第17話 電話
その夜。
夕食を終えて、俺はいつものようにコーヒーを淹れた。
桜は食べ終わったらとっとと自分の部屋に戻っていたから、残っているのは誠一郎さんと俺だけ。
誠一郎さんはダイニングのテーブルで新聞を手に取ろうとしていた。
そのとき、俺はずっと胸に引っかかっていたことを思い切って口にした。
「……あの、自分にも、召集令状って来るんでしょうか?」
誠一郎さんは新聞を半分に折ったまま、少し考えてから答えた。
「それは誰かに言われたのかね?」
「え、えぇと……少し前に桜さんが……。十九になったら軍隊に行くことになるから、志願したほうがいいんじゃないかって……」
「なるほど、そういうことか」
誠一郎さんはうなずいてから、穏やかな口調で続けた。
「結論から言うと、君には今の段階で徴兵通知は来ないよ。通知というのは、本籍地に届くものだからね」
「本籍地……ですか?」
「そうだ。君の本籍地はどこかね?」
「東京、です」
そう答えた俺に、誠一郎さんはちょっと苦笑してみせた。
「まあ、東京だろう。ただし――未来の」
「あっ……!」
「そう。さすがに軍も未来の本籍地にまで徴兵通知は送れない。だから、今のところ君は軍隊に行く必要はないというわけだ」
「そういうことだったんですね……!」
安心したような気持ちと、なぜか少しだけがっかりした気持ちが交じって、俺はちょっと複雑な気分になった。
「とはいえ、いずれ君もどこかで本籍を作らなきゃいけないだろう。その時は、そこに通知が届くことになる。まあ今すぐどうこうじゃないが、いつか考えなければならない問題だ」
誠一郎さんはコーヒーをひと口すすってから、続ける。
「もちろん君が志願すれば軍に入ることもできる。桜の言っていたようにね。志願兵は少なくないから」
「……」
「もっとも、私の見立てでは君はなかなか優秀だ。陸軍士官学校や海軍兵学校に合格して、士官になる道だってあるだろう」
そんなこと言われたのは初めてだった。驚きと戸惑いで、返す言葉が見つからなかった。
「ただ、軍隊に行くだけが国のためとは、私は思わない。そもそも君の国は、今の日本じゃない。未来の日本だろう?」
「それは……そう、です」
「帰りたいかね?」
「もちろんです!」
「どうやったら帰れるんだろうね?」
冗談っぽい口調だったけど、俺にはその問いが刺さった。ずっと考えていた。
「いろいろ考えたんですけど……さっぱり分かりません」
「私もだよ」
誠一郎さんは笑った。
「来たときと同じように、爆発に巻き込まれる……それが鍵だとしたら、空襲が頻発しているこの時代ではチャンスはいくらでもある。あるいは、私のつてを使って、軍の演習場で爆発に巻き込まれる手もある」
「いや、それはちょっと! 危なすぎますって!!」
俺は思わず声を上げた。誠一郎さんはそれを聞いて、腹を抱えて笑い出した。
「ははは、すまんすまん、冗談だ」
でもそのあと、彼は少しだけ真剣な表情になって言った。
「とはいえ、真面目な話として。戻れない可能性も考えておくべきだろう。方法が分からない以上、仮にだが、このまま君がずっとこっちの時代にいるという前提でも、今後を考える必要があると思う」
「……」
「うちに居てもらうのは全く問題ない。むしろ私は助かっている。しかし、君の人生がこのまま停滞してしまうのは良くない」
誠一郎さんは少し考えてから、こう言った。
「こちらで高校――君の時代で言うところの大学に進学してみてはどうか? 理工系の学生であれば、徴兵も猶予される。学費も含めて、必要なことは私がなんとかしよう」
――高校に行く。ここで、進学する。
このままずっと、こっちにいるってことだ。
胸の奥がザワザワして、鼓動が速くなっていく。
俺は……どうするべきなんだろうか。
◆◆
「光〜」
翌朝。
俺がキッチンで皿を洗ってると、久々に聴いた音と一緒に桜がスマホを持ってやってきた。
着信音が鳴りっぱなし……
「スマホ、なんかずっと音がしてるよ。中島悠人って、これなに?」
俺は桜とスマホを交互に見た。
心臓が止まりそうになる。喉がカラカラだ。
「……俺の友達。でも、なんで今……」
震える声でそう答えると、手まで震えてきた。
足も力が入らない。
「へー。友達の名前なんだ。スマホって、これどうなってるの?」
桜の手からスマホを受け取り、耳に当てようとしてやめた。
手が震えてうまく持てない。
スピーカー通話に切り替えて、机の上に置く。
「……おれだけど、悠人?」
十秒くらい、無音。
間違いだったのかと思った瞬間──
『光? ほんとにお前なのか?』
懐かしい声。
中島悠人だ。間違いない。
「そうだけど……」
『お前、今どこで何やってんだよ!』
一瞬だけ迷った。けど、もう黙ってる理由もない。
「浅草にいる。千束町の六丁目」
『じゃなんで家にも帰らない、学校にも来ないんだよ。みんな心配してんだぞ!』
「しょうがないだろ、今は昭和二十年なんだから。行けないんだよ、そっちに」
『……は? つまんねー冗談言ってる場合かよ、お前……』
「冗談言える状況かよ! 一ヶ月も会ってないお前に!」
思わず声が荒くなる。
「行けたら行ってるよ! 俺だって帰りたいよ!
……タイムリープしてるんだよ、俺。昭和二十年に!」
スマホの向こうで、悠人が黙る。
しばらくして、低く、絞り出すような声が返ってきた。
『……本当なのか?』
俺は音声通話をビデオに切り替えた。
画面に、困惑した悠人の顔が映る。
正月会って以来の顔だ。
気持ちが込み上げてくるのをぐっと堪えて、カメラを背面に切り替える。
家の中を写す。
そして、テーブルの上の新聞にズームした。
日付。「昭和二十年二月九日」
「こんなの、お前を騙そうと思えば用意できるんだろうけど。でも、俺がそんなことして、なんの得があるんだよ」
『……だな。ちょっと信じた、かも。……でも、お前どうするんだよ、これから』
「どうもしようがねーよ。帰りたくても帰れないんだよ!」
『……理科の鳩山に聞いてみるか。あいつ、確かオカルトも好きだったし、こういうの詳しそう』
オカルト……これってオカルトなのか?
でも、なぜか少し気が楽になった。
誰かに頼れるってだけで、こんなに違うんだな。
「頼むよ。他に方法が思いつかない」
『わかった。……でも、今回の通話もたまたまだったんだぞ。お前のアイコンが生きてたから、かけたら繋がっただけでさ。次はどうなるか……』
「それでも、頼む」
『あ、ところでさ』
「ん?」
『さっきチラッと映ったセーラー服の子……誰? すげー可愛かったけど、そっちで彼女でもできたのか?』
……うわ。しまった。
俺は慌てて目の前の桜を見た。
笑ってる。
でもちょっと不自然。
そうだよな。スマホが喋ってるだけでも昭和じゃ異常なのに、電話してカメラで映すなんて……説明してなかった。
「そ、それは後で話す。あとでこっちからかけ直す!」
通話を切って、ふーっと息を吐く。
「スマホさ、言ってなかったけど、通話もできるんだ。
話しながら相手の顔も見られるし。……悠人は、中学からの友達で、今も同じ高校。いいやつだよ。今度ちゃんと紹介する」
「……光、もしかしたら、帰れるのかもね」
桜の声が少し震えてる。
笑顔も、なんかぎこちない。
「それは……」
胸がチクっと痛んだ。
鳩山が方法を知ってるとは思えない。
でも、スマホが繋がった。
ってことは、完全に切れたわけじゃない。
帰れる可能性が、少しだけ見えた。
……でも、それって。
「鳩山って、ただの理科教師だよ? 桜のお父さんでもわからなかったのに」
「そ、そうだよね。……でも、よかったじゃない。私、ちょっと疲れたから部屋に戻るね」
桜の背中が、ふっと向こうに消える。
なんだろう。
あの背中、ちょっとだけ……寂しそうだった。
その夜、俺は何度も悠人に電話をかけようとしたけど──
スマホはずっと「圏外」のままだった。




