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第21話 幼馴染

それからしばらくたった、月曜日の夕方。

少しだけ寒さがゆるんだ空気の中で、俺と桜は、家の前を竹ぼうきで掃除していた。


もうすっかり慣れてきて、ふたりで先週の出来事なんかを話しながら、落ち葉を集めていく。

冬の日差しが優しくて、どこか穏やかな時間だった。

そこに……


「……ん?」


ドロドロドロ……と重たいエンジン音が近づいてきた。

通りの角を曲がってきたのは、カーキ色の陸軍のサイドカー。


運転してる兵士も、隣のサイドカーに乗ってる男も、軍服にゴーグル姿。

ただならぬ雰囲気に、俺と桜は手を止めて、目で追った。


上條家を見上げて何か話したあと、サイドカーはすぐそばの壁際に停まった。


桜の表情が、少しだけ緊張する。俺もだ。


側車から降りた将校が、俺たちに向かって歩いてくる。

そして、目の前でゴーグルを額に押し上げたその顔に、桜が目を見開いた。


「……芳兄!? えーっ!? どうしたの! なんでここに!」


――伊吹芳彦。

桜が前に話してた、あの“芳兄”。


「ちょっと前に帰ってきてな」


伊吹さんは懐かしそうに桜を見つめる。

桜は嬉しそうに笑って言った。


「見違えてしまって……気づかなかった!」


「久しぶりだな。桜も、綺麗になった」


「やだなー、もーっ! からかわないでよー!」


桜が照れて顔を赤らめるのを見て、俺の胸に何か、もやもやしたものが湧く。


「桜、紹介する。本田軍曹だ。ニューギニアからずっと一緒に帰ってきてくれた腕利だ」


後ろから歩いてきた男がぴしっと敬礼して名乗った。


「本田史郎です。よろしくお願いします」


「上條桜です」


桜が慌ててぺこっと頭を下げる。

すると本田さんはニッと笑って言った。


「やっとお会いできました! 桜さんの話は、伊吹中尉からずっと聞かされてて、もう」


「お、おい!」


伊吹さんが慌てて本田さんを止めるけど、本田さんは止まらない。


「うちの第三中隊に“桜隊”って名前がついてますよ。伊吹さんが強引につけたんです」


「ええええっ!?」


「他の中隊も植物の名前だから合わせただけだ! 楠隊と橘隊があるんだよ」


伊吹さんが帽子を目深にかぶりなおす。

……どうやら桜のこと、めっちゃ大事にしてるみたいだな。うん。そりゃわかるよ。でも。


「あ、芳兄、本田さん。こちら、先月からうちに下宿してる早瀬光君。書生さんなの」


「光、前に話したでしょ? 芳兄だよ! 手紙はもらってたけど、会うのは二年ぶりくらい?」


「それくらいだな。伊吹芳彦です。よろしく、早瀬君」


「よ、よろしくお願いします」


慌てて頭を下げた。胸の奥がザワザワしてた。

この人が“芳兄”。……桜のアルバムの中にいた人。


「ところで、雪さんは?」


「和哉と一緒に浦和に疎開してて。今は週に一度くらいしか戻れないの。今日も浦和」


「そうか、残念だな。これ、近所の菓子屋で買った羊羹なんだが、お土産にと思って」


「えー、嬉しい! 最近ほんと全然売ってないのよねぇ!」


そんなやりとりを経て、俺たちは家の中へ。

客間に移動して、伊吹さんと本田さんがソファに座る。桜もその隣にちょこんと腰掛けた。


俺はいつものように茶碗とお茶を準備して、台所で羊羹を切って出す。

フォークも忘れずにね。


「おいしー!」


羊羹を頬張る桜の顔は、まるで子どもみたいに無邪気で、可愛かった。


「光も座っていただきなよ」


頷いて、向かいの椅子に腰を下ろす。


「最近、甘いものづいてるよね! 紀依が助かった時も、どら焼き頂いちゃったしね!」


「助かった?」


伊吹さんが不思議そうに首を傾げた。


「女学校の親友がね、多摩川の河川敷で、アメリカ軍の飛行機に追いかけられて……でも日本の戦闘機に助けられたの。先週」


「……それは」


伊吹さんが顔を上げ、本田さんと視線を交わす。


「多摩川って、川崎のあたりですか? 確かに、そこでグラマンと遭遇しました」


「え!? 紀依は蒲田だけど、すぐそば!」


伊吹さんは少し考えるように天井を見上げた。


「低空で機銃掃射してたグラマンを見つけて……本田が先に一機撃墜して、残りを俺が片付けたな。ギリギリだったが」


「でも狙われてたの、女の子だけじゃなかったですね。小さい男の子もいました」


本田さんが付け加えた。


「そ、それー! 男の子は紀依の弟だよ!」


そこで、パズルのピースがすべてはまった。

どら焼きのこと、紀依ちゃんの話……全部、つながった。


桜の驚きと喜び。

伊吹さんと本田さんの、安堵の表情。


そして、そのあとは――

たわいもない会話が、続いた。

主に桜と伊吹さんの……



しばらくして、桜と伊吹さんの長話がようやくひと段落ついた頃だった。

本田さんが、そろそろ……と席を立った。


「もう帰っちゃうんですか? お夕飯どうですか?」


桜がちょっと残念そうに聞く。


「せっかくですが、自分は公用で外出してしまったので、戻らないと」


本田さんは軍服の袖の白い腕章を指差した。外出許可証みたいなやつ。


「芳兄は?」


「俺は休暇だから、本郷に戻るとして……いただいていく」


「やった! 今日は私が夕飯つくるよ、光!」


……え? なんで俺の名前出てくるんだ。


でも桜の笑顔がやけに楽しそうで、文句のひとつも言えなかった。


本田さんは、俺たち三人に見送られながら、サイドカーにまたがって手を上げて去っていった。


残された俺は、まだちょっと頭の整理がついてなかった。





伊吹さんは玄関から戻りながら、また桜に話しかけた。


「そうそう。今日はおじさんに話があって、休みもらって来たんだ」


「お父さん、今日は早く帰ってくるって言ってたけど、そのせいかな?」


「大学に電話したのは今日だから、たぶん違う。でも、忙しいところを無理言ってしまったようで……申し訳ない」


桜は笑って答える。


「いつも遅いから、たまにはいいと思うよ!」


それからほんとに、誠一郎さんは珍しく早く帰ってきて、

桜が張り切って作った夕飯を、四人で囲むことになった。


……いや、本当に張り切ってた。俺には何も作らせてくれなかった。


そして今度は、誠一郎さんが主役交代。

伊吹さんとふたりで盛り上がってた。

本当に家族みたいなんだな、って思った。



食後、応接間に移動して、残ってた羊羹とお茶を手にひと息ついた頃――


「ところで、君が今日電話してくれた件。改まっての話とは何だろうか?」


誠一郎さんが尋ねた。


「ほら、芳兄、はやくはやく!」


桜が急かすように笑って、伊吹さんの腕を軽く小突いた。


その様子を、なんとなく俺は黙って見ていた。


……なんだろう、この、胸の奥がモヤッとする感じは。


「桜、大事な話らしいから、茶化すのはやめなさい」


「ごめんなさい」


あんまり反省してなさそうな声で謝る桜は、自分で淹れたお茶をすする。

そして向かいに座る伊吹さんをチラリと見た。


伊吹さんは、一瞬だけ言葉に詰まり、それでも誠一郎さんをしっかりと見て、口を開いた。




「桜を……いや、桜さんを、私にください」




その瞬間、すべてが止まった。


「ぶーっ!!???」


叫んだのは桜だった。

口に含んでたお茶を、思いっきり伊吹さんにぶっかけた。


伊吹さんは一ミリも動かず、直撃を受けた。


「ご、ごめんなさい!!」


桜は立ち上がって、ポケットからハンカチを出そうとしたけど手間取ってる。


その拍子にテーブルの上の俺の湯呑みを倒して、今度は自分の服までお茶まみれ。


「うわあああ!!」


「桜、落ち着けって……!」


慌てて立ち上がって、台拭きでテーブルを拭く俺。

なんだこの展開……


「大丈夫、大丈夫だ、桜」


伊吹さんは自分でハンカチを取り出して、静かに顔を拭いてた。

やたら冷静。さっきの爆弾発言をした人とは思えない。


誠一郎さんがふたりを交互に見て、呆れたように言った。


「どうも事前に話がついてたわけじゃなさそうだね」


「はい。申し訳ありません。正直に言うと、自分の勇み足です。時間がなくて……」


「どうするんだ、桜」


誠一郎さんが桜に向き直る。


「よ、芳兄本気なの? あの、私なんかでいいの?」


桜は目を泳がせながら、声も完全に裏返っていた。


「こんなこと冗談で言うやつがあるか」


伊吹さんは顔を赤くしながらも、まっすぐに桜を見つめて言った。


「それに、惚れた女のことを“私なんか”なんて言わないでくれ。……桜、俺はお前が好きだ。ずっと前から」


「えぇぇ……ここは、ごめんなさいなの? ありがとうなの……?」


桜も顔を真っ赤にして、完全にパニックになっていた。


「いやはや、当てられっぱなしだな」


誠一郎さんまで照れたように笑う。が、すぐに真剣な顔になって伊吹さんに言った。


「私は桜が良ければそれでいいと思っているし、それが君であれば文句もない。ただ、君の職務を考えると……飛行機乗りに娘を嫁がせるのは、親として少し……悩ましい」


「当然です。自分が戦死したら、この話はなかったことにしてください。覚悟はできています。すべては、戦争が終わってからで構いません」


そして、伊吹さんは一呼吸おいて言った。


「ただ……桜は今月、女学校を卒業してしまう。黙っていて他の男に取られたくなかった。……恥ずかしながら、勇気がなくて。結果として先走ってしまい、本当に申し訳ありません」


深々と頭を下げる伊吹さんに、誠一郎さんはゆっくりとうなずいた。


「正直、桜を嫁に出すなんてまだまだ考えてなかった。でも……これも良い機会かもしれないな。ただ、この子も混乱してるみたいだから、少し時間をもらえないか」


「もちろんです。返事はいつでも構いません。いつまででも待ちます」


そう言って、伊吹さんは改めて桜を見つめた。


「桜、考えておいてほしい」


桜は一瞬、目を大きく見開いて、それから黙ってうなずいた。


……俺は、黙ってそれを見てるしかなかった。


胸の奥が、きゅうっと締めつけられたみたいに痛かった。



その後、伊吹さんは早々に帰り支度を始めた。


「芳兄、ごめんね。茶化したりして」


「まったくだ。敵の重爆に突っ込むほうが、まだ気楽だった」


伊吹さんは苦笑い。


「ごめーん」


桜は手を合わせて、ちょっとだけ真剣な表情になった。


「それより、急がないから返事を考えてくれ。……もちろん、ダメならダメで構わない。俺は……お前が幸せなら、それが一番だ」


「……うん」


桜は小さく頷いた。

伊吹さんの姿が玄関から消えていく。


……なんだよこれ。


俺はただの書生で、傍観者だった。



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