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『昨日までの枯れた涙の結晶』

作者: 緋西 皐

 子供の頃から私には不思議な力があった。いわゆる超能力というものだろうか。いいや、きっと違うだろう。私にとってそれは窓の網戸に張り付く蠅のようなもの。見えた物体にそれを表現する文が浮かぶ、見にくい迷惑なものだ。

 例えばティッシュがある。物体だからティッシュって名前だけでも浮かんでくれればいいのに、長々と『空から落ちた涙の結晶の白たるに似た揺らぎ』など目玉に書かれれば、邪魔でその一枚も掴めない。それで鼻を噛むと、そこはきっぱりと『人の膿』とだけ書かれてなんか腹が立つ、私はそれを丸めて『ゴミのなる木の丸太』と表現されたゴミ箱に捨てる。

 あとそもそも読めない漢字が出てくることもあって目が黒くなるだけの仕打ちもされた。

 こんな日常を過ごしていると色々と面倒くさくなる。ある家を形容した一文はいまいちピンとこないだとか、集まった空のペットボトルを『空』『空』『空』と集まって書かれていて何があるかよく見えなくなったり、その上に『透明のペットボトルなのに集まった目隠し』と私を弄んでくる。ああ、面倒くさい。雨が降ればその一滴一滴に別の名前がついていたり、たまに音にも漫画みたいな文字が浮かんで静かでもうるさい。

 そんな私でもこころは見えない。やっぱり実体がないから、人を見たときに肌の表現が出てきて見えないとかじゃなく、その人のこころ、思っていることは全く見えない。表情や心情ははっきり出てくるけれど、なんでそうなったのか、全くわからない。だからその、はっきり出てくるばかりに、私はいちいち困惑させられる。

 それが積み重なって開き直ってしまったらしい。私は大学で心理学を専攻した。その得体のしれない文字列の意味を突き詰め、利用しようとした。それが今日、退学に終わったが、少し清々した。


 大学は退屈だった。高校よりも退屈だった。高校の先生が予習をしろというから、予習をすれば、授業の内容が空気よりも透明に存在感無くなって、ただ座っているだけになった。予習以上の授業はされないものだった。それで大学では予習せず、教授の話を聞いてみたものの、日本語かわからない支離滅裂な会話をするだけだから、ずっと本を読んでしまった。そして本を読むだけで十分と判明したから、やはり授業は座っているだけになった。こんな授業、出る意味があるのだろうか。『単位』と表現された椅子にいつも座った。

 サークルというのもあるらしいが、私はシャイだった。あとコロナがあった。あまり交友する機会がなく、友達もできず、私はずっと図書室に閉じこもっていた。そんなとき、院生の彼と出会った。彼もバイトがコロナで無くなったと、図書室で勉強することにしたらしい。私は彼と一緒に勉強した。

 彼はいわゆる理想の彼だった。顔も悪くなかったし、身体もちょうどいいくらいにほっそりしていた。性格はさらに理想的で、怒った姿を見たことないくらい優しかった。優しすぎた。

 私がはじめて彼の部屋に行ったとき、彼の身体は硬かった。『黒曜石の愛でるところ』と表現されるくらいに、頑丈だった。あんなに硬くなるものなのか。私は文目を疑った。彼の滴った汗の向こうの顔は邪魔だった文が足りないくらいに『好き』に染まっていた。冷める心を彼の吐息が必死に温めていた。

 でも彼はそこまでしても、私がそこまでしても、彼はその優しさのばかりに私を拒んだ。三年の雪の降る夜。暗い帰り道。彼は私と手を繋がなくなった代わりに手袋を渡してきた。「君を幸せできない」と彼は告げた。『嘘の顔、涙を裏返したような真剣な顔』が浮かんでいた。私はその訳を訊かなかった。彼には余裕が無いと知っていたから、いや、突きつけられたから。これ以上情けない彼を私は暴きたくなかった。

 私はそれから図書室に行かなかった。きっと彼も行っていないだろうけれど、私も行かなかった。大学の廊下で彼を見かけたとき、彼に他人のような顔をされたことを気にしたわけではない、私にはもう勉強の意欲が無くなっていた。私は彼のこころを知ろうとした。そしておおよそ知った。そこには文も学問も無いとわかった。そして抉られるように胸の奥に刻まれた。目が眩んで中身を知ったところで、得られるものはないと。


 私はこの駄文を一生空に浮かべる。私はたまに流れる思い出の涙の形容をみせられるだろう。それでも少し変わったことがあった。あの積み重なったペットボトルの表現が『昨日までの枯れた涙の形

』に変わった。私の目玉に落書きする物書きがたまに励ましてくれるようになった――ノートパソコンに反射した私の少し緩んだ顔には『大きなお世話だ』と書かれていた。

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