運とか、親のこととか」
まるで縋るように自分は言い募っている。決して陽子に恋心を抱いているわけではない。たしかに綺麗な女だし、思わず見とれてしまうことがあるが、それはテレビに映る女優やタレントを「いいなあ」と眺めるのと同じ感覚だ。彼女の言うことはいちいち当たっているし、占い師として認めているだけだ。
「中野さん、もう、私は疲れたんです。どんなにこの世界に溶け込もうと努力をしても、結局終わりが来るんです。それも、慣れて楽しくなってきたころに終わるんです。望まれて、私はここに来ているのに――私にだって意思があるんです。必要なときだけ呼ばれてこき使われて。占い中だっていうのに、産毛剃りに来いとか……友達だと思われてませんよね。体のいい召使いです」
覇気のない表情で、陽子が力なく頭を横に振り溜息をついた。占いコーナーの狭い空間に沈黙が起こる。貴博は陽子の言っている意味が分からず、困惑するしかない。
――この世界って占い業界のことか? この駅ビルに店を出さないかと誘われたのに、テナント契約を終了させられたのか? 真剣に言われたことの意味を模索する貴博をよそに、彼女はひとりごとのようにぼそぼそ言葉を紡いだ。
「多分、この瓶のせいなんです。これがなければ、呼ばれてももう揺れたりしない」
言葉を切ったと同時に、陽子がスノードームを頭上まで持ち上げ、勢いよく床に叩きつけた。ガラスの割れる音と、水の弾ける音が同時に貴博の耳を打った。水滴が貴博のズボンとスニーカーにまで飛び散った。
いったいどうしたんですか。割れたガラスの破片と緑の粉に一瞬目を奪われるが、すぐに視線を陽子の方に向けた。だが、そこには誰もいない。
「陽子さん?」
陽子が座っていたパイプ椅子、陽子が腕を載せていた机、割れたスノードーム、水に濡れた木目の床。そして、最後に目に映ったのが、机の向こう側に置かれた、新しくはなさそうなボストンバッグだった。
このまま何もせずに外に出た方が良いのか、陽子が消えた手がかりを探した方がいいのか、貴博は少し悩んだが、すぐに後者を選んだ。人が二人いるだけで狭苦しく感じるコーナー内に、抜け道や隠し扉があるようには思えない。実際壁という壁を手で触って確認したが、それらしきものは一切なかった。次に、陽子の連絡先が分かるものがないか探し始めた。壁の隅に置いてあるボストンバッグのチャックを開け、中身を確認する。まず目に入ったのはかなり古い機種の携帯電話と、細かい傷が沢山ついたエナメルの長財布。その下には綺麗に畳まれたブラウスが二枚、スウェットの上下が一組。すべて色は白だった。
普通に考えて、携帯電話が一番、陽子の連絡先を知る手がかりになるだろう。少し躊躇はしたものの、これしかないと自分に言い聞かせ、貴博は携帯電話の着信と発信の履歴を確認した。どちらの履歴にも、一つの電話番号しか表示されていない。十一桁の数字を何度か口の中で転がしてみる。どこかで見た番号だと思った。しばらくしてその番号の主に思い当り、まさかそんなと、口から掠れた声が出る。今度はメールの着信、送信履歴を確認するが、やはりやり取りしている相手は一人しかいない。これまた見覚えのあるメールアドレスだった。
――どういうことなんだ?
携帯電話の通話履歴の番号は、紛れもなく妻のものだった。
貴博が家に着いたとき、時刻は午後一時をまわっていた。玄関のドアを開けると、美和子が寝室のドアから飛び出し、こちらに向かって走ってきた。
「貴博さん、おかえり! あ、ちゃんと荷物持ってきてくれたんだ」
嬉しそうに破顔し、美和子は貴博が携えているバッグを奪い取った。
「どういうことか教えてくれよ」
美和子と陽子が頻繁に連絡を取っていること、つまり知り合いだったということを、占いコーナーからかけた電話で、美和子はあっさりと認めた。貴博が帰ってきたらきちんと話すから、陽子の荷物を持ってきてくれと頼まれたのだ。
帰りの電車の中で、携帯電話以外の荷物を調べながら、貴博は一連の出来事がどういうことだったのか考えた。
陽子の財布の中には、多額の現金が入っていた。レシートはインターネットカフェのものしか入っておらず、スーパーやコンビニのレシートは一枚もなかった。身分証明書の類も一切入っていない。
「わかった。話すよ。でも、お昼ご飯を食べながらにしない?」
どこまでも明るい口調の美和子に、後ろめたさの欠片も感じ取れない。余計、貴博は混乱した。
「まあ、なんていうか……陽子は小さいころからの友達だったんだけど」
バターと蕩けるチーズが載ったオムライスを食べながら、美和子が先に口を開いた。カチャリとスプーンが皿にぶつかる音がする。それがやけに耳障りだった。神経が過敏になっている。貴博は心の中で数字を数え、冷静に美和子の声に耳を傾けた。
「私が小さいころ、親は梨畑とか他の畑仕事で忙しくて、なかなか私の相手をしてくれなかったのね。で、やっぱり私は淋しかった。そこで空想の友達を作ったの。よく小説や漫画に出てくるでしょう? 理想の友達だったの、陽子は」
楽しそうに美和子は話してくる。水を一口飲み、不意に貴博の顔を見つめ「綺麗だったでしょ?」と言って笑った。
「当たり前よ。事細かく設定したんだもん。二重瞼で、鼻筋すっ! 色は白いけど健康的な感じで……。私とはかけ離れた美人像。私はブスだからね、コンプレックスを解消したくて、パーフェクトな友達を作ったの。いつも笑顔で優しくて、社交的。同い年だから話も合うの。でも彼女が側にいてくれるのは、私が淋しいとき限定だった。小学校の高学年になって友達が増えて毎日遊びまわってたら、いつの間にか陽子はいなくなってた。でもあまり気にならなかったな。次に出てきたのが二十歳のとき。彼氏に振られて落ち込んでいる時に、いきなり部屋に現れたんだ。一瞬誰だか分からなくて叫んじゃった。五年一緒にいてくれた。で、次がね、貴博さんと結婚が決まったとき。結婚できるのは嬉しかったけど、正直不安のほうが大きかったから」
「陽子さんはなんであの駅ビルで占い師をやってたんだ? 美和子が仕組んだの?」
「そうだよ。だって貴博さん、私のケチなところばっかり褒めて、他は全然興味がなさそうだったから。私、買い物依存症になってたときがあったし、根っからの倹約家ってわけでもないから、もしそれがバレたら嫌われるんじゃないかって不安だった」
だから金食い虫なんていう、でたらめな話を陽子にさせたのか。見事に引っかかった自分は、二人の目にさぞや滑稽に映ったことだろう。苛つく気持ちを抑えるため、貴博は手付つかずのオムライスにスプーンで切れ目を入れ、一口掬って食べた。普通に美味しい。バターとチーズの風味が、半熟卵とチキンライスにうまく溶け込んでいる。絶妙のバランスだ。
「怒ってるよね? 信じてないわけじゃなかった。貴博さんは思った通りの人だったよ。陽子の言っていることを信じなかったし陽子を食事に誘うこともしなかった。嬉しかったよ。あ、ダイヤの指輪買ったり他に沢山衝動買いしたのは、お芝居じゃないからね。あのときは本当に自分でも誰かに操られているみたいに散財しちゃって、自分で自分が怖かった」
「俺があの占いコーナーに行かなかったら、美和子の計画は崩れてたってわけか」
「ううん。それならそれで、陽子が頃合いを見て、貴博さんが店の前を通ったら客引きをする予定だったよ。そこまでされたら貴博さんでも断れなかったでしょ」
たしかに、陽子に客引きをされたら、一回ぐらい良いかと思ったかもしれない。
「陽子さんは、俺とのやり取りを逐一お前に報告してたのか」
「うん。あと私がしたことは、陽子が占いの仕事がしたいって言うから、私の名義であの駅ビルとテナント契約したことと、月極めでテナント料を払ったことぐらいだよ。一年こっちにいたから経費はかかったね。せっかくもらった結納金もなくなっちゃった。占いの仕事が軌道になってからは、陽子がその稼ぎから払ってくれるようになって助かったけど。」
「住む場所とか食事はどうしてたんだ? 陽子さん」
「結婚前は、私の実家に住まわせてたよ。親には友達を居候させるって言って。私の家、部屋数だけは無駄に多いから。陽子のごはん代はかからないよ。彼女食事しなくて平気だから。食べることはできるけど、美味しさを感じることはないよ。結婚してからはさすがに一緒に暮らせないから、ネットカフェに泊まってもらってた。私の理想の友達だからね。極力お金がかからない設定なの」
――利用するだけ利用して、必要がなくなったら容赦なく陽子を切り捨てたんだな。
陽子の最後の言葉が蘇る。
――この瓶のせいなんです。これがなければ、呼ばれてももう揺れたりしない。
自分の意思があるとも言っていた。
「美和子、陽子さんが持っていたスノードームって、お前があげたものなんだろ」
初めて占ってもらったとき、陽子はあのスノードームをさすりながら、友達から貰ったものなんですと嬉しそうに話してくれた。
美和子は早いスピードでオムライスを食べ終えていた。口の端についたケチャップを舌で舐め取り、貴博の顔に視線を向けた。
「そうそう。小さい頃だよ。クリスマスのプレゼントに、スノードームを作ってプレゼントしてあげたの。凄く喜んでたなあ。あれが最初で最後のプレゼントだった。なんであげたんだろ。覚えてないけど」
美和子にとってはちょっとした気まぐれだったのかもしれないが、陽子にとっては、それが大切な贈り物だったのだ。唯一の友達からの。
貴博は複雑な気分に襲われ、美味しいはずのオムライスを半分以上残した。
美和子には聞きたいことが山のようにあった。だが、聞いたところでどうなるというのだろう。金食い虫の話は、美和子と陽子がついた嘘だった。美和子の発作的な買い物依存症はなりを潜めたし、陽子が使っていた占い部屋は、明日美和子が責任を持って片づけに行くと言っている。厄介なのは、自分の気持ちだけだ。陽子に対する、なかなか消せない思慕と同情。これらを一日も早く忘れることが、日常に戻る手っ取り早い方法のように思えた。美和子の思いがけない一面に幻滅したのはたしかだが、だからと言って、離婚に発展するほどのことではない。寧ろ、以前の自分だったら歓迎するほど徹底したケチっぷりじゃないか。
遅い昼食を食べて少しくつろいだ後、貴博は電話の子機を耳に当て、一階の内線番号を押した。
土日の時間があるときでないと、親と顔を突き合わせて徹底的に話し合うことはできない。
すぐに父親が出てくれたが、母親は朝からどこかに行ってしまい、家族会議はまだできないと断られてしまった。仕方なく貴博達は、暇つぶしにストレッチを行うことにした。絨毯の上に座っている美和子の背中を押し、股割りの格好をさせる。
「あ、美和子、ちょっと痩せたよな」
背中が薄い。背中に触れたとき、まず最初にそう思った。美和子が妊娠してからは、セックスを控えるようにしていた。美和子ももう今年三十六歳になるし、あまり無理はさせられない。
「うん……五キロは痩せたよ。まあ、太り気味だったし、ちょうど良かったよ。でも悪阻がなくなったからまた太るかもね」
「そんなに食べなかったのか。酷いときは」
美和子は律儀に硬い体を伸ばしながら、「そうだね、絶食っぽいときもあったよ」と答えた。
不意に陽子の言葉が蘇った。
――精神的に滅入っていた時期で、食べ物もろくに食べてなかったんです。
ずい分手の込んだ嘘だったな、と思う。陽子の場合は食べる必要がないから食べなかっただけだろうに。
「お前を振った彼氏って、その後どうなったんだ? もう今は結婚してるのか」
「してないみたい。私が二十歳のころ、彼はもう三十過ぎてたのよ。私の友達と付き合い始めちゃって、その子と結婚も考えたらしいけど、はは、今度は陽子に夢中になっちゃった。身の程知らずだよね。陽子がちょっと誘ったらすぐにその気になって、結局私の友達も捨てられたの。あいつ、陽子と五年付き合ってプロポーズまでしてきたけど、こっぴどく振ってやった。すっごいスッキリしたな」
どうせ美和子が、元彼を誘うように陽子に指示したのだろう。
「金食い虫のネタは、どっちが考えたんだ?」
「……なに? 金食い虫って」
美和子が今さらとぼけたことを言う。やっぱり徹底的に問い質したくなってきた。頭の中で、質問の段取りをしていたとき、下の階から激しい言い争いが聞こえてきた。心臓がビクリと反応するほどの、母親の叫び声だ。貴博が階段に向かって走り出すと、美和子もつられて後に続く。
「ついてこなくていい! ここで待ってて!」
どうしようもなく嫌な予感がしていた。足を止めたものの、美和子は不満そうに貴博を見つめている。それを振り切るようにして、一階へと階段を下り、喧嘩の現場へと急ぐ。
リビングルームにあるローテーブルで、二人が向き合うようにして立っている。
「ちょっと、母さん! なに騒いでるんだよ?!」
振り返った母親の顔を見て、貴博は絶句した。ショートカットの髪型は変わっていないが、色が全く違っている。白髪混じりの黒髪が、派手な栗色になっている。いつも家では素顔を晒しているのに、今日は濃いメイクをしている。紅い時代遅れの口紅、塗りたくったファンデーション、ダマになって汚らしいマスカラを施したまつ毛、真っ青のアイシャドウに埋もれたしょぼくれた目。実の親に対し、どうしようもない嫌悪感を覚えてしまう。
「たまにはお化粧してお洒落しないと、若さがなくなっちゃうでしょ。似合う? 美和子さんだってたくさんお化粧品買って、指輪買ってガウン買ってるんだから、お母さんだって良いはずでしょ!」
母親が興奮して全身をゆすぶり、そのせいでキツい香水の匂いが貴博の鼻孔まで届く。
気持ちが悪すぎた。父親は化粧のことより、テーブルに置かれた書類が気になるようだった。
「さっさとキャンセルして来い!」
いつもの穏やかさは皆無の、厳しい声が部屋の隅々まで響き渡る。相当ひどいことを母親はしたらしい。
「おい、二人とも、何があったんだよ、教えろよ」
貴博は父親の声に負けないように大声を出した。あまりにもいつもと違う雰囲気に気おされてしまいそうだ。
「貴博、お前からも何か言ってくれ。こいつは、こいつは、勝手にこんな旅行を申し込んできたんだ!」
貴博はテーブルに近寄り、父親から件の書類を受け取った。旅行のパンフレットだったが、そこに載っていたのは、庶民では絶対手の届かない旅のプランだった。
「豪華客船の旅! 日本丸号 半年で一人たったの1,500万円!」
目玉が飛び出るほどの桁違いの金額だ。貴博は息をのんだ。
「母さんはそのプランを二人分頼んだんだ! 行けるわけないだろっ! さっさとキャンセルしろ!」
負けじと母親が応戦する。
「定期預金を解約すればこれぐらい簡単に出せるじゃないの! 私はねえ、もう、自分のためだけにお金を使いたいのよ!」
そう言い切った後、貴博の方を向き、歯をむき出しにして吠えるように叫んだ。
「嫁に財産をしぼりとられるぐらいなら、私が全部使ってやる! お前たちには一銭たりとも、残さない! 親不孝者にあげるお金なんてないんだよ!」
また体を父親に向けて、話しかける。
「ねえお父さん、この旅が終わったら、老人ホームの見学に行きましょうよ。山梨に有名な老人ホームがあるんだけど、すごく口コミが良いらしいの! 一人一億を越えるけど、別に良いわよね。家と畑を売ればなんとかなるわよ! それでも足りなかったら農協でお金を借りればいいわ。ああ、ほかにも沢山買いたいものがあるのよ」
呆気にとられ、貴博はただそこに立っていることしかできなかった。テーブルの下に視線を落とすと、ハイミセスに人気がある高額ブランドバッグがいくつも転がっている。他には、黒いジュエリーケース、束になった海外旅行のパンフレット、老人ホームの案内書。
陽子の言葉がまたもや蘇る。
――もし結婚したら、あなたの家の財産、食いつぶされますよ。結婚はやめたほうがいいと思います。
あの言葉は真実だったのか。さっき美和子は、金食い虫と聞いて不思議そうな顔をしていた。美和子は陽子にこのことを知らされていなかったのかもしれない。金食い虫自体が本当に存在するのであれば――財産を美和子に食いつぶされるという意味ではなかったのだ。美和子についてきた金食い虫に、財産を食いつぶされる、という意味だったのだ。金食い虫は一匹しかいないと思い込んでいた。だが、陽子は一言も「一匹」とは言っていない。
――最近お義母さん優しいのよ。私が洗面所で口をすすいでいると、すぐに飛んできて背中を擦ってくれるの。
今度は美和子の声が蘇る。美和子が持参したもう一匹の金食い虫は、洗面所で母にうつったのだ。母は無理して親切を装い、それが裏目に出た。
なにより目前で、あれも欲しいこれも欲しいと騒いでいる母は、金食い虫が実際に存在することを裏付けている。
金食い虫を冬眠させるのは至難の業に思えた。こんな母親と、信頼関係を築くのはどう考えても難しい。話しあうことも不可能だ。そもそも自分が冬眠させる努力をしたくない。
この母親から金食い虫を追っ払うにはどうすればいいのだろう。七十歳を過ぎた年寄りを、極寒の冬の海や灼熱の浜辺に放置することは犯罪に値する。痩せた老人に食べものを与えなければすぐに弱って死ぬだろう。
――ああもう、面倒くさい。うちの財産なんてあてにしたのが間違いだった。自分と美和子の稼ぎで十分子供を育てて行ける自信がある。本当にこの家を売りとばされたら、とりあえず部屋数の多い妻の実家に移ればいいじゃないか。――お、名案じゃん。
半ば他人事のように、貴博は両親の巻き起こす修羅場を眺めつづけていた。了