第20話 どら焼き
金曜日の朝。
学校が休みだった桜と一緒に、昼前の台所で家事の残りを片付けてた。
棚の調味料や食材を確認してたら、桜が油の瓶を手にして、小さくため息をついた。
「光、次の配給っていつだっけ? 油、もうほとんどないよ」
「来週の金曜。……それまでは持たせるよ。できるだけ油を使わないメニューにするから」
俺はそう言いながら、軽く瓶を振って残量を確かめてから、棚に戻した。
「……コンビニがあればすぐ買いに行けるのにな」
ぽつりと呟いたその言葉に、桜がちょっとだけ笑った。
あの騒動のあと、しばらく挙動不審だった桜も、ようやく少し落ち着いてきてくれて。
だから最近は、俺がいた世界のことも、ちょっとずつ話してる。
「コンビニって……空襲もなくて、ケーキやお菓子がたくさん売ってるんでしょ? いいな、行ってみたいな。フワフワいちごシフォンケーキだっけ? 食べてみたい……。あー、もう二年くらいケーキなんて食べてないよ」
「はは。連れてってあげたいけど」
「ありがと。……そもそも光が帰れてないもんね」
そう、あれから悠人との通信も繋がってない。
でもなぜか、焦りはなかった。不思議だけど。
「……あー、光のせいでお腹すいてきた」
桜が砂糖の袋を手に取りながら、ちょっとふくれっ面で言った。
砂糖はこの時代では貴重品だ。
「甘いものが食べたいよ~……うさぎやのどら焼き! 高野のメロン! 不二家のショートケーキぃ~~!」
「……何か買ってきたら?」
「売ってるわけないでしょーっ! 知ってるでしょーっ!!」
うおっ――!?
いきなり桜が俺の首に腕を回して、ぶんぶん振り回してくる。めちゃくちゃだ。
「……もちろん言問団子でもいいよ?」
視界がぐらぐら揺れる中、俺は思う。
理不尽なのに、なんか嬉しかった。
その瞬間だった。
外から――サイレンの音。
桜がパッと手を離した。
「えっ?」
「……空襲警報!? 警戒警報もなしに!?」
「光、いそいでっ!」
「うん!」
俺たちは慌てて、出しっぱなしの食材を棚にしまい、庭の防空壕へと駆け出した。
◆◆
次の日の夕方、午前中の授業を終えた桜たちは、午後の勤労奉仕がまた物資の未着とかで中止になり、自然な流れで桜の家に集まった。
茶を淹れて、煎餅を出して、俺は例によってお茶汲み係だ。まあ、これくらいの奉仕なら文句はない。
ついこの前焼いた煎餅を、戸棚から取り出して並べた。
紀依ちゃんと桃子さんに対しては、例の「誤解」はもう解けてる……はずだった。
少なくとも、俺の中では。
「それでね、一回目に撃たれた時は外れたんだけど……土煙がすごくて、全然見えなかったの。だけど私たち、土手まで逃げようって思って走り出して……でも、かっちゃんが転んじゃって――」
紀依ちゃんが、おさげを揺らしながら一生懸命身振り手振りで話してくれる。
昨日の空襲で、彼女は弟と一緒に河川敷にいたらしい。そこをアメリカ軍の戦闘機に襲われたって話だ。
桜と桃子さんは、どうやら学校ですでに聞いていたらしく、ここでは俺が主なリスナー。
だから、話の途中でふと出てきた名前に反応してしまった。
「……かっちゃん?」
「紀依の弟」と、桜が隣でそっと補足する。
「あ、そうそう。弟。で、いそいで戻ったらもうグラマンが近くまで来てて……ほら、あの青い戦闘機。口がニタニタ笑ってるの!こわいでしょ!」
「戦闘機に口ってあるの!?」
俺が思わず聞き返すと、紀依ちゃんは真顔で詰め寄ってきた。
「あるよ!? 光ちゃん、私の話ちゃんと聞いてる!?」
彼女の大きな瞳に真正面から見つめられて、ちょっと心臓が跳ねた。
やっぱりこの子、めちゃ可愛い。
ちょっと小柄で、明るくて、人懐こくて――きっと俺のクラスの男子にアンケートでも取れば、人気は圧倒的だろう。
たぶん七割が紀依ちゃんで、残りを桜と桃子さんで分け合う感じ?
もちろん、桜と桃子さんが可愛くないって話じゃない、桜はいい線行くと思う。
けど……なんというか、そういうことだ。
「そしたらね、いきなりグラマンが爆発して、別の戦闘機が来て――それが日本の戦闘機だったの。操縦士さんが窓から手を振ってくれたから、私も振り返した!」
「漏らしながらね」と、桜が笑って茶々を入れた。
「それ言わないってば!!」
「だって学校で自分で言ってたじゃない」
「光ちゃんごときとはいえ、男子の前で言うのは違うでしょ!? 」
「ごとき……」
なんかすごく今、雑な扱いを受けた気がする。
「要するに、昨日は多摩川の河川敷で弟と米軍の戦闘機に襲われたけど、日本の戦闘機に助けられましたって話ね」
桃子さんが、冷静に一行でまとめた。
さすがだ。
「で、十七で恋も知らずに死ぬのかって、ちょっと覚悟しちゃったわけ」
紀依ちゃんが桜の方にちらっと目をやりながら、つけ加える。
「桜と違って」
「なっ! だから誤解だってば!!」
桜がガバッと立ち上がって否定した。
うん、その慌てっぷり、逆に怪しいよな。
「ほんと、助かってよかったよねぇ」
桃子さんが目を閉じて、煎餅を一口。
その表情がなんだかすごく穏やかで、胸が少しあたたかくなった。
「光ちゃん、本当に違うの?」
「えーと、それは……」
俺が少し言葉を濁すと、桃子さんが静かに切り込んできた。
「あ、否定しないんだ」
「おおーっと桜、狙われてるよ!やっぱり光ちゃんは、桜のこと狙ってます!」
「ちょ、ちょっと待って!? 紀依、話逸れてるって!」
桜が慌てて軌道修正を試みるけど、勢いは止まらない。
「でも桜も否定しないってことは、やっぱり怪しいんじゃない?」
「だ、誰が助けてくれたかって、分かんないんだよね? どっちの日本の戦闘機だったのか」
俺はちょっと無理やり、最近読んだ新聞の知識をねじ込む。
「どっちって?」
「陸軍か海軍か、って意味でしょ。紀依を助けた白馬の王子様は、陸鷲か、海鷲か――」
桃子さんが付け足してくれた。この人、いつも冷静だよな……
「そんなの分かんないよ」
「どんな飛行機だった?」
「うーん……上が緑で、フカみたいな飛行機だった。下は灰色」
「フカって、あの……?」
「フカはフカだよ」
「海に住んでる肉食の、魚じゃないやつ?」
「サメ、かな」
「そうそう、それ!」
そう言って紀依ちゃんは、カバンから何かを取り出してテーブルに置いた。
紙に包まれたそれを開くと、中から出てきたのは――どら焼きだった。
「昨日、命からがら帰ったら、父ちゃんが会社の若い人たちと全部見てたらしくてね。俺の目の前で二人とも死ぬかと思ったって泣いて……それで、ツテをたどって買ってきてくれたの。亀十のどら焼き。みんなで食べよ!」
「え、亀十!? いいの!?」
桜と桃子さんが、驚愕の声を揃える。
「もちろん! 美味しいものは、みんなで食べた方がもっと美味しいから!」
その笑顔がまぶしかった。
ほんと、この子はすごい。
「……生きてるって、いいね」
誰が言ったわけでもないけど、全員がうなずいた。
どら焼きの甘さが、胸の奥にまで沁みていく気がした。
そして俺はひそかに思った。——この時間が、もう少しだけ続いてほしい、と。




