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第10話 桜と光 

え、えーと、どうしようか。

沈黙に耐えられなくなって、俺は桜に声をかけた。


「あの家に戻る?」


桜は、自転車が去っていった西の空を見たまま答えた。

「冗談でしょ。明日は学校だし、今日中に帰るの」


「でも、バス来ないし……」


「歩けばいいじゃない」


「歩く!?」


思わず声が裏返った。


「三時間も歩けば着くと思う」


「三時間か……」


「男でしょ!」


そう言って、桜は駅に向かって歩き出した。

そういう問題?と思いつつも、俺はついていくしかなかった。



舗装もされてない、のどかな田舎道。

右も左も畑か、枯れた田んぼばかり。

真冬なのに、日差しだけはやたらと穏やかで、鳥の声まで聞こえる。


たぶん一時間くらい歩いたころ。


神社の鳥居の前で、桜が立ち止まった。


「ちょっと、休憩」

「うん」


俺もザックをおろして水筒を手に取る。

桜が水をひと口飲んだあと、俺も空を見上げながら口を開いた。


「駅までは、まだあるよね?」


「あと二時間くらいかな」


桜が左腕の腕時計を見ながら言う。


「早く帰らないと」


水筒からもう一口、水を飲む。

そのタイミングで、ずっと気になっていたことを口にした。


「……深澤くんのことだけど」


ブッ!!


桜が口に含んでた水を吹き出した。


「いきなり何よ!!」


顔が真っ赤だった。


「ご、ごめん。いい奴だったなって思って」


桜は小さなバッグからハンカチを出して、バツの悪そうな顔で服をぬぐう。

どっちが恥ずかしかったのかは、わからない。

名前を出されたから? それとも吹き出した自分が?


「悪い人じゃないとは思うんだけど」


桜は立ち上がると、早足で歩き出した。


「ちょ、ちょっと待って!」


「早くしないと置いてくわよ!」


◆◆


ところが、しばらくすると桜の歩くスピードがだんだん落ちてきた。

気づけば俺の方が前に出ていた。

下を向いて歩く桜の背中が、少しだけ小さく見えた。


「……疲れた?」


「そんなわけないでしょ!」


でも、それから三十分後。


「休憩……」


桜は道端に座り込んだ。

もう限界っぽい。

俺もそれなりにキツかったけど、まだ余裕はあった。


女の子にこの荷物はキツいよな……と思いながら、空を見上げる。

太陽がちょっと傾いてきていて、流れる雲がゆっくり光を遮っていった。


「持つよ」


立ち上がって、桜のリュックを体の前に担いだ。


「大丈夫、俺まだ全然平気だから」


桜が驚いた顔をしたあと、小さく言った。


「あ、ありがとう……」


それからまた、ひたすら歩く。

家がちらほらと見えてきた頃には、桜も元気を取り戻していた。

道沿いの小さな雑貨屋の前で、三回目の休憩。


桜は「もう大丈夫!」と元気に言って、荷物を取り返した。


◆◆


駅へ向かう道は、線路のトンネルをくぐった先で左に曲がる。

それだけは覚えていた。

桜も俺の背後からうなずいてくれた。


よし、曲がろうとしたそのとき――


「その荷物はなんだ」


警官、二人。

白髪のこわもてと、妙にニヤニヤした若いの。


桜を振り返ると、両手を口に当てて固まっていた。

だめだ、桜をおいては逃げられない。



「え、ええと……食糧です。お米とか」


「正直なやつだな」


「こ、これから中学の先生に頼まれて学校に持って行くんです! 工場に行ってるやつらの分で、奉仕先から分けてもらったやつで……」


自分でも驚くくらい、スラスラと嘘が出た。


「中学? 浦中の生徒がそんな妙な背広を着てるわけないだろ」


「お、俺、北海道から転校してきたばっかで……制服まだなんです。さっきも深澤と坂田にからかわれました」


若い警官が白髪のこわもてに言った。


「ああ、坂田。二丁目の酒屋の次男坊ですよ」


「そうそう。あいつ、食い過ぎですよね」

俺は思い出して付け足した。


若い警官がプッと吹き出した。

年配の警官が若いのを渋い顔で睨む。

若い方はすっかりツボに入ったみたい……肩で息してる。


「わかった、もういい。気をつけて行け」

年配の警官はすっかり白けた感じで俺に言った。


「はい、ありがとうございます!」


坂田くん、ごめん……!


頭を下げて歩き出したところで、桜が小走りで追いついてきた。

俺のブレザーの裾を掴んで、ボソッと囁く。


「……浦中はこっち」


若い警官が怒られてる気配を背に、俺たちは迂回して浦和駅へ向かった。

そこから電車に乗り、上野へ。

路面電車を乗り継いで、ようやく上條家に戻ってきた。


空はすっかり夕焼け色だった。

帰りの電車では、桜も俺も、一言も喋らなかった。


玄関で靴を脱ぎながら、なんとなく言葉を探していたら――

桜がぽつりとつぶやいた。


「……ありがとう。あの時はもうダメかと思った」


「……あ、うん」


咄嗟に返事はしたけど、正直、ちょっと困った。


思った以上に遅くなってて、

夕飯の支度とか、洗濯とか、やることは山積みだった。


だから俺たちは、言葉を交わすことなく、流れ作業みたいに動いた。


晩ごはんは、荷物に入ってた豚肉で生姜焼き。

それに味噌汁とご飯。


食事中も、無言。


まるで音が吸い取られたみたいに静かだった。


ご飯をおかわりして、食器を片づけて、ようやく落ち着いた頃。


思い切って、声をかけた。


「えっと……上條さん」


桜が、ちょっと困ったように笑った。


「その“上條さん”ってやめてくれない?」


「え……どうすれば……」


一瞬、焦る。


「上條さんって、うちに四人いるし。紛らわしいのよ」


「たしかに、そうかも」


「それに、同じ家で暮らしてるのに、他人行儀なのもイヤだし」


「うーん……」


「桜でいいよ。私も君のこと“光”って呼ぶから。おあいこ、ね?」


「わ、わかった。……桜」


彼女はふわっと笑った。


「あらためて、よろしくね、光。今日はありがとう。本当に助かった」


その瞬間、

初めてちゃんと、桜の顔を正面から見た。


桜……美少女枠ってわけじゃないけど、普通に可愛い……。


なんだろう。

胸の奥が、少しざわついた。



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