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歴史物

師走の本所一ツ目、吉良の武士道「吉良左兵衛と山吉新八郎――忠臣蔵異聞」

作者: 東郷しのぶ

 元禄十四(1701)年の三月に、江戸城の松の廊下において、浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷におよんだ時の、各人物の年齢です(数え年なので、現在の年齢の考え方だと、それより1~2歳は若くなります)。


・浅野内匠頭長矩(あさの たくみのかみ ながのり)……赤穂藩の藩主。35歳。

・吉良上野介義央(きら こうずけのすけ よしひさ)……高家旗本である吉良家の当主。61歳。


・吉良左兵衛義周(きら さひょうえ よしちか)……吉良義央の養子(実の孫)。16歳。

・山吉新八郎(やまよし しんぱちろう)……吉良家の家臣。義周の側近。31歳。


※「公儀」とは「幕府」のことです。

 元禄三(1690)年、上杉春千代は吉良左兵衛義周(よしちか)と改名し、米沢城から江戸の吉良邸に入った。

 義周は五歳。養父となる吉良上野介義央(よしひさ)は、義周の実父である上杉綱憲(つなのり)の父であり、義周は〝祖父の養子〟となったわけである。


 上杉家の武士である山吉新八郎は、二年後の元禄五年、吉良家の家臣となった。義周の側近になることを、上杉家から命じられたのだ。

 時に山吉は二十二歳。彼は上杉家でも有数の剣の使い手である。


 主従の関係にありながら、山吉は義周から兄のように慕われた。


 元禄十四(1701)年の三月。

 江戸城松の廊下で浅野内匠頭長矩(ながのり)が吉良義央に斬りつける大事件が起こった後、義周は山吉に「剣を教えてくれ」と言い出した。


左兵衛(さひょうえ)様はいずれ、吉良家の当主となられます。高家である吉良家は、公儀の典礼や儀式を(つかさど)るのが、そのお役目。武芸は不要であると思われますが」


 事実、これまで義周は能や華道を熱心に学ぶ反面、武術には関心を示してこなかった。

 それは、義周が幼い頃より(やまい)がちであったからでもあるが……。


内匠頭(たくみのかみ)は切腹となり、赤穂浅野家は取り潰された。内匠頭の遺臣が父上を襲ってくるかもしれない」

「おそれながら、左兵衛様は上野介様と並ぶ我らが大将。危急の際に大将がなすべき第一は、生き延びることです」

「たとえ私や父上が生き残ったとして、赤穂の遺臣たちが襲来した折に戦わねば、世の人に臆病者と(そし)られ、公儀から(とが)めを受けるのではないか?」


 元禄は、戦国の気風が人々の間に残っていた最後の時代である。

 戦国の武士にとっては「勇敢であること」が最高の道徳であり、最大の恥は「臆病であること」であった。

 戦国の名将・武田信玄は、二人の家臣が素手で喧嘩をしたと聞き「勝負で武器を用いないとは何ごとか。そのように生き汚い者どもは(はりつけ)にせよ」と命じて、二人を処刑した。


 この信玄の逸話は「これこそが正しい武士のありよう」として『葉隠』にも載せられているのだが、その『葉隠』の内容を口述した佐賀鍋島の武士・山本常朝は、吉良義央より約二十歳も年下だ。


 無論、そういった戦国の考え方を「殺伐(さつばつ)にすぎる」と否定し、泰平の世を維持するために「秩序を守る事こそ重要」とする武士も、元禄時代には多かった。他ならぬ将軍・徳川綱吉が、その代表的人物であり、彼は武家諸法度の第一条「文武弓馬の道、専ら相たしなむべき事」を、天和三(1683)年に「文武忠孝を励まし、礼儀を正すべき事」と改めている。


 元禄は、価値観の激しい衝突があった時代なのである。


「左兵衛様は、松の廊下での上野介様のお振る舞いに、不満を覚えておられるのですか?」

「父上の対応は正しかった。だからこそ上様から『神妙である。傷の治療に専念するように』とのお言葉を賜ることができた」

「ならば、それで良いではありませんか」

「だが新八郎。吉良家は高家であるとはいえ、あくまで武家なのだ。公家ではない」


 もしも旧浅野家の浪士が集団で吉良邸に討ち入ってきたら……義周は養父の義央を守るために、自ら剣を振るって戦うつもりだ。義周は、武士である(ゆえ)に。

 しかも彼の実の父である綱憲は、武勇の(ほま)れ高い上杉家の当主なのである。


 実父のためにも養父のためにも、義周は臆病な振る舞いをすることは断じて出来ない。


 義周の熱意に押されて、山吉は頷いた。

「承知しました。左兵衛様」


 山吉の同僚で、ともに上杉家から吉良家へ遣わされていた新貝弥七郎も、義周への武芸の伝授に協力してくれた。


 義周は山吉や新貝から、刀や槍、薙刀(なぎなた)の使い方を教わった。

 武芸を習いだした義周を見ても、義央は何も言わなかった。


 元禄十四年十二月に義央は高家職を辞して隠居し、義周に吉良家の家督を譲った。

 その年の九月、二人は丸の内の呉服橋内から、隅田川の向こう側にある本所(ひと)ツ目の屋敷へ移り住んでいる。


 新しい屋敷で、山吉は義周に尋ねた。

「左兵衛様は、どなたかとご縁組みしようと、お考えになられないのですか?」


 吉良家の当主となった義周が、いつまでも独り者なのはおかしい。

 義周は微笑したまま、言葉を発しなかった。


 本所への屋敷替えに際して、義央は妻の富子を、彼女の実家である上杉家の下屋敷へ戻している。そして義周は妻を(めと)らない。

 本所の吉良邸で、家来が住む長屋(ながや)は別として、義央や義周が寝起きする本屋(ほんおく)に、女性の姿は全く無かった。


 赤穂浪士による討ち入りがあった場合、その戦いに女性を巻き込みたくはない――義央も義周も、そう思っている。決着は、男たちだけでする。それが吉良の武士道なのだ。


 義周の武芸の腕前は、山吉や新貝の指導のおかげもあって、次第に上達していった。


 元禄十五年十二月十四日の夜、赤穂四十七士は吉良邸へ討ち入った。

 義周は薙刀を振るって、勇ましく戦った。眉間(みけん)を斬られ、目に血が入る。それでも果敢に敵へ挑む義周であったが、右肩に深く斬り込まれ、胸に激しい痛みが走った。


 力が尽きかけ、今にもトドメを刺されそうになった義周のもとへ、助けに来たのは山吉新八郎だ。

 山吉と視線を交わし、義周はヨロヨロと動き出した。


「父上は、どうしておられる……」


 養父の命を守ろうと、暗い屋敷の中を歩く義周。けれど出血が止まらず、彼は意識を失った。

 一方、山吉新八郎はその夜、長屋で眠っていたが、襲撃の気配を察して、いち早く戦闘に参加した。彼の奮戦ぶりは凄まじく、多くの赤穂浪士と斬り合って、相手の一人を池に叩き落としている。


「左兵衛様を、お守りせねば!」


 危機一髪のところで義周のもとへ駆けつけた山吉は、義周を逃がし、眼前の赤穂浪士と斬り結んだ。山吉は浪士を袈裟(けさ)懸けに斬ったが、刀が弾かれる。


鎖帷子(くさりかたびら)か!」


 先ほどの別の浪士との戦いでは、突きを繰り出してみた。しかし、大きな痛手を与えることは出来なかった。赤穂浪士たちは鎖帷子や(ひたい)鉢金(はちがね)など、完全な武装をして吉良邸へ乗り込んできている。

 それに対して吉良側の武士は、防具なしで戦わねばならない。身体中に傷を負った上に顔面を斬られ、ついに山吉も気絶した。


 義周や山吉が意識を取り戻した時には、既に戦いは終わっていた。

 吉良上野介義央は討たれ、浪士たちは引きあげていた。


 吉良側の死者は十七人。負傷者は二十八人。

 赤穂浪士側に死者は無く、負傷者は数人。そのうち歩けないほどの重傷を負った者は一人だけだった。山吉に高股(たかもも)を斬られ、池に落とされた近松勘六である。


 新貝弥七郎も戦死していた。握って離さなかった刀の刃には浪士の血がつき、腹に十文字の槍が突き刺さった状態で絶命していたという。いかに新貝が良く戦ったかが、分かる。

 後に赤穂浪士が証言したところによると、吉良義央も、討ち取られる最後の瞬間まで、脇差しを抜いて抵抗した。老齢であっても、彼も武士であったのだ。


 襲撃後、幕府の役人が検分(けんぶん)のために訪れた際、義周は重傷の身であったが、精神の力を振りしぼり、面会した。

 義周の態度は立派で、幕府の役人たちも感嘆したと伝えられる。


 赤穂浪士の討ち入りにおいて、吉良側の武士たちも精いっぱい戦ったのは間違いない。

 しかし――


 元禄十六(1703)年の二月、大石内蔵助をはじめとする赤穂浪士たちに幕府が切腹を申し付けたのと同日。療養中であった義周は評定所に呼び出され「討ち入られた際の対応が不届きであった」との理由で、領地の没収と信州への配流(はいる)を言い渡された。

〝養父・義央の首をとられた。にもかかわらず、自らはおめおめと生き残った義周は武士失格である〟というのである。


 信州諏訪(すわ)家の領地へ囚人同然の扱いで送られた義周に、山吉は付き従った。


 その地の幽閉(ゆうへい)場所にて。


「左兵衛様……」

「新八郎。そのような顔をするな」

「ですが、公儀のなさりようは、あまりにも理不尽」

「わが屋敷を襲った浪士たちは、残らず切腹になったと聞く。公儀はこれにより〝喧嘩両成敗〟をなしたつもりなのであろう」


 義周は、淡々と話す。


「新八郎。私は赤穂の浪士たちを恨んではいない。私たちには私たちの武士道があったように、彼らには彼らの武士道があったのだろう」

「けれど、赤穂の者どものために、上野介様は討たれ、左兵衛様はこの地にお預けの身となり、吉良のお家は――」

「あの夜の合戦に、吉良家は負けたのだ。(いくさ)に敗れた家が無くなるのは、当然のことだ。……それより新八郎は、いつまでも私に仕えなくても良いのだぞ? 上杉家は、お主が帰参を願い出れば、快く受け入れると申しておるそうではないか」

「拙者は、何があっても左兵衛様のお側を離れませぬ。どこまでも、お供いたします。それが拙者の武士道です」

「新八郎は頑固者だな。……感謝する」


 顔に大きな負傷の跡が残っている山吉を見て、義周は(ほお)を緩めた。それは喜びの表情だった。


 監視される生活を送ること、三年。

 元来病弱であった義周は、戦いで負った傷も充分に癒えず、宝永三(1706)年の一月に、二十一歳の若さで死去した。


 臨終において、義周は高熱に苦しみながらも山吉に語りかけた。

「新八郎……私は、正しき武士で、あり得ただろうか?」

「はい。左兵衛様は、誰よりも立派な武士で御座いました」


 義周の遺体は取り捨てるようにと幕府は命令してきたが、山吉は所持する金子(きんす)の全てを寺へ差し出して、自然石の墓を建て、そこに義周を埋葬した。


 その年の六月、山吉は米沢上杉家のもとに赴き、再び仕官した。初めは五石三人扶持(ぶち)という微禄(びろく)であったが、山吉は懸命に職務に励んだ。彼は己が有能で清廉(せいれん)な武士であることを示して『吉良義周は、優れた若者であったに違いない。あの山吉が、共に配流されるのを望んでまで、仕え続けたのだから』と世の人々に証明しようとしたのだ。

 山吉新八郎は、人柄と能力を上杉家に認められて出世していき、最後は二百石を領する身分となった。


 忠臣蔵は《赤穂浪士たちの武士道》の物語と言われる。

 しかし吉良側でも、己が信じる武士道を(つらぬ)いた者たちが居たことを忘れてはならないだろう。

 了



 ご覧いただき、ありがとうございました。


※基本的に史実に沿って話を進めていますが、物語的な改変を行っているところもあります。

 一例を挙げると、信州諏訪家に配流になった吉良義周には、山吉新八郎の他に、左右田孫兵衛という人物も付き従っているのですが、彼は本作には登場しません。


※赤穂浪士が吉良邸に討ち入ったのは「寅の上刻」「七ツ過ぎ」とされ、これは現代の時刻表示だと「十五日の午前四時頃」になりますが、当時の庶民感覚では「日付が変わるタイミングは、明け方(日の出)」である(天文学に詳しい知識人は別でしょうけど)ため、自分としては「十四日の深夜に討ち入った」という風に解釈しています。

 実際、赤穂浪士の証言や同時代の記録では「討ち入りは十四日の夜」になっています。



 赤穂事件における浅野(赤穂浪士)側の視点で『元禄の雪の日、赤穂浪士の商い談議』という短編を書いています。( https://ncode.syosetu.com/n5812jw/ )

 そちらのほうも見ていただけると嬉しいです!

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赤穂浪士のお話といっしょに拝読しました。 めちゃめちゃおもしろかったです! 美化されまくった悲劇の忠義者団体、というだけではない個としての赤穂浪士の心情にも、それぞれの思惑があったんだろうなあ、とし…
二作品、とても楽しく拝読させて頂きました! 吉良上野介さんは元々地元での功績が多い人なので、こちらのお話は吉良さんの地元の人にはきっと嬉しいものだと思います。(紹介してあげたい) 赤穂事件では浅野さん…
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