116ー愛おしい
そして馬車はすぐに目的の家に到着した。なにしろ同じ貴族街の中にある家だ。
馬車を使わなくても、徒歩でいける距離を態々馬車で向かう。それにも理由があるらしい。
そんなこと俺は気にしない。どんな理由だろうと、無視して明日から通うんだと思っている。
「さあ、ラウ。着いたわよ。怖いお顔は駄目よ」
「あい」
ふぅ~、マジでドキドキするぞ。緊張して顔が強張ってくる。
「ほら、ラウ。ニコッとしてちょうだい」
母にほっぺを両手で挟まれた。プニュッとお口がタコさんみたいになってしまう。
「大丈夫よ、母様が一緒なのだから」
「あい」
母の温かい手がほっぺをモミモミしてくれる。よし、大丈夫だ。これで緊張も解れた。
「ミミ、馬車を降りたら喋ったら駄目よ」
「わかってるみゃ」
俺の肩の上で、ミミが返事をする。ちょっぴり不安なんだけど。ついポロッと喋っていまいそうだから。
「みゃ! みみはかんぺきみゃ!」
「うん、おねがいね」
「まかしぇるみゃ!」
バットもどこかにいるのだろう。見つからないようにしてくれよ。
なんだか俺って、まだ3歳なのに秘密だらけじゃないか。なんて思っていた。
「さあ、行きましょう」
馬車の扉が開かれ、母が先に降りる。それに続いて俺が降りていく。まだちびっ子だから、一緒に付いてきたうちの護衛の人の手を借りなければならない。
馬車から降りると、見覚えのある顔が並んで出迎えてくれた。俺が覚えているよりずっと若いのだけど。
アコレーシアの両親と兄だ。そしてその中央に、可憐な花が咲いたかのような小さな令嬢が立っていた。アコレーシア・クローバ、通称アコだ。
淡いブルーのふんわりとしたワンピースに、同じ色のリボンを濃いブロンドの髪に飾っている。クリッとした眼がとってもキュートだ。
キュートなんだけど、怒らせたら怖いんだ。俺はいつも小さくなって、謝るしかなかった。
前の時の俺はちょっぴり斜に構えてしまう癖があったから、そんな時はいつも注意された。もっと素直になりなさい。なんて、母親みたいなことを言われたりもした。
いつもはホワホワとした空気感の子なのに、筋の通らないことはしない真っ直ぐな人だ。そこがまた良いんだ。
なのに、そっと抱きしめると耳まで真っ赤にして照れるんだ。壊れそうに華奢な身体を、優しく腕の中に閉じ込めた。ずっと俺が守っていくのだと決めた人だ。
そんな前の時の思い出が、幻影のように浮かんでくる。
「今日はお招きいただきありがとう」
「アリシア様、お久しぶりですわ。お元気そうで安心しました」
「本当ね、会えて嬉しいわ」
母と夫人が軽くハグをした。それほど、仲が良いんだ。
それに母とは、なかなか会えなかったのだろう。夫人が少し涙ぐんでいた。それを見ると、母は不自由な暮らしをしているのだろうと思う。それでも父に嫁ぐことを選んだんだ。いや、父が乞い願ったからか?
「まあ、小さなお姫様ね。とっても可愛らしいわ」
「ふふふ、ありがとう。緊張しているみたいなのよ。アコ、ご挨拶しなさい」
「あい、あこれーしあれしゅ。きょうは、おこしいたらき、ありがとうごじゃいましゅ」
ああ、そこにいる。小さいのにアコレーシアだ。いや、言葉が変なのだけど。
俺が覚えているアコレーシアは17歳だった。もう立派な令嬢だ。可憐な令嬢と評判だった。
そのアコレーシアがまだちびっ子だ。思わず俺は前に出てしまった。
「はじめまちて、らうれしゅ。とってもかわいいおひめしゃまにこれを」
「あ、ありがとう」
元々薄っすらとピンク色だった頬をもっとピンク色に染めて、アコレーシアは俺が差し出したフリージアの花束を受け取ってくれた。
「まあ、ラウったら」
「ふふふ、まるで可愛い王子様だわ」
母と夫人がそんなことを言っていたけど、俺はもう耳に入らなかった。
目の前にあのアコレーシアがいるんだ。生きている。やっと会えた。いや、まだ数年は会えないと思っていたのに、もう会えたんだ。俺は心が一杯になって、花束を手渡したまま固まってしまった。
胸が熱くなり、何かが込み上げてくる。こんなに愛おしかったんだと、再認識する。
今すぐに抱きしめたいと衝動に駆られるのを、ぐっと手に力を入れ我慢する。
前の時、一緒に過ごした日々が頭を過ぎっていく。フワリと柔らかい風がブロンドの髪を撫でた時に、17歳のアコと目の前にいる3歳のアコが重なった。
「ラウ、ご挨拶しなさい」
「あ、あい。かあしゃま。らうるーくれしゅ。きょうは、おまねきいたらき、ありがとうごじゃいましゅ」
「ようこそお越し下さいました。ラウルーク様はアコと同い年ですわね」
「らうと、よんれくらしゃい」
「よろしいのですか?」
「あい」
ちびっ子とはいえ、格上の家の嫡男だ。だからそんな対応になってしまう。でも俺にはそんなの必要ない。前の時にも何度も会ったアコレーシアのご両親だ。
父親がこの国の宰相補佐をしているドミニク・クローバ侯爵だ。サラッサラなシルバーの髪に栗色の瞳の穏やかそうな人だ。
実際、この人が宰相を補佐しているから、揉め事がないとさえ言われている。人をまとめるのが上手い人だ。