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凶馬ザトメニエ

作者: take

「なあ爺さん、ちょっといいか」


 無意識にしていた貧乏揺すりを止めて、俺は隣に座る老人に話しかけた。


 老人の名はイワン、姓は知らない。前に聞いた時は本人も知らないと言ってい

 た。


 正確な年齢もわからないが俺の祖父よりも年齢は上だろう。伸ばしっぱなしの

 白髪と髭のせいで顔すらもよくわからない。


 こんな得体の知れない人間をよく雇っていているものだと思うがアレクセイ様

 はこの老人を甚く信頼なさっている。こんな身なりだが馬に関して言えば並ぶ

 者のない程の目利きだと言う。


 かつて戦場で野垂れ死ぬだったところを先代に助けられたというのが本人の話

 だ。それ以来、ロシャドフ家の厩役として働いている。


「どうした、金なら貸さねえぞ」


「爺さんに金を借りるようになっちゃおしまいだろ。そんな話じゃねえ」

 

 イワンの軽口を無視して本題に入る。


「日食の夜には気を付けろ、ってどういう意味だ」


 日食の日は気を付けろ、今朝旦那様が仰っていた。


 アレクセイ・ロシャドフはこの国有数の軍人貴族の当主、本来であれば末端の

 使用人の俺が言葉を交わすことなんてあり得ない存在だ。


 ロジャドフ家は元々、軍人ではなく馬喰の家だったと聞く。馬喰としての経験

 と長年に及ぶ品種改良の結果ロシャドフの馬は賢く強靱な肉体を持つ。馬とい

 うものは日常生活にも欠かせないが、軍隊にも重要だ。


 物資の運搬から騎兵に至るまで、多ければ多いほど、強ければ強いほど良い。

 名馬を産出するだけではなく、その馬の扱いにも長けていたロシャドフ家が国

 にとって欠かすことに出来ない存在になるのは必然だった。


 ロシャドフ家の出身者が馬を手足の如くに操る様子を見て誰もが賞賛の声を挙

 げた。


 「人馬一体」それがロシャドフ家の教えだった。


 そうした経緯もあってかロシャドフ家の人間は馬は当然ながら、その世話をす

 る厩役にさえ敬意を示した。それは当主であるアレクセイ様ですら例外ではな

 かった。


 今日の夜は日食だという。学のない俺にはよくわからないが、月だか太陽だか

 が隠れて見えなくなる空のことだと聞いた。はっきり言って、だからどうした

 言う感想しか浮かばない。月や太陽が見えなくなったからといって無くなって

 しまう訳でもないだろう。星だって昼は見えないではないか。何が違うのか。


「日食は凶兆の前触れと言ってな。お前にはわからんだろうが、旦那様は色々と

 お気遣いなさっているのさ」


「そんなもんかね」


「そんなもんさ」


 イワンの言葉を聞いて一応納得する。人の上に立つ旦那様には俺程度では想像

 も出来ないような悩みも多いだろうし、周りにもそういったことを気にする人

 間もいるだろう。


 馬達の世話の追われている俺が考えても意味のないことだ。


 そういえば、と作業が一段落した俺は再度イワンに声を掛ける。


「どうした。余計なお喋りに夢中になって適当な仕事をしたら、いくらお優しい

 旦那様でも許してもらえねえぞ」


「その心配が余計だってんだよ。俺は、俺があんたに遣ってる気の何倍も気を遣

 って馬達に接してるよ」


「それは結構だが、老人は大切にするもんだ」


「今日、アレクセイ様の子どもが生まれるらしいじゃないか」


 そんな何気ない俺の言葉に対して、イワンの目に力が入った。


「そうか、今日か」


「どうした爺さん、おめでたい話じゃねえか」


「まさかとは思うが、いやしかし」


 俺を無視して、何やら独り呟いている。その様子には只事ではない気配が感じ

 られる。


「何をそんなに心配してんだよ。あんたも日食が不吉だなんだと思ってる口か。

 あんたも意外と」


「聞け」


 イワンは俺の言葉を遮った後、作業の手を止めて熊手を地面に置いた。


「これが老いぼれの杞憂ならそれに越したことはないが。旦那様が仰っていた、

 日食には気を付けろという言葉の意味を教えておく。今日、何が起こってもい

 いようにな」


 そうして話始めた。


 今から30年前、その時も日食が起きた。


 その日はいつも通りに厩で働いていた。一頭の牝馬が産気づき、その対応に当

 たっていた瞬間に日食が始まった。


 瞬く間にあたりは夜のように暗くなり手元すらも暗闇に包まれ、松明を用意す

 る為にその場を離れた。


 松明に火を付けて牝馬の元へ急ぐと二つの影が蠢いていた。自分が離れた間に

 出産したのか、特に問題 はなかっただろうかと明かりを掲げた瞬間に驚愕し

 た。


 炎に照らされた先にいたのは一頭の馬、周囲の暗闇に溶け込むような漆黒の馬

 体と燃えさかる紅炎のような赤い瞳。全てを見透かされているような瞳に魅入

 られ動けなかった。


 数え切れないだけの馬を見てきた自分でも見たことのないような馬だった。日

 食が終わり周囲が明るくなって状況が把握出来た。


 今生まれた赤ん坊とは思えないような体躯、羊水で濡れ黒く光る毛並み。横た

 わる母馬の腹は裂け事切れていた。これは本当に馬なのか、何か途方もない化

 け物が馬に宿ったのではないか。


 そう思っていた矢先、それは厩の柵を軽々と飛び越え去って行った。


 イワンがそこまで話すのを聞いて俺は口を挟んだ。


「つまり、日食の時にそんな化け物馬が生まれちまったって話かい」


「まだ続きがある。黙って聞いてろ」


「老人の話は長くてかなわねえな」


「いいから聞け。その日は旦那様が生まれた日でもあった。お前は知らんだろう

 が、旦那様にはドミトリー様という双子の兄がいたんだ。だが今はいない、何

 故かわかるか」


「病気か何かで死んじまったのか」


「あいつに殺されたんだ。日食に生まれたあの化け物はこの厩を逃げだしてから

 行方は知れなかった。俺はあの化け物が逃げ出した後、すぐに大旦那様、アレ

 クセイ様の父上に報告した。大旦那様もそんな馬を野放しにするのは危険だと

 判断して山狩りも行ったが遂に見つからなかった。それから3年が経った頃に

 あれは起こったんだ。ロシャドフ家は子供が3歳になった時から馬との訓練が

 始まる。それは旦那様達も例外ではなかった。そして初めての訓練の日、あい

 つが現れた。忘れるはずもない、ロシャドフの馬と比べても一回りも大きい巨

 躯、全てを見透かすような赤い瞳。その瞬間、旦那様方の護衛の一人は旦那様

 とドミトリー様の馬に鞭を入れて逃がそうとし、もう一人はあの化け物に向か

 っていった。あの場の誰もが理解していたんだ、こいつは危険過ぎると。向か

 っていった男はロシャドフ家の指南役の武人だった。人馬ともに当代随一と呼

 ばれていた、それをあの化け物は一足でこともなげに踏み潰した。俺たちが呆

 気に取られる中、あいつはドミトリー様に向かっていった。もう一人の護衛も

 簡単に蹴散らして、あいつはあっという間に追いついた。その後何をしたと思

 う?あいつは乗っている馬の後ろ足に噛みついたかと思ったら、そのまま持ち

 上げて地面に叩きつけたんだぞ?そんな馬鹿な話があるか。それも何度も。俺

 はその間何も出来なかった。ドミトリー様とその馬を殺して満足したのか、俺

 のことは殺すに値しないとでも言うようにあの赤い瞳で一瞥した後に去って行

 った」


 そこまで一息に話したイワンは明らかに平静を失っている。手も足も震え、滝

 のような汗を流している。


「それでその後はどうなったんだ」


「どうもこうもない。その後は大旦那様は討伐隊を組織したものの捕まえること

 は出来なかった。大勢で動けば見つからず、少数で動けばあの化け物に皆やら

 れちまった。理由はわからないがあの化け物が襲ったのはロシャドフの家だけ。

 他には何の被害もなかった。数年が経過する頃には大旦那様も諦めて、ロシャ

 ドフ家に起こった不幸な事件として忘れられていった」


「その化け物がまた現れるってのか」


「それはわからん。だから杞憂であってほしいと言ってるんだ。あれから30年

 経つんだ。普通に馬ならとっくに死んでいるか、生きてもいてもやっとだろう。

 だがあの化け物だけは想像を越えている。何があってもおかしくはない。だか

 らお前に話しをしたんだ。もしあいつがまた現れたら、逃がすわけにはいかね

 え。ここで必ず殺すんだ」


 厩の周辺には多数の篝火を掲げ、武器と防具も用意した。


 イワンの語る化け物馬、まさか嘘ということはないだろうが信じがたい話だっ

 た。


 そんな化け物が本当にいるものだろうか。それもその化け物はロシャドフ家に

 のみ危害を加えるという。


 ロシャドフの屈強な馬を振り回すような巨躯と怪力、敵の多寡を判断して行動

 する知性。しかもロシャドフに対して明確な敵意を持ち、無関係の者は襲わな

 いという理性。


 あまりにも常識からかけ離れている。それは最早馬とは言えまい。馬の姿をし

 た悪魔かなにかだ。


 イワンの爺さんも歳だからな、訓練中にドミトリー様に起きた不幸な事故や戦

 争の記憶が混ざっちまってんじゃないか。


 そんなことを考えてながら足を揺する。だったら出来の悪いお笑いみたいな話

 だなと可笑しくなった。


 本当は理解していた。


 イワンの言うことは全て真実であるのだと。


 勘違いであってほしいという願いであること。


 この揺れは貧乏揺すりではなく震えであること。


 篝火に炎が揺らめく。先ほどから寒気が止まらない。何かが近づいている。


 隣のイワンを見ると彼も同様に震えている。


 近くに、いる。あの化け物が、馬の姿をした悪魔がこちらを伺っている。


 暗闇が訪れる瞬間を待っているのだろう。


 畜生が、来るなら来やがれ。


 そう呟いた時、背後で凄まじい音が響いた。


 この音は聞き覚えがある。蹄で何かを蹴りつける音。


 そう思って音のした方向を向いた時、闇が訪れた。


 来る。


 そう思って振り直った時、篝火のすぐ近くを巨大な影を通り過ぎた。


 影が通り過ぎた途端に篝火は倒される。倒された篝火に咄嗟に駆け寄った時

 に自らの過ちに気が付いた。


 これは罠だ。俺とイワンの意識が倒された篝火に向いた瞬間、影は他の篝火

 へと向かっていた。


 そうして瞬く間に全ての明かりが失われてしまった。


 用意していた松明に手を伸ばし、残り火で点ける。


 どこに行きやがった。


 松明を頭上に掲げて周囲を見渡す。


「あそこだ!」


 イワンの叫び指を指す方向を照らす。


 距離が離れていて姿をはっきりとは確認できないが、巨大な影が別の影と一

 体となり激しく揺れ動いている。


 あの化け物が、そこにいた馬を叩き殺していた。


 ロシャドフの強靱な馬を振り回すなんて出来るはずがない。そう思っていた

 過去の自分をあざ笑うかのように影が動き、厩が揺れる。


「しっかりしろ、いくぞ」


 イワンは呆然としている俺の頬を張って進んでいく。


 自分を不甲斐なく思いながらも彼の後ろをついて行くと、まもなく影は動き

 を止め厩は静かになった。


「おかしい」


 イワンが言った。


「こちらの松明に反応してねえ」


 確かにそうだ。


 あいつはまず篝火を標的にしていた。


 にも関わらず、今は己に近づく松明に意識を払っていない。


「どういうことだ」


 俺とイワンは慎重に進む。


 その影の姿を確認出来る場所までたどり着く。


 夜に溶け込むような漆黒の毛並み。見上げるような巨躯。


 こちらから姿が確認出来るということは向こうも気が付いているはず、だが

 あいつはそっぽを向いていた。


「ふざけやがって!」


 イワンは叫びながら飛び出して首元を切りつけ、鮮血が降り注ぐ。


 それでもあいつは動かなかった。


 覚悟を決めて飛び出したイワンだったが、予想外の反応に拍子抜けする。


 イワンは様子を伺いながら松明を掲げると眼があった。


 そこにあったのは紅炎のような赤い瞳。


 ではなく、白濁し何も写さない虚ろな瞳だった。


「死んでいる」


 イワンはその様子を見て言った。


 イワンは何十年も馬を見続けてきた男、生死を見誤ることは考えられない。


 この化け物は確かに死んでいた。


「俺が切りつける前には死んでいたようだな」


 馬の周囲を周りながら観察を続ける。


「30年生きていた上、死に際にあれだけ暴れるとは」


 やはりいとんでもない化け物だ、とイワンは言った。


「しかし、何のためにここに」


 そこまで言ってイワンは松明を手から落とす。


 下方からの炎に照らされたイワンの顔は青ざめ震えている。


「おい、爺さん。どうしたってんだ」


 そう声を掛けて、イワンの目線の先を追う。追ってしまった。


 そこには蠢く小さな影。


「そんな、馬鹿な」


 小さな影はゆっくりと立ち上がる。


 見るな。これ以上これを見てはいけない。


 そう思っているのに目が離せない。


 影は首を上げこちらを見据える。


 そこには羊水で濡れ黒く光る毛並み、そして燃えさかる紅炎のような瞳が

 俺とイワンを写している。


「殺せ!」


 イワンが叫び俺が槍を突き出すのと、影がイワンの首に噛みつくには同時

 だった。


 槍が右目を貫く。


 だがイワンの首に噛みついた奴の勢いは止まらず、身を翻したかと思うと

 俺に目掛けてイワンの身体を叩きつけた。


 強い衝撃に意識を失う直前に見たものは、暗闇が晴れて去って行く漆黒の

 馬。


 意識を失う直前の俺に聞こえたのは。


 ザトメニエ、というイワンの最期の言葉。


 遠くからの響く赤ん坊の産声。


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