表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

amazing grace〜女傑の叫び〜

作者: 海野もずく

久しぶりに長編を書いてみました。お題小説で、お題は「女傑、amazing grace、狂おしいほど好き、演劇」の四本。稚拙な作品ですが、読んでいただければ嬉しいです。

小学校の頃はボーイッシュな見た目とその辺のもやし系男子以上の行動力から「おとこおんな」とかいわれていた。中学校では「女装した男」とかいわれ、

「お前、ちんこついてんじゃねーの?」とかからかう男子の股間にキックを炸裂させていた。

だが高校で演劇部に入ってからは「男装の麗人」と、評価が真逆になったのだから面白い。今までボーイッシュで活発というのが取り柄だった私は、その活発さで演劇の道へ歩を進めた。高校の文化祭が評判を呼び、その関係の推薦で大学に行った。あれから十五年。地元福岡に帰り中規模劇団「劇団雨季」で来る日も来る日も演劇をやっていたら、いつの間にか劇団の副座長になっていた。これが私こと、笹宮稜華の三十七年間である。結婚もしないでひたすら演劇ばかりに打ち込んできた人生に、後悔はしていない。


※ ※ ※ ※ ※ ※


「稜華さん、あたし、もうダメかもしれません。やっぱ、向いてないのかな…」

練習後。私のところに駆け寄ってきたのは入って3年の、直美という女の子だった。元気があるのはいいが、その元気さが空回りしているのは本人も自覚しているらしい。これだけ古株になるといろんな子が私に相談を持ちかけてくる。副座長という中途半端な肩書きも、相談事を持ちかけやすいらしい。どんなことでも正面から受け止める私には、いつしか強い女性を表す「女傑」というあだ名がついていた。

「演劇にそのまま向いてる人ってなかなかいないものよ。ゆっくりゆっくり、自分を磨き上げていくの」

そういう自分は彼女の目にどう映っているのだろう。アラフォーのおばさんが中規模劇団で偉そうに説教垂れてるとか思われてたら嫌だな。軽く苦笑する。

「もう、何笑ってんですか〜」

「ううん。あたしっておばちゃんなのかなって思ってさ」

そんな何気無い会話が、楽しかった。


数日後、彼女は挨拶にやってきた。

「父が、倒れたんです。もう迷惑かけられないから、何か仕事を探します。今までありがとうございました」

「仕事は、目星ついてるの?」

「いえ、まだ。ぼちぼちさがしていきますよ」

「それでね、仕事、私に当てがあるんだけど、よかったらどう?ほら、私も最後に贈り物したいし」

「本当ですか⁉︎結構探したけど高卒で劇団上がりって、なかなかいい仕事見つかんないんですよね…」

全く同じやりとりで、似たような子を何人も紹介してきた。劇場に、ここ五、六年毎日のように来る男性。名前は杉野という。彼の容貌、知性のある声、温和な人柄。彼の全てに、私は惹かれていた。この人は、信じられる。女傑と呼ばれる私が心を許せる、数少ない相手。

「この人は、間違いないよ。」

諸々の思いを一括りにして、私は胸を張って言った。

「稜華さんが言うなら、お願いします」

そういう彼女に、杉野の連絡先を教えた。


※ ※ ※ ※ ※ ※


「この前の子、よく働いてくれてるよ」

よく晴れた日。杉野といつもの喫茶店でお茶を楽しむ。お互い独身なので気を遣う必要もないが、観客と女優という関係からか、どこか不思議な距離感を感じてしまう。

「今あの子どこで働いてるの?」

「いろんなところを回ってるよ」

彼の経営するのは、派遣会社のようなものらしい。仲間を路頭に迷わせるのは嫌なので、彼の存在は大きな助けになっていた。

「じゃあまた、次の公演日に。誰かやめそうだったら遠慮なく連絡してね。君の紹介してくれる子は、みんなよく働くからお客様からのウケもいいんだ」

そういわれると、自分が褒められたわけでもないのに胸の奥がもぞもぞするような照れ臭さを感じた。年甲斐もなく、あの人と会うと胸がときめいてしまう。胸の鼓動を落ち着かせるように、私はゆっくりとした歩調でその場を去った。


※ ※ ※ ※ ※ ※


「ずっと一緒だった私を、裏切るの?」

「ええ、エレーナ、狂おしいほど愛しい彼のため、私はあなたを差し出すしかないの。どうか、わかって…」

そういったところでエレーナが叫ぶ。

「ならばオフィーリア、好きにするがいい。だがあなたが私を裏切ったことは、未来永劫忘れない。折に触れて私のことを思い出して、悩み苦しむといい」

エレーナの高笑いが響くなか、幕が、降りた。


※ ※ ※ ※ ※ ※


「お疲れ様。最高の演技だったわよ」

そう言いながらおしぼりを差し出す。さっきまでエレーナだった彼女は今日、舞台を降りる。そして彼女もまた、杉野のところで働く。聞くところによるといろいろ調べても、あれほどの待遇は他にないようだ。

「あなたにそう言ってもらえると嬉しいわね。仕事まで見つけてもらって」

「いいのよ、あたしにはそんなことしかできないんだから」

事実だった。私にはこの世界を去る子達を止める資格もなければ、お給料を払ってあげられるわけでもない。副座長の自分ですら、週3回のバイトがなければ生きていけないのだ。だから、去らざるを得ない彼女たちへのせめてもの贈り物が、仕事の紹介だった。この不景気で劇団上がりの人間をとってくれるところなんかそうそうない。どこに派遣されて、どんな仕事をしているのだろう。その答えがわかったのは、それから一週間後のことだった。


その日は予定していた公演が主催者の都合で中止になったので、団員全員が休むことになった。なんとはなしに家の中でぼーっとしていると、隣の部屋から喘ぎ声が聞こえてきた。真っ昼間からさかりおって。アラフォーで、そんなに喘ぐ気力もない私は少し嫉妬する。隣は根暗な学生だったはずだ。大方デリヘルでも雇ったのだろう。カップルじゃないからとホッとしている自分が恥ずかしい。なんだか嫌になってきて、私は家を出た。

ぶらっと散歩して自宅に帰ると、ちょうど隣からデリヘル嬢が出てくるところだった。出てきた顔は、私の見知った顔だった。

「直美…」

向こうも私に気づいたらしく、こちらに近づいてきた。

「お久しぶりです。どうしてこうなっちゃったんでしょうね…こんなことなら、自分で仕事を探しとくべきだった」


※ ※ ※ ※ ※ ※


「で、あなた杉野に言われてデリヘルやってんの?」

デリヘルなんか、と言う言葉をすんでのところで飲み込む。

「他に理由があると思いますか?そうですよ、あれからずっと体売られっぱなしですよ…」

あの時の元気さが有り余っている彼女とは裏腹な声で、言う。

「まあ給料はいいし、しょうがないと思ってます。でも稜華さんが知らなかったって聞いて、少し安心した。歳の離れたお姉ちゃんに裏切られたような気持ちだったんですから」

そう言って彼女は小さく笑った。


※ ※ ※ ※ ※ ※


「ねえ、どういうこと⁉︎あなた派遣の仕事紹介してやるって言ってたわよね!」

その日の夜、杉野の自宅。自分の家が鶏小屋に見えるような豪華な彼の家で、私は喚いた。

「ああ、言ったよ。間違ってなかっただろ?人んちに派遣しているじゃないか」

そこにいつもの優しさや威厳はなかった。あるのは俗っぽさと、瞳の中の底知れない妖光だけ。私は単刀直入に言う。

「ねえ、取り消してくれない?」

「無理だね。彼女たちはもう同意書にサインしてるし、今更なんの関係もないお前が口出ししたって無駄だよ」

にべもなく返される。

「本当はこっちだって感謝してほしいくらいだ。あの子たちの給料、破格なんだよ。こないだお前があった直美ちゃん、今のお前よりいい収入もらってるよ」

それを聞くと耳が痛い。さらに畳み掛けるように彼はいった。

「今のまま、何も聞かなかったことにして紹介を続けてくれるならこの待遇のままだ。でもお前がここで断るなら、俺は劇場に現れなくなる」

それはあたしが、彼を拠り所にしていることを見透かしたような台詞だった。


※ ※ ※ ※ ※ ※


「ずっと一緒だった私を、裏切るの?」

「ええ、エレーナ、狂おしいほど愛しい彼のため、私はあなたを差し出すしかないの。どうか、わかって…」

そういったところでエレーナが叫ぶ。

「ならばオフィーリア、好きにするがいい。だがあなたが私を裏切ったことは、未来永劫忘れない。折に触れて私のことを思い出して、悩み苦しむといい」

エレーナの高笑いが響くなか、幕が、降りた。


※ ※ ※ ※ ※ ※


「お疲れ様。エレーナの役、なかなかあってたわよ」

そう言いながらおしぼりを出す。元気のいい、どこか直美を思い出させる新人は、礼を言いながら受け取った。

私は結局、何も聞かなかったことにして紹介を続けることに決めた。劇団員の末路を調べてみても大体が風俗かデリヘル、あるいはアダルトビデオの女優とかばかりだったからだ。どうせ結果が同じなら自分が斡旋した方がマシなはず。そんな思いもないわけではなかったが、一番大きかったのはやっぱり杉野の存在だった。

彼はあれだけひどいことを言っていたのが嘘だったかのように、優しく接してくれた。何も聞かなかったことに決めたのを言うと、

「そっか」

と優しく微笑んで、私を抱いてくれた。私は彼なしではやっていけなかった。女傑でいるため、男らしい女でいるためには心の支えが必要だった。


それだけ演目「オフィーリア」を演じるのには、やはり心にくるものがあった。過去に自分が作った脚本と全く同じ状況に遭遇するとは。でも結局、あの子たちにはそっちにしか道は開かれていないのだ。せめて給料が良くて、比較的安全なところに送ってあげている。そう思い、自分を慰めるのが精一杯だった。


その後も何人かの子を杉野の元へ送った。彼女たちがいまどうしているかを、私は知らない。全ては杉野を引き留めるため。あの人が何処かへ行かないようにするため…オフィーリアと同じように、私もまた狂おしいほど彼を愛していた。あれだけ酷い男だとわかっているのに、それでも愛し続けていた。


※ ※ ※ ※ ※ ※


後ろからつけられているのを感じたのは、大通りを少し過ぎたところだった。その日は劇団設立五十周年の記念ミュージカル「アメイジング・グレイス」で久々に主役を任されることが決まって有頂天になっており、全く周囲に気を回していなかった。こういう時は走らずに、何も気づかない顔をして早歩きになるんだっけ。テレビでそう言っていたことを思い出して早歩きしようとした時、捕まった。私は近くの茂みに、ひきずりこまれた。


「自分がちょっと老けてるからって襲われないとでも思ったか?世の中にはな、俺みたいなB専って奴もいるんだぜ」

暗がりの中から声が聞こえる。一人だろう。いつの間にか口にタオルを咥えさせられて、声も出ない。それがタオルではなくその男が履いていたであろうパンツだとわかった時には思わず吐きそうになった。

「吐くな‼︎」

そう叫びながらスカートに手をかけられる。私は言いようのない恐怖に襲われた。もうダメだ。いろいろなことが走馬灯のように頭に浮かぶ。杉野を引き留めるために、ドロップアウトした仲間たちを「売った」こと。直美のように、

「稜華さんが言うなら、お願いします」

と言って杉野について行った子はどれほどいただろう。しかも直美の時と違って、わたしはその子達がどんな道へ進むのかを知りながら、杉野に引き渡した。たとえ給料がいいといえども、自分が加担したことに今更ながら申し訳なさが浮かぶ。神様、助けてください。どうしようもないわたしを、救ってください。わたしは初めて、本気で神様に祈った。

「おい、何やってんだ!」

どこからか声が聞こえてきたのは、その時だった。

その声の主を結局知ることはなかった。間抜けな男はわたしにパンツを咥えさせたまま、下半身を公然にさらけ出した猥褻な格好で逃げて行った。


家に帰ってからも私は瞬く震えていた。襲われるって、凌辱されるってああいうことなのか。一瞬杉野に紹介した仲間たちのことが頭に浮かんだが、払いのけた。集中。久しぶりの主役だ。私の役は、ジョン・ニュートンの妻、メアリー。メアリーが死んだ夫の人生を語る、というのがこの作品の筋書きだ。ジョン・ニュートンとはどういう人で、どんな人生を送ってきたのだろう。私はさっきのことは一旦忘れて、あらすじを読み始めた。


※ ※ ※ ※ ※ ※


一七二五年、イギリスに生まれたジョン・ニュートン。母親は幼いニュートンに聖書を読んで聞かせる敬虔なクリスチャンだったが、ニュートンが七歳の時に亡くなった。成長したニュートンは、商船の指揮官であった父に付いて船乗りとなることになり、ジャマイカ経路の船に上級見習い船員として乗ることになった。


メアリーと出会ったのはこの時の係留先。ニュートンが十七歳、メアリーが十四歳のときだった。いわゆる「一目惚れ」をしてしまったニュートンだが、船に乗る日は迫っていた。そこでなんとニュートンは船に乗らず、もっと長く彼女といることに決める。このことに怒った父親は、ニュートンを下っ端の水夫として別の船で働かせることに決めた。

そうしてさまざまな船を渡り歩くうちにニュートンは、黒人奴隷を輸送する「奴隷貿易」に携わって富を得るようになる。そんな中でも、どんなに忙しくても彼はメアリーに会いに行っていた。そのせいで利益を失うことも、しょっちゅうだった。

ちなみに当時奴隷として拉致された黒人への扱いは家畜以下で、ニュートンもまたこのような扱いを当然のように行っていた。そんな彼に転機が訪れたのは、一七四八年五月十日、彼が二十二歳の時だった。

その日、彼の乗った船が嵐に遭い浸水、転覆の危険に陥った。今にも海に呑まれそうな船の中で、彼は必死に神に祈った。敬虔なクリスチャンの母を持ちながら、彼が心の底から神に祈ったのはこの時が初めてだった。

するとどうしたことだろう。流出していた貨物が船倉の穴を塞いで浸水が弱まり、船は運よく難を逃れたのだ。ニュートンはこの日を転機として不謹慎な行いを控え、聖書や宗教的書物を読むようになった。また、彼は奴隷に対しそれまでになかった同情を感じるようにもなった。メアリーと結婚したのは、そんな時だった。三度目のプロポーズで、ようやく彼女は首を縦に振ってくれた。


一七五五年、ニュートンは船を降り、牧師となった。牧師になった理由は、メアリーには話さなかった。奴隷貿易に携わっていたことも、話してはいなかった。そして一七七二年、黒人奴隷貿易に関わったことに対する悔恨と、それにも拘らず赦しを与えた神の愛に対する感謝を歌う「アメイジング・グレイス」を作詞した。


自分の夫がかつて奴隷貿易に携わっていたことを夫の死後に知ったメアリーは、驚愕する。しかし彼女はニュートンがそのことを激しく後悔していたのを知っていた。彼は、本当に神から許してもらえるのだろうか。無事に天に召されることができるのだろうか。そんなことを考える彼女のできることといえば、彼の作詞した賛美歌「アメイジング・グレイス」を歌い続けることだけだった。舞台はメアリーの歌う「アメイジング・グレイス」を最後に、幕を閉じる。


※ ※ ※ ※ ※ ※


読み終わった後、私は震えていた。さっき襲われたことによる震えではない。私のしていたことは、ニュートンがしていたことよりひどいことではないのか。私もさっき、自分のしてきたことの恐ろしさで初めて神に救いを乞うた。しかしすぐにそのことを忘れた。

確かに手を貸さなくてもあの子たちは汚い業界に身を投じていたかもしれない。でも私がやっていたのは、心からの善意の行動ではない。自分の、狂おしいほどの愛の見返りに過ぎなかったのだ。私もそろそろ「船」を降りないといけないんじゃないか。そんなことを考えると、嗚咽が漏れてきた。演劇人生をともにしたボロいアパートで号泣している女には、女傑の面影は残っていなかった。


※ ※ ※ ※ ※ ※


「辞める⁉︎」

「はい。いろいろ考えたんですが」

これでいいのだ。これで杉野に悩まされることもないし、「奴隷貿易」に手を貸す必要もなくなる。

「記念ミュージカルを最後に、私は舞台を降ります」

アメイジング・グレイスを歌って引退する。最後まで「女傑」でいるのは、数十年の演劇人生のせめてものプライドだった。座長は苦しそうな顔をしながらも、了解してくれた。公演は、三日後に迫っていた。


※ ※ ※ ※ ※ ※


「神様、どうか私を、そして私の愛する人をお許しください」

物語の終焉で、私ことメアリーの声が響く。そうして一瞬深く息を吸って、ゆっくりと、その歌を歌い始めた。

Amazing grace!(how sweet the sound)

That saved a wretch like me!

I once was lost but now am found

Was blind, but now I see.


'Twas grace that taught my heart to fear.

And grace my fears relieved;

How precious did that grace appear,

The hour I first believed.


Through many dangers, toils and snares.

I have already come;

'Tis grace has brought me safe thus far,

And grace will lead me home.


When we've been there ten thousand years,

Bright shining as the sun,

We've no less days to sing God's praise

Then when we first begun


驚くべき恵み(なんと甘美な響きよ)

私のように悲惨な者を救って下さった。

かつては迷ったが、今は見つけられ、

かつては盲目であったが、今は見える。


神の恵みが私の心に恐れることを教えた。

そしてこれらの恵みが恐れから開放した

どれほどすばらしい恵みが現れただろうか、

私が最初に信じた時に。


多くの危険、苦しみと誘惑を乗り越え、

私はすでにたどり着いた。

この恵みがここまで私を無事に導いた。

だから、恵みが私を家に導くだろう。


そこに着いて一万年経った時、

太陽のように輝きながら

日の限り神への讃美を歌う。

初めて歌った時と同じように。


歌い終わった後、自然と涙が溢れてきた。かつては盲目だったが、いまは見える。あの夜、襲われかけたときに初めて、いままで自分がしてきたことの恐ろしさを知った。みんな、ごめんなさい。許してください。こんな自分勝手でわがままでどうしようもないわたしだけど、どうか許して。幕が下りた刹那、私は慟哭した。最後まで強い「女傑」でいることはできなかった。幕が下りるまでこらえられたことだけが、唯一の救いだった。こうして私の数十年に及ぶ演劇生活もまた、幕を閉じた。


※ ※ ※ ※ ※ ※


「恋は人を、盲目にします。初めのオフィーリアもそうですし、ジョン・ニュートンだって彼女に一目惚れしなければ奴隷貿易に携わることもなく、ジャマイカの香辛料貿易で金持ちになって幸せに暮らしたかも知れない。私も、杉野を好きにならなければ、まだ舞台にいたでしょう。狂おしいほどの恋は、人を破滅に追い込むのです。

しかし同時にジョン・ニュートンが恋をしなければかの有名なアメイジング・グレイスはできていませんし、私が杉野を愛さなければ、私がここにいることもなかった。神様のおつくりになられた、人間というのは本当に難しいものです」

福岡市郊外にあるプロテスタント教会で、私は説教をしていた。牧師になって、はじめての説教だ。

劇団をやめた私は、当て所もなく歩いていた。ずっと演劇一色だったので、それを失った途端にどうしていいかわからなくなった。食べるものもなくて郊外をさまよい歩き、道路の脇に生えている草を無心に頬張っていると、

「何をしておられるんですか?」

と声をかけられた。私を救ってくれたのは、近くのプロテスタント協会の牧師だった。またしても私は、神に救われた。

その後私は教会で牧師一家と生活をともにさせてもらい、自分も牧師になることに決めた。私は洗礼を受けて神学の道に進み、数年たってようやく牧師になった。


※ ※ ※ ※ ※ ※


初めての説教を終え、バルコニーに出る。さんさんと輝く太陽はいつもと変わらず、平等に地球を照らし出していた。私を目覚めさせてくれたアメイジング・グレイスの一節が浮かぶ。

"When we've been there ten thousand years,

Bright shining as the sun,

We've no less days to sing God's praise

Then when we first begun

そこに着いて一万年経った時、

太陽のように輝きながら

日の限り神への讃美を歌う。

初めて歌った時と同じように。"


私は初めて本気で歌ったあの公演のときと同じ気持ちで、太陽のように輝きながら、ずっと賛美歌を歌い続けることができるだろうか。

いや、違う。私は一人、かぶりをふる。私は歌い続けなければならないのだ。どうしようもないかつての自分の贖罪として。神様に、そしてみんなに赦してもらうために。

「神様、どうか、どうしようもない私をお赦しください」

そうして一瞬深く息を吸って、ゆっくりと、その歌を歌い始める。誰しも聞き覚えのあるであろうその賛美歌は、バルコニーから教会じゅうに響きわたった。その歌声はどこか悲哀を含みながらも、歌声の主がかつて「女傑」と呼ばれたことを偲ばせる、あらゆるものを優しく包み込むような声だった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ