ココアな夜
お気に召しましたら、評価いただけると、幸いです。
由里香は、ココアのなかに浮かんだチョコレートチップをスプーンですくうと、注意深く、舌の上にのせて味わっていた。
「あー、しあわせ」
唐突に口にした言葉のとおり、彼女は至福に満ちた表情で、自分の世界に浸って、側に居る僕の存在を忘れていた。窓から射す陽が、半袖のセーターとスパッツ姿の彼女の豊かな肢体を浮き彫りにしている。
陽射しは、衣類やCDのケースが散乱した狭い室内に散っていたが、空気はうすら寒い。
僕は彼女をたしなめるように言った。
「もう、朝から三杯目だよ」
由里香は、黙って、テーブルの上でカップのスプーンを回している。
一か月前、たまたま居酒屋で、僕が食べ切れなかった焼き鳥を隣り合った彼女にすすめたのがきっかけで、彼女は僕の部屋に転がり込んできた。彼氏と別れ、友達の家を転々としていたのだという。
テレビを見ているときに、ぽかんと口を開ける癖や、体をくの字に曲げてうたた寝をする姿には幼さが感じられるが、未成年ではない。最初の晩、用心深い僕は、その点は何度も確認した。というと、まるで僕が不品行を働いたように聞こえるが、きっかけを作ったのは彼女だ。
風呂上がりのバスタオル姿で膝を折って座ると、その太腿を僕にぴったりとくっつけてきて、片手で僕の頬を撫でまわしたのだ。
――やめろよ。くすぐったい。
と、言ったものの、僕の抵抗もその辺が限界だった。僕に限らず大抵の男はこういう即物的な行為に弱いのではないか。由里香の柔らかな肌の感触に僕の理性の歯車は空回りをし、彼女はそのまま僕の部屋に居続けることになった。
そのことの判断が正しかったのかどうか、今に至るまで冷静な分析をする機会が無いのだけれども、ココアのカップを両手で抱えた彼女を見ていると、無性にかわいいな、と思う。もっとも、彼女の頭にあるのは部屋を提供されているという利便のことだけかもしれないけれど。
僕は訊いた。
「ココアの他には好きな対象は無いのかい?」
「フィレンツェ。フィレンツェに行きたい。ミケランジェロのダビデ像を見たいの。フィレンツェに連れてってくれるのなら、結婚してもいいよ」
僕は分別のある大人を自認しているから、こんな会話にも腹を立てなかった。
「君は男女が婚姻関係を結ぶことの重大さを認識していないね」
「なんか怒ってるわけ? だって私に尽くしてくれる人になら愛を感じるもの」
「コンビニに売っているみたいに手軽に言うんだね」
「私、シンプルに考える主義なの」
「時と場合によるよ」
「私たち、きっかけは焼き鳥じゃない。披露宴で紹介されたらユニークだよね。そもそもお二人は焼き鳥が縁でとか」
人をからかったような言い方は、皮肉というより、気ままな彼女の性格がそのままのぞいているといったほうが当たっている。
くりくりとよく動く目が印象的で、今の娘らしく鋭角的な顎をもっている。あと何年かすれば、美人と言われる女の属性の部分が際立ってくるだろう。由里香の持つ生気を前にして、僕の気持ちが揺れ動いているのは事実だ。だが、まだ二人の時間は乏しかった。
これは愛情ではない、僕は単に若い肉体が欲しいだけなのではないか。そう思うと彼女に対する後ろめたい気持ちと自己嫌悪とがないまぜになった感情に包まれてしまう。
「どうしたの?」
由里香はそんな僕の心を見透かすように顔を覗き込んできた。
「君とのことを考えていた」
相手は笑って、
「Hしたくなったとか?」
「こらっ」
「思ってくれるのは嬉しいよ。思ってくれると段々綺麗になれる気がするの」
そう言ってココアの残りを飲み干した。
それからの毎日も、由里香はココアを飲み続けていた。
ココアを飲まない僕は、その彼女の姿を眺めて過ごしていた。
人から見れば惰性的な生活と言われそうだが、僕は由里香との毎日に満足を覚えた。僕の身勝手を由里香は許容してくれた。他愛のないことを話し合い、鑑賞物のように由里香を扱い、ときどき心から欲して彼女を抱いた。由里香は鋭敏に反応した。
僕は自己嫌悪の気分をその悦楽の中で解消しようと、行為に力を込めていた。僕たちは感覚の起伏を共にさまよった。
「私のこと、好き?」
仰向けに寝たまま、由里香が訊いた。
「嫌いだったら、君とこんなことしないよ」
「嫌いでもする男もいるわ」
僕は黙っていた。すでに人生の重みを知ってしまったような由里香の言葉には、彼女の率直さが招いた悲哀にも似たものが隠されているような気がした。このとき、彼女との間にあった年齢の隔たりは消え、僕は、一人の女として由里香を眺めていた。
僕は言った。
「フィレンツェ、いくらあれば行けると思う?」
由里香は寝床の中で僕に体を合わせ、
「連れてってくれるの?」
目を向けて笑った。
「定期預金を崩せば旅費ぐらいはなんとかなる」
「いいよ。気持ちだけで嬉しい。夢だから、簡単に実現したらつまんない」
そして由里香は続けて言った。
「私の夢は話したから、今度はあなたの夢を話して」
……夢か。一種の気恥ずかしさを含んだその言葉は、長い間、口にすることはなかった。
さあ、なんだろうね、と、僕は由里香の髪を撫でながら言った。
カタン、と音が鳴って、春の夜風が窓を揺らした。起き上がって、わずかに窓を開けると、家並みから漏れる明かりが通りを照らしいる。気のせいか空気にココアの香りが混じっている気がした。
読んでいただき、ありがとうございました。




