表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
幻想帝国奇譚 蝶の宴  作者: 清月 里帆
2/2

帝都を生きる隠密の少女、運命と出会う

 朝食の椀を片手に持ったまま、ヒツギはむっつりと押し黙った。

 目の前の膳には湯気を立てる汁物や焼き魚がのっており、そのどれもが良い匂いを漂わせて、起きぬけの鼻をくすぐる。

 いつもなら、とても美味しい朝食のはずだ。はずなのだが。

 ヒツギはかちゃりと椀を置くと、じろりと目の前をにらみつけた。

「姐さん、いいですよ。どうぞ心おきなく笑って下さい」

 向かいの膳で焼き魚をつついていた緋花は、その言葉に唇の端を持ち上げた。

「いや、いやいや。さすが私の妹芸妓だ。結構な騒動だったそうじゃないか」

 数日前の水揚げの話は、またたく間に花庵じゅうに広がっていた。

 広めたのは他でもない、目の前の緋花である。

「姐さんも見てたなら、止めてくれればいいじゃないですか」

 そう言いつのるヒツギに、緋花は肩をすくめてみせた。

「あれは、私が言わなくても充分に広まったと思うぞ」

 秋孝を抱えて移動する辰巳、それをものすごい目つきで追う蚕、必死で蚕を止めるヒツギ――朝っぱらからのその騒動を、花庵の面々は驚きと恐怖の目で見つめていたのだ。

 蚕を止めるので必死だったヒツギは、「笑い事じゃありません」と言いながらやけくそ気味に野菜のおひたしを口に突っ込む。

「それに、水揚げの本当の意味を教えてくれないなんて、ひどすぎます」

 ヒツギに手を出した、と蚕が唸りながら秋孝を追いかけたせいで、水揚げの本来の意味を知る他の芸妓達は一様に首を傾げたのだ。

「花庵での水揚げっていうのは、仕事相手との初顔合わせのことで、別に寝るのうんぬんは要らないだなんて、知りませんよ!」

 がちゃん、とやや乱暴に小鉢を置いたヒツギに、緋花の隣に座っていた胡景が眉をひそめる。

「ヒツギ、行儀が悪いで」

「……すみません」

「蚕も。お魚さんをそないに見つめて、どないする気やの」

 ヒツギの隣で朝食の焼き魚を箸で持ち上げながら、ぶつぶつと何かを呟いていた蚕は、胡景の言葉にひとまず魚を器の上に戻した。隣でヒツギが聞く限り、「三枚におろす」だとか何とか、危ないことを呟いていた気がする。

「ヒツギも緋花も、もう騒ぐのはおやめやす。結局、何にもなかったんやろ?」

 呆れたような胡景のその問いに、ヒツギは力強く頷いた。

「当たり前です!」

「なら、よろしおす。御飯が冷めてしまう前に、お上がりや」

 そう言われて、ヒツギはしぶしぶ煮豆を口に含んだ。せっかくの朝食なのだから、きちんと食べないともったいない。

 かちゃかちゃと食事を済ませていれば、遠くから玉衛の子が駆けてくるのが見えた。

「姐さん方、おはようございます。お食事中に失礼します」

「いま、ちょうど終わったわ。何の用事?」

「……それが、ヒツギ姐さん宛てにお文を預かって」

「文?」

 ヒツギが少女の抱えている文に目を留めて、首を傾げる。

「どれなの?」

「いえ、それが……全部です」

「……それ、全部?」

「はい」

 申し訳なさそうにそう言った少女の腕の中を、ヒツギは改めて覗きこんだ。

 ざっと見ただけで、その数は二十通を下らない。そのどれもが高価そうな封筒やら小箱やらに入っている。

 そんな文を受け取る覚えの全くないヒツギは、怪訝そうに眉根を寄せた。

「……間違いなく私宛てなのね?」

「はい」

「分かった、貰うわ。ありがとう」

 玉衛の少女からそれらを受け取って、ヒツギは文をひとつずつ床に並べた。

「高遠家、密井家、池神家、葦波家…………どこの家よ?」

 手紙の送り元を順繰りに読み上げて、ヒツギは首を傾げる。

 そのどれもに馴染みがなく、文などを送られるいわれは全くないはずなのだが。

「来たな」

「来ましたなあ。ちょいと遅い気もしますけど」

「相手が相手だからな。向こうも始めは信じなかったんだろ」

 姐芸妓の間で交わされるやりとりに、ヒツギは目をすがめた。

「姐さん達、これが何か知ってるんですか?」

「まあ、一通開けて読んでみれば分かるさ」

 そう言われ、ヒツギはぺらりと一枚の封書を取り出して、とりあえず読んでみた。

 一行、二行と読み進めるうちに、徐々にヒツギの顔は険しくなっていく。

 そうして最後の一行を読み終えたところで、ヒツギはぐしゃりとその封書を握りつぶした。

 わなわなと震えるヒツギの横で、蚕がその封書を広げてもう一度読む。

「ヒツギ、これ……」

 言いかけた蚕の言葉を遮るようにして、白い人影が現れた。

「あら、雅也はん」

 胡景の声に顔を上げれば、神城雅也その人が立っている。

 翡翠色の衣を纏った白髪の御仁は、ヒツギの周りに広がっている文の数々を見て、呆れたように溜息をついた。

「やれやれ、こうも上手くことが運ぶと、かえってつまらないものだ」

 するりと美しい指先で封書のひとつを取り上げると、雅也は抑揚のない声でその内容を読みあげる。

「つきましては香坂家の秋孝殿と縁をお切り頂きたく――全くつまらない。始めからそちらの方が縁を切られているということに気付かないだなんて、そんな体たらくだから大した儲けも出来ないのだと、いい加減分からないのかねえ」

 ヒツギの元に大量に届いた封書や文やらの数々――それらはすべて、香坂家の秋孝との縁を即刻切るようにと、ヒツギに迫るものだった。

 ヒツギが読みあげた送り元の家の数々は、それぞれが少しは名のある財閥や華族やらだ。

「これは一体、どういうことですか」

 ヒツギが怒気をはらんだ声でそう問えば、雅也は飄々と答えた。

「香坂家の秋孝殿は、今まで奴らの中で、位こそ高いが家を出て近衛軍なんかに仕えている、仕事中毒の変わり者だったんだろう。恋文や求婚も、とりつく島がなかったという話だから。ところがお前を水揚げしたという噂が広まって、女に興味があるということが分かった奴らは、今が好機と思っているのさ。お前さえ引き離せば、自分のところの令嬢が香坂家に嫁ぐことが出来ると」

「…………………………どうして私の水揚げの話が、財閥やら華族やらに広まってるんですか」

「さあ、どうしてだろうねえ?」

 優雅に口元を扇で隠して明後日の方角を向いた雅也に、ヒツギは苛立ちの視線をぶつける。そんなことをするのは、どう考えても目の前のこの人物しかいない。

「あなたの狙いはこれだったんですか」

「まあ、そうなんだけれどね。あまりに狙いどおりでつまらない」

「……」

 雅也が本当につまらなそうにしているので、ヒツギは呆れて黙り込んだ。

 鱗惑いが流行っているのは、小規模の財閥やら位の低い華族達の間でのことだ。そこに違和感なく入り込むためには、秋孝の家名だけでは少々苦しい。

 雅也の狙いは、秋孝とヒツギの水揚げ話を利用してそれらの者達の欲をあおり、自ら縁談を持ってこさせ、それに乗じて彼らの中に入り込むことだったのだ。

「まあ、断りついでに相手の屋敷に入り込むことが出来るのだし、ヒツギも良い経験だと思って行っておいで」

「一緒にですか?」

「まさか。お前の素性がばれれば、叩き出されるだけでは済むまいよ。香坂殿が主の相手をしている間に、お前が屋敷の中をお探り」

 雅也が衣の裾を翻せば、何か香でも焚きしめているのか、ふわりと良い香りが辺りに漂った。

「蚕と無堂殿には、別にやってもらうことがある。さあ、仕事だよ」



 それからの数日、ヒツギは秋孝と毎晩のように行動を共にした。

 いくらヒツギでも、真昼に何度も他人の家に忍び込んで見つからない自信はないので、縁談相手を訪ねるのはたいてい黄昏時だ。秋孝が断っている間に、ヒツギは屋敷に怪しいところがないか、どこかに鱗惑いの患者がいないか探して回る。

 初め、香坂家ほどの高位の家ならわざわざ訪ねていくのは不自然なのでは、とヒツギは思ったが、その考えは秋孝の言葉に打ち消された。

「確かに俺が家住まいで、内務省にでも勤務してればそうだろう。だけど官舎住まいの軍属ともなれば、家名がどれほど高位でも、俺が断りにいかないと彼らは軽んじられたと感じるだろうな」

 何しろ恋文と違って正式な縁談だ、と秋孝は疲れたように呟く。

「……苦労が多いのね」

「でもそれは、俺が家に属していないと示すことのひとつだからな。あまり贅沢は言っていられない」

 溜息をつきながらそう言った秋孝の顔は、しかしどこか晴れ晴れとしていた。

 それを見て、ヒツギは気付く。

 秋孝は本当に、家名に頼りたくないのだ。自分の実力で周囲の評価を勝ち取りたいと思っているのが、その行動を見ていれば分かる。

 秋孝にとって今回の縁談を断ることは、自分と香坂家を同一視する人々に対する決別のような意味もあるのだろう。

 ヒツギはそう思って、小さく笑みを浮かべた。

(――嫌いじゃないわ。この人の、そういうところ)

 しかし数々の縁談を断っていく中で、やはり秋孝に軽んじられたと感じる家は決して少なくはなかった。

 そうして彼らの大半は将来の香坂家当主ではなく、相手の芸妓――つまりはヒツギの方に、その苛立ちの矛先を向けた。

「いいですか、秋孝殿。芸妓などという卑しい身分の者と付き合うなど、本来ならば華族として恥ずべきことです。香坂家の格が下がりかねませんよ」

 あからさまにそう言った男の声を、ヒツギは何の感情も持たずに物陰で聞いていた。

 華族などの特権階級の中では、いまだに身分を蔑視する傾向が強い。芸妓などと言われることは、さして珍しくもなかった。

 その言葉に対して腹立ちを感じる時期はとうにヒツギの中で過ぎていて、ただそういうものなのだという達観だけが、無感動に心の上をすべっていた。

 しかし次の瞬間、部屋に響いた高い音に、ヒツギは思わず顔を上げた。

 見れば、床の上に硝子の欠片が盛大に散っている。

 秋孝がその手に持っていたグラスを床に落としたのだと、ようやくそこでヒツギは気付いた。

「ああ、失礼を」

 平坦な声でそう言った秋孝の顔は、静かに冷えていた。

 侮蔑するかのようなその眼差しに、ヒツギは背筋がぞくりと粟立つのを感じた。

 秋孝は真っ直ぐに相手を見据えたまま、口を開く。

「俺は、人を身分や階級で見ることが嫌いです。俺は俺自身でしかないし、彼女も彼女自身でしかないはずです」

 そうして、秋孝は口の端を歪めて笑う。

「それが分からない方と、縁を持つ気にはなれませんね」

「なっ……」

「それでは。これで失礼します」

 相手に反論の間も与えずに踵を返した秋孝の背を、ヒツギはそっと追った。

 すたすたと通りを足早に進んでいく秋孝の隣に、ごく自然に並ぶ。

 しばらく無言で歩いていると、秋孝はふいに足を止めて、こちらを向いた。

 少し高い位置から降ってくる視線に、ヒツギは秋孝の顔を見上げる。

 秋孝はふー、と長い溜息をつくと、くしゃりと前髪をかき混ぜた。

「……すまない」

 ぽつりと言われたその一言に、ヒツギは驚いた。

「何を謝ってるの?」

「さっきのことだ。嫌な思いをさせた」

 そう答える秋孝に、ヒツギは手を振ってみせる。

「あんなのは日常茶飯事だから、気にしなくていいわよ」

 花庵の芸妓が庵から出ないのは、その仕事が隠密だからという理由もあるが、基本的に街が好きではないという者も多い。

 芸妓という身分だけで、見ず知らずの人間から、いわれのない嘲笑を受けることもあるのだ。

 何でもないことのようにそう言ったヒツギに、秋孝は首を振った。

「いや。すまない」

「だから――」

「どんな人間でも、その枠だけで見るべきじゃない。違うか?」

 そう問われて、ヒツギは声を詰まらせた。

「……確かに、そうなんだけど」

 確かに、秋孝の言うとおりなのだ。けれども、言っても仕方がないことと割り切っていたヒツギに、秋孝の言葉は戸惑いを感じるものだった。

 その戸惑いを拭い去るように、秋孝は告げる。

「俺が俺でしかないように、お前もお前でしかない」

 真摯な瞳が、ヒツギの方を向いていた。

 紅茶色のその瞳に、ヒツギが映る。

 何者でもない。

 ただの、ヒツギが。

(…………ああ、そうか)

 秋孝は、自分のために怒ってくれたのだ。

 ようやくそのことに気付いて、ヒツギは呆然と秋孝の瞳を見つめ返した。

 自分自身を見て欲しいからこそ、相手そのものを見ることも忘れない。

 秋孝の人間の本質にはそういうところがあるのだと、ヒツギは改めて感じた。

 そうして、ほっとしたぬくもりが、ヒツギの胸を温める。

 ヒツギは唇を噛んだままの秋孝を見上げて、笑った。

 自分自身をきちんと見てくれる誰かがいること。

 ――それは、とても幸福なことだ。

「ありがとう、秋孝」

 ヒツギのその言葉に、秋孝は驚いたかのように目を見開く。

そうして、少しだけ笑った。

 それからも、ヒツギに対する蔑視の発言は何度かあった。

 けれどもそれらをどこか余裕のある気持ちで受け止められたのは、きっとあの時秋孝が怒ってくれたからだろう。

 秋孝は幾度となく様々な家に出向き、自分の意思を告げた。

 しかしそうやって断っても断っても、縁談は次から次へとわいてくる。

(――いくらなんでも、多すぎよ!)

 ヒツギが辟易しはじめてから数日後の朝に、その出来事は起こった。

 室で縫い物をしていたヒツギは、必死の形相で駆けこんできた玉衛の少女を見て、目を丸くした。

「ちょっと、どうしたの」

「ヒ、ヒツギ姐さぁん……」

 へたりと入口に座り込んだ少女の目は、心なしかうるんでいる気がする。

「何があったの?」

「お、大通りで急に女の人に袖をつかまれて……これを、ヒツギ姐さんに渡せって」

 玉衛の少女がよろよろと袖から取り出したのは、可憐な装丁の封書だった。

 また縁を切れという手紙かと、ヒツギが読まずに破り捨てようとした時、玉衛の少女が「ああっ!」と悲鳴を上げる。

「ちょっと、何なの?」

 訝しげに振り返ったヒツギに、少女は半泣きの顔で懇願する。

「あの、ごめんなさい姐さん。どうしても姐さんに読ませるようにって言われてて……お願いですから読んでくれませんか」

 ……そんなに怖い人物から渡されたのだろうか。

 ヒツギが封書を裏返せば、そこには花菱家と書かれている。

 封を切って中の便せんを開くと、墨痕鮮やかな字が目に飛び込んできた。

『本日、花菱家別邸にて、お待ち申し上げ候。  花菱 鏡華』

 なぜ可憐な装丁の便せんに、わざわざ墨字で書いているのか。

 昨今、文末に『候』とつけるのも珍しいが、いずれにしろ異様な迫力である。

 ヒツギはちらりと玉衛の少女を見つめ、おそるおそる聞いてみた。

「これ、さっき渡されたの?」

 問われた少女は、こくこくと勢いよく頷く。

 ヒツギは溜息を一つついて、空を仰ぎ見た。

 日はまだ高い。秋孝と出かけるまでには、だいぶ時間がある。

 蚕は近頃、毎晩のように明け方まであの辰巳という男とどこかへ出かけているせいで、起きてくるのが遅い。今はまだ、自分の室で寝ている最中だろう。

(花菱家、別邸……)

 ヒツギはゆっくりと起き上がると、外出用の衣に手を伸ばした。



 花菱家の別邸は、青山通りの端にあった。

 大戦以前こそ屋敷の多かった青山通りだが、帝国政府の開墾指導により、そのほとんどは桑や茶の畑にされている。今では御所離宮に近い赤坂の方だけが、高級官僚達が居を構える場所として有名だ。

 その中でも広々とした西洋風の大きな邸宅の門前に、花菱という表札がかかっている。

(……これで別邸って、どれだけお金持ちなの)

 いくら銀座や皇居の周辺ほど地価が高くはないとはいえ、その敷地はとても広かった。綺麗に切りそろえられた青い芝生が、美しく光っている。

 立っていた門衛にぎろりと睨まれて、ヒツギは恭しくお辞儀を返した。

「ヒツギと申します。鏡華という方は、こちらにいらっしゃいますか」

 ごく丁寧にそう尋ねれば、門衛は無言で門を開けた。入れということだろう。

「失礼いたします」

 屋敷の敷地内にヒツギが入るやいなや、門衛はけたたましい音を立てながら乱暴に門を閉めた。

(……感じわるっ!)

 ヒツギがそう内心で毒づくと、どこからか一人の男が現れた。

「ようこそ、花菱家へ」

 皺ひとつない真っ黒な洋装をぴしりと着こなした男は、抑揚のない声で言った。

「お嬢様がお待ちです。どうぞ」

 それだけ言うと、男はヒツギの方を見向きもせずに屋敷の方へ歩いていく。

 せかせかとした男の歩調は、まるでヒツギを置いて行くことが目的でもあるかのように早足だ。

 ヒツギはまたもや無言の無礼に怒りを感じつつ、素早い裾さばきで男に遅れをとらないように付いていく。

「こちらがお嬢様のお部屋になります」

 男はくるりと後ろを振り返り、そこに息ひとつ切らしていないヒツギがいるのを見て、ぴたりと動きを止めた。

 表情に乏しいその顔が、わずかばかり揺らいだような気がして、ヒツギは溜飲を下げる。

「……どうぞ」

 かちゃりと開かれたドアをくぐり、ヒツギが部屋の中へ入った瞬間――目の前にクッションが物凄い勢いで飛んできた。

「よっ、と」

 ひょい、と身をかがめてヒツギがそのクッションをよければ、バスンという軽い音がその後ろで響く。

 次いで、部屋の中から甲高い少女の声が聞こえた。

「何故、避けるのですっ!」

 ヒツギに向かってクッションを投げつけた少女は、そう言って唇を噛んだ。

 真っ白な肌に、ふわりとうねる黒髪を束ねたリボンの青が映える。華奢な体をたっぷりと覆い尽くす水色のドレスが、何層にも重なったレースと共にその可憐さを引き立てていた。

 少女はキッとこちらを睨みすえたかと思うと、人差し指をびしりとヒツギに突きつけた。

「ちょっとそこのあなた、避けるだなんて卑怯者のすることですわ! 潔くその顔面にクッションをお受けなさい!」

 少女のとんでもない言い分に、ヒツギは肩をすくめた。

「嫌よ、痛いじゃない」

「痛くしようとやっているのです!」

「ああ、そう。それよりあなた、大丈夫?」

 ヒツギは背後を振り返って、ここまで案内をしてくれた男に声をかけた。

 先ほどのバスンという音は、ヒツギがよけたクッションが、背後で扉を開けてくれていた男にぶつかった音だったのだ。

 男は無言でクッションを拾うと、顔面を静かにさすった。せっかくの綺麗な顔立ちが、うっすらと赤くなっている。

「ああそう、ですって? しかも私より藤崎の方を気にかけるなんて、無礼千万ですわ!」

「あのね、怪我人を気にするのは当たり前でしょ。自分が怪我しないように気をつけるのも当然。それよりあなたがやったことなんだから、彼に謝ったら?」

「私が藤崎に謝るなんて、夜空の星が落ちてもありえませんわ!」

 そう言い放った少女に、ヒツギは呆れたように溜息をついた。

「流れ星なら毎晩流れてるけどね。まあいいわ――あなたが私を呼んだの?」

 そう問えば、少女は不遜に胸を反らした。

「ええ、呼んだのは私ですわ。花菱鏡華とは、私のことです」

 ヒツギは、名乗った少女をじっと見つめた。鏡華はその視線にたじろいだかのように問い返す。

「な、何ですの」

「……あの、ひとつ聞いてもいい?」

「ええ」

「何で、墨字?」

「――つっ、決闘の申し込みをしたためるのは、筆と決まっているでしょう!」

 真っ赤になってそう叫んだ鏡華に、「いや別に決まってないけど」と言いそうになって、ヒツギは慌ててその言葉を呑み込んだ。

「決闘?」

「そうですわっ! 秋孝様を賭けた、決闘です!」

「……もしかして、さっきのクッションがそれ?」

「不意打ちは決闘の極意でしょう!」

(……それはたぶん喧嘩の極意だと思う)

 ヒツギは心中だけでそう呟いて、長々と溜息をついた。

「私への用件は、秋孝と縁を切れってこと?」

「あ、秋孝様を呼び捨てにっ――まあ、それは後回しですわ。そうです、あなたには秋孝様との縁を、即刻切って頂きたいのです」

「……何のために?」

「それはもちろん、私が秋孝様に求婚するためですわ」

「…………」

 予想通りというか何というか。ヒツギは鏡華の答えに、呆れて黙り込んだ。

「秋孝のどこがいいのよ」

「また呼び捨てにして――すべてですわ!」

 自信満々にそう叫んだ少女に、ヒツギの右肩がカクンと下がった。

「……はあ?」

「あの珍しい御髪の色、繊細なお顔立ち、麗しいチェロのような声、星屑を集めたかのような瞳の輝き――ああ、なんて素晴らしいのかしら! これで詩がひとつ書けてしまいそうですわ!」

 夢見るような声音でそう言った鏡華に、ヒツギは自分の腕に鳥肌が立つのを感じた。

(まずい。この人、ヘンな人だわ)

 紛れもないその直感に、ヒツギは一歩、鏡華から距離を置いた。心の中で。

 鏡華が延々と語り始めた秋孝の素晴らしさを右から左へと聞き流しながら、ヒツギは思う。

(星屑を集めた輝きって、屑を集めてるのにそんなに綺麗かしら)

 そう一人で考えていると、横から鋭い声が飛んだ。

「ちょっと、あなた聞いていますの!」

「え、ああ。まあ一応」

「何ですって! もう一度、始めからきちんとお聞きなさい!」

「いや、遠慮するわ」

 それはヒツギの心の底からの本音だった。あれをもう一度聞かされたら、耳が壊死しかねないとさえ思えた。

 あくまでも淡々としているヒツギに、鏡華はふんと鼻を鳴らした。

「全く、失礼な人ですわね。これだから芸妓は嫌なのですわ」

 侮蔑の色を帯びた鏡華の声音に、ヒツギは静かに目を細めた。

「だいたいそんな身分で秋孝様と縁を結ぶだなんて、身の程知らずもいいところですわ。香坂家がどんなに身分の高い家柄なのか、あなたご存じですの?」

 身分違いも甚だしいと言い募る鏡華に、ヒツギは薄く笑みを浮かべた。

「何を笑っていますの――って、きゃあ!」

 鏡華はふいに物凄い速さで飛んできたクッションを避けきれずに、バスンと肩のあたりでそれを受けた。

「な……」

 呆然とする鏡華に、ヒツギはにやりと笑って見せる。

「痛い? 痛いでしょ?」

「あ、あなた何を――」

「こういうことを、あなたはしてるってことよ」

 ヒツギは胸の前で腕を組んで、傲然とそう言い放った。

「いい? 私は確かに芸妓だけど、あなたにそんな風に言われる筋合いはどこにもないわ。私は私で、ちゃんと生きてきたつもりよ」

 確かに花庵の女達は皆、芸妓だ。華族や財閥から見れば、低い身分に見えるかもしれない。

 けれど身分が低いからと言って、真正面から馬鹿にされる覚えはどこにもない。

「そうやって人を見下して上から物を言うあなたが、どんなに無礼に見えるか、一度鏡を覗いた方がいいんじゃないの?」

 ヒツギはそれだけ言って、部屋の扉を出て行こうとする。

「……あなたなんて、秋孝様のどこが好きかもいえないくせに!」

 負け惜しみのように背後にかかった声に、ヒツギは振り返った。

「どこが好きか? そうね、言えないわ」

 そうして、馬鹿にしたように小さく笑う。

「でもそれは、本人に言えばいいことだと思うからよ。あなたにじゃなくてね」

 それだけ言い捨てて、ヒツギは花菱家を後にした。



 夕刻、蚕はゆっくりと目を覚ました。

 ふああ、と大きなあくびをひとつして起き上がり、いつものように身支度を済ます。

 最近、蚕は毎晩のように辰巳と共に帝都じゅうの遊郭を回っているのだった。

 宵の口から出かけていって、朝になって空が白むまで遊郭を回り、花庵に帰って来てからはぐっすりと眠りこむという昼夜逆転の生活を送っていた。

 昼じゅう眠っているというのは些か体に悪い気もしたが、蚕は一度眠ると満足するまで起きない体質なのだ。それで自然、夕刻に起き出すことになる。

 それは一向に構わないのだが、そのせいでここ最近はヒツギとあまり話せていなかった。

 今日は少しは話が出来るだろうかと、蚕は繭姫になってから隣室に変わったヒツギの室の戸を、とんとんと軽く叩いた。

「ヒツギ?」

 返事のないことをいぶかしんで、蚕はからりと戸を開けた。

「おはようヒツギ……って、いない」

 空っぽの室に「残念」と溜息をついて、蚕は肩をすくめた。ヒツギがいつも出かけるのは夕刻だから、今日はもう行ってしまったのだろう。

 窓から入りこむ斜陽に目を細めて、何気なく庭園に目をやれば、見知った人影が目に入った。

「……」

 蚕はしばらく考えた後、室にあったヒツギの下駄を拝借すると、ひらりと窓から飛び降りる。

 ざざざっ、と葉擦れの音をさせて傍らに舞い降りた蚕に、庭園にいた人影――秋孝は目を丸くした。

「どうも」

「あ、ああ」

 憮然として挨拶をした蚕に、秋孝は驚きながらも何とか頷いた。

「……あいにくだけど、ヒツギはいないわよ」

「そうなのか? 今晩も出かける予定だったんだが」

 そこまで呟いて、秋孝は固まった。あれだけ自分を三枚におろすと息巻いていた少女が目の前にいるのに、今の言葉は失言だったかもしれない。

 しかし少女は少し沈黙しただけで、襲いかかってはこなかった。

「そう、じゃあ別の用でどこかに出かけたのかもね。予定があるなら戻ってくると思うんだけど――」

 と、そこまで蚕が口に出したところで、玉衛の少女の一人が駆け寄って来た。

「あの、蚕姐さん。ヒツギ姐さんなら、花菱家っていうところの別邸に行かれましたけど」

「花菱家?」

 蚕が問い返せば、秋孝が声を上げる。

「ちょうど今日行くはずのところだ。ヒツギには教えていないはずだが」

「……何でかしら」

「まあ良い。俺はこのまま花菱家へ行こう。どうせ途中でかち合うだろうし」

 そう言って踵を返しかけた秋孝は、思い出したように振り返って、蚕に声をかける。

「蚕」

 庵に戻ろうとしていた蚕は、名前を呼ばれて、視線だけを秋孝の方へ向けた。

「最近、辰巳が楽しそうだ。礼を言う」

 それだけ言って、秋孝は夕闇の向こうへ消えた。

 思わぬ言葉に蚕はしばらくその場に立ち尽くして、ぼそりと呟く。

「…………楽しそう、ですって?」

 ここ数日遊郭を回っている際に、辰巳の顔からは一切の表情が読み取れなかった。話しかけても生返事ばかりで、しまいには蚕ひとりで会話をするほどだったのだ。

 ――それを、最近楽しそうだと?

「……まさかね」

 蚕のその呟きは、濃い花の香を含んだ風にさらわれて、どこかへ消えた。



 春琴は、頬を打つ冷たい水の感触で目を覚ました。

「ん……」

 どうにか身を起こすが、体の節々が奇妙にこわばって、あまり言う事を聞いてくれない。

 起きぬけのかすむ瞳であたりを見回せば、そこは自分の室ではなかった。

 暗く湿った床の感触に、ぞわりと背筋を寒いものが走る。

「起きたかね」

「あ……」

 ふいにかけられた声に顔を上げれば、そこにいたのは春琴の主だった。

「何故、あなたが――」

「それはどうでもいいことだろう。お前が必要なことがあったから呼んだだけだ。来い」

 ぐい、と腕をつかまれ、そのまま床に引きずられるようにしながら、春琴は部屋の中央とおぼしき部分に連れて来られる。

 カチャカチャという金属のぶつかり合う不快な音に、春琴は身をすくめた。

 乱暴な手つきで髪をつかまれ、額をあらわにされる。

 右の眉あたりにぴたりと冷たい金属があたる感触があって、全身に怖気がはしった。

 いま自分の額に当たっているものが、何なのかは分からない。ただ、春琴の全身が、それに対して拒否反応を示した。

「な、なにを――」

 思わずそう声を上げれば、有無を言わさぬ声が返ってくる。

「黙れ。あの男がどうなってもいいのか」

 あの男、と言われて、春琴の心が凍り付いた。

「やめ、て……くださ……」

「ああ?」

「やめ……昴様だけには……手を、出さな……で」

 かたかたと震える四肢を叱咤して、春琴はそう懇願する。

 男はそれを鼻で笑うと、嘲るように言い切った。

「ああ、いいとも。お前が、これに耐えられたらな」

 次の瞬間、額に何かを押し付けるような感触があって――、

 春琴の絶叫が、その暗い部屋に響き渡った。



 秋孝は夕闇にかすんだ花菱家の門前に佇んで、ひとり首を傾げた。

(……ヒツギがいない)

 青山通りまでの道は一本なので、必ずどこかで見つかると思っていたのだが、どうやら気付かないうちにすれ違ったらしい。

「もし。香坂家の秋孝様とお見受けしますが」

 門衛の低い声に、秋孝は頷いた。

「ああ、俺が秋孝だ。こちらの鏡華殿に、招待を受けているんだが」

「承っております。どうぞ」

 軋んだ音と共に門扉を開かれて、秋孝は屋敷の敷地内へと入った。

(こうなっては、入らないと逆に怪しまれる)

 内心で溜息をつきながら、秋孝はそう一人ごちた。ヒツギがいないのは痛手だが、どのみち花菱家は鱗惑いに関わりがないだろうと、秋孝は踏んでいる。

 花菱家というのはどこか大きな財閥の傘下の家で、そこそこの資産家だ。もちろんそこそこと言っても、一般の帝都の人々から見れば、その資産額は目が飛び出るほどに高いのだが。

 秋孝が調べたところによると、代々の当主は手堅く家業を続けてきているようだし、良い悪いに関わらず、あまり策謀というものに縁の無い家だった。

 黒い洋装を着こなした男に客間とおぼしき一室に通され、椅子を勧められる。

「悪いが、そう長居するつもりはない。お気遣い感謝する」

 男は無言で椅子を元の位置に戻すと、表情のない、しかしどこか心なし怒っているかのような瞳で、秋孝をちらりと見た。

 秋孝が苦笑を浮かべた瞬間、部屋の扉がゆっくりと押し開けられる。

「ようこそ我が家へ。秋孝様」

 現れたのは、華奢な体に水色のドレスを纏った少女――花菱鏡華だった。

 鏡華は優雅に腰を折って一礼すると、可憐な笑みを口元に浮かべた。

「この度は私からの不躾な手紙にお応えくださって、ありがとうございます。ご気分を害されていなければいいのですけれど」

「そんなことは。こちらこそ丁寧な招待に預かり、感謝しています」

 秋孝がそう答えれば、鏡華は頬をふわりと桃色に染める。

 笑みを浮かべたまま鏡華が何事か口にしようとした時、カチャリと部屋の扉が開いた。

「これは香坂殿、お待ちしておりましたよ」

「お父様……」

 現れたのは鏡華の父、花菱家当主である花菱昌道だった。

 昌道は鏡華の隣に進み出ると、にこにこと笑いながら娘の肩を抱いた。

「いや、まさか香坂殿が招待に応じて下さるとは思いませんでした。どうですかなうちの娘は」

「お父様?」

「こうして並ぶと、全くお似合いですな。ああ、これは失敬。しかし決して身内びいきではありませんよ。私の娘には、幼いころから厳しく礼儀作法や様々な稽古をつけさせているので、きっと香坂家でもやっていけるでしょう」

 つらつらと言葉を並び立てる昌道に、鏡華は慌てて口をはさんだ。

「やめて、お父様。秋孝様が困っていらっしゃるわ」

「何だい鏡華、お前だって――」

「いいから」

 その言葉でようやく口を閉じた昌道を、鏡華はやっとの思いで席につかせた。

 そうして、秋孝にも席を勧める。

「立ったままのお話も何ですから、どうぞおかけになって――」

「いえ。大変失礼ですが、すぐにおいとましますので、それには及びません」

 ごく淡々とそう言い切った秋孝に、鏡華は愕然とした目を向けた。

「はっきり申し上げます。俺はどの家の誰であろうと、婚姻や付き合いを結ぶつもりはありません」

 秋孝のその言葉に、部屋にいた全員が息を呑んだ。

 鏡華は唇を噛みしめると、震える声で問いを重ねる。

「な、なぜですか?」

「それは――」

「あの芸妓のせいですの?」

 秋孝は鏡華のその言葉に、ゆっくりと目を細めた。

「やはり、ヒツギはここに来ていましたか」

「あの芸妓のせいですのね? あの芸妓があなたに何か吹き込んで――あんな、あんな身分の低い者が」

「それは違います」

 半ば泣いているような鏡華のその声音に、秋孝は低い声ではっきりと告げた。

「俺は、俺の力で生きていきたい。だから求婚や縁談は、すべて断ることにしているんです」

 秋孝のその言葉を、予想もしていなかったのだろう、鏡華は驚いたかのように目を見開いて、こちらを見つめている。

「俺は正直、身分や家というものに興味がないんです。こんなことを言っては、あなた方の失望を買うだけなのかも知れませんね。けれど俺は、俺の力で勝ち取ったものしか欲しくないんです」

 そう言って小さく笑った秋孝は、自嘲するかのように肩をすくめた。

「もっとも、まだまだそれは現実になりませんが。けれどもこれが、今の俺に出来ることのひとつであるのは確かです」

 呆然と立ち尽くしている鏡華に、秋孝は深々と頭を下げる。

「初めから俺に求婚するのではなく、夕食への招待という形をとろうとしてくれたあなたのような方なら、きっと良いお相手が見つかりますよ」

 秋孝のもとに届いた鏡華の封書には、縁談や求婚の文字はひとつもなく、ただ丁寧な字で一言、『夕食をご一緒しませんか』と書かれていた。

 欲と世辞に彩られた数々の手紙の中で、その言葉はとても美しかった。

「それから、これは個人的な願いですが。ヒツギを、芸妓という身分だけで見るのはやめてやって下さい。俺が言うのも何ですが、あなた方はきっと気が合うと思いますよ」

 そう言って、秋孝はおかしそうに小さく笑った。

 その瞳の穏やかさを見て、鏡華はハッとする。

 そうして何かを悟ったかのように、きゅ、と唇を噛んだ。

 今にも泣き出しそうに顔を歪めた鏡華に一礼して、秋孝は言う。

「お招きありがとうございました。では――」

 失礼を、と秋孝が言おうとしたところで、昌道が声を上げた。

「まあまあ香坂殿。まだ宵の口にもなりませんぞ。ゆっくりしていけば、いいではないですか。それとも何かお急ぎの用事がおありですかな?」

 恰幅の良い体躯を揺らしながら、昌道は明るい声を発して秋孝に歩み寄る。

「はい。まだ近衛軍の仕事が残っていますので」

 そつなくそう答えた秋孝に、昌道は大仰に驚いてみせた。

「何と。そんなに仕事ばかりでは、身が持ちませんでしょう」

 慣れ慣れしく肩に腕を回してくる昌道に、秋孝は言葉を重ねる。

「いえ。今日中の案件がいくつか――」

 とそこまで言うやいなや、秋孝は肩に回されていた腕をバッと振り払うと、素早く昌道から距離をとった。

 青い顔で首筋を押さえながら浅い呼吸を繰り返す秋孝に、鏡華は首を傾げる。

「………秋孝様?」

 秋孝はその問いには答えずに、鋭く昌道を睨みつけた。

「おや、香坂殿どうかされましたか?」

 どこか薄気味悪い笑みを含んだ昌道の言葉に、秋孝は歯を食いしばった。

「貴様、毒を――」

 先ほど昌道に首に手を回された際に、ちくりと感じた痛み。そこから一気に全身に広がった虚脱感と不快な熱に、秋孝はよろめいてたたらを踏む。

「お父様、秋孝様に何をしたの!」

「あの子を押さえておけ、藤崎。鏡華、これで我が家の繁栄は約束されたんだよ」

「何を言って――――離しなさい、藤崎っ! 秋孝様、秋孝様っ!」

 剣の柄に手をかけようとした秋孝の指先が、ずるりと宙をかいて滑る。

 鏡華の悲鳴を遠くで聞きながら、秋孝の意識は闇に途切れた。



 花庵に戻ったヒツギは、玄関先に立っていた二つの人影を見て、目をぱちくりとさせた。

 立っていた二つの人影――蚕と辰巳は、ヒツギを見るなり、驚いたように顔を見合わせる。どうやらまた今晩も、どこかへ出かけていくところだったらしい。

「ヒツギ、秋孝様は?」

 蚕にそう問われて、ヒツギは眉根を寄せた。

「秋孝? 秋孝がどうかしたの?」

「お前が花菱家の別邸に向かったと聞いて、そのまま後を追ったんだが――その様子だと、行き違ったようだな」

 辰巳のその言葉に、ヒツギはきょとんとした。そうして誰もいない背後を振り返って、首を傾げる。

「少なくとも、青山からここまでの間では見なかったと思うんだけど」

 もう一度、花菱家に戻ろうかと、ヒツギが踵を返しかけたところで、ふいに極上の楽の音にも似た声がその背にかかった。

「お待ち、ヒツギ」

 その言葉に振り返れば、小藤と小浅葱を従えた雅也が、まるで宵の明かりに浮き上がる一幅の画のように玄関先に立っている。

「どうしたんですか」

 ヒツギが怪訝そうにそう尋ねれば、雅也は小さく溜息をついた。

 普段の主らしからぬその様子に、ヒツギも蚕も眉をひそめる。

 雅也は気だるげな仕草で目にかかった前髪を梳き払うと、静かな声で言った。

「香坂殿が、花菱家で捕えられたよ」

 その言葉に、誰より敏感に反応したのはヒツギだった。

「花菱家でって――」

 呟いた言葉と共に、ヒツギの脳裏を鏡華の姿がよぎる。

 しかしその想いは、雅也の言葉によって打ち消された。

「どうやら問題なのは、当主のようだね。けれどもあの当主が香坂家の御曹司を、一人でどうこうしようと考えるとは思えない。花菱家をそそのかして、誰かが秋孝殿をさらったと考えるのが妥当だろう」

 雅也とヒツギの会話を黙って聞いていた蚕は、傍らに佇んでいる辰巳を見上げて――その表情に息を呑んだ。

 誰よりもその事実に反応を示していいはずの辰巳は、恐ろしく静かな面持ちをしていた。しかしその顔を一目見るなり、誰もがその底に、激しく冷たい怒りが内包されていることに気付いただろう。

 表情が無いゆえに十二分に怒りを伝える形相をした辰巳は、雅也に向かって、一歩足を踏み出した。

「……秋孝に何かあれば、いくら神城であろうとも斬って捨てる」

 ひどく恐ろしげな響きを持ったその言葉に、雅也は肩をすくめて答えた。

「私も策を講じていないわけではないよ。それに、この事態を予想していないわけでもなかった」

 何、と剣呑な声で詰め寄る辰巳を無視して、雅也はヒツギと蚕に一瞥をくれる。

「お上がり。庵寄りを始めるよ」



 庵寄りとは、花庵の各位最上の芸妓――花締めと、雅也が呼んだ者達が集まって、話し合うことを意味する。

 美しい灯りで満たされた雅也の室に、ヒツギ、蚕、辰巳、緋花、胡景、それから玉衛から珠姫までの花締め四人が顔を揃えた。

「皆、来たね。では、庵寄りを始める」

 雅也がぱらりと扇を開けば、煽られたのか、室の灯りが静かにゆらめいた。

「蚕と辰巳殿に遊郭を調べてもらっていたのだけれど――今回の鱗惑いの件は、どうやら樹家が黒幕らしい」

 雅也のその言葉に、一瞬だけ室内の空気が揺れた。

「樹家?」

 聞き慣れないその家名にヒツギが首を傾げれば、雅也は頷いてみせる。

「もともと公家の下っ端から財閥になったところでね。財だけは余りあるものだから、遊女を落籍して離れに囲ってみたりと、悪い趣味には事欠かない家だよ」

 雅也のその言葉だけで、ヒツギは樹家に対して嫌悪感を抱いた。

「その樹家が落籍した遊女から、三日に一度必ず遊廓へ届いていた文がこのところ途切れているらしくてね。最後に届いた文を調べてみれば、案の定、鱗惑いにつきものの、かすかな緑の燐が付いていた」

 雅也は気だるげに扇を閉じると、呆れたように溜息をつく。

「そこへ来て、捕らえられた香坂殿が運びこまれたのが樹家なのだから、全く上手に踊ってくれるものだ」

「でも雅也はん、樹さん言うたら結構なお家柄やで。確か金物の貿易でぎょうさん儲けはった財閥さんやったはずや。そないな家が、何で花菱さんみたいな小さいところと縁があるんどす?」

 胡景のその言葉に、雅也は手中で扇をもてあそびながら答えた。

「花菱家の家業は医療だからね。大方、金属で作られる医療器具の売買関係で縁があったんだろう。何と言われて企みに加担したのかは知らないが」

「――それで、あなたとしてはどう動くつもりなんだ」

 ふいに響いた低い声に、室の面々は一様に辰巳を見やった。

「手を貸すつもりがあるのか、ないのか。どちらにせよ、俺は秋孝を助けにいく。だらだらと話を長びかせるつもりなら、失礼する」

 そう言うやいなや、立ちあがって室を出て行こうとする辰巳を、雅也は呆れたように見つめた。

「無堂の若武者は、気が短いと見える。こちらがどう動くかは、そこに座っている者の返答しだいだよ」

 そう言って雅也が扇の先で示したのは、室の端に座っていたヒツギだった。

「…………は?」

 予想もしなかった展開に目を見開くヒツギに、雅也は漆黒の双眸を向けた。

「ヒツギ、秋孝殿と旦那の契りをお結び。その上で、お前が蝶になるつもりがあるのなら、花庵は香坂殿のために手を貸そう」

 雅也のその言葉に、室の全員が息を呑んだ。

 花庵で旦那の契りと言えば、皇華省の人間としてただ一人――旦那を選び、生涯ずっとその人物と組んでいくことを約束する、一種の誓いのことだ。しかし室の人間が息を呑んだのは、雅也がその誓いをここで持ち出したことに驚いたためではない。むしろそんなことは、もう一つの言葉に比べれば些細なことと言える。

 花庵での最高位、蝶――その言葉は、花庵で最高の実力者を意味するというだけではない。

 位にして正三位。それは殿上および天皇に対する直接の奏上が可能な、帝国の女性における最上の身分だ。それと同等に値するのは、皇族の女子しかいない。

 花庵において、いま現在その位にいるのはただ一人。しかし庵のほとんどの人間がその姿を実際に見たことがなく、雅也以外はその素性を誰も知らない。

「庵主、それは――」

「雅也はん、あんた」

「お黙り。これは私とヒツギの間のことだ」

 言いつのる姐芸妓たちを一声で払いのけて、雅也はヒツギを見やる。

「どうする、ヒツギ」

「……何故、私なんですか」

「馬鹿なことを聞くね。お前がなるのか、ならないのか。それだけだろう」

 ヒツギが拾われたあの晩と全く同じ口調で、雅也はそう言った。

 静かに目を細めたヒツギは、ゆっくりとそのまま瞳を閉じる。

 聞こえるのは心臓の音と、かすかな自分の呼吸の音だけ。浮かぶのは、花庵に来てからのたくさんの日々と、雅也に拾われた日に見た、眩しいまでのあの純白。

 ――そうして、秋孝の紅茶色の瞳。

 自分の生き方くらい自分で決めると言い切ったヒツギを、哀れむでなく見下すでなく、似ている、と言って笑ったあの瞳。

 あの瞳に見つめられた時、初めて自由というものを知った気がした。

 華族でもない、芸妓でもない、皇華省の人間でもない。

 何も持たないただのヒツギという人物が、いつだって秋孝の瞳には映っていた。

 秋孝のその瞳の前では、ヒツギはありのままでいれた。

 何も強要されず、奪われず。

 そこにあるだけで、私は私なのだということを、いつだって教えてくれた。

 蝶になるということがどういう意味を持つのか、雅也がなぜ自分にそう言ったのかは分からない。けれど。

 ただ自分が自分であることを認めてくれた秋孝を、助けたい。

 その感情だけが、深くヒツギの胸をつらぬく。

「……なります。それが、秋孝を助けるために必要なら」

 きっぱりとそう言ったヒツギの強い視線を受け止めて、雅也は薄く笑う。

「では、決まりだ。――珠姫と繭姫を連れて、樹家へ行って秋孝殿を連れ出しておいで。蚕と無堂殿も一緒にね」

 そうして思い出したかのように着物の袖に手を伸ばした雅也は、そこから一振りの小刀を取り出した。

「銘は、志津という。持っていくといい」

 雅也は黒地に細かな刺繍の施された鞘が美しいその小刀を、ヒツギへ向けて軽く放る。

 ヒツギは片手でそれを受け取ると、凛と背筋を伸ばした。

「お前の初陣だ。せいぜい相手の度肝を抜いておやり」



 ヒツギ達が慌ただしく出ていった部屋に残っていた緋花と胡景は、ゆるゆると扇をはためかせている主を、ねめつけるようにして見やった。

「庵主、何を企んでる」

 眉間に皺を寄せた緋花に、雅也は首を傾げる。

「おや、何のことだい」

「とぼけるな。こういう時は、大抵お前はろくなことを考えていないんだ」

詰め寄る緋花を、柳に風といった具合に受け流した雅也は、傍らで同じように眉根を寄せていた胡景に声をかける。

「胡景、私の弦を持っておいで」

 その言葉に、緋花と胡景は同時に動きを止めた。

「弦て、雅也はん」

「……まさか、樹家ってのはそこまで厄介なものを抱えているのか?」

 雅也はそれらの問いには答えずに、ぱちりと扇を閉じた。

「全く、いつからそんなにやかましくなったんだい? いいから、私の弦を持っておいで」

 そうして窓の外に浮かんだ月を見上げて、雅也は目を細めた。

「蝶を使う。そうしなければ、どのみち事は収まらないだろうからね」



 しゅ、と小気味よい音を立てて、帯が締まる。

 いつもよりきつく重ねられた袷に、高い位置で結ばれた帯。動きやすいようにその着物の裾は短く、しかし品を損なうほどではない。

 黒絹の衣――蝶花と呼ばれる揃いのそれを手早く纏ったヒツギは、長い髪を鬱陶しげにひとつに括った。

 蝶花は絹地に細かな刺繍の施された衣のことで、花庵の面々が戦場に赴く時には、必ずこれを身に纏う。間近で目を凝らして見れば、夜闇によく溶けるその色に、ひとつひとつ微妙に違った蝶と花が刺繍されていることが分かるだろう。

 ヒツギは同じく蝶花に袖を通した蚕を振り返ると、心配そうに顔を歪めた。

「蚕、体は平気なの?」

 連日の仕事によって、蚕の体力は消耗しているはずだった。体の弱い彼女がこのうえ戦いに出ることができるのかと、ヒツギは問いかける。

 その言葉に蚕は一瞬きょとん、とヒツギを見つめた後、ふわりと笑った。

 そして、こう言い切る。

「大丈夫。ヒツギと一緒なら、何も怖くないわ」

 それは、蚕の口癖。

 一緒ならば何も怖くないという、確信にも似た自身の溢れる言葉だった。

 ヒツギはそんな蚕をぎゅっと抱きしめると、同じようににこりと笑いかえした。

「じゃあ蚕には長生きしてもらわなくちゃね。――約束よ」

「うん」

 頷き合うと、二人は夜闇を裂くようにして屋根の上に身を躍らせた。

 すでに集まっていた珠姫と繭姫が、それを見て一斉に駆け出してゆく。

 月光の下、春の夜は深い花の香に満ちている。



 樹家の屋敷は、帝都の一等地に居を構えていた。

 昼間なら白く輝いているだろうその洋館の壁は、夜の中にあって青白く不気味に浮き上がっている。

 辰巳はひと息にその屋敷の門を乗り越えると、豊かな芝生を突っ切って、一直線に玄関へと向かった。

(……やけに、静かだ)

 しんとした静けさに不自然さを感じながら、辰巳が大きな扉の前に立ったところで、ふいに背後に音もなく気配が降り立った。

「どうした」

 振り返らずとも誰と分かる。このところ、ずっと行動を共にしていたのだから。

 金の髪をさらりと払って、蚕は辰巳の前に進み出た。

「私はこっちなの」

 そう言って扉を開けようとする蚕に、辰巳は声をかけた。

「いいのか? 先ほど、お前は神城殿から何も貰っていなかったようだが」

「いいの。だって――」

 ギィ、と蚕が扉を押し開ければ、一斉に屋敷の内側から、二人に目がけて無数の殺意が飛んでくる。

「私には、これがあるもの」

 蚕はそう言うやいなや、帯の後ろに素早く手を回した。

 連続した金属音が闇に響いたかと思うと、あちこちで低い呻き声が聞こえる。

 明るい月光に、蚕の手元が鈍く輝いた。

 蚕が手にしていたのは、いくつかのつややかな銀の棒を、同じく銀の鎖で繋いだ風変わりな武器だった。

 それを素早く振ることで相手の投擲をすべて弾き返した蚕は、もう一度手の内に銀の棒を滑らせると、ひと息にそれらを接いで一本の棒にする。

 鮮やかなその手並みによって姿を現した棒は、薙刀によく似た形をしていた。

 それは、長時間の運動が出来ない蚕の体力を温存するために考え出されたものだ。動かずとも離れた敵を一掃でき、接ぎを崩せば短くもなる。

 スッと慣れた動きで油断なくそれを構えた蚕は、不敵に笑ってみせた。

「――右!」

 蚕がそう叫べば、いつのまに迫っていたのか、男が一人、横合いから辰巳へ襲いかかろうとしているところだった。

 剣を抜くのも間に合わないほど至近距離にいた男を、しかし辰巳は、手を差し出すだけで軽々と吹き飛ばす。

 思わず目を見開いた蚕に、辰巳は人の悪い笑みを浮かべる。

「無堂家の本質は、気道にある。どちらかと言えば、俺は素手でもあまり困らない」

 そう言いつつ、すらりと腰の剣を抜いた辰巳の姿に、蚕も武器を構えなおした。

「……相変わらず、おかしな人ね」

 どこか苦笑を含んだ声が響くと同時に、二人は戦いの中に音もなく身を投じた。



 月光に照らされた屋根の上を、音もなくヒツギは駆け抜ける。

 見ている人がいたのなら、それは鳥が低く滑空していくようにも見えただろう。それほどまでに、ヒツギの動きはしなやかで、そして滑らかだった。

 敷地と同様にかなりの大きさを誇る樹家の邸宅は、驚くほどの静けさに満ちていた。大方、使用人達は別住まいなのだろう。しかしその静寂が、かえってヒツギの不審をかきたてた。

(……秋孝は、どこに?)

 ヒツギが周囲を見回せば、ふいに小さな建物が目に入った。

 洋風建築を主とする樹家の邸宅にあって、四方を屋敷の高い壁に囲われるようにしてその土地はある。地上から見ただけでは、そこに土地があることさえ気付かれないだろう。

 狭いその土地には、高い屋敷の壁とは対照的な、背の低い平屋の離れがあった。

 その建物を見た瞬間、ヒツギはそれが何であるのか分かってしまった。

 どこか陰気で、まるで人の目を避けるようにして建てられた立地――雅也は先ほど樹家について、財に飽かせて遊女を囲っていると言っていた。ならば、多分あれが遊女達の暮らしている場所なのだろう。

 こみあげる嫌悪感を飲み下して、ヒツギが別の場所に目を向けようとした時、ふいにその離れの障子戸が乱暴に開け放たれた。

「おい、早くしろ」

 とっさに身を低くしたヒツギは、ちらりと屋根の上から覗きこんだその光景に息を呑んだ。

 男たちが数人がかりで、何か黒くて長いものを運び出している。

 黒いものが月明かりの元に出てきて、はっきりとその姿を現した。

 ――ヒツギが黒いと思っていたものは、人だった。

 いや、人のようなものと言った方が正しいのかもしれない。

 月光に照らし出された色は、深い緑。その体のところどころが鈍く輝いて、不気味にゆらゆらと夜闇に浮き上がる。

 あれは。

「鱗惑い、の……」

 全身を緑の鱗に覆われたその人影は、男たちに抱えられて屋敷の中へと運ばれていく。かろうじてその顔らしき部分から長く伸びた髪が、人影が女性であることを告げていた。

 絶句したヒツギの背後で、幾人かの繭姫がかすかに動いた。

 ヒツギはそれを敏感に感じ取って、小さく頷く。

「……雅也に、報告を」

 その言葉通りに、風のように彼女達は花庵へ駆け戻っていった。

 ぞくりとした悪感が腕を這いあがってくるのを感じながら、ヒツギはぐっと口を引き結んだ。

 ――直感が告げている。あの先に、秋孝もいる。

「後を追うわ。気をつけて」

 ヒツギはそう言うと、ひらりと屋根の上から空へ飛んだ。



 屋敷の中は、とても暗かった。

 ランプや灯りの類が一切ないその屋敷の廊下を、ヒツギは息を潜めながらひた走る。床を踏む音も、衣ずれのかすかな音すらしない、ただひたすらに静かな疾走だった。

 男たちの声を手がかりに屋敷の最奥へと進んでいったヒツギは、ふいに明かりの気配を感じて、素早く壁に身を張り付けた。

 そっと気配のした方を窺えば、男たちが抱えていた人影を無造作に床に転がしているところだった。

 そのまま男たちが立ち去るのを待って、ヒツギはゆっくりと床に転がる人影に近づこうとする。

 と、それよりも先に駆け出した小さな人影が、ヒツギを遮るようにしてその間近にかがみこんだ。

「龍緋っ?」

 思いもよらぬその人物の姿に、ヒツギは思わず声を上げた。

 一方、名を呼ばれた小さな少年は、ヒツギに頓着することなく、ごく冷静な眼差しで床に転がる人影の顔を覗き込んでいる。

 痛ましげに顔を歪めた龍緋は、そっと人影の髪を撫でて立ち上がった。

「何で、龍緋がここに」

 ヒツギのその問いには答えずに、龍緋は静かな視線を暗闇に向ける。

 続いてヒツギもその視線を追い――びくりと身をすくめた。

 暗闇の中、大きな障子の戸が幾枚も並んで、視界を塞いでいる。

 その白い和紙の表すべてに、朱の筆で何事かの言葉と文様が隙間なく綴られていた。

 ヒツギはその異様さに驚くと共に、どこか体の芯の方で、絶対的な拒否感が生まれてくるのを感じていた。

 ただの落書きと言ってしまえばそれまでだ。だがその文様のひと筆から、言葉のひと文字から、この上ない圧迫感を感じる。

(何……?)

 覚えのない自らの体の反応にヒツギが戸惑っていれば、龍緋がおもむろに口を開いた。

「風よ。集まりて、かの呪縛を突き破れ」

 ひどく冷たく、どこか遠くで聞こえたかのような奇妙な感覚をもたらす声が、龍緋の喉から漏れる。

 次の瞬間、目も眩むほどの突風が、その障子戸めがけて吹き荒れた。

 ヒツギが思わず腕を顔の前にかざしてそれをやり過ごした後、うっすらと目を開けてみれば、景色は一変していた。

 先ほどまで視界いっぱいに広がっていた障子戸はことごとく打ち破られ、無残な木枠がところどころに転がっている。ヒツギの感じていた圧迫感もどこかへ消え失せて、そこにはがらんどうの大きな部屋が口を開けていた。

 呆然とその光景を見つめるヒツギの視線が、まさかという驚きを込めて、龍緋に向けられる。

(まさか、今のは龍緋が?)

 自分の腰ほどまでの高さしかない若草色の頭を見下ろして、ヒツギはこくりと唾を飲みこんだ。

 龍緋はためらいなく障子戸の残骸を踏み越えると、その先の部屋の中へと駆けこんでいく。

 ヒツギも同じようにしてその部屋へと進み――思わず、足が凍り付いた。

 部屋の中央、暗い闇のその中に、何かがいる。

 それが何なのか分からない。ただひとつ確かなのは、それがひどく恐ろしいものだという、本能にも似た直感があることだけだった。

「う……」

 立ちすくんでいたヒツギは、ふいに横合いから聞こえたかすかな呻き声に、はっとそちらを振り向く。

 その声に、聞き覚えがあった。

「秋孝!」

 部屋の壁にもたれかかるようにして倒れていたその人影に、ヒツギは駆け寄る。

 秋孝は首元を手で押さえながら、どうにか言葉を発した。

「ヒツギ、か?」

「そうよ。何にやられたの? 毒なら蚕が詳しいんだけど……」

 そう言って傷口を見ようとするヒツギに、秋孝は首を振った。

「大丈夫だ。もうほとんど抜けてる。それより」

 そう言って言葉を重ねようとした秋孝の声を遮るようにして、ひとつの声が響いた。

「――兄者!」

 部屋の奥から響いたその声は、龍緋のものだ。

 見れば、龍緋は部屋の奥にある――先ほどヒツギがひどく恐ろしいと感じたそれに縋りつくようにして、何かを叫んでいる。

「兄者、しっかりして下さい! 兄者!」

 龍緋のその言葉に、ヒツギが暗闇に目を凝らせば、部屋の奥にいたのは人影だった。

 大きな木の柱に四肢を黒い鎖でくくられた長身の男は、龍緋の声に閉じていた瞳を大儀そうに持ち上げると、低くかすれた声で呟いた。

「龍、緋……」

「兄者! 今この鎖を外します」

「……無駄、だ」

 男のその言葉に、龍緋はハッと目を見開いて、鎖に伸ばそうとした手を引っ込めた。

「呪が……おのれ、人間ふぜいが」

 黒い鎖と四肢に嵌められた枷の表面には、びっちりと細かい文様が刻み込まれている。それを見た龍緋は、その幼い顔からは想像も出来ないほどの怒気をあらわにして唇を噛んだ。

「一体、何――」

 ヒツギが言葉を発しようとしたところで、ふいに部屋の奥からもうひとつの人影が姿を現した。

「誰かと思えば、神城の犬か。わざわざこんなところまで、ご苦労なことだ」

 どこか粘着質で不快な響きを持つその声音に、ヒツギは素早く小刀を構えた。

 暗闇の中から姿を現した恰幅の良い人影は、まるで小蝿に向けるような目つきでヒツギを見やる。

「せっかく香坂の血を手に入れたところに、邪魔だてしないでおくれ」

 そう言った男に、ヒツギは小刀を正面に構えたまま問いかけた。

「樹家当主、樹廉昌で間違いないわね」

 男――樹廉昌はその言葉に、含み笑いで答えた。

「そうだとも。私はお前を招いた覚えはないが、何用かね」

「あなたの招待なんていらないわよ。その質問に答えてあげる義務もないわ」

 不遜にそう言い切ったヒツギに、廉昌は小さく鼻を鳴らした。

「おおかた、どこからか鱗惑いのことを嗅ぎつけてきたのだろうが――無駄だ。あれはもう止まらん」

 廉昌の言葉に、ヒツギは眉をひそめた。

 その様子を面白そうに見やって、廉昌は笑う。

「いちど鱗が出たら最後、その人間が助かる可能性はひとつしかない」

 そう言い放った廉昌に向けて、横合いから怒声が飛んだ。

「黙れこの外道が。兄へのこの振る舞い、死でも贖いきれぬと知れ!」

 廉昌はその声で、初めて龍緋の存在に気付いたかのようだった。

 憤怒の形相で自分を睨みつける龍緋を見て、廉昌は薄く笑った。

「何と。新たな龍が手に入るとは、これも天の配剤か」

「…………龍?」

 ヒツギのその声に、廉昌は口の端を持ち上げる。何とも言えない気色悪さが、そこから感じられた。

「そう、龍だよ。神城の犬は知らぬだろうが――もしこの帝国が、龍によって支えられた国だとしたら、どうする?」

 廉昌のその言葉に、ヒツギはきつく唇を引き結んだ。

「……頭がおかしくなったの?」

「いいや、事実だ。北は蝦夷から南は琉球まで、この国には龍が住んでいる」

 廉昌は腕を広げて、確信に満ちた声で言葉を続ける。

「戸隠の峰、諏訪の湖水、伊勢神宮、金峰の山頂、西肥後の阿蘇、富士の山、住吉の大社……挙げればきりがないほどに、この国は龍の棲みかだ。そして天皇とは、それら龍と遥か昔に約し、この国を預かる者のこと」

「……そうだとしたら、何?」

「馬鹿馬鹿しいとは思わないか。人間は進歩し、この国は帝国となり、時代も姿も変えたのに、たかだか獣にへつらう国に過ぎない」

 暗く笑った廉昌は、一転して喜悦に満ちた表情を浮かべると、ヒツギに向かって問いかける。

「そこでだ。もし人の手で龍を作ることが出来れば、この国は更に進化できるのではないか?」

 ヒツギはそこで、目の前の男が何をやろうとしているのかに気付いた。

「まさか、鱗惑いって……」

「そう。人の手で龍を作り出す、私の計画だよ」

 廉昌は笑って、ヒツギの背後に倒れ伏していた女を指さした。

「ああやって龍の鱗を人に植え付けると、やがてそれは全身に広がる。それから先の選択肢は、二つしかない。広がりきる前に体力が尽きて死ぬか、広がりきって龍になるか。――まあ、今までの者はすべて広がりきる前に死んでしまったが」

「……人体実験じゃない」

「そうではない。この帝国を自由にするための一つの方法だ。この計画を持ちかけると、皆喜んで協力してくれたよ」

「どうせ、龍を作った後の地位でも約束したんでしょう。見栄っ張りな財閥や華族の虚栄心を利用して」

 だからこそ一般の帝国国民ではなく、わざと財閥や華族を選んだのだ。富や地位のためならば、人の命など何とも思わない人々を。

 ヒツギのその言葉に、廉昌はにたりと笑った。

「それもあるが、私が彼らを選んだのは他にも理由がある。東京より昔、この国の中心がどこにあったか、お前は知っているかね」

「京都でしょう」

「そう、京だ。今の華族や財閥は、東京に移ってくる前はそのほとんどが京の公家や武家だった」

「……だから?」

「天皇家は代々龍と約する神聖な家柄。その傍に侍るのなら――それらも神聖な血統であったことは疑いようがない。

龍になるためには素養が必要でね。だからわざと、財閥や華族の中でもその血が濃い家柄を選んだんだよ」

 けれども、と言って廉昌は首を振った。

「どうにも上手くいかない。龍と契った女ならどうかと思ってそこの遊女にも鱗を植え付けてみたが、見たとおり虫の息だ。そこへ、上手く華族の変わり者が転がり込んできた」

 廉昌はそう言って、ヒツギの傍らに立った秋孝を見やる。

「それも極上の――帝国でも一、二を争う血の濃い香坂家ともなれば、必ず私の計画は成功するだろう」

 爬虫類じみた気色の悪い目を秋孝に向けて、廉昌は笑った。

 ヒツギはスッと秋孝の一歩前へと踏み出て、小刀を逆手に構える。

「あいにくと、そんな薄気味悪い実験に私の旦那はやれないわ」

 秋孝も腰の長剣を抜き払うと、ヒツギの横へ並び出た。

「もちろん、俺もむざむざ餌食にされるつもりはない」

「何とも頭が固いね。――けれども、こちらには龍がいる」

 廉昌は柱に括られた長身の男を振り返ると、低く吐き捨てるようにして呼びかけた。

「おい、女を殺せ。男の方は四肢を折っておくだけでいい」

「貴様、兄者に向かって何を――」

 龍緋がその瞳をぎらつかせ、廉昌に向かって低く咆哮する。その声はすでに人間のものではなく、顔も見る間に人としての原型を失くし、代わりに恐ろしげな鋭い牙と鈍く光る鱗、長い髭――龍の顔がそこにあった。

 ヒツギと秋孝が驚きに息を呑む前で、龍緋がその顎をぐわりと開けた瞬間、ひどく静かな声が部屋に響いた。

「……先ほど、女と言ったな」

 その声は、柱に括りつけられた長身の男から発せられた。

 廉昌は一瞬眉をひそめた後、問われているのが自分だということに気付いて、横柄に答えた。

「ああ、あの遊女か。どうした、毎晩抱いて情でも湧いたか」

「……そこに、転がっているのが」

「そうだとも。お前にあてがった遊女だ。身までお前の鱗に侵されて、もう使いものにはならんだろうがな」

 さも嫌そうに廉昌がヒツギの背後に転がる女に目を向けると、長身の男はじっと黙ってそれを見つめた。

「さっさとこの神城の犬を殺せ。さあ――」

 その廉昌の声に、長身の男は長々と溜息をつく。

 そしてヒツギと秋孝がとっさに身構えた次の瞬間、猛烈な突風が部屋に吹き荒れた。

「――つっ」

 先ほどの龍緋の時とは比べものにならないその暴風に、思わずヒツギはたたらを踏む。空をかいたその腕を秋孝につかまれて、何とか倒れることだけはまぬがれた。

 ごうごうと風は唸りをあげて逆巻き、その中心にいる男の顔は窺い知れない。

 ただその長い髪だけが風にあおられて、まるで生き物のようにうごめいていた。

「こ、の――命令を聞かんか!」

「黙れ、人間」

 嵐のような部屋の中で、廉昌のその叫びを、男は一蹴した。

 そうしてパキリという、まるで玻璃が割れるような音が響くと同時に、男の四肢に嵌められた枷に亀裂が入った。

 その音に、廉昌の顔が恐怖に引きつる。

「まさか、お前にそんな力が残っているはずが」

 そう廉昌が言い終えるより先に、枷の全ては鋭い音を立てて砕け散った。

 男はゆっくりと顔を上げると、空に向かって咆哮した。

 轟、という響きが全身のすみずみを打って、ヒツギは呆然と立ち尽くした。

 吹き荒れる風の中、柱の前に男の姿はすでにない。

 その代わりに、青い輝きがそこにあった。

 鹿のそれに似た二本の角、ゆらめく長い髭に、手の先についた鋭い爪の数は三。背を腹を、ぐるりと埋め尽くす鱗の色は深い瑠璃色。うねるように渦巻いたその体躯は蛇にも似て、しかし明らかにそれとは違う。

 海の底のような蒼色のその両眼が、静かな光を湛えてこちらを見返す。

「龍……」

 ヒツギがそう呟けば、目の前の青い龍はゆっくりと身をくねらせた。

 びくりと身をすくませたヒツギの頭上を通り越して、龍は床に転がっていた女にそっと顔を寄せた。

 女はかすかに身じろぎすると、わずかに残った人肌の部分で、小さく、しかし確かに笑った。



 春琴はうっすらと目を開けて、目の前の青い輝きを見つめた。

 問わずとも、誰かは分かる。――ずっと、その瞳を見つめていたのだから。

 声をかけようとして、やめた。その人がとても悲しんでいるのが分かったから。

 代わりに、わずかに残った片頬と瞳で、小さく微笑んでみせた。

 ……大丈夫、ですよ。

 お側に。私だけはお側にいますから。

 その思いが伝わったかのように、その人はゆっくりと体の力を抜いた。

 そして初めて――小さく微笑んだ。

 春琴はその微笑みを見て、ああ、と吐息をもらした。

 初めて、あなたの笑った顔が見れました。

 そう思っていれば、徐々に視界が黒くかすんでいく。

 春琴はすっかり鱗に覆われてしまった片手を伸ばしながら、熱いしずくが頬を滑り落ちていくのを感じていた。

 ……なぜ、私たちは普通に生きられなかったのでしょう。

 通りを手をつないで歩いて、同じ場所で朝を迎える。

 なぜ、そういう当たり前のことが、私たちには許されなかったのでしょう。

 伸ばした片手が、その人にそっと触れる。

「……す、ばる……さ……ま」

 その声が喉をついて出た後、春琴の視界は黒く塗りつぶされ――青い輝きすら、見えなくなった。



 女の手がごとりと床に落ちると、ぴたりと風がやんだ。

 ヒツギが見つめる前で、龍は二度三度その女の顔をつつき、とうとう女がもう動かないことを見てとって――大きく咆哮した。

 何度も、何度も咆哮を繰り返すその姿は、慟哭にも似ていた。

 低い地響きを残して最後の咆哮を終えた龍は、その顎を大きく開くと、目にも止まらぬ速さで廉昌に襲いかかった。

「な、止めろ、来るな―――― !」

 その叫びもむなしく、廉昌は片腕をごっそりと龍の爪に持っていかれた。

 血しぶきをあげて倒れた廉昌を振り返ることなく、龍は血にまみれた顎をゆっくりとヒツギに向けて、今度はこちらに襲いかかってきた。

 思わず横合いに飛び退ろうとするが、それよりも龍の爪がヒツギを捕らえるほうが速い。

「っ、――― !」

 襲いかかる衝撃を予期して、ぐっと歯を食いしばったヒツギの視界に、臙脂色の影がよぎった。

 強い力で抱き締められる感覚があって、そのまま体がぐらりと傾ぐ。次いで、どん、という鈍い衝撃が伝わってきた。

「――秋孝っ!」

 ヒツギをかばって龍の爪を腕に受けた秋孝は、その激烈な痛みに思わず膝をついた。その傷口には、深々と瑠璃色の鱗が埋まっている。

「何してるのよっ!」

 ほとんど悲鳴に近いヒツギの叫びを聞きながら、秋孝は背後を睨んだ。

「来るぞ!」

 ヒツギが思わず振り返れば、目の前に青い鱗が迫る。

 思考は一瞬。

 血が沸騰するような感覚に支配されながら、ヒツギは小刀を目の前に突き出した。

 途端、それまで鈍色だった刀身が、赤銅色に輝く。

 龍はその赤い光を受けて、まるで目がくらんだかのように甲高い声を上げた。

 ヒツギが目の前の光景に驚いていれば、片腕を失くした廉昌が哄笑する。

「はは、ははははは! そうか、そういうことか。おのれ神城め、龍血を目覚めさせるために、私を利用したな!」

 廉昌のその声に振り向けば、血まみれの男はヒツギを指さして笑った。

「清華は大戦中に解体されおったから、まさか生き残りがいるとは思わなんだ。帝国で唯一、龍の子を孕んだ女が生んだ子供――清華の秘継とはお前のことか!」

 ヒツギは廉昌のその言葉に、愕然とした。

「何で、知って……」

 ヒツギとは、秘継。秘密を継ぐ者の意。

 自分しか知らないはずのことを暴かれて、ヒツギの体が凍りついてゆく。

「なぜ? さて、それは神城に聞いたらどうかな!」

 けたたましくそう叫んだ廉昌の胴を、青い龍の顎が再び襲い、彼は絶命した。

 血塗られた顎から発せられた低い咆哮に、ヒツギは死を覚悟する。ぐっと身をすくめて目を閉じた次の瞬間――。

 コツリという小さな音が、ヒツギのすぐそばで響いた。

 驚いて目を開けば、視界に一人の少女が立っている。

 背はヒツギよりも少し低い。背後からでは顔は窺い知れないが、真っ直ぐでくせのない髪が、少女のひざ裏までを覆っている。

 纏うのは黒絹の衣に、雌黄の帯。赤い塗下駄を履いた白い素足の足首が、少女の華奢さを物語っていた。

 少女が着ているのは、まぎれもない蝶花だった。

 しかし、そんな蝶花をヒツギは見たことがない。

 月光に浮き上がるようなわずかな色味ではない。むしろ闇の中でも、それは際立って美しく見えるだろう。

 鮮やかな色遣いで黒地に散らされているのは無数の菊。

 そして何より、その長い袖と背に鮮やかに刺繍されているのは――。

「……蝶」

 ヒツギの声が聞こえたかのように、そこに金糸銀糸で縫いとられていた蝶の文様が、暗闇の中でわずかに光った。

 花庵の最上位にして至高の姫、蝶。

 いま、ヒツギの目の前に、その少女がいた。

 少女がその小さな白い手をスッと虚空にかざすと、ぶわりと強い花の芳香が漂った。

 まるでその香りがまとわりついたかのように、龍の周囲に薄桃色の膜が生じる。

 龍はその膜に包まれると、まるで眠ってしまったかのように大人しくなった。

 少女は小さな腕にその膜ごと龍を抱くと、まるで浮き上がるかのようにふわりと虚空に飛翔した。

「待っ――」

 思わず呼び止めようとしたヒツギの瞳に、少女の視線が突き刺さる。

 瞳の色は美しい菫色。しかしその瞳のどこにも、光はなかった。

 まるで、感情というものを知らないかのように。

 龍を抱えた少女はそのまま雲がかき消えるように立ち去り、後にはヒツギと秋孝それから呆然と立ちすくむ龍緋が残された。

「ヒツギ……」

 秋孝が声をかければ、ヒツギの背中が大げさにびくりと震える。

 一向にこちらを振り向かないヒツギの肩をつかもうとした瞬間、ばたばたという足音と共に、見知った人影が部屋に駆けこんできた。

「ヒツギ!」

「秋孝、無事か!」

 蚕は呆然としているヒツギを見るなり、ギッと激しい視線を秋孝に叩きつけて、すぐさまその傍らへ走り寄った。

 辰巳は秋孝の腕を見るなり、すばやく服の袖を切り裂いて、傷口を縛りあげる。

「あまり深くはない。消毒を優先して――おい秋孝、聞いているのか?」

「……ああ」

 呟いたその声は、自分でも驚くほど、か細かった。

 蚕に支えられて青い顔をしているヒツギを見ながら、秋孝は一人、ぐっと唇を噛みしめた。



 雅也は、花庵の最上階にある自室の露台で、ゆっくりとその弦を鳴らしていた。

 まろやかな栗色に曲線的な形をした弦楽器――バイオリンを片手で抱え、弓をもう一方の手に携えて、雅也は甘やかな音色をそっと奏でる。

 その音色に誘われるようにして、夜の帳のかなた、連なる屋根の遥か向こうから一人の少女が駆けてきた。

 雅也はその姿に目を留めると、そっとバイオリンを傍らの床に下ろす。

 体重というものをまるで感じさせない少女は、広げられた雅也の腕の中に、その華奢な体を滑りこませた。

 ずっと以前からそこにあったかのように、少女の体はすっぽりと雅也の腕に収まる。

 雅也は少女の黒髪を撫で梳くと、小さく呟いた。

「……本当に、実和は私の音が好きだね」



「おい」

 ふいにかけられたその声に、雅也はゆっくりと振り向いた。

 見れば室の入口に、龍緋が立っている。

「兄者をどこへやった」

 低いその声には、いささか怒りが混じっているようだ。

 しかし雅也はそれに頓着することなく、長煙管をくるりと回した。

「お前の頼みは二つばかり聞いただろう。これ以上、あまり贅沢を言うものじゃないよ。――お前の兄上は、今頃は帝の御許だろう」

「何?」

「安心おし。傷が深いから、少しばかり眠る必要があるだけだ」

 そう言った雅也の顔に嘘がないことを見てとって、龍緋はどっかりと室に腰を下ろした。

「お主、俺を利用しただろう」

 龍緋のその言葉に、雅也はちらりと視線を送ってきただけで答えない。

「俺がここに来たのは全くの偶然。兄者を見つけきれず、死のうとしていたところをあの女に引っぱられての」

 龍緋は当初、兄龍である昴の行方不明の報を聞いて、この帝都へやって来た。

 探しても探しても見つからず、いっそこのまま帰るくらいならと、鉄道馬車の前へ飛び出したところを、ヒツギに助けられたのは確かに偶然だ。

 しかし額の鱗に痛みを覚えて倒れ、目覚めた時に目の前にいた人物を見た瞬間、龍緋は呼吸が止まるかと思うほどに驚いた。

「まさか、白沢が帝都に人の形でいようとは」

 白沢――それは鳳、亀、麟と並ぶ、強い霊力を持った聖獣のことだ。

 牛の体に人面、九つの瞳と六本の角を持つとされる白沢は、徳の高い為政者の治世に姿を現すとされる。

 神城雅也の真の正体――それは、白沢だ。いや、神城雅也という形で今世に白沢が現れた、と言った方が正しいのかも知れない。

「お主は言ったな。約定さえ守れば、兄者を助けると」

 龍緋の言葉に、白い獣の本性を持った男は頷く。

「そうだね。そして私はお前との約束を果たした。兄は助け出せただろう?」

「……そのついでに、あの龍血を目覚めさせたかったのか」

 龍血というその言葉に、雅也は眉をひそめた。

「樹家の当主の口が滑ったか。そうなる前に、死んで欲しかったんだけれどね」

 そう言って紫煙を吐き出した雅也は、どこか遠い瞳で夜空を見上げた。

「昔、大戦の頃にね。清華家という家があった」

 清華家というその家は、華族の中で一番の家格を誇る名家だった。昔は華族と言えば、この家の別称でもあったのだ。

 その家がとある当主の代に、龍を捕らえた。

 そうして一人の女がその子供を産んでいたと知った時――帝国は、清華家の解体を決めた。

 龍を保持しているくらいならば、どうということはない。むしろそれよりも、清華家を解体することによって様々な経済的、政治的事柄に出てくる影響の方が深刻な問題だった。

 しかし龍と人の間に子が生まれれば、必ずやその家は帝国の脅威となる。

 実際、清華家はその子供が生れてより十年、帝国の目からその事実を隠し通していた。それほど力のある家柄がいま以上の力を持てば、国が揺らぐ。

「それで、私が出たというわけさ」

 龍の子ともなれば、普通の人間では相手にならない。天皇はすぐさま、白沢である雅也に清華家の解体を命じた。

「……哀れみでも出て、あの少女をここに置いておるのか?」

「まさか。龍血は殺すよりも、手の内にあるほうがいい。ヒツギは、自分で望んでここにいるのだから」

 泥まみれの地に伏していた少女は、あの夜、望んで雅也の手を取った。

「帝もご存じのことだよ」

 どこまでも感情を見せない雅也に、龍緋はいらいらと歯噛みした。

「全く、人間は分からん。お前、どうしてあんな女を手もとに置いている」

 女、と言われて、雅也は首を傾げた。

「兄者を一瞬で捕らえたあの女だ。――あのすさまじい霊力は、何だ」

 ふわりと現れたかと思えば、すぐに姿を消したあの塗下駄の少女。

 猛り狂った龍を完全に捕らえるなど、人間に出来る芸当ではない。

「ああ、蝶のことかい」

 雅也はくるりと煙管を回して煙草盆に灰を叩き出すと、そう呟いた。

「……あれは、人ではなかろう」

「体は人だよ。中身はともかくね」

 そう言って、雅也はあらぬ方向を見やる。

「あの子の名前は、実和という。いまその体を使っているのは、蝶花神だ」

 蝶花神、と言われて、龍緋は目を見開いた。

「帝国の南方守護を司る女神。その性状は烈にして知、冷にして華。あの子に宿ることで、蝶花神はその役目を果たしている」

「……生贄か?」

「いや。代わりが見つかれば、蝶花神はそちらに移るだろう」

「龍血は、そのためか」

「何とでも言うといい。私は実和が戻るなら、どんなことでもしよう」

 白沢の思わぬその言葉に、若龍は度肝を抜かれた。

「お前、人を……」

 愛したのか、とまでは言えずに、龍緋は口をつぐんだ。

 自分の兄も、同じように人を愛した。愛して、そして傷ついた。

 雅也は漆黒のその双眸をどこかへ向けたまま、ひっそりと呟く。

「……あの子だけだ。私はずっと、あの子に捕らわれている」

 花の香を含んだ強い風が吹き抜けて、雅也の白絹の髪が、まるでそれに弄ばれるかのように、夜に散った。



 秋孝は冷たい朝霧を頬に感じて、ゆっくりと目を開けた。

 見れば、窓の障子戸がかすかに開いている。そこから夜明け前の風が、ひっそりと室に忍び込んで来ているのだった。

 ごろりと布団の上で寝返りを打つと、かすかに左腕に強張りを感じる。

 数日前のあの事件で、龍の鱗がめり込んだところだった。

 今は包帯を巻かれているので皮膚の状態は窺い知れないが、感じるところによると事態はそう深刻でもなさそうだった。

 布団に入る前に訪ねて来た雅也が、治療薬を明日持ってくると言っていた。ならば、そう慌てることもないだろう。

 秋孝はあの夜から、ずっと花庵に滞在していた。

 帰ってくるなり傷から発した熱で倒れ込み、そのまま手当を受けた。このまま近衛軍の官舎に帰っても騒ぎを大きくするだけだろうと思い、花庵の一室を借り受けて傷を癒している。

 事情は、すべて雅也から聞いていた。

 辰巳は毎日のように訪ねてくるし、蚕や龍緋もよく姿を見せた。

 ただ一人、ヒツギだけが、あの晩から秋孝の前に姿を現さない。

 秋孝は黙ったまま、がらりと障子戸を開け放つ。

 心なしかその手つきが乱暴になっていることには、気付かないふりをした。

 夜明け前の大気で頭が冷えればと、窓辺に身をのりだす。

 そうして、遠くの屋根の上に、ひとつの人影を見つけた。

「…………っ」

 秋孝はその顔を見るやいなや、全力で室を駆けだした。



 ヒツギは一人、花庵の屋根の上に佇んでいた。

 夜明け前の青い空気が、低い温度をともなって肌を滑る。薄暗い闇の中で、ヒツギは我知らず、自らの腕を強く握った。

 ヒツギの本当の名前を、清華秘継という。

 今は亡き清華家の長子にして、人と龍の合いの子。

 その事は充分、自分が知っているはずだった。

 けれどもあの夜、秋孝の前でそれを明らかにされた時。

 ――ヒツギの体を駆け巡ったのは、後悔だった。

「馬鹿みたい………」

 知っていたはずだった。自分が、人ではないことくらい。

 けれど、初めてヒツギという人間を認めてくれた秋孝が、それを知ってどう思ったか。

 聞くまでもない。きっと気味が悪いと、そう感じたに違いない。

 ヒツギは、自分の両手をじっと見つめた。

 何の変哲もない手だ。けれど、その下に流れている血は違う。

 その血のせいで、清華家は解体された。もう、誰も生きてはいない家。

「……今さら」

 そんな自分が、今さら誰かに普通に思ってもらいたいなんて、無理な話だ。

 だから傍付きのままが良かったのだ。誰かに嫌悪されるくらいなら、ずっとこの庵から出ないほうがいい。

 けれど、あの瞳に出会ってしまった。

 それでも、もうここで終わりにしなければ。

 夜が明けたら、雅也の元へ行こう。そしてそのまま、自分が一生をこの花庵で玉衛として過ごせるように、確約をとりつける。

 ……秋孝とは、このまま会わずに別れよう。それが、一番いい。

 静かに溜息をつくと、ヒツギはくるりと踵を返そうとして――、

「ヒツギ!」

 足を止めた。

「…………え?」

 ――今の声は、誰のものだ。

 本当は、分かっている。聞いた瞬間に、胸が締め付けられるように痛んだことも。

 早くここから離れなくてはと思うのに、ヒツギの足はその場から動かない。

 夜明け前の静寂に支配された屋根の上に、ひとつの人影が登ってくる。

 その姿を見た瞬間、ヒツギの視界がかすかに歪んだ。

 秋孝が、そこにいた。



「ヒツギ!」

 屋根の上を駆けてくるその姿に、ヒツギは呆然と呟いた。

「……何で」

 秋孝はぜえぜえと荒く息をすると、眉間に皺を寄せた。

「お前、何でずっと俺の室に来なかった」

 その問いに、ヒツギは答える言葉を持たない。

「……」

「答えろ。何で来なかった」

「……った……か、ら」

「あ?」

「……気味、悪……がられると、思ったから」

 かすれた声でどうにかそれだけを呟いたヒツギの前で、秋孝は呆れたように溜息をつくと、乱暴に髪をかき上げた。

「どうしてだ」

「……どうして、って……だって、私、人間じゃないのよ……?」

「人間じゃなければ、お前じゃないのか」

「だって、龍血が……」

「待て。俺は、人間じゃなければお前じゃないのかと聞いたんだ。お前に龍の血が入ってようが、そんなことはどうでもいい」

 どうでもいいと言われて、ヒツギは目を見開いた。

「……何、言ってるのよ? 龍よ、龍! 分かってるの?」

「ああ、分かってる」

「分かってないわよ! 全然、全く、分かってな――」

「龍の血が入っていようが、お前はお前だ。そうじゃないのか?」

 絶句したヒツギに、秋孝の真っ直ぐな視線が刺さる。

「血なら、俺にも流れている。香坂家の血が。俺とお前で、何が違う?」

「……だって、龍なのよ?」

「それでも、その生き方を決めるのはお前だろう。お前は、自分で選んでここにいる。そうじゃなかったのか?」

「そ、う……だけど」

「なら、何も気にすることはないだろう。全く、そんなことで」

 と、そこまで言いかけて、秋孝はハッと口をつぐんだ。

「…………もしかして、ずっと気にしてたの?」

「……仕方ないだろう。あれだけ蚕にわめかれたら」

 蚕、とヒツギが呟けば、秋孝は頷く。

「見舞いに来るたび、お前のことで延々問い詰められる。重箱のスミをつつくのでもあそこまではやらないってくらいに、ずっと小言だ」

 ……それは見舞いと言えるのだろうか。

「心配してたぞ」

 秋孝のその言葉に、ヒツギは小さく笑った。

「うん」

「……言っておくが、俺はお前が龍血でも気にしないからな」

 そう言われた瞬間、ヒツギの顔からフッと表情が消えた。

「俺からすれば血も家も、さして変わりはない。自分を縛る、鬱陶しいものというだけだ。だから、お前がそれを気にする必要はどこにもない」

 秋孝の紅茶色の瞳が、ヒツギの目を見据える。

(……ああ)

 そうだ。この瞳だ。

 初めて会った時から、この瞳がヒツギを捕らえて離さない。

 その瞳をしばらく見つめて、ヒツギは唐突にあることを思い出した。

「――――って、あああああ!」

 その叫びに、びくっと秋孝の肩が震える。

「な、何だいきなり」

「……忘れてた」

「何を」

「…………あ、あのね」

 秋孝を助けに行く前に、雅也に条件として提示されたこと――秋孝を自分の旦那として迎えるということを、ヒツギはいかにも気まずそうに説明した。

「俺とお前が、これからずっと任務で組んでいくってことか?」

「そういうこと、なんだけど……や、やっぱり、断ってくる。雅也を殴り飛ばしてでも、なかったことにしてくるから!」

「待て」

 そう言って走りだそうとしたヒツギの肩を、秋孝はとっさにつかんだ。

「いい」

「え?」

「断らなくてもいい」

「……だって、ずっと私とよ?」

「いい」

「いいわけないじゃない! ちょっともう、手を離し――」

「俺がそれでいいと言っているんだ。抵抗する理由はないだろう」

 思わずぽかん、としたヒツギに、秋孝は長々と溜息をついた。

「……先は長そうだな」

「そうよ、ずっと私と組むのよ?」

「いや、そういうことじゃないんだが」

「?」

 もういい、と言って秋孝は呆れたように首を振ると、ヒツギの片手を取った。

 びくりと固まったヒツギを小さく睨んで、そっとその手を持ち上げる。

 次いで、覚えのない体温がヒツギの指先に触れた。

 ――口づけを落とされたのだと気付くまでに、そう長い時間はかからなかった。

「ここに誓おう。今日これよりお前は、私の姫だ」

 そう呟いた秋孝の顔を見ながら、ヒツギは半瞬呆然とした後、急激に自分の体温が上がってくるのを感じた。

「な、ななな何してっ……」

「誓いというのは、大抵こうやってするものだが?」

 平然とそう言ってのけた秋孝に向かって、ヒツギは思い切り叫ぶ。

「――――――っ、知らないわよそんなこと!」

 銀座の街にヒツギの声がこだまして、ようやく夜は明け始めた。



 深い静謐な空気の中に、美しい衣ずれの音だけが染み入るように広がっていく。

 拭き清められた上質の檜の回廊を、淡い翡翠色の衣を纏った雅也がゆっくりと歩けば、女官たちは面を伏せて、音もなく道を開けた。

 唐衣に身を包んだ一人の女官が、雅也を回廊の奥へと導いてゆく。

 やがて金銀で細工の施された衝立の前まで来ると、女官は深く腰を折って、おごそかに言った。

「これより先、私どもは参れません。皇華大輔のみ、お進み下さいませ」

 雅也はおざなりに頷くと、女官の前を通り過ぎて、衝立の奥へと進んだ。

 しんとした静寂の中に、雅也の足もとを滑る衣ずれの音だけが響いて、桐造りの白く美しい渡殿を伝っていく。

 けむるような庭園の緑に春の花の香が溢れて、雅也はその見事な眺めに少しだけ目を細めた。

 渡殿の最奥、欄間に二羽の鳳凰が向かい合う真白い大きな襖の前で、雅也は足を止める。ふわりと羽のように軽い動きでそのまま回廊に腰を下ろすと、白絹の髪を滑らせながら深々と平伏した。

「皇華の大輔、神城の雅也、お召しによりまかりこしました」

 雅也の声に答えるようにして、襖の向こうでシャン、と鈴が小さく鳴るのが聞こえた。

 真白い襖が左右に開かれ、その向こうに途方もなく広い室が現れる。

 青畳が敷き詰められたその室は、ひやりとした冷たい空気に満ちている。雅也が深く頭を下げたその奥、他の畳よりも一段高いその場所に、すくりと人の立ち上がる気配があった。

「ようやく来おったか。遅かったな」

 凛とした張りのある声が室に響けば、ゆらめくようにして空気が神聖なものへと変質する。人影の動きにつられて、烏の濡れ羽色をした見事なぬばたまの髪が軽やかに踊った。

 立ち上がったその背はしなやかに高く、段の差を考えても雅也より少し低い程度だろう。長身に真白い衣を纏い、鮮やかな緋袴を翻しながら、人影は何のためらいもなく雛段を降りた。

 そのまま広い室を横切って、平伏したままの雅也へと近づいてゆく。

「私を待たせるのは、この国でお前くらいのものだろうな」

 白皙の肌に映える黒髪を床にひきずりながら雅也の前にしゃがみこんだ女性は頬杖をつきながら、紅唇を歪めるようにして笑みを浮かべた。

 女性は無造作に片手を振って、雅也に顔を上げるように示す。

 ゆっくりと顔を上げた雅也の顔を見て、その女性は声を立てて笑う。

「相変わらず、女顔負けの美しさよ」

 くくっ、と喉を鳴らす女性の姿に、雅也は首を傾けた。

「相変わらずご健勝そうで何よりです。帝国に慶びを」

「戯言を」

 女性は肩にふりかかった黒髪をかき上げて、嘲笑した。

 けむるような睫毛の下で輝く瞳の色は、塗りこめたかのように鮮やかな緋牡丹色。

 すがめられたその目に宿る鋭い猛禽の光を、雅也は涼しい顔で受け止めた。

「今日はやけに殊勝なことよ。気味が悪い」

「陛下に対して不遜でいることなど、私にはとても出来かねますゆえ」

 その言葉に長身の女性――帝国総帥、天皇推古その人は、ふんと鼻を鳴らした。

「まあいい。それで?」

 瞬時に国主としての厳しい顔つきになった推古の問いに、雅也は臣下の一人として静かに答える。

「鱗惑いの件は解決いたしました。龍血の覚醒も、つつがなく」

「よい働きだった。褒めてつかわす」

「お言葉、勿体なく存じます」

 推古はくるりと踵を返すと、薄暗い部屋の奥にある、鈍い輝きを放つものに近寄った。

 広く高い室の天井に届かんばかりの大きさを誇るそれは、精緻な細工の施された銅鏡だった。

 人の背丈など軽くこえて、楕円に広がるその鏡は、美しく磨きあげられて曇りひとつない。蓮の花を模した飾り彫りの隙間には、ところどころ緑青が浮いていたがかえってそれが鏡の荘厳さを引き立てていた。

「今回は、龍も我が手中に入った。良きことよ」

 推古は鏡の面にぴたりと手を当てると、ずるりとそこから何かを引き出した。

 うねる長い四肢、玉にも似た青の輝きを持つ鱗――青龍が、鏡の内から推古の腕の中へと、たやすく滑り出てきた。

「よしよし。よく眠って傷を癒せ。愛する者を失う悲しみは、余も知っておるぞ」

 その滑らかな鱗を慈しむように撫でながら、推古は呟く。

「やはり龍は良い。優しく愚かで、そして強く気高きもの。その力、存分に余が使うてくれようぞ」

 推古はそう言うと、小さく笑った。

「全く、この国には馬鹿が多い。それもこれも、男ばかりだからかの?」

 皮肉めいたその問いに、雅也は沈黙で答えた。

「八龍王と約し、代々この国を継いできたのは他ならぬ女とだというに」

 帝国は、その八方を海に囲われる。

 それぞれの海の主である龍王と八つの約定を結び、絶大な霊力を誇るその血で帝国を守護し治めてきた家、それが天皇家である。

 数えて第七十八代目の当主を務める推古は、肩をすくめた。

「肩が凝ってしょうがない」

「お辞めになりますか?」

「それこそ阿呆のすることよ」

 推古は口の端を持ち上げて、凄絶な笑みを浮かべる。

「余の望みは、この帝国を揺るがぬものにすること」

 数多の神をその手中に収め、帝国の根本を作り上げてきた稀代の巫女は、妖艶な仕草でその漆黒の髪を背に払った。

 推古の思考は、君主としては最高のものだろう。国を造り民を守り、さらに豊かにしていく点で、それは傑出していると言えた。

 しかしそれは同時に、一個の人間である推古の中において、何かが大きく欠落しているということでもあった。

「薬湯は後で届けさせる。二日ほどで鱗も剥がれよう」

 推古は雅也に興味を失くしたように、ひらひらと手を振った。下がっていい、という意味だ。

「ではな、神城の男。また会えるのを楽しみにしている」

「陛下も――」

「と、いうのは嘘だ。さっさとくたばってしまえ、目ざわりな白沢よ」

 推古がそう吐き捨てたのを最後に、感情の読めない瞳の輝きだけを残して、雅也の眼前でぴしゃりと襖は閉じられた。



 春の陽ざしに暖められた風が、さやりと室を吹き抜ける。

 花庵の一室、牡丹の間と呼ばれるその座敷で、秋孝とヒツギとの、旦那の契りがとり交わされていた。

 銀で作られた香炉をそっと片手で持ち、まず秋孝がその薫りを、自らの体にそっとふりかける。

 次いでヒツギがその香炉を持ち、同じようにして体にふりかけた。

 これを、比翼の儀という。

 双方の体に同じ香りが馴染んだところで、雅也が言う。

「では、これで契りは済んだね」

 ヒツギがその言葉にほっと体の力を抜けば、横合いから激しい衝撃を受けた。

「ヒツギぃぃぃぃぃ」

 物凄い勢いでヒツギにしがみついた蚕は、泣きながら叫んでいた。

「か、蚕、落ち着いて」

「ヒツギが、ヒツギがあんなやつのモノになるなんてぇぇ」

「大丈夫、全然まだモノになんかなってないから!」

 全力で否定するヒツギを見て、秋孝の眉がぴくりと動いた。

「……前途多難そうだな」

 隣でぼそりとそう呟いた辰巳に、秋孝は顔をしかめた。

「なんで知ってるんだ」

「見ていれば分かる」

 事も無げにそう言って茶をすする辰巳に、秋孝はなぜか敗北感を覚えた。自分はそんなにも分かりやすかっただろうか。

「まあ、気長に努力しろ。俺もそのつもりだ」

「……ああ、そういうことか」

 辰巳のその言葉に、秋孝はにやりと笑った。

「お互い大変そうだな」

「そうでもない。意外とわかりやすいからな」

 思い切り眉をひそめた秋孝に笑って、辰巳はもう一度、茶をすする。

 賑やかに言い合う二人の少女を見ながら、秋孝は深々と溜息をついた。

 それを拭い去るように、花の香が風に乗って室内に流れ込んでくる。

 深く甘いその匂いにつつまれながら、秋孝はゆっくりと目を閉じた。

 そうして、ひとつ呟く。

「なんとも、厄介な蝶につかまったものだ」



 こうして、花庵の春は深まってゆく。

 その中を一羽の蝶が、ふわりとどこかへ飛んでいった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ