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想い出は海に還る

作者: シルヴィ

普段は二次創作を書いていますが、初めてオリジナルに挑戦しました。

「ケンイチ、あそこはな、今でこそ「新陸」なぞ言うが、昔は海じゃったんだよ。」

「海?あんなに大きな田んぼや畑がいっぱいだよ。」

「昔、お前が生まれる前に、海に「ギロチン」が落とされたんじゃ。それまでは、国道そばまで、海じゃったんだよ。」

「ぎろ、ちん?」

「ああ、そうじゃ。ギロチンがおちて、魚も貝も、海の生き物は、みんな首が落ちて死んでもうた。」

老婆の語りに、孫と思しき子供が悲しそうに顔を下にむける。

「いいかい、ケンイチ。お前が大きくなっても、ギロチンのそばに、行ってはいけないよ。」

「なんで?」「…お前のじいちゃんは、ギロチンを開けるようにお国にお願いしてな、それを決めている途中で死んでもうた。じいちゃんはな、海が生きていたころ、それは、それは腕利きの漁師で、いつもたくさんの魚をとってきたんだよ。」

「ばあちゃん、ばあちゃん、泣いてる?」

「一目だけでいいんじゃ。ばあちゃんは、もう一度あの海が見たいんじゃ。じいちゃんが大好きだったあの海をもう一度だけ見たいんじゃよ。」

「ばあちゃん…。」

「ケンイチ、見えるか?大きな畑や田んぼがあって、あっちが新陸に住む人のお家があるところだ。ここからは見えんが、あの畑の向こうに、「死の池」があって、その奥にギロチンがあり、それを超えてやっと海にたどりつく。お前が生まれる前は、国道の隣は美しい干潟でな、ここいらの子供はみんな海で遊んでいたんじゃ。」

「ばあちゃん、しのいけってなあに?」

「ギロチンが落ちた後、早く田んぼや畑を作るために、国道側に残った海の水をそこに貯めてあるんじゃ。水が流れんから、どんどん池の水は腐っていく。魚もなんも住めんから、死の池と言うんじゃよ。」

「…なんで、そんなこと、したんだろうね。魚さんがかわいそう。」

「さあね。お役人様は一度決まったら、理由をあれやこれやつけて必ずやるものさ。だけど、首が落ちた海の神様が、いつか怒り狂うかもしれん。」

「ばあちゃん…。」


1出会い


「早く起きなさい。遅刻するわよ!」

「ふぁい。行ってきます〜。」

自転車にまたがり、ケンイチはあわてて中学校へ向かう。

(ったく、ボロ校舎を建て替えると思ったら、新陸の果てに建てやがって。おかげで、20分も早起きしなきゃなんねーじゃん)

ケンイチが小学生の頃、地区の中学校は、家から歩いて5分ほどのところにあった。ところが、中学校の校舎建替工事が決まったころ、「新陸」に入植した世帯の子弟を受け入れるために、元の場所ではなく新陸の居住区域に移転して新しく建設された。そのため、ケンイチは徒歩5分ではなく、自転車で15分かけて通学することになってしまった。

少し小高い丘にある自宅から国道まで坂を下り、しばらく国道を北に行くと、大きな交差点に出る。その交差点を東へ曲がると、すぐに「新陸」居住区域の入口表示が現れる。入口からしばらく自転車を走らせると、居住地区から徒歩で通う「新陸」入植者の子弟、自転車で通うケンイチたち「旧海岸地区」の生徒が合流する箇所があり、そこから中学校へ真っ直ぐに伸びた道路を、黒い学生服と紺色のセーラー服が同じ方向に動いていく。

「オッス、ケンイチ!」

ケンイチと同様に自転車にまたがり、声をかけてきた少年の名はヒカル。ケンイチとは保育園からの幼馴染であり、一番の親友だ。

「よう!」

ヒカルは電柱の上に設置された「監視カメラ」に毒づく。

「チッ、相変わらずカメラは絶好調だな。」

「二人乗りしたら、すぐバレるもんな。」

「新陸の連中に監視されてるみたいで、気にいらねえ。」

「ヒカル、聞こえたらまずいぞ。」

「俺は新陸の連中が好きになれねえんだ。知ってるか?あいつら、いっぱい国から金をもらってんだぞ。」

「マジ?」

「おいおい、ケンイチは何にも知らねえんだな。新陸の連中は、ギロチンを正当化するために、国から金もらって生活してんだよ!」

「よせよ、ヒカル。みんな見てる!」

爆弾発言を連発する親友のヒカルを制しながら、2人の自転車は校門をくぐり、自転車置き場へと向かう。

「ここで新陸の悪口言ったら、生活指導に呼び出されるぞ。」

「めんどくさ。」

ケンイチとヒカルが校舎へ向かっていると、おそらく3年生と思われる女子生徒の集団が、1年生の女子生徒を囲んでいた。女子の陰湿なケンカに巻き込まれるのはゴメンだと思い、2人は足早に去ろうとしたその時、囲んでいる女子生徒が涙交じりの声で口々に叫びだした。

「アンタらの親が、海を殺したんだよ。」

「海を返して!」

「新陸に住んでる奴は出ていけ!」

「海殺し!」

「出てけ!海殺しは出てけ!」

ヒカルは肩をすぼめてケンイチを見る。ケンイチもため息だけを返した。


かつて、ケンイチの祖父が腕を奮った海をは、今「新陸」と呼ばれる農地となっている。ケンイチが生まれた年に、干拓のために湾の入り口を水門で閉ざし、国道近くの海は陸地となった。

ケンイチたちが住む地区は「海岸地区」と言われ、昔から海の恩恵を受けてきた。ケンイチの祖父も漁師であり、地区随一の腕利き漁師だったと祖母はいつも自慢げに、孫のケンイチに語っていた。

中学校では、水門が閉じられる以前、何年にもわたって繰り広げられた、国と住民による泥沼の争いを目の当たりにした「海岸地区」の生徒達による、新陸に住む生徒に対するいじめ行為が絶えなかった。客観的に見て「海岸地区」の生徒のほうが明らかに悪いケースでも、親も一緒になって「新陸」の生徒及びその父母と激しく対立するのが、現状であった。やがて、「海」を知らない世代が入学するようになったものの、彼らの両親や祖父母が「ギロチン」を巡る争いを聞かされて育ってきたため、生徒同士の対立から、次第に海岸地区の生徒の親たちが、子供をけしかけて対立を煽るという、醜い構図が校内や地域のあちこちで見られるようになった。従って、さきほどのような景色は日常茶飯事でもあり、融和どころか、むしろ対立は激化していた。


2人は1年生の子に心の中で心から謝りながら、自分たちの教室に飛び込む。かろうじて遅刻はまぬがれた。


ケンイチが席について一息ついた瞬間、担任が一人の女子生徒を連れてやってきたが、窓の外に広がる新陸一帯にたなびく稲をぼんやりと眺めていたので気が付かなかった。

(こうやってみたら新陸もきれいだな。)

ケンイチは新陸一帯に輝く稲を見るのが好きだった。かつて、そこが海だったとかどうかなんて話は、正直、どうでもよかった。どうせ自分の生まれる前の話であり、水門を閉めてしまったのだから、そこは陸地にならざるを得ないし、親についてきて新陸にやってきた生徒を責めても、どうしようもないと思っていた。

「今日は転校生を紹介するぞ。」

ぼんやりと窓の外を眺めていたケンイチは、現実に呼び戻された。担任のそばに真新しいセーラー服をきた長い髪の女子生徒。恐らく新しく「新陸」に入植した家の子供だろう。

彼女の名前はカナ。席はケンイチの右隣り。いわゆる「かわいい」部類に入る容姿を持ち、男子生徒は興味深々でカナを見つめ、女子生徒はそんな男子生徒に軽蔑したまなざしを向けていた。

「あ、俺、ケンイチ。よろしく。」

「よろしく。」

ケンイチは今日1日、まだ教科書が手元にないカナのため、机を引っ付けて、2人で教科書を使うことになった。そんなケンイチとカナを真っ先にからかったのは、もちろん親友のヒカルだった。


カナは口数がさほど多くない、大人しい少女だった。無口気味なのは、カナが新陸の子供だからとクラスメイトは思っていたが、不思議なことに、クラスに何人かいる新陸住民のクラスメイトに対しても、口数は少なかった。初めこそ、かわいい女の子がやってきたという好奇心で、いろいろ話しかけていた男子生徒でさえ、やがてカナから離れ、カナと親しくなろうとした女子生徒もいつしか離れていった。気が付けば、クラス内でカナを気にする生徒はケンイチだけになってしまった。それでも、先頭に立ってカナとしゃべろうとする勇気をケンイチは持ち合わせておらず、悶々とする日々が続くことになった。


土曜日、ケンイチは自転車で新陸に向かった。漢字が示すとおり、新しく作られた陸の道路はきちんと整備され、そこには豊かに実った穂が色づき、さまざまな野菜が色鮮やかに輝いていた。しばらくすると、ケンイチの家がある「旧海岸地区」は見えなくなり、広大な農地の中にポツンと、ケンイチは取り残されたような気分になった。


…昔は海じゃったんだよ。…


ケンイチは施設にいる祖母の言葉を思い出すが、実感がわかない。ケンイチにとって、ここは生まれた時から陸地であり、田んぼであり、畑であった。


…ギロチンのそばに行ってはいけない…


「ギロチン、か。」

優しく吹いてくる秋風とは対照的に、ケンイチの好奇心は季節外れの入道雲のような勢いで膨れていった。水門に向かって自転車を走らせると、誰かが自分に声をかけてきたような気がしたので、自転車を止めて振り向くと、カナが立っていた。

「ケンイチ君?」

「あ、こんにちは。」

「どこ、行くの?」

ケンイチは解答に迷った。水門を見に行くなんて言えないし、かといって、ただ新陸をうろついているだけというのもかっこ悪い。カナを前にしてケンイチが少しでも恰好がつく答えを探す。

「ギロチン、見にいくの?」

「え?!」

カナは長い髪を揺らして、静かにケンイチの目を見つめている。ケンイチは思わずカナのから目をそらした。さわさわとした稲穂の揺れる音の響きが耳に入らず、心臓の音だけが聞こえてくる。

「ギロチンは首を切る道具だよね。」

「知ってる。」

「行かないほうがいいよ。」

カナはそう言い残して、ケンイチとは反対方向に歩き出した。ケンイチは、カナに声をかけようかと思ったが、カナの背中が、それを拒んでいるように思えた。それでもカナの姿が見えなくなるまで、ケンイチは立ち尽くしていた。


2 死の池


気を取り直してケンイチは自転車のペダルを漕ぎだし、水門のほうへ進んで行く。時折、風に乗って耐えがたい悪臭がケンイチの鼻を直撃してきた。最初は我慢していたが、ついに耐えきれなくなり、ケンイチは自転車を止めた。

(何てひどい臭いだ。こんな臭いが充満しているところで、おいしい米や野菜ができるのか?)

それでも臭いに耐えて、ケンイチはさらに進む。ケンイチが生まれる前に、湾の入り口に作られた水門。祖母がギロチンと称する水門が遠くに見えているが、新陸の終点はすぐそこにあった。「死の池」の周りにある歩道が、新陸の終点だ。

「うえぇぇぇぇぇ!ひどい臭いだ!」

ぼやきながら自転車を止めて、行き止まりの柵の向こうを見る。ケンイチが生まれる前、海岸地区の住民が叫ぶ中、水門は湾の端から端へ一つずつ、まさにギロチンの刃が落ちて、罪人の首を落とすように落ちて行ったという。もちろん、叫ぶ住民の中には、ケンイチの祖父母や両親もいた。

…海の神様が怒り狂うかもしれんね…


小学校の時、水門はたくさんの田んぼや畑を作ると同時に水害を防ぐという目的もあるのだと習った。ケンイチもそのとおりだと思っていた。

しかし、「死の池」の凄まじい悪臭が、祖母の不吉な一言を思い出させ、その教えに対する疑念を抱かせる。

水門が閉ざされた後、ここから国道まで大きな湖となり。少しでも早く農地にするため、たくさんの排水ポンプが海水を追い出していた、そしてある程度の陸地ができた時、残った海水を閉じ込める「調整池」が作られた。調整池には行き場を失った海水が貯められ、その海水はやがて腐り、悪臭を放つようになった。

生命の存在を許さない池、通称「死の池」が凄まじい臭いとともに、ケンイチの目の前に広がっている。そのはるか向こうに「ギロチン」と呼ばれる水門が見える。ここまできてもなお、水門は遠い。かなたにある閉ざされた水門の向こうには、祖母が語った美しい海が本当にあるのだろうか。

「おーい、坊主!何やってんだ!」

「あ、す、すみません!」

「あんまりこのへんにはくるなよ。」

池の管理塔から、職員に注意されたケンイチは、自転車の向きを変えて、自宅を目指した。せっかくなので、こんどは畑作エリアを通っていく。新陸の中心までくると臭いはまったくしない。

「ん?あれ?おーい!カナちゃん!」

「ケ、ケンイチ君?」

「やあ、また会ったね。」

「うん。」

「カナちゃんの家は野菜を作っているの?」

「うん。」

「カナちゃん?」

カナは無言で国道のほうを指さした。遠くで水門を開けるように訴える旧海岸地区の大人たちが行進している。

「わたしたちは、いらない人。」

「そんなことない。カナちゃんは大事な、大事な友達だ。クラスでもそんなこと言う奴はいないだろ?」

「でも、わたしが住んでいるところは、前は綺麗な海だったんだよね。」

「そりゃ、そうだけど…。でもそれがカナちゃんと、どう関係あるの?俺だって関係ないよ。」

「呼び止めてごめんね、ケンイチ君。お父さんがきたから、バイバイ。それに、こんなところ誰かに見られたら大変だよ。」

「あ、待って!」

カナはふわりと長い髪をなびかせて、白い軽トラックの助手席に乗り込んだ。カナの父親であろう中年男性が運転する軽トラックは、猛烈なスピードでケンイチの視界から去って行ったが、風になびくカナの髪がケンイチの視界にいつまでも残っていた。

「カナ、ちゃん。」

茫然と立ち尽くすケンイチから畑3つ分向こうから、大人たちの叫びが聞こえてくる。どうやら居住地区に向かって叫んでいる様子だった。


その夜、「海を返せ」と書かれた鉢巻をしたまま帰宅した父親を見て、ケンイチは今、ここで、何が起こっているのか、ワケがわからなくなってしまい、母親に水門の話を詳しく聞いてみた。多分、嫌な話しかしないだろうとケンイチは予想し、その予想は当たった。

「ケンイチは、おばあちゃんから、昔は国道のそばまで海だったことを聞いてるよね?」

「うん。すごく綺麗な海で、お父さんもお母さんも、中学や高校の先輩たちも、子供の頃は、みんなそこで遊んでたんでしょ?」

「そうよ。でも、あのギロチンが海を殺したの。母さんは許せないわ。でもね、ケンイチ。もうすぐ、あのギロチンを開けるかどうか、また決まるのよ。」

「ギロチンが開くの?」

母親の思いがけない言葉に、ケンイチは驚きの声をあげる。

「そう。ケンイチも、もう少し大きくなったらわかると思うけど、おばあちゃんやお母さんたちは、ずっとギロチンをあけるよう、国にお願いしてきたの。街から学者さんを呼んで一生懸命勉強もしたわ。そして、地方裁判所で水門を開けろという判決が出たけれど、国が嫌がってまだ裁判は続いているのよ。」

「でも、もうあんなにきれいな田んぼや畑になっているし、人だって住んでる。その人たちはどうなるのだろう。」

「大した人数ではないから、十分にお金を払えば大丈夫だ。いいか、ケンイチ。そうでなくても、あいつらは国からお金をもらって生活をしているんだ。海を、オヤジの海をつぶした挙句…。」

「あなた…。」

「ケンイチ、俺たちは一度国に負けた。ギロチンを止められなかった。でも俺は、お前にあの海を見せたかった。ここらへんの大人は、みんな同じ思いだ。子供に海を残してやれなかったことを、ずっと後悔し続けてるんだ。」

「でも、ギロチンを開けたら、住んでる人を追い出すんだろ?そんなのおかしい!絶対におかしい!追い出す権利なんて、俺たちにはないだろ?」

ケンイチの脳裏にカナの姿がよぎる。カナは新陸に入植してきた世帯の子だ。もし、水門が開いたら、カナの家は海に沈んでしまう。海を見せたかった、そんな理由でカナの家が海の底へ、中学校も海の底へ沈めるつもりなんだろうか。

「仕方がない。もともと、あの新陸は海だった。陸が海になるだけだ。元通りになるだけだ。新陸に住んでいる人間の数と、あの海を失ったことで苦しんだ人間の数を比べたら、それは当然だ。」

「おかしい!絶対に父さんたちは間違っている!もう、いろんな人が住んでいて、そこの子が中学に来ているのに、その子はどうなるんだよ!」

ケンイチは思わず家を飛び出した。再び自転車にまたがり、夜の国道を猛スピードで走りだす。やがて新陸への入口に入る交差点につくと、居住地区の灯りが見えてきた。

飛び出したのはいいけれど、カナの自宅がどこにあるかわからない。でも、そんなに家はないはずだから、なんとか探せるかもしれないと考えて、ケンイチは初めて、新陸の住宅エリアに足を踏み入れた。そこはケンイチたちが住んでいる旧海岸地区と同じように、家があり、道があり、公園があった。

(みんな、みんな俺たちといっしょのようなところにいるのに、ここを海に戻すっていうのか?父さんたちはここに住んでいる人のことはどうでもいいのか?おかしい!絶対におかしい!)

ケンイチは公園のベンチでやりきれない思いにかられていた。海を取り戻すことは、そんなに大事なことなのか?それに、一度陸になった海が元に戻るなんて本当だろうか?

「おかしい。みんなおかしい。」

悲しそうな目で、かつて海だった陸を見る祖母、その陸に1人立つカナ。ケンイチは何が正しいのか、どれが正しいのか見当がつかなかった。祖母もカナも泣いてほしくない。ただそれだけだった。それに、「死の池」の水が、海に流れて行ったらどうなるのだろう。あの腐った水が海にトドメを刺すんじゃないか?そんなことをしたら海は戻ってこないかもしれないのに、どうして、そんなにまでして、大人は水門を開けることを望むのか、ケンイチには理解できなかった。


3 争いの果て


「よ、ケンイチ。何か元気ねーな。」

「大丈夫だよ、ヒカル。」

「お前、カナちゃんに振られたのかあ?」

「ま、待て!付き合ってもいないのに、何で振られるんだ。」

ケンイチは、抗議の声を上げながら自転車を止める。いつものとおり校舎へ向かう通路で事件は起こった。

「おい、ケンイチ。てめえ、新陸の転校生と付き合ってるのか?」

「は?」

「ケンイチは新陸のスパイだ!やっちまえ!」

「ま、待て!」

ケンイチは名も知らぬ生徒に殴る蹴るの暴行を受けた。唇が切れて血が流れてくる。騒ぎを聞きつけた教員が止めにはいり大事に至らなかったが、その後の教員の言葉にケンイチは愕然となった。

「今は判決が出る寸前の微妙な時期だ。目立つことはするな。」

「せ、先生、判決は関係ないでしょう!」

「おい、それでもアンタ先生かよ!」

ヒカルも援護射撃に入るが、教員は2人の肩に手をおき、首を横に振った。

「落ち着いてほしい。今は、今は、微妙な時期だ。お前たちの言っていることは正しい。正しいけど、水門が開くかどうか、もうすぐ決まる。先生たちは、新陸の生徒を守るのにせいいっぱいなんだ。わかってくれ。」

苦しそうな表情で声を振り絞る先生を見たケンイチに反論する気力はなかった。

「わかってくれって…俺たち海岸地区の人間はどうでもいいのか!先生たちは、何で新陸の人間だけかばうんだ!」

「わかりました。ヒカル、もういい。いいから、行こう。」

「ケンイチ!」

「いいから。こんなところで先生に文句行っても仕方ない。」

ヒカルは親友が傷つき、さらに原因がケンイチにあると言わんばかりの教員を罵り続けたが、ケンイチにヒカルのような熱さはなかった。あの生徒が言うことも正しい。父親の言うこともきっと正しい。祖母にもう一度よみがえった海を見せたい気持ちも、確かにケンイチの中にある。

でも、カナを守りたい、新陸に住んでいる人たちのことも考えないといけない、という気持ちもまた、ケンイチの中に存在していた。


生徒指導室から戻ってきたケンイチとヒカルが教室に入ると、女子生徒がカナを取り囲んでいた。飛び出しそうになるケンイチをヒカルが止める。

「やめろ!」

「あ、彼氏はっけーん!」

「裏切り者ケンイチが来たよ、カナ、よかったね。」

「やめろ!カナは、カナと判決は関係ないだろう!」

「関係、ない?」

1人の大柄な女子生徒がケンイチを睨み付ける。

「あたしの家は、あたしの家はこいつらのせいで…こいつらのせいで…ギロチンのせいで父さんは漁ができなくなった。父さんはずっと泣いているのに、どうして、何で…。」

「そうだよ。あのギロチンさえなければ…ギロチンさえ降りなければ、うちの父さんや叔父さんたちも…ケンイチ、うちらの親はギロチンのせいで失業したんだ。それでも、それでも、入植しないで、海のために頑張ってるんだ!」

「カナ、あんたの家は国から金もらって生活してんだろ?その金よこしな。」

「そうだ。あたしらの親が払った税金だもんね。返しなさい。」

「返せ!海を返せ!」

カナに向かって、教室中に響き渡る「返せ」コールに、ケンイチはなすすべもなかった。ケンイチがカナをかばったことで、かえってカナを傷つけてしまったのだ。

カナはずっと黙っている。

「ケンイチ、お前は住んでる人もいるから仕方がないと思っているだろ?でもな、そいつらが住んでいるせいでひどい目にあっている人もいるんだ。お前も海岸地区の人間なのに、なんでわからないんだよ。」

「…ごめん、ヒカル。それでも、俺はそれでも、みんな仲良くしたいんだ。」

「バカ野郎!できるわけねえだろ

!」

男子生徒の罵声とともに、教科書がケンイチめがけて飛んでくる。

「みんなやめて!」

「カナ…ちゃん。」

「ケンイチ君は悪くない。だからケンイチ君は、ケンイチ君は…」

「黙れ!お前らなんか、新陸の人間なんか出ていけ!」

「こないだの社会で、田んぼは余ってるって習ったよな。田んぼしたけりゃそっちに行けよ。お前らは二度と帰ってくるな!」

「出てけ!出てけ!」

いてもたってもいられず、ケンイチはカナの手を引っ張って教室を飛び出した。この行為が今後の中学生活をズタズタにすることは、ケンイチもわかっていた。それでもケンイチはカナを守りたかった。

「ケンイチ君!」ケンイチは自転車の後ろにカナを乗せて新陸の奥へ向かった。

「ケンイチ君!ダメ!」

「カナちゃんには…カナには関係ない。だって、だって、カナは海が陸になってから来たのに、カナが出ていくなんておかしいじゃないか!」

「ケンイチ君…止めて。」

「え?」

「自転車を止めてほしい。」

自転車から降りたカナは、教室では絶対に見せない笑顔を浮かべていた。

「ありがとう、ケンイチ君。ケンイチ君だけが、ケンイチ君だけが味方してくれた。」

「だって、だっておかしいだろう?ギロチンとカナは関係ない!それに、それに…。」

「ケンイチ君?」

「ギロチンが降りたから…俺は、カナに会えた。」

それはケンイチの初恋にして、一世一代の告白だった。告白しながらも、ケンイチの心には祖母の言葉が頭の中を駆け巡る。

…じいちゃんが大好きだったあの海をもう一度だけ見たいんじゃ…

(ばあちゃん、ごめん。ごめんな。俺は、ばあちゃんを裏切ってしまった。みんなを、裏切った。それでも、それでもカナを守りたかったんだ。ひどいことを言われても耐えているカナを見るのがつらかった…ばあちゃんならわかってくれるよな。ごめんな、ばあちゃん。)

「ケンイチ君、「死の池」、行ったの?」

「え?あ、あのとき?」

「うん」

「行ったけど、すごい臭いだった。あれは本当に死の池だったよ。カナ、俺は水門を開けたら、あの腐った水が海を、海にトドメをさしそうな気がするんだ。」

「みんなは、あの国道そばまで海だった頃に戻りたいの。だから、わたしたちはいらない。」

「カナ!いらないなんて言うな!」

「ごめんね、ケンイチ君。判決の前にわたし、また転校するんだ。」

「転校?」

「うん。お父さんとお母さん、離婚しちゃった。ここにくることをお父さんとお母さんはずっとケンカしてた。。お父さんはたくさん農業をしたくて、ここに来たかったの。でも、ここに来る前に、一度水門を開くようにって裁判で言われたから、お母さんはものすごく嫌だったみたい。次の裁判でも水門を開けって言われたら、やってられないっていつも言ってケンカしてたんだ。それでとうとう離婚しちゃった。お父さんはここか、ここの近所に残るけど、わたしはお母さんと一緒に行くことになったの。」

「行くからって、カナ、どこに転校するの?」

「遠いところ。」

転校先を聞いて、ケンイチは絶句した。カナの転校先は、ここから1000キロ以上も離れた北の大地。中学2年生のケンイチにとって、そこは外国と同じように思えた。

「これ。」

差し出された紙に書かれた新しい住所と電話番号。

「ケンイチ君、手紙、書いてね。わたしも書く。」

「ああ。書くよ。」

「…ケンイチ君と同じ高校へ行きたかった。一緒に列車通学、したかったな。」

カナはそう言ってケンイチにキスをした。

「それまで一緒にいられなくて、残念。」

「カナ…。」

「じゃあね、ケンイチ君。短い間だったけど、本当にありがとう。」

ケンイチにとって、初めてのキスはとても苦かった。ケンイチの初めて恋、初めてのキス、それと同時に、カナとの別れが訪れた。カナは母親と一緒に遠い、遠いところへ行ってしまうのだ。


それは、ケンイチにとってあまりにも苦くて残酷な初恋の終りだった。


4 思い出は海に眠る


「じいちゃん、ばあちゃん、海だ。海が戻ってきたよ。」

カナが転校してから間もなく、水門は開いた。その後、「死の池」の堤防が撤去されて、カナとの思い出がつまった新陸の農地は海に還って行った。最初こそ、「死の池」の腐った水は海を汚したが、徐々にケンイチの祖父母や、両親が愛した海は、昔の姿を取り戻しつつあった。

恐らくケンイチが生きている間には昔の姿は戻らないだろう。だが、ケンイチが結婚して、生まれた子供が大きくなって、結婚して、孫ができて、その孫が大人になるときには、きっとじいちゃんが腕を奮い、子供だった両親が浜を駆け回っていたという、子供の頃、祖母が語ってくれた美しい海が還ってくるに違いない。


大型のオートバイと一緒にならんで、生まれ故郷の海をケンイチはずっと眺めていた。初恋の少女、カナとはいつしか手紙の行き来が途絶え、今はどこにいるかもわからない。かつてカナが住んでいた居住地区、2人が通った中学校は残っているが、あの広大な農地は既に海に沈んでいた。

「よう!ケンイチ。後ろに乗せてくれよ!」

「ヒカル!」

「たまにはカミさんから逃れて自由になりたいね。」

高校を卒業し、そのまま地元で就職したヒカルは、去年、結婚して所帯を持った。

「結婚式以来だな、ヒカル。奥さんは元気?」

「元気すぎるぐらいだ。ケンイチは彼女いるのか?」

「いない。だから、初タンデムがヒカルになってしまった。」

「初タンデムが俺で悪かったな!」

「ごめんごめん。はい、メット。後ろ乗りなよ。」

ケンイチはバイクを走らせた。あれから10年以上が過ぎた。それでもケンイチの中で、カナはあの時のセーラー服で、長い髪をなびかせて広大な農地に立っている。

「今から堤防道路に行くぞ。」

「おう!」


かつてギロチンとよばれた水門の上に作られた道路は、「堤防道路」として今も海岸地区の住民に利用されている。水門が開く前は右と左で明らかに水の色が違い、腐臭がただよっていたが、今、ケンイチとヒカルが見ている景色の中で、水は同じ色をしていた。

(カナ。君が来る前、俺たちが生まれる前、ここは海だったんだ。)

ケンイチは、どこかでカナが笑っている。どこかでカナが待っている。そんな気がした。


「幸せになってくれ、カナ。俺はカナのことを忘れないから。きっと海の神様がカナを守ってくれる。」


ケンイチはヘルメットの中で、ヒカルに聞こえないようにつぶやき、アクセルを大きく開けた。


end



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― 新着の感想 ―
[一言] たぶん、諫早湾水門開放の話が元なんだろうなあと思って読みました。 実際にそこまでひどい対立があるのか知らないですが、そこに住んでいる人たちの心情が生々しく描写されてて、よかったです。 文章も…
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