老貴婦人の最期の恋が招いた惨事
マイオン公爵家には美しい庭園があって、今は薔薇がひときわ見頃であった。
けれども朝早くに押しかけてきたヴェネテ女侯爵であるジェニファーはその香しい薔薇を見ようともせず、薔薇の庭園に設けられた四阿の中でただ俯いてマイオン公爵夫妻を待っている。
――やがて、仲良く手を取り合って、マイオン公爵家夫妻が姿を見せた。
「ご免なさい、待たせてしまったわね」
「いえ……こちらこそいきなり朝に押しかけて、申し訳もありません」
今のマイオン女公爵であり、ジェニファーの義姉でもあるニコレッタ、その夫のギュスターブ共々、四阿の椅子に静かに腰掛けた後。
二人は、気遣わしげにジェニファーを見つめた。
「ねえ、ジェニファー、いきなりどうしたの?まさか、母と何か――?」
ニコレッタの母であるフェリシアは、先代マイオン公爵が亡くなった後、ジェニファー達の暮らすヴェネテ侯爵家のすぐ隣の別邸で気楽な一人暮しをしている。
今までは仲良くしていると聞いていたが、何かの問題が起きたのだろうか?
「……少し、長い話になりますが……どうか聞いて頂けますか?」
ニコレッタとギュスターブは視線を交わして、同時に頷いた。
思慮深い義妹ジェニファーがここに相談しに来たと言うことは、相当な事情があることは間違いないのだから。
「勿論よ、ジェニファー。真面目な貴女だもの、きっと深い悩みを抱えているのでしょう?」
「……有難う、義姉様……」
ほんの少しだけ安堵の顔色を浮かべて、ジェニファーは話し出したのだった。
全てのきっかけは、ジェニファーの義母であるフェリシアに愛する人が出来たことだった。
二十年近く前に夫であったマイオン公爵を亡くしたフェリシアに、最近になって恋人が出来たのだとジェニファーが真っ先に打ち明けられたのだ。
ジェニファーはその恋人が誰なのかすぐに悟った。
ジェニファーの次男ジェフにも魔術師の素養があると分かって、その師匠となって貰うべく大魔術師クラウドを王宮から招いたばかりだったから。
そのクラウドが隣のフェリシアの手を握って、切々とジェニファーに頼み込むのだ。
「言うのが遅くなって本当に済まなかった。けれど私は本気でフェリシアを愛している。どうか交際を認めて貰えないだろうか」
「えっ、でもっ!」
見た目で言えば『祖母と成人した孫』と言っても通るくらいの二人なのだ。
ジェニファーは混乱していたし、それ以上に義母はどうなるのだと不安になってしまった。
姑と嫁の関係ではあるが、フェリシアとジェニファーの仲は驚くほど良好であった。
フェリシアが良い意味で純情で明るく可愛らしい性格だったのと、さっぱりとしていて大らかなジェニファーの気性は奇跡的に噛み合っていたのだ。
それに加えて、二人がお互いに道理と情理を弁えた女性だったのが幸いしていた。
「私がこんな見た目だから気にするのも無理は無い」
けれどクラウドは丁寧にジェニファーの誤解を解いていった。
「だが、私はこれでも三百歳を越えているんだ」
「三百……」
確かに魔術師は長生きすると聞いている。
しかし、三百歳以上だとは知らなかった。
「でも、こんなにも若くて可愛らしいお嬢さんと出会ったのは私も初めてだった。でもフェリシアは前の夫に貞節を尽くしていて、私とは結婚はできないと……。私もフェリシアの望まないことはしたくない。だから、せめて……」
家族公認の恋人にして貰えないだろうか。
自分には金もある、地位もある、けれどどうしてもフェリシアだけは諦めきれない。
彼女ほど素敵なお嬢さんを諦めることだけはどうやっても出来ない。
……そうやって話を聞く内に、ジェニファーも次第に絆されていった。
何せ相手は、幾度も国難を救った大魔術師クラウドである。
地位も身分も金も何もかも持っていたけれど、今までは大の女嫌いで有名だった。
本人が言うには、媚びてくる女に本能的に鳥肌が立つらしい。
なのに、フェリシアに向ける視線のとんでもなく優しいこと。
フェリシアも恥ずかしがってはいるが、クラウドには少しずつ心を打ち明けている様子であること。
しかもクラウドは『万が一老齢のフェリシアに何かあったとしても、最期まで私が面倒を見る』とまで言ったのだ。
そうね、とジェニファーも思った。
二十年近く前に先代マイオン公爵もお亡くなりだし、何より人生の最期をうららかな春の日差しの中で迎えるのも悪くは無いわ。
「分かりましたわ。けれど、何よりニコレッタ義姉様やギュスターブ義兄様にもきちんとお伝えしなければいけませんわよ。それとバージルにもきちんと言っておかないと……何せ夫は義母様が大好きですから」
それまでは微笑ましい気持ちだったのに――夫のことを思った瞬間、ジェニファーは溜息が出た。
彼女の夫バージルは大のマザコンなのである。
これでフェリシアが『普通の姑』であったら、ジェニファーもどうしたって『鬼嫁』にならざるを得なかっただろう、と断言できてしまうくらいの。
……それほどに愛する母親に恋人が出来たなんて聞いたら、バージルは大荒れになることは間違いない。
「ごめんなさい、あの子をあんな風に育てたのは私だもの……。私からもニコレッタ達には手紙をしたためておくわ」
フェリシアは恐縮して謝るが、ジェニファーは苦笑いするだけにした。
「ニコレッタ義姉様があれだけまともなのですから、義母様の育て方は間違ってはいませんわ」
むしろ、これだけ善良で気遣いの出来る人だからこそ、夫のバージルはマザコンなのだし、きっとクラウドも惚れたのだろう。
ジェニファーは、そう思うことにした。
「……有難う、有難うね、ジェニファーさん。いつだって本当に貴女のおかげ……何てお礼を言ったら良いのか」
フェリシアは上品に微笑んで、クラウドと手を繋いで帰って行った。
案の定と言うべきか、母親に恋人が出来たと知ったバージルは徹底的に荒れた。
母親からの手紙を粉々にした上に三日も家に帰らなかった。
「どうしてだ!僕の母が!あんな若造と!」
ようやく帰ってきたと思ったら、酒臭いまま怒鳴り散らすので、息子二人と娘まで恐る恐る部屋に顔を出したのだ。
「貴方、どうか落ち着いて。話したけれどもクラウド様は本気よ。本気で義母様を――」
ジェニファーも何とか夫をなだめようとしたのだが、
「あんな若造など!絶対に認めない!」
乱暴に机の上のものをなぎ払うと、またバージルは出て行ってしまったのだった。
「お母様、何があったの……?」
「父上があんなに荒れ狂ったのは初めて見たぞ……」
娘や長男は机の上のものを拾おうとしたが、次男がそれを止めて、習ったばかりの魔法で綺麗に戻したのだった。
「なあお母様……。もしかしてお師匠様か?お師匠様はこの頃、お祖母様の館の方ばかり見ては溜息をついているんだ……」
弟の言葉に、長男の眼鏡が派手にずり落ちた。
「ええっ!?でもお祖母様は、お、お年だろう!?」
しかし娘は怯えていたのが一気にはしゃいで、長男の眼鏡を直してやりながら、
「何を言っているの、大兄様!まあ、まあ、お母様、お祖母様に春が来たのね!魔術師様は長生きなさるそうだし、きっとお似合いよ!」
けどなあ、と長男は困った顔でジェニファーを見つめて、
「だけど父上はマザコンだろう。お母様、だから父上はあんなに荒れていたのか……」
息子達や娘を見ながら、ジェニファーは溜息をついた。
「ええ、お祖母様はお爺様を二十年近くに亡くされてから、ずっとお一人で過ごされていたわ。だから、決して悪い話では無いと私は思うのだけれど……あの人はやはり納得できなかったみたいね……」
次男が難しい顔をしている。
「母上、僕が観察している限り、お師匠様はお祖母様に本気だぞ?僕達、どうしたら良いんだろうな……」
ジェニファーは考え込んだが、今のところは何も名案が浮かばなかった。
「いきなり言われて、あの人も驚いたのかも知れないわ。……少し時間が経てば、落ち着く可能性もあるのだから……」
――それが三ヶ月前の話であった。
最初は荒れていたバージルが次第に落ち着いてきて、酷く物憂げな様子で母親の暮らす隣家を見つめるようになったものの、交際反対だと煩く言わなくなってきたので、ジェニファーも完全に油断していた。
昨日の夕暮れから次男の誕生日パーティが開かれ、そこには隣に住む心優しい祖母と、彼の尊敬する『お師匠様』も招かれたのだった。
「なあジェフ、魔法ってどうやったら使えるんだ?」
「まず、魔力が必要なんだって。でも魔力をただ持っているだけじゃ駄目らしくて……」
次男が友人達が楽しげに会話している隣で、クラウドに魔法を使って欲しいとせがむ娘と長男がいる。
「あの、クラウド様!」
「お祖母様への愛情を魔法にして見せて下さいな!」
若い彼らの無茶ぶりに、何とも恥ずかしそうな苦笑いをしながらも、魔術師は指を鳴らした。
――途端に広間のあちこちで光り輝く美しい花びらが華やかに舞い散って、誰もが思わず歓声を上げた。
「おおー!」
「何て綺麗なの!」
「やっぱりお師匠様は凄い!」
照れながら魔術師は呟く。
「彼女のことはもっと愛しているのだけれど、これ以上は流石に勘弁してくれ……」
「あら?」
その時に、ジェニファーは義母フェリシアと夫バージルの姿が見えないことに気付いた。
ついさっきまでは庭園を隣り合って歩いていたのに、何処に行ったのだろう?
「もう、折角の魔法なのに……!」
皆で折角の美しい魔法を一緒に見たかったのに。
ただ、今ならまだ間に合うかも知れない。
すぐに庭に出て行こうとした彼女は、クラウドに軽い調子で呼び止められた。
「おや、どうされたんだい、ヴェネテ侯爵?」
「まあクラウド様、実は……」
事情を話そうとした瞬間、クラウドの顔が強ばった。
「フェリシアが危ない!」
そのまま走り出す魔術師を追いかけて、ジェニファーも慌てて走った。
「どうしたの、お母様!?」
背後から娘の叫び声が聞こえたが、構っていられなかった。
「フェリシア!フェリシア!!!!」
クラウドが半狂乱で、夕暮れの庭を走って行くのだから。
――もはや黄昏となって影とものが溶け合っていくような物置の影で、誰かが揉み合っている。
「フェリシアに何をする!!!!」
そこにクラウドは魔法で生み出した火球を投げつけた。
それは男の背中に命中して、凄まじい悲鳴と共に男は地べたに転がったのだった。
この間にジェニファーは渾身の力で、庭の隅に設置されていた重たい照明魔導具を動かして、男を照らすことに成功した。
「あ……」
彼女の頭が真っ白になった。
「貴方……!?」
慎ましやかに着ていたドレスを無残に引き裂かれ、頬を腫らして泣きじゃくる義母の隣で、地べたを転がっているのはジェニファーの夫バージルであった。
「お前が悪いんだ……」
バージルは血走った目で、フェリシアを抱きしめて無事を確認するクラウドを睨み付ける。
クラウドからの贈り物だと恥じらいながら言っていた、フェリシアのペンダントは砕け散っていた。
「ママは私を愛してくれたのに……私からママを奪おうとするから!」
――ジェニファーは体の震えが止まらなくなった。
「何を……貴方は……言っているの……?」
フェリシアは紛れもなくニコレッタとバージルの母である。
生みの、育ての、血の繋がった実の母親で――。
……そこから先は地獄だった。
クラウドの腕の中で泣きじゃくるフェリシアと戦慄くジェニファーの前で、バージルは喚いた。
母親を女として愛していること。
ジェニファーは母親に似ていたから結婚したに過ぎないこと。
「私を産んだ母の中に!貴様のような異物が入っていくかと思うと吐き気がする!」
誰かが嘔吐する音が聞こえて、ジェニファーは我に返る。
「母上……嫌だ、嫌だ、嫌だ!僕はそんな風に母上を愛しているんじゃない!」
吐いていたのは次男ジェフであった。
その遙か向こうでは長男が必死に、こちらへ来ようとしている娘を羽交い締めにしている。
「何で……何で?」
フェリシアは震えながら泣いていた。
「私は貴方のこと……大事な……我が子と思っていたのに……」
ジェニファーが次男を介抱している中、バージルは笑っていた。
「私は母上を正真正銘に愛しているんだ!その母上が他の男で汚されるくらいなら、いっそ私が――!」
「黙れ。もう黙れ!」
クラウドが低く呟いて指を鳴らすと、そのままバージルは意識を失ったのだった……。
――ジェニファーからの話を聞き終えたニコレッタとギュスターブ夫妻は、しばらく声を出すことが出来なかった。
痛ましく重苦しく凍り付いた沈黙だけがあった。
「……ジェフは、お母様は……どうしているの?」
何の味もしない茶を口にして、やっとニコレッタは言葉を出すことが出来た。
「ジェフは心の傷が深くて、数年にわたる静養が必要だと侍医に言われました。今は、薬で……」
ジェニファーは子供のことを言われて、やっと涙が出てきた。
散々な誕生日パーティだった。
次男の心の傷を思うと、堪らなくなる。
唯一の救いは何かを察したらしい長男が、娘や招待客に見聞きさせないよう、間際で止めてくれていたことだけだった。
「それで、その。フェリシア義母上は……?」
ギュスターブは額の脂汗をハンカチで拭おうとしたが、手が震えすぎていてハンカチを持てなかった。
「クラウド様が今も付き添っていて下さいます。……幸い、未遂だったようで」
未遂であっても、何も『幸い』ではないと三人には分かっていた。
襲ってきた男が息子なのである。
どれ程の心の傷を、フェリシアもまた負ったのか。
「一晩かけてバージルの部屋を探しました。『フェリシア』の……盗撮と思われる魔法写真と……無くしたと聞いていた小物が……沢山……」
そこでジェニファーは思い出してしまって、またえずきそうになったが、踏みとどまった。
「ジェニファー、良く耐えましたね。後は私達に一切任せて頂戴」
ニコレッタはまだ度胸があった。
いつだって恐ろしく悍ましい貴族社会を、彼女は女だてらに毅然と生きてきたからだ。
「貴方、今すぐに北の領地にバージルを静養にやりましょう。バージルは長期にわたる静養が必要な、重い心の病を発症したのだから。詳しい話はその後よ。さあ、急いで!」
フェリシアはあの日から三日寝込んでいたが、可愛い孫のジェフが苦しんでいると知って起き上がり、クラウドの支えを頼りに会いに行った。
ジェフは突然泣いたり、暴れたり、かと思うとべったりと母親ジェニファーに甘えたりして、まるで幼子に戻ってしまったようだった。
けれどバージルが突然の病に倒れたため、より多忙になったジェニファーはいつもジェフの側にいることも出来なくて、非常に歯がゆい思いをしていた頃だった。
「ジェフ、可愛いジェフ。もう私とはお話しできるかしら?」
「ばーば……」
ジェフはフェリシアが姿を見せると、大きな声で泣き出した。
「ぱぱがおかしくなっちゃったの。ばーばにひどいことしたの。ばーばいたいの、ぼくいやだ!」
「もうばーばは痛くないわ。クラウドがね、痛いの痛いの飛んで行けしてくれたのよ」
「おししょーさまが?」
少しだけ泣き止んだジェフは、丸い目でクラウドを見上げた。
「おししょーさま、あのね……」
言葉を出そうとしたジェフの目から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれた。
「ジェフ。君はとても悪い夢を見ていたんだよ」
クラウドはジェフの頭を撫でて、優しい声で言う。
「ゆめ……?」
「ああ、悪い夢だ。本当は精神干渉系の魔法は禁じられているから、特別に許可を貰ってきたんだよ」
「うーん、おししょーさま、ぼくわかんない……」
少し生意気でおどけたところはあったけれど、心は真っ直ぐな可愛い弟子のために頼み込んで、国王に掛け合ってきたのだ。
「分からなくても良いんだ。少しだけ目を閉じてくれ……」
頭を撫でられながら、ジェフはそのまま眠りに落ちた。
穏やかに眠る孫の額に温かなキスをして、フェリシアは呟く。
「有難う、クラウド……」
「私が、貴方に恋をしたから……バージルも、ジェフもこうなったのかしら……?」
眠りに落ちるジェフを見つめて涙をこぼすフェリシアを抱きしめて、クラウドは言う。
「違う。全くもってフェリシア、君の所為じゃない。
それでも君の所為だと世界中が誹るのなら、私が矢面に立ってやる。
三百年以上生きてきた私は様々な人間を見てきたけれど、君ほど真っ当に真摯に生きて、真っ当に真心から人を愛して育んできた人はいなかった。
ただ……彼の心は生まれながらに歪んでいた。それだけのことだ。
でも、それだけでは決して片づけられない君の優しさを、私は誰よりも愛している……」




