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幻想帝国奇譚 蝶の宴  作者: 清月 里帆
1/2

帝都を生きる隠密の少女、運命と出会う


 やけに明るい、夜だったように思う。


 暗く黒く透き通った天球に名も知らぬ星が瞬いて、その燐光がちくちくと少女の眼窩を絶え間なく刺す。

 瞼を閉じてしまいたいのに血でも乾いて貼り付いたのか、いびつな違和感が伝わってくるばかりで、一向に瞼は下がってくれない。

 少女は地面に倒れ伏したまま、無表情に夜空を見上げた。

(………眩しい)

 騒ぎ立てるように明滅する星々のせいで、おちおち気を失うことも出来ない。

 少女は何事か考えるように視線をさまよわせた後、はあ、と溜息をついた。

 夕方に食べた食事に混入されたのは特殊な毒らしく、痛みも苦しみも全く感じない。その代わりのように斬り付けられた部分からは血が流れ出て止まらず、手足は冷えて固まるばかりだった。

 死んでいるのか生きているのかよく分からない日々を長く過ごしてきたから、あまり今の状況に違和感がない。

 何の変哲もない泥まみれの地面に倒れて、何の変りもない夜に死んでいく。

 何だか拍子抜けしながら、実際自分の死なんてこんなものかもしれないと、少女がそう考えた時。

 視界の端を、大きく白いものが翻った。

 始めは、月だと思った。煌々と毎晩明るく輝く、あの非情な白の光だと。

 しかし、それは月ではなかった。

 その音を追うようにして少女が視線だけで上を見れば、コツンと軽い音がする。

 ――青い屋根瓦の上に、白い人影が立っていた。

 よくよく見れば、人影が真白く見えるのはその身に纏う色のせいなのだと知れる。

深い夜闇にたなびく、すべてを超越するかのような白く長い髪。どこか骨ばったような指先までもが白磁のそれで、まるで月光が闇を侵食するかのようにして、人影は屋根の上に浮き上がった。

纏った白い着物から流れる帯と袖が夜風になびくごとに煌めいて、淡い燐光が男の周囲を霞のように取り巻く。

 ただひとつその瞳だけが、底知れぬ淵を覗いているかのような心地にさせる深い黒色をしていた。

(何………)

 この真白い人影は、一体どこから現れたのか。

 少女が声も無く見上げていると、人影はようやく地面に倒れ伏す少女に気付いて物珍しそうに片眉をふわりと持ち上げた。

 そうして優美な動作と共に白い衣の袖で口元を隠すと、くすりと笑う。

「これは、面白いものを見つけた」

 呟かれたその声は中性的で、性別をうかがわせない。

 屋根の上から向けられた奇異の視線をしばらく無言で受け止めていれば、人影は「ふん」と一人ごちる。

「お前、生きておいでかえ?」

 どこか面白がるような響きを伴うその言葉に、少女は何の返事も返せずに押し黙った。

 先ほどまで死ぬことを受け入れていたのは紛れもない事実で、しかし「生きているか」と問われれば、間違いなく生きている自分がいる。

 どう答えたものか逡巡していると、幾つかの影が人影の周りに降り立った。

 すっ、と頭を下げて指示を仰ぐかのようなその影達に、人影は視線も向けない。

「お前達は先に帰っておいで」

 人影がそう言うと、影達は小さく会釈をして、まるで舞うかのような動作でひらりと跳躍する。

 身軽に屋根の上を駆けていくその影達からはためいた衣が、月光を受けてわずか一瞬の間きらめく。

(………蝶?)

 黒い絹地に鮮やかに縫いとられたその紋様に、少女はかすみだした視界の中、首を傾げた。

「おや、生きているようだの」

 首を動かしたことで分かったのか、人影はゆっくりと笑みを浮かべた。

「これは楽しい。――お前、私と共に来る気はあるか?」

 少女は一瞬耳を疑った後、うろん気な瞳で人影を見上げる。

 人影は小さく笑った後、体重を感じさせないふわりとした動きで、少女のすぐ傍らに降り立った。

「……私を連れて行くの?」

 少女が掠れきった声でそう問えば、人影は嘲笑するかのように唇を歪める。

「馬鹿をお言いでないよ。お前が来たいか来たくないか、事実はただそれだけだろうて」

 人影の言葉に、少女はハッと目を見開いた。

 まるで冷たい水を浴びせるかのようなその言葉は、少女の中に、ある種の覚醒をもたらした。

(…………私、は)

 私はこれまで、自分で何かを選択したことがあっただろうか。

 生きることも死ぬことも、どれかひとつでも自分で望んだことがあっただろうか。

 その無自覚さに少女が気付いていくのを、人影は黙って見つめていた。

 手を差し伸べるわけでも、何か言うわけでもない。ただひたすらに静かな視線をこちらに向けたまま、人影は微動だにしなかった。

 その沈黙を受け止めながら、少女は遠くかすかに聞こえる、自分の鼓動を感じていた。

 どくり、どくりと脈打ちながら、小さく、しかし確かに鳴り渡るその音。

 その一音一音が体のすみずみを打って、徐々にその熱を上げていく。

(ああ)

 喉元にまでせり上がってきた想いが、少女の中で明確に形を成していく。

 ――本当は、ずっとそれを望んでいた。

 ああ、私は。

 私は。

「生き、た……い」

 ようやく声になったそれはひどく単純で、それゆえに純粋なものだった。

 生きたい。

 私は、生きたい。

 少女はその想いを噛みしめるように息を吐いた後、じっくりと人影を見上げた。

 その顔を近くで見れば、かなり顔の造作が整っているのが分かる。白皙の鼻梁、流れるような顎の輪郭、嘲るように吊り上がった口元すら、芸術のような完璧さで美しい。

 すぅ、とその白い美しさに手を伸ばす泥だらけの自分の手を見ながら、少女の意識は拡散する。

――どうにもならない想いの力を運命と呼ぶなら、あれこそがまさしくそうだった。


この夜、帝国と呼ばれる東方の国で、一つの財閥が解体された。












 花びらが春風に乗ってその豊かな芳香を街中に満たすより早く、その建物は甘くかぐわしい匂いに包まれる。

 先駆けのようにして梅がほころび、桜が咲き、すみれに桃、牡丹に水仙と、その通り名に違わず、幾多の花が競い合うかのようにその蕾を開いてゆく。

 帝都東京の東、鉄道馬車の走るその街の名は、銀座。

 艶やかな市街の中でもひときわ風情のあるその屋敷を、花庵と呼ぶ。



 鈍色の屋根瓦が陽の光を照り返し、濡れたような木々の緑がまるで玉の細工のように美しく光る。帝都に程近い銀座の最奥にあって、どこか厳かな佇まいをしているその屋敷は、深い静寂に包まれていた。

 屋敷を取り巻くのは、広大かつ壮麗な庭園。その端々を流れる小川の一角で、ふわりと赤い色が舞ったのは数瞬のこと。

 流れるかのようなその衣の動きに合わせて、しゃん、と鈴の音が辺りに散った。

 赤い色と見えたのは長い着物の袖で、扇の端には小さな鈴が結ばれている。

小川にしつらえられた飛び石の上で、ゆっくりと一人の少女が舞っていた。

 癖のない黒髪は長く、身をかがめるたびにその色が少女の肢体を典雅に彩る。着物の裾から覗く扇を持った手は、しなやかに白くたおやかだ。

 春の花々が咲き乱れる庭園で、少女は一人舞っていた。

 左の飛び石へ移ったかと思えば右へ、ゆるりゆるりと空気のように舞い踊る少女の姿は、まるで春の幻でも見ているかのようだった。

 とん、と少女がまた別の飛び石に移った刹那、その深く伏せられた瞳がほんのわずか薄く開く。

 少女が瞼を持ち上げると同時に、空気を切り裂く音が四方からその体に迫った。

 強い風が吹いたのは一瞬のこと。

 キンという鋭い音と共に、少女の手の平で扇が鮮やかに翻る。

 ひと息に振るわれた扇は、四方から迫る小刀を一撃のもとに叩き落とした。

 少女は背に迫った次の一投を体を倒しながら流し、まるで舞のような軽やかな動作で小刀の雨をかいくぐる。

 続けざまに衣の裾を狙って放たれた刃を、ふわりと跳躍することでかわし、勢いを失って落下していく小刀の一つをするりとつかみ取る。そのまま少女は手首をひらめかせて、庭の木立の向こうへと小刀を投擲した。

 ダン、と小刀が木の幹に突き刺さる鈍く重い音が響いた後、再び庭園に春先の静寂が戻る。

 少女は音も立てずに呼気をひとつ吐き出すと、肩の力をゆっくりと抜いた。

 目にかかった黒髪を少女が指先で払うと、赤葡萄色の瞳がそこから覗く。

 強く明るい光を宿すその目が木立の方を向けば、音も無く幾人かの少女達が、ひらりと地面に降り立った。

「ヒツギ姐さん、お見事でした」

「私たちの完敗です。やっぱり姐さんはお強いです」

 先ほどまで木の上に潜んで、幾つもの小刀を次々と繰り出していたとは思えないほど、少女達の容貌は可憐である。

 口々に感嘆の言葉を贈る少女達に、ヒツギと呼ばれた少女は軽く笑った。

「皆、ご苦労さま。私の稽古に付き合ってくれて、ありがとう」

 にこりと微笑まれて、少女達は一様に顔を赤らませた。

「そんな……ヒツギ姐さんの役に立てるなら」

 ほう、と夢見心地で溜息をついた少女は、余韻を噛みしめるかのように頬に手を当てる。

 ヒツギは日常茶飯事のその光景を目の当たりにしながら、いまだに慣れない彼女達の反応に、引きつった笑みを浮かべた。

「ああ、私たちの姐さんがもうすぐ他の男のものになるなんて……」

「そんなことを言っては駄目よ! 一番お辛いのは姐さんなんだから」

 曲がりなりとも笑みを浮かべていたヒツギは、少女達のその言葉に「ん?」と首を傾げる。

「嫌だ、姐さんったらとぼけて」

「そんなお優しいところも素敵ですけれど、もう秘密にしなくても大丈夫です。私たち、心の準備はとっくに済ませています」

「ヒツギ姐さんが華族の殿方に水揚げされる話なんて、もう花庵一同が知っていますから、隠さなくったっていいんですよ」

「………………」

瞳に涙を溜めてさめざめと語る少女達は、ヒツギの背後に徐々に暗雲が立ち込めて来ていることに気付かない。

「庵主様のご命令では仕方ないですよね。ずっと傍付きでいらしたヒツギ姐さんを、蚕姐さんと一緒に繭姫になさるなんて」

「私たち玉衛の間にも話は伝わっていますよ。さびしいですけれど、本当におめでとうございます、姐さん」

「………………………………ねえ、それいつの話?」

「え?」

 姉芸妓の常らしからぬ低い声に、少女達はきょとんと目を見合わせた。

「確か、耳に挟んだのは二日前のことだったかと思いましたけれど」

「………………」

「ヒツギ姐さん?」

「ごめん、ちょっと用事を思い出したわ」

 くるりと踵を返し、脱兎の勢いで屋敷へと駆けこんでいくヒツギの姿を見て、少女達は目をみはった。

「まあ、姐さん相変わらず御足の速い……」

「よほどのお急ぎの用事があったんだわ、きっと」

 花庵に立ちこめる嵐の予兆を、少女達は未だ知らない。



帝都で一番の賑わいを見せる銀座において、贅を凝らした建物というのはさして珍しいものではない。

しかし一目見てその気品が滲む建物というのは、限られてくる。

そしてその内の一つに必ず挙げられるのが、この花庵であった。

 そんな音に聞こえるほどの風雅な家屋の主は、最上階の自室――藤の宮と呼ばれる一室の窓際にしつらえた欄干にもたれるようにして、春の霞を吸い込んだ。

 そうして片手に持っていた鼈甲細工の煙管をすい、と口元に近付けると、まるで遊ぶようにふー、と紫煙を空に吐き出す。

 コンコン、と煙管の灰を瀟洒な煙草盆に落とすと、男は眼下に広がる帝都の街を無頓着に眺めた。

 男の名前を雅也――そう、神城雅也という。

 雅也がおもむろに長い腕を欄干の外へだらりと垂らせば、つられるようにして白髪の幾房かが、しゃらりと音を立てて流れ落ちた。

 砕いた瑪瑙に銀砂を混ぜたような、白の極彩色とでも呼ぶべきその髪は、流れ落ちるようにして腰までの長さがある。

 絹糸のようなその髪を弄ぶ指先は爪までもが滑らかで、少し骨ばっている他には一般的な男の手の平とは似ても似つかない。

 さら、と雅也が気まぐれのように前髪を払えば、切れ長の瞳が現れた。

 石膏のように整った白磁の肌理に、薄く色づいた唇。白晳の鼻梁をそなえたその繊細な顔立ちを、流れるような美しい輪郭がとり囲む。

 身に纏うのは青灰色の布地に白い満開の芥子をあしらった絹衣で、翡翠の留め飾りでまとめた紺色の長い帯が、背中で波のように溢れた。

 両耳でこぼれるように涼やかな音を奏でるのは、望月を象った銀の耳飾り。

 優美にそれらを着崩したまま、雅也は目を細める。

 極上の女物を纏う、彫刻のように整った男がそこにいた。

 しかし神城と言えば、帝国でその名を知らぬ者はいない。

 名のある財閥を幾つもその傘下に収め、あるいは呑み込むようにして大財閥となったその名家は、帝国において圧倒的な財力を誇る。

 大戦前ですら天皇家に次ぐほどの家格を持った旧家だったのだが、当代の当主が軍需産業に手を出して、現在の莫大な富を築き上げた。帝国華族でもあり、今や神城から高位官僚となった者も十指では足りない。

 しかし女物を好んで身に纏うこの男を、その家名の評判と同じように考えていいのかは、大いに疑問である。

 ふー、ともう一度雅也が煙管から紫煙を吐き出したところで、聞き慣れた騒がしい声が回廊から聞こえた。

「二人とも、そこをどきなさい!」

「ヒ、ヒツギ姐さん、だーめーですー」

 おっとりとした声が縋るように聞こえる中、いっそ清々しいほどの荒々しさでドタドタと総檜の床板が踏み鳴らされる。

「ヒツギ姐さん、こちらからは主の御室です。どうか、どうかお静まりに」

 必死に止める声を遮って、ダン!と一際強く床を蹴りつける音がした。

「小藤も小浅葱もうるさい!」

 そうしてぴたりと静まり返った回廊の向こうから、パンッと小気味良い音と共に白い襖が開け放たれる。

 春の日差しを背にして、ヒツギは毅然と顔を上げた。

「失礼します」

 すたすたと畳を踏みしめて室の中央まで踏み込んだヒツギは、ぴん、と背筋を伸ばしたまま、雅也を見下ろした。

 雅也はしばらくぼうっ、と銀座の街を眺め、一台の鉄道馬車がいずこかへ走り去ったところで、ようやくこちらを振り返った。

「ヒツギ、相変わらずやかましいね。床板が抜けたらどうする気だい」

 ヒツギは不機嫌そうに腕を組むと、じろっと雅也を睨んだ。

「私を繭姫になさる段取りを進めているとは、本当かどうか伺いに来ました」

 苛立ちを隠そうともせずにそう言い放ったヒツギに、雅也はからかうように視線をあらぬ方向へ向けた。

「おやおや、今頃になって。相変わらず耳が遠いね、お前は」

「私の耳が遠いんじゃありません。貴方の隠し方が上手いだけです」

 ごまかされないヒツギを、雅也はぱらりと扇を開くことでやり過ごした。その瀟洒な扇には、銀で桜の花弁が描かれている。

「とりあえず、その足元に引っ付いているものをお離し。みっともない」

 雅也がそう言って指し示したヒツギの着物の裾には、小さいかたまりが二つ、必死の形相でしがみついていた。

 そのかたまりは、左右対称といっても差し支えないほどそっくりな、二人の女童だった。二人のうち、藤色の帯を締めた方を小藤、浅葱色の帯を締めたほうを小浅葱という。

 しかし雅也に「みっともない」と言われた次の瞬間、ぴゃっ、と素早い動きで、二人はしがみついていた裾から離れた。

「主様、申し訳ありません!」

「藤と浅葱をお見捨てにならないで下さいまし!」

 きちんと正座して涙目でふるふると震える二人の姿に、雅也は小さな溜息で応えた。

「ま、いいだろう。今度からはきちんとヒツギをお止め」

 そう言われた途端、二人の童女は、ぱあっと顔を明るくする。

「主様ー」

「さまー」

 すりすりと雅也の長い衣の端に擦り寄るその様は、小動物のように愛らしい。

「……小藤も小浅葱も、こいつのどこがそんなに良いのよ」

 ヒツギがぼそっとそう呟けば、キッと鋭い視線が突き刺さる。

「主様は三国一です!」

「いいえ、万国一です!」

「………………小藤、小浅葱。ちょっとお黙り」

 雅也自身にそう咎められて、小藤と小浅葱はこの世の終わりのような顔をしてうなだれた。

「全く、昼間で良かったよ。こんなのを人様に聞かれたら、花庵の名折れだ」

 銀座に居を構える神城雅也邸――通称ここを花庵と呼ぶ。

 四季折々に咲き乱れる花々に囲まれた優美な屋敷――しかしここが花庵と呼ばれるのは、それだけが理由ではない。

 帝都の街でも稀なほど、その建物は群を抜いて美しい。その広大な屋敷に住むのはどれも女ばかりで、雅也を除いて男はいない。

 その一種異様な空間が示すのは――芸妓置屋。

 もともと大戦より昔、神城家が銀座の守護を命じられていたのがその始まりだが開国より後、銀座は帝都に次ぐ街としていっそう栄えた。

 その機に乗じて神城家が手を付けたのが、花庵なのである。

 銀座の最奥に居を構え、夜毎座敷で芸を披露する芸妓達。その中でも神城家自らが選んで育てる花庵の芸妓達は、ごく限られた座敷にしか姿を見せることはない。にも関わらず、その美しさは帝都では有名だった。

 神城家が抱える事業の中でもひときわ風変わりなここを引き受けた当人は、悩ましげに首を傾けて見せた。

 ヒツギはその勿体ぶった仕草に苛々としながらも、こめかみを押さえて何とか叫び出しそうなのを堪える。

「……私は傍付きでいいと散々言ったはずですが?」

花庵の芸妓にはそれぞれ階級があり、上から蝶、珠姫、繭姫、傍付き、玉衛と分けられる。主に客人の相手をするのは珠姫と繭姫で、ヒツギは現在傍付き、珠姫や繭姫の世話をする位にある。

 ヒツギがあの晩に拾われてから散々言い続けてきた事を再度繰り返せば、拾った張本人は扇をながめながら、鼻で笑う。

「しかし、そういうわけにもいかない。お前だって事情のさわりくらいは知っているだろう」

「自業自得って言葉、知ってます?」

花庵の芸妓は圧倒的に数が少ない。それというのも雅也がこの事業を引き継いだ時に、自分の気に入らない芸妓達を一斉解雇したからだ。

「自分で辞めさせといて何言ってるんです」

 ヒツギのその言葉に、雅也はおかしそうに笑う。

「だって私が気に入らない妓を、座敷になんか出せるわけがないだろう。視界に入れるのも厭わしい」

 そう切り捨てた主に、ヒツギは呆れ果てて声も出ない。

玉衛と傍付きは共に座敷に出るまでの修行期間で、それが充分に達したと雅也が判断すれば、珠姫や繭姫に昇位する。

「珠姫も繭姫も、全く数が少ない。蝶はなろうとしてなれるものではないからいいとして、いい加減お前も腹をお決め」

 しかし、とヒツギも食い下がる。

「玉衛も傍付きも、数が少ないのは一緒でしょう。それに――」

 言いよどんだヒツギの言葉を、雅也は「はん」と笑って引き継いだ。

「お前、ここがどこなのか忘れておいでかえ」

 雅也の瞳に凍えた色が灯り、ヒツギはぐっと声を詰まらせる。

 指折りの美麗な芸妓達が揃いぶむ花庵。しかしそれは、ただの目くらましでしかない。

 その実態は、皇華省情報部という。

 帝国の主、天皇直属の懐刀。

 副官に神城雅也という変わり者を据え置くその省において、花庵の芸妓達の役割は隠密。

 花のような衣の下に妖艶な笑みと麗しい刃を持った、帝国屈指の姫達なのだ。

 先ほどの庭でのヒツギの舞も、その修行のひとつだ。花庵の芸妓は美しく微笑むと同時に、相手の喉元に瞬時に刃を突き付けることが出来なければならない。

 しかし、玉衛や傍付きはその戦場へ出ることはない。珠姫、繭姫になる実力を備えて初めて、彼女達は刃を持つ。

 芸妓として座敷に出てゆくということは、同時に帝都の闇の戦場へも出てゆくということだ。

 苛々と歯ぎしりをするヒツギを尻目に、雅也はぽん、と手を打つ。

「そうか、お前水揚げが嫌なのだな」

「うっ……!」

 途端に顔色を変えたヒツギに、雅也はくくっ、と喉の奥で愉快そうに笑った。

 水揚げというのは、花街には付きものの男女間のやりとりのことだ。

 座敷に出始めるにあたって、花街の置屋の主は客の中から一人を選んで、芸妓に一晩その相手をさせる。

 もちろん花庵の芸妓にも、水揚げというものは存在する。それは座敷に出始めるなら、避けて通れぬ道だった。

 しかし花庵での水揚げとは、一般の芸妓達の水揚げとやや意味が異なる。彼女達の水揚げの相手は、主である雅也が直々に、一番帝国の理になる相手を選ぶ。

そう、財閥につなぎを持つ必要があれば財閥の人間を。華族につなぎを持つ必要があれば華族の人間を。

「なに、心配することはない。悪いようにはせんよ」

 ひどく面白そうに笑う主の姿に、ヒツギの中で大切な神経の幾つかが、ぶちぶちと切れていく音がした。

水揚げの相手に関しては、一応相手であるヒツギにも是非をいう権利がある。もちろん主である雅也の意思が絶対なのには変わりがないが。

「私は絶っ対、水揚げなんて嫌です! 冗談じゃありませんっ!」

 ヒツギは、あまり男性というものが好きではない。ましてや肌を重ねるなど、考えただけで恐ろしかった。

 フーッ、と毛を逆立てる猫のように断固拒否を表明するヒツギを、雅也は全く相手にしない。

「お前のようなじゃじゃ馬を乗りこなせる男なんて、そうそういるもんじゃないからね。楽しみにしておいで」

「だーかーらーっ!」

 雅也は手に持っていた扇をぱちりと閉じると、有無を言わさずに室の入口を指し示した。

「それ以上馬鹿をお言いでないよ。話がそれだけなら、出てお行き」



 ヒツギが雅也の座敷から退室して精緻な木目の階段を下ると、庭園に作られた池のせせらぎに混じって、水の跳ねる音がした。

 見れば滴るような春の緑の下、池に架かる石の小橋に、やや線の細い少女が座り込んでいる。

 綿菓子のようなふわっとしたくせのある長い髪を腰まで垂らしたその姿は、一見すると蘭国の御伽噺に出てくる娘のようでもある。

 透き通った翠の眼差しが、陽光を受けてちらりと光る。折れてしまいそうなほど細い肩にかけた薄い紗の衣が、水際の風になびいて花びらのように流れた。

 真白い両足を池の水面に伸ばして、水に爪先が触れるか触れないかの感触を楽しんでいた少女は、物音に気付いてふと顔を上げた。

 そうして階段を下りてきたヒツギを見つけると、ほころぶように破顔する。

「ヒツギ」

 ぱっと立ち上がって、庭園の踏み石を跳ぶようにして駆け寄ってきた友人の姿にヒツギもまた笑みを浮かべる。

「蚕、起きてても大丈夫なの?」

 蚕と呼ばれた少女は、その長い睫毛を震わせるように目を細めて、美しく笑った。

「今日は平気。それで、ヒツギはどうだった?」

 蚕のその言葉に、ヒツギは引きつった笑いを浮かべる。ヒツギが雅也のところに何をしに行ったのかは、花庵の中でかなり筒抜けらしい。

既に何もかも分かっている蚕に対して、自分の耳が普通の人より情報にうといというのは本当かもしれなかった。

「駄目」

 蚕はその答えを予想していたかのように、腕組みをして「ふうん」と呟いた。

「まあ、当然といえば当然かな。良かった、これで私とヒツギの同日繭姫昇位に一歩近づいたんだから」

 うんうん、と一人頷く友人に、ヒツギはげんなりとした顔を向ける。

「……少しは一緒に抵抗してくれるとかいう友情はないわけ」

 ヒツギのその言葉に、蚕は片眉だけを器用に上げてみせる。

「全然ないよ。繭姫になったらお給金は上がるし、一人用の室は貰えるし。あ、でもヒツギと室が別々になるのは寂しいわ」

傍付きから座敷へ上がる珠姫や繭姫に昇格すると、一人用の室が与えられる。ちなみに傍付きだと二人で一室である。

「夜中に背中をさすってもらったり、咳で起こしちゃうことがなくなるのはいいんだけど」

 そう言って髪をかき上げる蚕の手首は、病人ほどではないものの驚くほどに細い。生まれつき肺の疾患があるため、長時間の運動は出来ない。

 しかし時間の制限さえあれば、ヒツギと同等に戦えるほどの実力を彼女はその身に秘めている。花庵にいる時点で、見た目という基準はあまり当てにはならないのだ。

「なんでそんなに落ち着いてるわけ……」

 自分とはかなりの違いだと、ヒツギは肩を落とす。蚕にとっても、突然の話であることには変わりがないはずなのだが。

「だってヒツギが一緒だもの。ヒツギと一緒なら、何も恐くない」

 笑いながら自信満々にそう言い切った蚕に、がくんと肩の力が抜ける。

 はあ、と溜息を一つこぼして、ふとヒツギは気付いた。

 蚕も繭姫になるということは、彼女にも水揚げがあるということだ。

「ちょっと蚕、その体で水揚げなんて――」

 病弱な体を持っているこの友人が水揚げなんてしたらどうなるか――。

 思わず叫びそうになったヒツギの後ろ頭に、どこからともなく飛んできた下駄がスコーンという音を立てて、華麗に命中した。

「――――――つっ!」

 そのあまりの衝撃に後頭部を押さえてうずくまったヒツギの背後で、蚕がのんびりとした声を上げる。

「緋花姐さん」

 ヒツギが涙目で下駄が飛んで来た方向を見上げれば、小柄な女性が立っていた。

 肩口よりやや短い髪は赤茶の夕焼け色。気の強そうな眦に、引き結ばれた珊瑚色の唇。纏った山吹色の袷の下から覗く鮮烈な椿色の衣が、女性の気性の激しさを表しているかのようだ。

 緋花と呼ばれたその女性は、つかつかと歩み寄ると、白絹のような手をヒツギの眼前に差し出す。

 ヒツギがいぶかしんだ次の瞬間、その中指から指弾が炸裂した。

「いっ!」

 鋭い痛みにヒツギが額を押さえるより早く、続けざまに第二撃、第三撃と指弾が放たれる。

「こ・の・お・馬・鹿」

 言葉の区切りと同じ数だけ指弾を額に受けたヒツギは、よろよろと再び庭園にしゃがみこんだ。

「どこの間抜けが、傍付き止まりで良いなんて言ったんだ?」

 ヒツギのその姿に緋花は少し溜飲を下げ、手持ちの愛扇でひらりと横顔を煽ぐ。

 彼女の名前を、鹿恩緋花という。

 この花庵で氏を持つのは、各位の最上級の芸妓である花締めか、旦那持ちの芸妓だけ。ヒツギの姐芸妓でもある緋花は、花庵でも珍しい旦那持ちの芸妓だった。

 緋花はきっぱりとした性格をしているため、言葉に込められた苛立ちが直接ヒツギの身にひしひしと伝わってくる。

「緋花姐さん、痛い」

「痛くて当たり前だ。そうなるようにやってる」

 緋花の容赦ない言葉にヒツギがよろよろと縁側に腰掛けると、音もなく室の襖が開く。

 衣擦れの音と共に室に現れたのは、濃紺の衣に身を包んだ女性だった。

 濡れたような深碧の瞳も涼やかに、楽の音にも似た声がその桜色の唇からもれた。

「緋花、あんまりヒツギを苛めると嫌われますえ」

「なんだ、胡景か」

「まあ、結構なお返事であらっしゃいますなあ。せっかく緋花の好きな生菓子さん、出してきましたんに」

 黒髪を美しく結い上げた女性がとん、と菓子を乗せた盆を卓に置けば、緋花の目の色が変わった。

 緋花はいそいそと卓の前に座ると、行儀良く「頂きます」と手を合わせて菓子に手を付ける。

(そう言えば姐さん、甘いもの大好きだったわね……)

 ヒツギは豹変した姉芸妓の姿に、遠い目をしながら心中で一人ごちた。

 胡景と呼ばれた女性はそれを見て、横から懐紙に幾つか菓子を取り分けると、ヒツギへと差し出した。

「ヒツギ、今日は丹精堂さんの青梅どすえ。さ、お食べやす」

 しっとりとした顔立ちの胡景に微笑まれて、ヒツギはその菓子を受け取る。

胡景は緋花と同じ珠姫で、そのいかにも芸妓といった落ち着いた外見が、周囲の

空気を上品なものに変えてしまう

青梅を模した練り切りをつまんでいれば、緋花が思い出したようにヒツギの方をちらりと見た。

「庵主のところに行ったんだろうが、無駄足だったな。あいつは一度決めたことは撤回しない最悪な性格だ」

 図星を突かれてうっ、と押し黙ったヒツギに、胡景は蚕の分の練り切りを取り分けてやりながら首を傾げた。

「せやけどうちやったら二つ返事で繭姫になってますのに、ヒツギも変わった妓やねえ」

 真っ白なうなじが美しい珠姫は、そう言って細い指先を口元に当てた。

 いつも笑ったような顔をしているので長い付き合いにならないと分からないが、わずかばかりその表情は曇っている。

 緋花は練り切りに舌鼓を打ちながら、ヒツギに言った。

「よほどのことがない限り、庵主は暗殺なんか命じない。 そんなことをしなくても、あいつは権力とか金とかいうものを、嫌になるほど持ってるからな」

 帝国屈指の大財閥、神城家の名は伊達ではない。雅也がちょっと手首をひねるだけで、花庵が手を汚さずとも簡単に辞職する人間は幾らでもいる。

「まあ、帝国さんの御命やったら仕方なしに。でもヒツギは、別にそこを嫌がってるんやないやろ?」

 訝るように覗き込まれて、ヒツギはおずおずと口を開く。

「いや、あの……水、揚げが」

 その一言を聞いて、胡景と蚕は目をぱちくりとさせる。

 唯一、緋花だけが菓子を口に放りこみながら笑った。

「そんなことだろうと思った」

 胡景は頬に手を当てて、困ったように微笑んだ。

「ヒツギは水揚げ前から自分の指名で、旦那はんを決めたわけやないですもんなあ。うちは普通にお座敷に出して頂いていますねんけど、元々旦那はんにするお人は決まってましたからなあ」

 芸妓には旦那と呼ぶ特別な客が一人いて、本来ならば芸妓の身の回りの品々や出費の全てをまかなってくれる客のことだ。しかし花庵の芸妓は、元々雅也という風変わりな後ろ盾があるから、そんな心配はどこにも要らない。ゆえに相手の経済状況は関係なく、雅也の意向が決定のすべてだ。

「で、主はなんだって?」

 緋花のその問いに、ヒツギは先程のことを思い出しながら、再びぶちぶちと大切な神経の幾つかが切れていく音を聞いた。

「『お前みたいなじゃじゃ馬を乗りこなせる男なんてなかなかいないから、相手を楽しみにしておけ』とぬかしました」

 ヒツギが努めて冷静にそう答えると、緋花は盛大に吹きだした。

「…………緋花姐さん」

「くくっ、はは! 何とも、お前にはお似合いだな」

 ごろごろと転げながら笑う緋花に、ヒツギの中で少しだけ殺意が芽生える。

 思わず日頃の鬱憤を色々とぶちまけそうになったところに、胡景の声が割って入った。

「ヒツギ、気にすることはあらへん。緋花も水揚げの時、散々暴れたさかいに」

 その一言で、室はぴしゃりと水を打ったように静かになる。しばしの間の後、緋花がどろどろとした重い空気を纏ってむくりと起き上がった。

「胡景。その話は……」

「あら、なんやの。あんたが散々今の旦那はん相手に暴れて、室二つばかり大修理することになったあの出来事、今でも語り草やわ」

 他でもない姐芸妓の水揚げが、そこまで大騒動だったということを、ヒツギは初めて知った。

気まずそうに唸る緋花を見ていれば、くい、と横合いから裾を引かれる。

「何、蚕?」

 やけに真剣な顔をした友人に、ヒツギは尋ねる。

 蚕は小さな口元に手を当てながら、ぶつぶつとしばらく何かを呟いた後、決意したかのようにヒツギに宣言する。

「ヒツギ、とんでもない乗り手が来たら、私が死ぬ気で追い払ってあげるからね」

 ごく真剣に危ない目つきでそう言い切った友人に、ヒツギは「あ、ありがと…」と片頬を引きつらせながら笑った。いつの間にか馬扱いされている。

「まあ、決まったことだと諦めろ。庵主が選んで来るならまあ間違いは……」

 と、そこで緋花の言葉はぷっつりと途切れた。

「…まあ、ないとも言い切れず、もしかしたら最悪の場合も……」

「緋花、それやったら慰めてるんか落ち込ませてるんか、わかりしまへんで」

 どこまでも飄々とした二人の姐芸妓の姿に、ヒツギは異様な不安を覚えた。



 春先の風が、心地よい暖かさをその窓辺へと運んでくる。

 大きなガラス窓の傍らに置かれた机の上で、一心不乱に羽ペンを走らせていた青年は、それにつられるようにしてほんの一瞬だけ視線を窓の向こうへ向けた。

 窓のすぐ向こうには、長い樹齢を誇る桜の大樹の枝が迫り、春の色をその身に纏ってさやさやと優しく揺れている。

 その姿に目元を緩めたのも束の間、青年は再び手元の書類に目を戻して、慣れた手つきで文字を綴っていく。

 コンコン、と控えめに扉が叩かれた時には、青年はそちらを見もせずに「入れ」と声だけで答えた。

 キィ、と金の蝶番を軋ませて入室したもう一人の青年は、その姿を見て呆れたような笑みを浮かべた。

「全く、相手を確かめるくらいしたらどうだ。相変わらずだな、秋孝」

 青年は書類の最後に丁寧に署名を入れた後、ようやく机から顔を上げた。

「お前だと分かっているのに、わざわざ書類から目を離して扉を見る必要はないだろう。辰巳」

「なぜ俺だと分かる?」

「足音ひとつ、気配のかけらすら見せずに、堂々と扉を叩く奴が他にいるか?」

 辰巳と呼ばれた青年は、まあそうだろうな、と苦笑を浮かべた。

 洋物の回転椅子を軋ませてこちらを向いた室の主は、それを見て小さく笑う。

 一本一本が磨かれた銅のような輝きを放つその髪の色は、明るい茶色。瞳は渡来品の紅茶のような艶を帯びて、頬のあたりに少しだけ疲労の色が見てとれた。

「まあ、いいだろう。それより珈琲を持って来たが」

 ふわりと香気の漂う液体で満ちたカップを渡されて、秋孝は遠慮なくそれに口をつける。秋孝は、珈琲には砂糖もミルクも入れない方が好きだった。

「これとこれが処理済みの書類だ。それからこれも」

 お返しとばかりに渡された書類の束を見て、辰巳は溜息をついた。

「秋孝、また仕事ばかりしていただろう」

「良いことじゃないか。はかどるし」

「仕事は宿題ではない。やってもやってもキリがないことを、わざわざ先取りしてやる必要がどこにあるのか、疑問だ」

 全く、と首をすくめてぱらぱらと書類をめくる辰巳を、秋孝は無言で珈琲を飲むことでやり過ごした。

 秋孝の部下であり補佐である辰巳は、すらりとしたその長身をソファの背にもたせかけて、静かな瞳で書類の内容を確認していく。その短い濃紺の髪の間から、特徴的な琥珀色の瞳がちらりと覗いた。

「文句は?」

 秋孝が珈琲を楽しみながらそう尋ねると、辰巳はげんなりした声で答えを返す。

「何もない。いつも通りの完璧な書類だ」

 ばさっと応接机に書類を広げた辰巳は、そのままくつろいだ様子でソファに腰を下ろす。

「秋孝、そろそろお前のことを仕事馬鹿とでも呼ぼうかと思うんだが」

「主人を馬鹿と呼ぶやつがどこにいるんだ」

 呆れた口調で言い返した秋孝の姓を、香坂という。

 その名は帝国華族の中でも五家しかいない、公爵の位を持つ名家のひとつ。

 この国で一、二を争う、名門香坂家の御曹司である。

 一方、辰巳の姓を無堂という。

 こちらは武門百家の中でも代々香坂家に仕えてきた無堂流宗家の子息で、正真正銘、香坂家の人間を主人と呼ぶ家柄である。

 しかし幼いころより共に育った二人の間には、主従というよりは、慣れ親しんだ友のような心地のよい空気が漂っていた。

「一に仕事に二に仕事、三・四が珈琲、五に仕事とは、もはやこれは馬鹿と呼ばずして何と呼ぶ」

「勤労青年と呼べ」

「減らず口はいい。仕事馬鹿の珈琲中毒のくせして」

「…………」

 あまりの言われように、さすがに秋孝も黙り込んだ。

「分かった。今日は官舎に帰る。約束する」

「……俺としては、屋敷に帰ってもらいたいんだが」

「それは出来ない。答えが分かっていることを聞くな」

 名門香坂家の屋敷は、一等の高級地に居を構える広大かつ壮麗な洋館だ。帝国政府の心臓部である皇居にも近く、立地に何の不足もない。

 しかし秋孝はとある事情があって、わざわざ国営の官舎から辰巳と同じように官庁街へと勤めているのだ。

 秋孝の帝国政府での籍は、内務省でも大立法府でもない、帝国近衛軍という天皇直属の一軍にある。

 そもそも公爵の位を賜るほど高位の香坂家の人間が、帝国議会に勤めていない時点で異常と言ってもいい。その上、軍隊に勤めているともなれば、それはなおさらだ。普通、公爵ほどの高い爵位を持つ家格の人間が軍に所属するなど、先の大戦で功をたてた武勲華族でもない限りありえない。

 それだけでも珍しいというのに、あろうことか秋孝は、近衛軍の最下級の兵である二等兵から軍属になったのだ。

 公爵といえば正一位、皇居での殿上も天皇への拝謁も許されるほどの高位だ。その子息ともあれば最低でも従八位の位であるものを、位すらない二等兵とは天と地ほどの差がある。

 しかし裏を返せば、二等兵から家格の力を借りずに現在の地位まで上がってきた秋孝の実力こそが、本物であるということだ。

 家を出て、家格に頼らず確かな実力をつけた主は、辰巳としては大変誇らしい。誇らしいのだが。

「なあ秋孝、お前はもしかして、仕事仕事仕事で女性に関する事柄をどこかへ放ってきてしまったんじゃないのか」

 あ? という秋孝の間の抜けた返事に、辰巳は器用にソファから上体だけを起こした。

 どうにも思い当たる節が無いらしい主人の姿に、辰巳は苦笑する。

「いいか秋孝、公爵家御曹司ともなれば、お前に嫁ぎたい令嬢なぞ山といるということだ。次から次へ送られてくる人目を忍んだ恋文の数々、お前も気づいていないわけではないだろう?」

 コイブミ、と秋孝は口の中だけで呟いて、何かの記憶を引っ張り出すように視線を宙に巡らせた。

「ああ、あのたまに書類の間に挟まっている怪奇文書のことか。それならそこの暖炉の焚きつけに使ったぞ」

「……………………もう少しマシな対応はなかったのか」

「そうだな、暖かくなってきたからそろそろ暖炉も閉じるだろう。あの紙の山々をどう処分するか、考えておかないとな」

「……いいけどな。恨みは買わない程度にしろよ」

 辰巳の忠告に、秋孝は口の端だけで笑ってみせる。

「俺のことが好きなら、目の前まで言いに来ればいいだろう。わざわざ遠まわしにして、一体なんの意味があるんだか」

 別に秋孝が色恋事に無頓着なわけではない。ただ彼が、公爵家を目的にして自分に嫁いでこようとする女性を嫌っているだけなのだ。

 そのことを重々承知している辰巳は、柔和で底の知れない笑みを浮かべて、肩をすくめてみせる。彼自身、恋文の数では秋孝に負けてはいない。多少なりとも、秋孝の気持ちが分からないわけではなかった。

 ちょうどその時、コンコンと部屋の扉を叩く音がして、辰巳は笑みを引っ込めた。

 秋孝も上官の顔に戻り、よく通る低い声で入室を許す。

「近衛軍下士官、遠山昌樹。入室致します」

 ぴしりとした臙脂色の制服に身を包んだ一等兵が、慣れた動作で秋孝に敬礼を向ける。

「香坂少佐宛てに、通達の文書が来ております。お受け取り下さい」

 ああ、と言って秋孝が受取ろうとしたのも束の間、その封書はひょい、と横合いから掠め取られる。

「おい、辰巳」

「いいや、譲らない。これは俺の仕事だからな」

 封書を掠め取った張本人は飄々とそう言い放つと、兵に退出をうながす。

 部屋の住人が再び二人だけに戻ったところで、辰巳は封書をひっくり返して、押されている封蝋を確認する。

 その目がゆっくりと細められたのを見て、秋孝の顔から表情が消えた。

 辰巳が秋孝より先に封書を受け取ったのは、その安全性を確かめるためだ。

 代々香坂家の人間を主と定め、その身の護衛を任とする無堂家。その家の人間である辰巳にとっての役目は、秋孝の身に危険が及ぶのを防ぐことにある。

少佐ともなれば、その地位は近衛軍でも高位の部類に入る。華族出の派手な家名も合わさって、秋孝が命を狙われる可能性は常にあった。

たとえそれが紙であっても、その端に毒などが染み込んでいれば一大事だ。それゆえ、どんなに危険性が低く見えるものであっても、必ずそれらは一度辰巳の手を経てから秋孝に渡される。

 辰巳は目を細めたままペーパーナイフで封蝋を裂くと、ためらいもなく中身の文書を取り出した。

 じっくりとそれに目を通した辰巳は、秋孝に向けて人の悪い笑みを浮かべてみせる。

「秋孝、この封書は一体誰からのものだと思う?」

「何?」

 辰巳がくるりと指先だけで秋孝の方に向けた封筒には、綺麗に二つに裂かれた封蝋が押されている。

 満月紋に絡まる唐草、咲き乱れる牡丹に舞い飛ぶ胡蝶の意匠の封蝋を持つのは、この帝国ではただ一人だけ。

 その意味に気付いた瞬間、秋孝の眉は盛大にひそめられた。

「何と白絹の君、純白の怪異と名高い、神城の雅也殿からの手紙だ」



 銀座の街並みは、一種風変わりと言っていい。

 開国より近代化の進められてきた帝都東京において、銀座もその例を逃れ得ない。道路には鉄道馬車の路線が敷かれ、その周囲には洒落た洋館が立ち並ぶ。

 人々の服装こそ洋装と着物が半々だが、異国の文化は徐々にこの国に浸透し、その一部になりつつあると言ってよかった。

 銀座の表通りには、煉瓦造りの洋館が多い。しかし二つほど通りを奥へ入ると、そこには開国前の帝国の街並みが広がっている。

きっちりと敷かれた石畳に、低い家々の瓦が軒を連ねるその一帯にあるのは、大概が喫茶店や食事処、生活に関わる細々とした品を扱う商家や古い長屋だ。一皮めくれば、銀座には依然として洋館は少ないのが実情だった。

 財閥や大きな商家はこぞって洋館を建てているため、一見すると銀座の街も西洋化したかに見える。しかしその実、いまだに庶民の大部分が以前と同じ住まいを使っているので、銀座の街は自然、洋館と開国以前の様式で造られた屋敷が立ち並ぶ何とも和洋混合な街並みをしていた。

 その賑やかな大通りを、土煙を蹴立てて走る鉄道馬車を片目で見やりながら、ヒツギは歩いていた。

 花庵でするべき雑事は山ほどあって、様々な品々の買い出しなどは傍付きであるヒツギ達の役目だ。紅に白粉なども買うし、そうしているうちに耳に挟んだことが実際の隠密に役立つことがあったりもする。

 花庵の芸妓達は水揚げをすると、本当に隠密として動く。それゆえにいったん繭姫になると、あまり花庵から出ることはない。

元々限られた座敷にしか出てこないので有名な花庵の芸妓。しかも神城家に異を唱えられるだけの酔狂な者は、この国には少ないのだ。

 ヒツギが買物をしている間、蚕には文書きを任せてある。事実、ヒツギより蚕の方が字は上手い。

 花庵への帰路を辿りながら、ヒツギは思いを巡らせていた。

 ヒツギはあの冬の晩に、雅也に拾われた。

 瀕死のところを花庵まで連れて行かれて、そうして今日に至る。

 もちろん芸妓としても繭姫としても、仕事をすることに異論はない。ただ。

 どうしようもない不安感に胸を苛まれながら、ヒツギは溜息を吐くことも出来ずにいた。

 ちょうどその時、通りの向こうの菓子屋が目に留まった。

(……蚕に何か買って帰ろうかな)

 ヒツギはそう思い立ち、銀座の大通りを横切りはじめた。

 地響きのような音を立てて行き交う鉄道馬車を慎重に見やりながら、間違っても轢かれなどしないように素早く足を運ぶ。

 反対側まであと少しというところで、ヒツギは着物の裾にこつんと何かが当たるのを感じた。

「わっ」

 驚いて視線を下に向ければ、まだ背丈の小さな少年がふらっ、とよろけるところだった。

「ちょっと、危な――」

 行き交う馬車の前に飛び出しそうになった少年の肩に、ヒツギは手を伸ばした。

伊達に花庵で日々修業を積んでいるわけではない。小さな少年一人を手前へ引き戻すのは、簡単だと思っていた。

 しかし肩にかかったヒツギの手を、少年は勢い良く振り解いた。

「な」

 あっけにとられたかのようなヒツギの瞳に、少年の強い碧の視線が突き刺さったのはわずか数瞬のこと。

 そのまま自ら鉄道馬車の前へ飛び出した少年に、ヒツギの体が無意識に反応した。

 少年の脇に素早く滑り込み、踏み込んだ反動を利用して、小さなその体を持ち上げる。そのまま少年の体を抱えこみながら、ヒツギは鉄道馬車を避けるために大通りの真ん中へと勢い良く転がった。

 ざざぁっ、と土煙を上げながら地面にしたたかに身を擦ったヒツギは、腕の中の少年が無傷なことに安堵すると共に、小さく舌打ちをした。

(習慣って恐ろしいわ)

 ヒツギが望む望まないとに関わらず、訓練された体は滑らかに動く。

 その身のこなしを誰にも見咎められていないかと、ヒツギは注意深く辺りを窺った。

 馬の嘶きと共に、ヒツギと少年を轢きかけた鉄道馬車は少し距離を開けて、往来で止まる。

 ひとまず誰にも不審に思われてはいないようだが、いかんせん事故になりかけてしまったので、人目は集めてしまったようだ。

 ヒツギが少年を抱えたまま立ち上がって、着物についてしまった土埃を払っていると、ざわりと周囲の人垣が騒ぐのを感じた。

(何……?)

 ヒツギがそれにつられるようにして衣の裾から視線を上げれば、鉄道馬車の乗り口から、一人の男が降りて来たところだった。

 その姿を見て、ヒツギは目をみはった。

 乗り口から姿を現したのは、長身の男だった。ゆっくりとした猫のような動きで身をかがめて降りてきた男は、かすかに伏せていたその顔を、ヒツギの方を見やるようにして持ち上げた。

 銅のような風変わりな色をした髪の向こうに、射抜くように強い光を宿した鮮紅色の瞳が見える。

 ひどく見栄えのする男が、そこに立っていた。

 男はヒツギに歩み寄ってくると、ごく自然な口調で尋ねた。

「怪我はないか?」

 ヒツギは一瞬何を聞かれたか分からずに、「は?」と聞き返してしまう。

 男はあからさまに眉をしかめると、低い声で一言「失礼する」と呟き、ヒツギの肩からぽんぽんと土埃を払った。

 呆然とされるがままだったヒツギが我に返ったのは、その直後だ。

「いえ、私は大丈夫ですので、どうぞお気遣いなく」

 そう言ってヒツギは身を引こうとするが、

「待て。背中は自分では払えないだろう」

 すい、と男は長い腕を伸ばして、柔らかな手つきで着物の背まで払ってくれる。

(えーと…………)

 あまりの事態に硬直しながら、ヒツギはちらりと男の服装を窺った。

 洋装の真白いシャツは皺もなく、どことなく品の良さを感じさせる。黒いズボンに包まれた長い足の先を覆う珍しい西洋の革靴が、汚れひとつなく滑らかに輝いていた。

 青年のその身なりの良さから、どこか裕福な家の子息だろうと、ヒツギは見当をつける。

 どちらにしろ、男とはあまり関わり合いにはなりたくないというのが、ヒツギの本音だった。

「良し」

 土埃を払い終わったのか、男は長い腕を引っ込めると、しげしげとヒツギの顔を観察する。

 その視線に気付いて、ヒツギは庵仕込みの優美な動作で一礼した。

「わざわざのご厚意、ありがとうございます。本当に、怪我はありませんので」

 では、と深く関わり合いになる前にその場を去ろうとしたヒツギの手首を、男はそっとつかんだ。

「まあ、少し待て」

 思いのほか強い腕の力に、ヒツギは思い切り眉をひそめた。

「あいにくと、先約がございますので。芸妓といえど、遊び相手の女ばかりと思うとは、いささか無礼かと存じます」

 痛烈に皮肉ったヒツギに、男は微かに聞こえる程度の声で低く笑った。

「そんなものに興味はない。お前、もしかして武術のたしなみがあるのか?」

 そう聞かれた瞬間、ヒツギの体中の血が一気に引いた。

 苛立ちに曇っていた思考が冷え冷えと冴え、一刻もこの青年から離れるべきだと頭が警鐘を鳴らす。

「ご冗談を。私はただの芸妓です」

 隙を見て青年の手から逃れようとするが、いっかなその長い指はヒツギの手首から離れない。

(ああもう、しつこいっ!)

 指ごと引きはがそうと、ヒツギが青年の手に触れようとした時、ふいに視界に影が落ちた。

 見上げれば、いつの間にか目の前に身を寄せてきていた青年との近すぎる距離にヒツギは息を呑む。

 互いの呼吸が触れるほど近くで、青年は静かに囁いた。

「…………花庵」

 ぽつりと呟かれたその言葉に、ヒツギは思わず青年の手を振り払った。

「――離せと、言っているでしょう!」

 鋭く頬を叩く音が往来に響き、あっけにとられた青年の瞳とヒツギの苛烈な視線が一瞬だけ交わる。

 ヒツギはそのまま素早く身を翻すと、全力で通りの向こうへと走り去った。



 あっという間に目の前から駆け去った少女の姿を、秋孝は半ば呆然としながら見送った。

 そのまましばらく往来に立ちつくしていた秋孝は、背後から慣れた声に名を呼ばれて、ようやく我に返った。

「秋孝」

 振り返れば、珍しく驚いた顔の辰巳と目が合った。

 鉄道馬車から降りて来た辰巳は、秋孝の顔を見て一瞬だけ口をつぐんだ後、大仰に溜息をついた。

「……いくらお前の顔が良くても、嫌がる女性を引きとめる方法が力づくというのはどうかと思うぞ。一番最悪な手だ」

「…………」

 秋孝としては、始めはたまたま自分の乗っていた鉄道馬車の前へ飛び出してきた少女と少年を心配して、窓から身を乗り出しただけだった。

 しかしてっきり車輪に巻き込まれると思っていた少女は、瞬時に身を翻して、少年を抱えたまま往来の真ん中へと転がり、同時に受け身の要領でその衝撃を殺した。

 その身のこなしのあまりの見事さに、思わず馬車を降りてしまったのだが。

 いつもなら何か言い返してくる主の不自然な沈黙に、辰巳は眉をひそめる。

 黙ったままのその顔をひょいと覗き込んで、

「……やられたな」

 辰巳の口から漏れた呟きに、秋孝は視線だけで問いかける。それに応えるかのように、辰巳は自身の頬をぺちぺちと叩いて見せた。

「見事な赤さだ。あの派手な音も頷ける」

 その言葉を聞いて、秋孝はようやく引っぱたかれた頬に手を当てた。

 今さらながらにひりひりと痛む片頬を軽く押さえて、先ほどの少女の顔を思い出す。

 顔立ちは、整っていた。スッと弧を描いた眉にこぼれかかる長い黒髪。不用意に力を入れれば折れそうなほど華奢な手首。

 そして何より、あの赤葡萄色の瞳。

 引っぱたかれる前に一瞬だけ交わった、あの激しく燃えるような視線。

「…………叩かれて笑っているとは、お前まさかそっちの気があるんじゃないだろうな」

 辰巳のげんなりとした声に、秋孝はそこで初めて自分が笑みを浮かべていることに気付いた。

「まさか」

 唇の端を歪めるようにして笑ってそう言い切れば、辰巳はほっとしたかのように肩をすくめる。

「ならいいが。とりあえず、ここから離れないか?」

 その言葉に、秋孝は自分達が随分と人目を集めてしまっていることに気付いた。

 往来の人々は足を止め、何事かとこちらを窺っている。秋孝は周囲をくるりと一瞥しただけで、さしたる興味もなさそうに人々から視線を逸らした。

「どうせ降りる駅はすぐそこだったし、もう歩いても変わりがないと思うが」

 それともあの鉄道馬車に戻るか? と聞いてくる辰巳に、秋孝は首を振った。

ここからなら目的地へは歩きでもさほど遠い距離ではない。それにこの騒動の後では、馬車に戻ったところで、乗客の好奇心の視線にさらされることは目に見えている。

「歩く。どうせ、もうここは銀座だ」

 了解、と頷いた辰巳と共に、周囲の人々の視線を無視して秋孝は歩き出す。

「神城殿直々の邸宅への招待だ。さて、どうなることか」

 そう一言呟いて、秋孝は銀座の最奥に居を構える壮麗な屋敷へ足を向けた。



 ヒツギは、全力で花庵への道を駆け戻っていた。

 足の速さと身のこなしを活かして、花庵へ向けて脇目もふらずに疾走する。目を丸くして立ち止まる人々を無視して道を突っ走り、花庵の厳かな門を勢い良くくぐった。

 砂利の擦れる音を立ててヒツギの足が止まったのは、普段庵の者達が出入りに使っている裏玄関の前まで来てからだった。

 ぜえぜえと荒い呼吸を繰り返しながら、ヒツギは先ほどの男を思い出す。

 しつこいだけの男かとも思ったが、最後の低い呟きが耳について離れない。

(……確かに、花庵って言った)

 何故。どうして。一体あの男は誰なのか。

 ぐるぐると、ヒツギの頭は混乱する。

「ヒツギ?」

 ふいにかけられた声に顔を上げれば、二階で文書きをしていたであろう蚕が玄関先まで降りてきて、心配そうな顔でこちらを覗き込んでいる。

「大丈夫? すごい勢いで帰って来たみたいだけど……」

「あ、あの、蚕」

 とにかく先ほどの出来事を説明しようと、ヒツギは口を開こうとする。

 そこで、蚕の視線が自分の傍らに向かっているのを見て、ヒツギは首を傾げた。

「蚕、どうし――」

 たの、と言いかけて、ヒツギは絶句した。

「……いい加減に手を放せ、うつけ者めが」

 そう吐き捨てるように呟いたのは小さな少年の声で、ヒツギはおそるおそる自分の傍らを見やる。

 ヒツギの顔よりかなり低い位置、腰のあたりに、小さな頭が見えた。

 着物の襟をつかまれて、仔猫よろしくぶらんと宙に浮いているのは、先ほど往来でヒツギが助けた少年だった。

 ちなみにその襟をつかんでいるのは他の何者でもなく、正真正銘、ヒツギの右手だった。

 どうやら先ほどの騒ぎの最中、知らないうちに引っぱって来てしまったらしい。

「――――――――つっ!」

 驚きのあまり声にならない叫びを上げたヒツギに、少年は冷たい一瞥をくれる。

「いいから早く離さぬか」

「ヒツギ、その子だあれ?」

 少年の言葉を理解することも、蚕の問いに答えることも出来ずに、ヒツギはその場に立ち尽くした。

 と、そこへ紅色の艶やかな打ち掛けを纏った緋花が現れた。

 今宵はどこかの座敷へ芸妓として出るのだろう。白粉によって陶器のような艶を見せる滑らかな肌に、朱の唇が際立っている。しゃらしゃらと音を立てて、簪の先についた花飾りが揺れた。

「さっきから騒がしいな。何の騒ぎ――」

 緋花は首を傾げている蚕をまず見やり、真っ青な顔色をしているヒツギを見つめそれからようやくその傍らの少年に視線を向けた。

「……何だ、そのちんちくりんは」

 緋花の問いに、ヒツギの背筋が思わずぴんと伸びる。

「あの、姐さんこれは」

 どうにか上手く事情を説明しようとヒツギが口を開いたところで、傍らの少年が遠慮なく言葉を発した。

「ちんちくりんなのは、お前の方であろう。いくら着飾ろうとも、貧乳で童顔なのは明らかだぞ」

 その瞬間、空気が凍りつく音というものを、ヒツギは確かにその耳で聞いた。

 世にも恐ろしい笑いを口の端に浮かべて、緋花の手がスッと着物の袷に伸びる。

「姐さん、ちょっとそれはやめっ――」

 ヒツギの制止の声が届くよりも早く、袷から取り出されたそれが、目にも止まらぬ速さで冷酷に宙を飛ぶ。

 次の瞬間、ドスッという鈍い音と共に、緋花の愛扇は少年の顔面に突き刺さっていた。



 ばったりと倒れた少年を、ヒツギは蚕と共に自分達の室へと運んだ。

 加害者である緋花は微笑を湛えたまま、どこかへと姿を消した。その背後に般若の形相が浮かんで見えていたことは、言うまでもない。

 布団に寝たまま呻いている少年の顔を見ながら、ヒツギは心中で呟く。

(この世には、逆らっちゃいけない人っていうのがいるのよ……)

 蚕は水を張った手桶で布を絞って、丁寧に少年の額に滲んだ汗を拭いてやっている。

すべての事情を聞いた蚕は、その繊細な顔立ちを盛大にしかめた。

「ヒツギを引き止めようなんて、五百年早いわよ」

「あの、蚕? 問題はそこじゃないんだけど……」

 分かってる、と柔和に笑った少女は、汗をぬぐう手を止めて考え込んだ。

「問題は何でその男が花庵って口に出したかだけど……。別にこの街で芸妓っていうことを知っていれば、そんなに不自然じゃないし。引っぱたいて名乗らずに戻って来たんなら、ヒツギが誰なのかは相手には分からないでしょ?」

「そうなんだけど。嫌な予感がするっていうか」

 あの男と目が合った瞬間、背筋を駆け抜けるものがあったのだ。

 それが何かは分からないが、何だかそわそわと落ち着かない気分にさせられる。

「大丈夫。もしその男が来たら、即刻私が叩き出してあげる」

 にっこりと笑みを浮かべて断言した蚕の姿に、ヒツギも小さく笑った。

「ありがとう。その時は、私も手伝う」

「じゃあ、やる時は二人でね」

 くすりと笑いあった少女達の間で、少年が苦しげな呻きを漏らした。

「……問題は、この子をどうするかだけど」

 蚕の言葉に、ヒツギは軽く眉根を寄せた。

 倒れたのをそのまま運んできたのは良いものの、いかんせん花庵に部外者を入れるなどという話は聞いたことがない。

「とりあえず気が付いたら手当てして、家に帰すことになるかな」

 そう言いつつ、ヒツギは少年の顔を眺めた。

 年の頃は十くらいだろうか。体は小柄で、ヒツギでも持ち上げられるほどその体重は軽い。しかしその整った顔立ちに子供らしいあどけなさは無く、どことなく怜悧さにも似た理知的な雰囲気が感じられた。

「綺麗な子だねえ。ヒツギ、本当にこの子が往来に飛び出したの?」

「うん。でも飛び出したっていうか……」

 どちらかと言えば、少年は偶然飛び出したというよりは、わざわざ鉄道馬車が来る時を見計らって、往来へ進み出たと言った方が正しい。

 まるで、自ら事故に遭おうとしているかのようだった。

(…………まさかね)

 その想像を首を振って打ち消すと、ヒツギは蚕に手を差し出した。

「代わるわ」

 少年の汗をぬぐっていた布を引き受けて、ヒツギは再び手桶の中でそれを絞り直す。前髪をかき上げて生え際の汗をふいてやろうとした時、ヒツギはそこに光るものがあることに気が付いた。

 ほう、ほう、と蛍の光のような淡い明滅を繰り返すそれを見て、思わず呼吸が止まる。

「ヒツギ、これ……」

 蚕が指さした先、少年の額の片端に光るのは。

「鱗惑い……」

 魚のそれに似た、つややかな緑色の鱗だった。



開国より西洋化を推し進めてきた帝国の中にあって、その一帯はまるで時の流れに取り残されたかのような錯覚を秋孝に起こさせた。

高い外塀に囲まれた広大な敷地には竹林が茂り、その間の長い小道を抜けてようやく屋敷の内塀が見えてくる。表門をくぐって苔むした庭園を通り過ぎ、小川に架かった橋を幾つも越えて、初めてその屋敷へ辿り着くことの出来るさまは、ここが帝都より幾らも離れていない土地だということを、人々に忘れさせるに容易い。

 花々が咲き誇る庭園の中を、秋孝と辰巳は誰の案内もなく進んでいく。

 ただでさえ広いその庭でなぜ迷わずに済んでいるかというと、秋孝の元へ届いた封書に大まかな地図が書いてあったからだ。

「見事な庭だな、これは」

「さすが神城家の屋敷といったところか」

 小川に架かった橋の最後のひとつを渡り切ったところで、二人はそれぞれに感嘆の溜息を漏らした。

 眼下の川の中で泳ぐ鯉の魚影が、ゆらりと水面に浮かんでは消える。

 銀座の最奥に居を構える神城雅也邸は、ひっそりとした静寂を湛えていた。

 二人が封書に記された道のままに足を進めれば、広々とした玄関に行き着く。

 その磨かれた檜の床に三つ指をついて、一人の幼い少女が秋孝と辰巳を出迎えた。

「ようこそいらっしゃいました」

 小さく微笑んでそう言った少女に促されて、屋敷の中へと案内される。

 行き着いたのは広々とした障子の前で、少女は「主様、お客様がお見えになりました」と、鈴を転がすような声音でその向こうへと声をかけた。

「お入り」

 響いた声があまりに中性的だったため、秋孝がそれを神城雅也の声であると認識するまでに、少し時間がかかった。

 さっと障子の戸が両側へ開かれて、広々とした室が目の前に現れる。

「御苦労だったね、藤」

 自分達を案内してくれた少女は主に向かって一礼すると、するりとその傍らへ座り込んだ。見れば反対側によく似た顔立ちの少女がもう一人いて、普段からこの二人は主の両脇に控えているのが常のようだった。

「さて、香坂殿に無堂殿。ご機嫌いかがかな」

 室の奥、欄干に腕を預けてゆったりとくつろいでいた人物は、そう言いながら長煙管から紫煙をくゆらせた。

 穏やかな春の陽に照らされて、その姿は淡く霞んで見える。白磁の肌を滑り落ちる髪は、見たこともないような白銀色。身に纏った女物の衣も帯も、ひとつの違和感もなく男の体に馴染んでいる。

 帝国華族にして白絹の君。純白の怪異にして皇華省副官。

 その男の名前を、神城雅也という。

 気だるげな視線を向けられて、秋孝は首を傾けた。

「わざわざ他省の俺達を呼ぶとは、何か特別な用でもお有りなんですか。神城殿」

 秋孝のその率直な物言いに、雅也はくつくつと喉の奥で笑い声をたてた。

「別に取って食うつもりはないよ。安心したまえ」

 その言葉の裏を読み取ろうとするように目を細めた秋孝を、雅也は瞳をすがめて見やった。

 取って食うつもりはないというこの男の言葉を、頭から信じるわけにはいかない理由が幾つかある。

 目の前の神城雅也という人間は、極めて特異な存在だった。

 大財閥の子息に生まれながら、神城の血筋にはないその白絹の髪の珍しさは誰もの目を引くところだろう。

 好んで女物を身に纏うその姿も、凄絶なまでの美しさを誇っているが、やはり人々の中では異質と言っていい。

 加えて、雅也が副官を務める皇華省という部署の役割も、謎に包まれていた。

 形式的には、宮内省の補佐的な役割を担うとされている。しかしその部署に所属する者において名が明らかになっているのは、長官である皇華卿とその副官である神城雅也の二人のみ。

 それでいてその権勢は、帝国国政の中枢を担う内務省と肩を並べている。

 見た目も人柄も地位さえも、何もかもが朧月のように不確かで奇妙な男。

 底の知れない相手を前に、気を緩めろというのが難しい話だ。

「まあ、気が抜けすぎているよりは、それくらい気難しいほうがいいだろう」

 そんな秋孝に頓着することもなく、雅也はそう言って口の端に笑みを浮かべた。

「先ほどの問いに答えよう。そうだよ、少し変わった用があってね」

 持っていた長煙管をくるりと回して、雅也は瞳をすがめた。

「香坂殿は、鱗惑いというものを知っておいでかな」

 聞き慣れないその言葉に、秋孝は眉根を寄せた。

「鱗……何ですって?」

「鱗惑い。そういう名前で呼ばれている、一種の奇病のことだよ」

 雅也は傍にあった煙草盆にコトリと長煙管を預けると、秋孝に向けてスッと腕を伸ばす。

「無堂殿、そう警戒しなくてもいい。その物騒なものは、鞘にしまえ」

 秋孝の背後で音もなく腰の長剣に手をかけていた辰巳は、無言でその柄から手を離した。ただし、鯉口は切ったままで。

 それを咎めることもなく、雅也は自身の白い肌を指先でなぞった。

「皮膚にね、魚のあれによく似た緑色の鱗が出来るんだよ。日が経つごとに徐々に広がって、やがて鱗が全身に回りきると死んでしまう」

 さらされた雅也の腕の皮膚はなめらかで、そこに鱗が広がるさまなど、秋孝には想像できない。

「これが近頃、帝都で流行っているらしくてね」

「……少なくとも、俺はそんな話は聞いたことがありませんが」

 雅也の所属する近衛軍の役割には、帝国陸軍と共に帝都の巡視をすることも含まれる。そんな奇病が流行っているのなら、秋孝の元に報告が上がってきても良いはずだ。

 眉つばものの話なのかと秋孝が問い返せば、雅也は首を振った。

「ところがそうでもない。しかも、患者は増加している」

「だから、一体どこで――」

 言いかけた秋孝の言葉を遮って、雅也は口を開く。

「もしその病が流行っているのが、ある一定の階級だけのことなのだとしたら?」

 雅也のその言葉に、秋孝はハッと息をのんだ。

 肌に現れる異常、増える患者。それでいて近衛軍も帝国陸軍も気付くことの出来ない、閉塞的な環境――。

「華族ですか……いや、財閥か」

 言い直した秋孝に、雅也は薄く笑んだ。

「半分だけ正解としておこうか。どうやら華族の内でも末端中の末端は、その奇病にかかっているらしいから」

 どうでもいいようにそう言い添えた雅也からは、何の感情も感じられない。

「今のところこれを知っているのは、私と皇華卿と近衛卿。それから香坂殿と無堂殿。ああ、私の部下達もだね」

 部下達、と聞いて秋孝は目をすがめた。

 謎に包まれて、その姿を誰も見たことのないと言われる皇華省の人間たち。

 ひとつだけ溜息を吐きだして、秋孝は雅也と視線を合わせた。

「……わざわざ俺を呼びだしたのは、それが理由ですか」

 死に至るという謎の奇病、しかも流行っているのが財閥や華族ともなれば、その実態を明らかにするのは骨が折れる。財閥や華族の人間はその特権的な階級柄から気取り屋や傲慢な者が多く、身分によって人を差別する傾向が未だに根強く残っているのだ。恥を他人に晒して弱みを見せるくらいなら、死んだ患者をごまかす程度のことはやってのける。

 それが鱗惑いという奇病ならなおのこと、家名や体面に傷がつくことを極度に恐れる彼らは、その事実を隠そうとするだろう。

 そうしてそれを調査するとなれば、絶対に相手に気付かれてはならない。

 すなわち、華族や財閥の中にも自然に入りこめて、なおかつ賄賂などで寝返らない人員が必要だということだ。

 香坂家という看板を背負った自分と辰巳ならば、それが出来る。

「……俺で良いんですか? あなたほどではなくても、俺も結構な変わりものとして、華族の中では白い目で見られているはずですが」

 秋孝がおとなしく香坂家の事業を引き継ぐなり、内務省に勤務するなりしていれば多少違ったのかも知れないが、望んで軍に勤務する秋孝は、華族から奇異の視線で見られることも度々だ。

 体裁を気にする華族や財閥の人間が、秋孝と辰巳を受け入れるかどうかは五分といったところだろう。

 そう言った秋孝に、雅也は人の悪い笑みを浮かべた。

「私に考えがないとでも?」

 底知れない余裕を感じさせるその笑みに、秋孝は目を細める。

(準備万端というわけか……)

 噂どおり読めない、食えない、敵わないと三拍子揃った嫌な御仁だ。

 心中で秋孝が苦々しげに呟けば、今まで黙って控えていた辰巳が、ふいに口を開いた。

「失礼ですが、奇病にかかった患者は大抵ろくな奴ではないでしょう。勝手に死んでも構わないようなら、放っておいていいのでは」

 淡々とした辰巳の口調は、どこまでも静かで冷えている。無堂家の役割は、主と定めた香坂家の人間を守ること。秋孝の安全をはかるためなら、辰巳は容赦なく他人を切って捨てる冷酷さを持っていた。

 雅也はどこからともなく取り出した扇を開いて、ふわりと室の空気をかき混ぜる。

「私としてもそうしたいところだがね。なにぶん彼らからの税収が帝国予算の大半を占めているとあれば、そうもいかない」

 財閥や華族と呼ばれる人間は、総じて高い収入を誇る。傘下の幾つもの事業から利益を吸い上げ、連綿と引き継がれてきた財産の数々を所有する彼らから取り立てる税金の総額は莫大なものだ。

 鱗惑いで、もし彼らの内の財閥が倒産するともなれば、国庫への影響は少なからず出てくるだろう。

 生かさず殺さず。それが帝国政府と彼らの距離だ。

「……神城殿、秋孝を呼べば、俺が必ず付いてくることを承知の上で封書をお出しになられましたね」

「分かりきったこと聞くとは、存外君も頭が弱いのかい」

「いえ、ただの確認です」

 それだけ言って、辰巳はまた影のように黙した。

「つまり、あまり死なれても困るから、患者の把握と治療法を探れということですか」

 秋孝のその問いに、雅也は気だるげに首を傾げた。

「いや、目的は、どこからこの病が広まったのかを調べることだ」

「治療法はいいんですか」

「今のところ不明だがね。それは後回しだ」

 艶やかな髪を指先で弄ぶように梳きほぐして、白い男は笑う。

「今回は、二人に私の部下とそれぞれ組んでもらおうと思っている。実際に顔を合わせるのは三日後の夕刻。場所はこの裏の花庵で」

 花庵という言葉に、秋孝の眉がぴくりと動いた。

「……神城雅也殿お抱えの、天女が出迎えでもしてくれるんですか」

 帝都に数ある芸妓置屋の中で、その名を轟かせる幻の名妓の集団。

 わざわざその置屋を指定するとは、よほど何か企みがあるのか。

「出迎えくらいなら、そうだね、してくれるだろう。その後、私の部下と上手くやれるかは、二人しだいといったところかな」

「…………」

 雅也の言葉の裏に含み笑いのようなものを感じ取って、秋孝は眉をひそめた。その裏の裏を読んでみようと試みるが、超然としたその白皙の顔からは、何も窺い知ることは出来なかった。

「分かりました。三日後の夕刻に、またお訪ねします。どうせこちらの上司には俺と辰巳の行動許可は取ってあるんでしょう?」

 答えはなくとも、雅也の瞳に浮かんだ光を見れば、それは明らかだ。

「では、今日はこれで。辰巳、帰るぞ」

 一礼して退室しようとした秋孝の背中に、雅也は思い出したかのように声をかけた。

「ところで、どうだった。私の庭園は」

 ふいに予期せぬ話題をふられて、秋孝は目をぱちくりとさせた。

「……見事なものと思います。春とはいえ、ここまで花が咲いているのは珍しい」

 事実、秋孝達が通って来た庭園にはありとあらゆる春の花が咲いていた。見慣れた桜や桃などの花の他に、見たこともないような形のものもあった気がする。

 雅也の背後にある戸は開け放たれており、そこから吹いてくる暖かな風に混ざって、それらの花の香が秋孝の鼻をかすめた。

「三日後には、もっと咲き誇った花が見られるだろう。楽しみにしておいで」

「あいにく、花にはあまり興味がないもので」

 それだけ言い置いて、秋孝は雅也の室を後にした。



「…………相変わらず、腹の底で何を考えているのか、分からない人だな」

 近衛軍に帰る鉄道馬車の中で、秋孝はそう呟いた。

 車内は様々な人々で溢れ、他愛のない会話が意味もなく耳をかすめていく。

 秋孝のその呟きに、辰巳は窓枠に頬杖をつきながら答える。

「良かったのか。あの仕事を受けて」

「俺があそこで断っても、たぶん帰ったら近衛卿から通達の文書が来てるだろう。俺とお前で、皇華省と協力して事にあたれ、という内容のやつが」

 秋孝の元にあの封書が届いた時点で、既にすべての根回しは済んでいたのに違いない。それならば、あそこで断ろうと結果は同じだ。結局、秋孝達は今回の仕事を受けることになるのだから。

「それにしても、花庵に招かれるとはな」

 小さな笑いを漏らして、秋孝は首をすくめた。

 滅多に座敷に姿を見せない花庵の芸妓。しかもその置屋ともなれば、入り込みたい物好きなど掃いて捨てるほどいるだろう。

 よりにもよって全く興味のない自分達が入ることになろうとは、皮肉なものだ。

「まあ、あそこなら誰と話しても外部に漏れることがないだろうから、うってつけと言えばうってつけか」

 そう言った秋孝は、隣で沈黙している辰巳に首を傾げる。

「どうした」

 辰巳は目を細めると、静かな動作で剣の柄を押さえた。

「俺があの室で剣を引き抜こうとした時、真っ先に身構えたのは、神城殿の両脇に控えていたあの二人の少女だった」

「……まさか」

「いや、確かだ。あのまま引き抜いていたら、俺は腕のどちらかを持っていかれただろう」

「……」

「花庵の面々が、もし全員そうなのだとしたら?」

 名妓の集団がもし辰巳が言うように、一級の武術を極めた者達なのだとしたら。

 秋孝の脳裏に、一人の少女の姿が浮かぶ。

(あのときはたんに、銀座の芸妓ということで口に出たんだが……)

 銀座の往来で見事な身のこなしを見せた芸妓の少女。彼女にかけた言葉は、秋孝が知らないうちに、とんでもない物事の本質をついていたのかもしれない。

 再びあの屋敷を訪れるのは、三日後の晩。

「全く、幸運なんだか不運なんだか」

 秋孝の呟きは車内のざわめきに流されて、すぐにどこかへ消えていった。



 その部屋は、いつも暗く、そしてとても静かだ。

 もはや慣れてしまったその暗闇の中を、春琴は迷いなく進んだ。

 やがてその奥に行き着くと、広い障子戸が目の前いっぱいに広がる。

 その白い和紙の一面に描かれた朱の不気味な文様だけは、いつ見ても見慣れることがなく、春琴の背筋をうすら寒くさせた。

 大きな錠のついたその戸を、懐にしまっていた鍵を使って、いつものように開ける。

 静かな音を立てて、その部屋は春琴の前に現れた。

 広々とした檜張りの床が、足の裏にとても冷たく感じられる。家具の類はいっさい見当たらず、その代わりのように広々とした布団がひと組、部屋の中央に敷いてあった。

 窓辺で障子戸越しに降り注ぐ月光を浴びていた男は、春琴が現れたことに気付いて、視線だけをこちらに寄越した。

「……今日も、参りました」

 春琴は、そう呟く。呟かれた方は、視線だけをこちらに向けて黙ったままだ。

 言葉を発しなくても分かる。目の前の男が、呆れたように心中で溜息をついたことが。

 それほどまでに、この男と過ごした時間が長いわけではない。

 けれど、その長い黒髪も、海の底のような蒼い瞳も、毎晩見ているのだ。

「…………全く、変わっている。あなたのような生き方をする人間がいるとは」

 低く深い声音が、そっと首筋をかすめたような気がした。

「私は、ここの遊女ですから」

 春琴は、この屋敷の主人に落籍された遊女だ。それ以外の生き方を、知らない。

 男は小さく舌打ちすると、纏っていた夜着に降りかかる黒髪を、無造作に背中の方へと払った。

 窓辺の障子戸を小さく開ければ、丸い満月と、桜の枝が目に入る。

「月が、綺麗ですね……」

 無言のまま、男は春琴の見上げた先を同じように振り仰いだ。

「……名前を」

 そっと呟いたその言葉に、怪訝そうな視線が向けられる。

「名前を、教えて頂くことは出来ませんか?」

 しばらくの沈黙の後、

「……昴だ」

「そう、昴様とおっしゃるのですね」

 小さく淡い笑みを浮かべれば、男の視線は憮然としたように逸らされてしまう。

「今日は月が綺麗ですから、このままお月見でもしましょうか……」

 春琴のその言葉に、

「何を馬鹿なことを」

 呟くようなその静かな声音に、春琴は傍らを振り返った。

「お前は遊女なのだろう。いつものことだけ済ませて、さっさと帰っていくがいい」

 淡々とごく当たり前のように春琴の前に差し出されたその現実は、予想の範疇を超えなかった。

 そして同時に、春琴の心に残っている、わずかばかりの柔らかであたたかな部分に、改めて容赦なく突き刺さった。

 ……あなたに、聞いてみたいのです。

 お生まれは何処ですか。お歳はお幾つですか。好きなものは。嫌いなものは。

 このような私を、どう思っておいでですか。

 それらの問いはすべて、夢の中のことだけれども――。

「そう……ですね」

 春琴は桜の枝の向こうに透かし見える月を仰いで、薄く笑った。

 自嘲の笑みではあったが涙は浮かべずに、ただその白い顔には、たくさんの苦渋を呑み込むことで更に磨かれたかのような美しさだけが刷かれていた。

「どうしようもなく、つれない御方……」

 するりと白い手を伸べて、昴と名乗ったその男にしなだれかかった春琴は、くすくすと鈴を転がすように笑った。

 そのまま絹の布団に二人して倒れ込みながら、耳元で囁く。

「今宵は桜の寝台で、このままの私を抱いて下さいな」

 その望みは、今まで過ごしてきた幾晩と同じように、すぐに叶えられた。



「今夜も、随分と楽しまれたようですな」

 春琴という女が帰った後の室に、無遠慮に入ってきたのは一人の男だった。

「……」

 夜着を整えていた昴は、ひどく温度の低い視線を男に向けて、沈黙をつらぬく。

 男は、洋装というのだろう、昴にとって馴染みの薄い服を着て、気味の悪いうすら笑いを浮かべて室の入口に立っている。

「なかなかのものでしょう? 何しろ私が見つけて落籍してきたのですから」

 その自慢げな口調に吐き気を覚えて、昴は男を睨みつける。

 絶対零度とも言えるその視線に込められた底知れない怒りの感情に、男は喉を引きつらせて言葉を止めた。

 確かに二人の間には距離が開いているはずなのに、喉笛に刃物を突きつけられているような恐怖が男の体を襲う。

 呼吸をするのも息苦しいほどの、濃密な怒気。

(…………落ち着け、あいつは力を使えない。枷を嵌めているのだから、恐れる必要など何処にもない)

 男は必死にそう言い聞かせて、引きつった笑みをどうにか顔に浮かべた。

「では、本日も頂きますよ」

 心なしか乱暴に昴の腕を引き寄せて、男は銀色に輝く刃物を袖から取り出す。

 ずぶりと自分の肌に異物が埋まっていく感覚を、昴はどこか遠くの方で感じていた。



「蚕、この子……」

 ゆらゆらと光る緑の鱗を見ながら、ヒツギはようやくそれだけを口にした。

 呻いている少年の額には、帝都で流行っている奇病、鱗惑いの症状が現れていた。

 人から人へうつることはないと聞いてはいるものの、時間が経てば死に至る病だ。財閥や末端の華族達の間で流行していると聞くが、それが何故この少年の肌に表われているのか。

「ヒツギ、この子、華族とかじゃないよね?」

 厳しい顔つきでそう聞いてくる蚕に、ヒツギも頷く。

「服装も普通だし、だいたい鱗惑いにかかった身内を、ああいう部類の人たちが外に出すとは思えないわ」

 少年の着物はごく粗末なもので、どこにも財閥や華族らしいところなどない。

 しかし花庵には、着ている物で身分など判断出来ないということを体現する生きた見本がいるので、どちらにしろそんなことはあてにはならないと思い直す。

「とりあえず雅也に報告を……」

 そう言ってヒツギが室の戸を開けようとしたところで、それは勝手に左右に開け放たれた。

「えっ、小藤に小浅葱どうし――って、何でいるんですか!」

 磨かれた廊下に悠然と腕を組んで立っていたのは、ヒツギがたったいま呼びに行こうとしていた雅也本人だった。

 両脇に小藤と小浅葱が控えているところを見ると、二人が戸を開けたのだろう。

「おや、ここは私の屋敷だよ。どこに私が居たって、何ら不思議はないだろう」

「……あまりにも間が良すぎるんです」

「悪いより良いだろう。入らせてもらうよ」

 品の良い衣ずれの音と共に室に入って来た雅也は、布団でうなされている少年を見て目を細めた。

「どんな客人かと思えば……ヒツギ、お前は自分で面倒を巻き込む趣味でもあるのかい」

「ありません」

「じゃあ無自覚かい。余計に救いがないねえ」

 はああ、と呆れたような溜息をもらされて、ヒツギのこめかみがピキリと音をたてて引きつった。

 雅也は布団の傍らに座り込むと、するりとその白い指先で、少年の額に浮かんだ鱗に触れる。

「…………」

 しばしの沈黙の後、雅也はヒツギと蚕に視線を向ける。

「こうなっては仕方がないから、二人でこの子の面倒を見るように。花庵の外に出してはいけないよ」

 こくりと頷くヒツギに、蚕は首を傾げる。

「どこかに隔離したりしないんですか」

「これはね、隔離したところでどうにもならない。むしろ二人や他の妓達が見ている方が、逃げ出したりした時に気付くのが早くていいだろう」

 そう言って、雅也は廊下の方に声をかける。

「緋花、いるかい」

「……庵主が私をお呼びとは、珍しいこともあるものだな」

 ひょいと顔を覗かせた芸妓と入れ替わるようにして、雅也は室を出ていこうとする。

「胡景と一緒に、ヒツギと蚕の支度を手伝っておくれ。期限は三日だ」

「また急な。女の支度には時間がかかるんだぞ」

「だからお前の腕の見せどころだろう。期待しているよ」

 くすりと笑みを浮かべた雅也に、緋花はうんざりしたような顔をする。

「また気まぐれに決めただけだろうが」

「そうとも言うね」

 全く話が読めないヒツギは、怪訝そうな顔をして二人をうかがう。

「…………何の話ですか」

 ん? と振り返った雅也は、これ以上ないくらいの笑みをこちらに投げかけて

「お前と蚕の水揚げの日取りが決まったよ」

 爆弾のような言葉を落とした。

「………………………………は?」

 呆然とするヒツギに、続いて新たな爆弾が落とされる。

「というわけだからヒツギ、三日後の夕刻までに水揚げの準備をしておいで」

「………………はああああああああああああ?」

 ヒツギの間の抜けた悲鳴が、花庵にこだました。


 それからの三日間は、まるで地獄のような日々だった。

 傍付きとしての役割を全部免除される代わりに、姐芸妓である緋花と胡景の手によって、ヒツギと蚕は徹底的に磨き上げられた。

 風呂に入れば糠袋で肌という肌をこすられ、風呂から出れば出たで甘い花の香りのする香油をすりこまれる。着る物も今までの普段使いの綿の着物からしっとりと重い絹のものに変えられ、毎朝起きればどうやったかも分からないくらい手の込んだ髪型に結いあげられて、おまけにきらびやかな簪を何本も挿される。

 それだけならまだしも、立ち居振る舞いから食事の仕方、ちょっとしたしぐさなどの全てに姐芸妓の指摘が入る。

 やれ歩き方が雑だ、やれ箸の持ち方が荒いなどと様々なことの注意を受け、三日目の太陽が徐々に暮れ始めるころになって、ヒツギはようやくそれらの訓練から解放された。

「……まるで、どこかの華族様にでも嫁ぐかのような騒ぎよね」

 ぐったりと窓辺にしなだれかかったヒツギは、うめくようにそう言った。

 ヒツギの傍らで同じように窓辺にもたれて夕焼けを浴びていた蚕は、眠たそうにあくびをしながら、相槌を打つ。

「でもおかげで悪い癖は全部とれたし、水揚げの準備としては上出来じゃない?」

 ふああ、とつられるようにヒツギもあくびをしていれば、支度をしてくれた張本人である緋花と胡景が姿を見せた。

「あら、何やの二人して」

 その眠そうな姿に、何やら大きな衣装箱を抱えた胡景が声を上げる。

 同じように見事な螺鈿細工の施された箱を持った緋花が、地の底から響くような声を出した。

「……いい度胸だ。これから最後の支度があるのを忘れたのか」

 その言葉に、ヒツギと蚕はよろよろと気力だけで体を動かして、なんとか正座の姿勢をとった。

 緋花はよろしい、とでも言うようにひとつ頷いて、まじまじと二人を見下ろす。

「何だ、見られるようになったじゃないか」

 その言葉に、胡景も満足そうに頷いた。

 三日間徹底的に磨き上げただけあって、ただそこに座るだけでも、そこはかとない色香が二人から漂っている。それは付け焼刃などではなく、今まで傍付きとして磨かれてきた様々な素養を、緋花と胡景が一気に花開かせる形にしただけだ。もともと何もなければ、たった三日でここまでは仕上げられない。

「さてお二人はん、最後の支度どすえ。この上等なお着物に着替えたら、うちと緋花で髪を結うてあげるさかいに」

 そう言って胡景が抱えていた衣装箱を開ければ、目にも鮮やかな白金色の衣と紅蓮の艶を帯びた衣が一着ずつ、その中に並んでいる。

 手にとってみれば、このうえなく滑らかな感触が伝わってくる。

 緋花達に手伝ってもらいながら、ヒツギと蚕はそれぞれの衣を纏った。

 紅蓮の衣を纏ったヒツギは、用意されていた大鏡の前で、丹念にその漆黒の髪を梳きほぐされる。

 ちらりと見上げれば、鏡の中の緋花と目が合った。

「どうした?」

 すいすいと見事な手早さで結われていく自分の髪を、不思議なものを見るかのような気持ちでヒツギは眺める。

「水揚げなんてな、すぐに済む。あとは朝まで眠っていればいい。それだけだ」

「随分と簡単に言いますね……」

「簡単なことなんだよ」

 じゃあ何で姐さんはそんなに嫌がったんですか、と喉元まで出かかった言葉をヒツギは必死の思いで呑み込んだ。そんなことを言えばどうなるのかも分からないのなら、緋花の傍付きなどやっていられない。

 よし出来た、と頭をぽんと叩かれ、ヒツギはまじまじと鏡の中の人物を見やる。

「…………」

 これは誰だろう。

 紅蓮の着物は光が当たるたびに微妙に色合いを変え、まるで虹のような艶を帯びる。衣に散らされたたくさんの花弁と雅やかな御所車の文様が、その華やかさをよりいっそうのものにしていた。

 ゆるやかに結いあげられた髪は幾つかの簪で飾られ、その漆黒がうなじの白さを引き立てる。眉墨と紅と白粉に彩られた顔は、どこの誰のものなのか、随分と可憐に見えた。

「姐さん」

「何だ?」

「これ、詐欺じゃないんですか」

「お前はそんなことしか言えないのか……」

 呆れたような緋花のその言葉に、くすりとした笑い声が近くで聞こえた。

 振り返れば、白金色の衣を纏った蚕が小さく笑っている。

 もともと華奢なのがいっそう可憐に見えて、淡く紅を差した唇は花びらのようだ。薄い金色の髪も白い肌も、いっそ人間離れして見える。

「蚕、綺麗……」

 見惚れていたヒツギが、ぽつりとそう呟けば、蚕はとても嬉しそうに笑った。

「ヒツギも、すごく綺麗よ。これを他の男に見せるなんて……」

「…………えーっと」

 背後に黒雲が湧いてきそうなほどの恨めしげな声で呟く蚕に、ヒツギはどう答えていいか分からずに意味もなく明後日の方向を向いた。

「何の騒ぎだ?」

 ふいに幼い声がして、ヒツギはくるりと後ろを振り返った。

 見れば戸口に、小さな人影が立っている。

「龍緋、具合はどう?」

 ヒツギが通りで拾ってきた鱗惑いの少年――龍緋は、そう問われて生真面目に頷いて見せた。

「悪くない。それより、何だその恰好は」

 怪訝そうな顔でそう言われて、ヒツギは「あはははは……」と笑ってごまかす。

 花庵で一時預かりとなった龍緋は、随分と老けた子供だった。

 その外見はいたって子供なのだが、言動の端々にどことなく年寄り臭さが混じるのが何ともいえない。一体どこでそんな言葉を覚えたのだろう。

「ほう、私の支度に文句があるのか?」

 龍緋はそこで初めて室の中に緋花がいることに気付き、ざああっと青ざめた。

 それを見て、ヒツギは内心でほろりと涙をこぼす。

(ああ、あんな小さな子まで姐さんの餌食に……)

 初対面での強烈な一撃が効いているのか、龍緋は心の底から緋花を恐れているふしがあった。少なくとも二度と、緋花の前で「童顔」と「貧乳」という言葉は使わないだろう。

「い、いやっ、この上なくよく似合っておる!」

「おる?」

「います!」

「よろしい」

 緋花は溜飲を下げたかのようにそう言うと、満足げに頷いてみせる。

 龍緋はその横で、どうにか命だけは助かったと、いっそ哀れになるくらいに安堵した表情を浮かべていた。

「龍緋、本当にどこかに連絡を取ったりしなくてもいいの?」

 ヒツギが何度目かしれない問いを繰り返せば、龍緋は首を振った。

「いい。どこにも連絡を取るような奴がいない」

 目覚めた龍緋に額の鱗の症状を説明して、花庵で身柄を預かったのが三日前。その間、同じような問いを繰り返してきたのだが、答えはいつも同じだ。

 それが本当なのか嘘なのか、どちらなのかは分からない。

 けれども少なくとも、泣いてごねるようなことがなかったのはとても助かった。いくら泣いても喚いても、それが雅也の命令であれば、花庵から出してやることは出来ないのだ。

 龍緋は十歳の少年とは思えないほど落ち着いていて、死に至る病だと聞かされた時も、「そうか」と言っただけだった。むしろ幼すぎて、意味があまり分かっていないのかもしれない。

「おや。支度が整っているのなら、渡ってくればいいものを」

 聞き慣れた中性的な声がしたかと思うと、白い衣を纏った雅也が戸口に姿を現した。

 龍緋は何事かと振り返って、そして凍りついたかのように動きを止めた。

(あー……まあ、衝撃的な光景よね……)

 ヒツギは龍緋の心中を思って、乾いた笑いを浮かべた。

 凍りつくのも当然だろう。振り返った瞬間に、絶世の美貌を誇る男がいたら大抵の人の反応はそうなる。しかもそれが女物を纏っているともなれば、どうなるかは推して知るべしである。

 固まったまま動かない龍緋を無視して、雅也はヒツギと蚕を順に見比べた。

「上出来だね。これなら大丈夫だ」

 そう言った雅也は、手に持っていた扇をぱちりと閉じて踵を返した。

「さて、行こうか。今宵は水揚げだ」



 神城雅也邸は、大きな屋敷を長い渡殿でつないだ造りをしている。

 その一方を普段使いの住居とし、もう一方を花庵の座敷として使っているのだが、水揚げはそのうちの座敷の方で行われるのが常だった。

 広々とした一室に辿り着いた面々は、その見事さに圧倒されながら、静かに雅也の向かいに座った。

 座敷の両側には見事な山水画の描かれた襖があって、その向こうにも室があるようだった。

「……で、何で龍緋を連れて来てるんですか?」

 水揚げされる当人達と並んでちょこんと座った龍緋は、固まっていたところを雅也に引きずられて、ここまで連れて来られていたのだ。

 ヒツギのその問いに、雅也は扇でその口元を隠しながら答える。

「それは言えない。秘密だからね」

「………」

 どうせまたろくなこと考えてないんでしょう、というヒツギの視線を無視して、雅也は扇の先で左右それぞれの室を指し示す。

「ヒツギはあちら、蚕はこちら。それぞれ襖の向こうの室で待っておいで」

 そう言われて、ヒツギは今さらながらに水揚げをするのだという実感が湧いてきて、自然と顔が引きつるのを感じた。

(ま、まあ最悪、蹴り倒して逃げればいいんだし……)

 そう思いつつ襖へ近寄ったヒツギの背に、雅也が言い忘れていたかのように声をかけた。

「そうそう二人とも、この水揚げが出来なかったら退庵してもらうから、そのつもりでおいで」

 退庵というその言葉に、ヒツギはぴきりと凍りついた。

(何ですって―――――― !)

 退庵とはつまり、花庵から追い出されることを意味する。

 今日もし水揚げが出来なかったら出て行けと、そういうことらしい。

 思わず振り返ったヒツギの瞳に、向こう側の襖の前に立った蚕の姿が見えた。

 蚕はヒツギの視線に気づいて、にこりと笑ってみせた。

「あ……」

 大丈夫、とでも言うかのようなその笑みに、ヒツギは唇を噛みしめる。

 蚕はヒツギよりも体が弱いのだ。それこそ発作のあった晩などは、咳きこみが激しくて眠ることもできないでいるのを、ヒツギはよく知っている。

 その蚕が気丈に笑っているのに、自分が弱気でいるわけにはいかない。

 ぐっと顎を上げて、ヒツギは蚕の笑みに応えるかのように、鮮やかに笑った。

 そうして襖を開いて室に入ると、静かに後ろ手で再びそれを閉める。

(……大丈夫)

 ヒツギはそう言い聞かせると、深く息を吐いた。

 そうして、スッと息を吸うと共に、ぱちりと目を開ける。

 ――目の前の畳の上に、広々とした布団がひと組、敷いてあった。

 ヒツギの意識が、その瞬間ふらりと遠くなる。

(や、やっぱり駄目かも……)

 がっくりと床に膝をついて、ヒツギは頭を抱えた。



 秋孝は、その日の夕刻、辰巳と共に再び花庵を訪れた。

 先日と同じ道を辿ろうとしていたところ、ふいに庭園から少女が現れた。

 見れば、それは雅也の傍らに控えている少女の一人だった。確か、小浅葱と言ったか。

「こちらへどうぞ」

 うっすらと微笑んだ小浅葱に案内されて、秋孝と辰巳は夕暮れ時の庭園を進んでいく。

 雅也の言っていた通り、前に訪れた時よりも花の香がいくぶんか強くなっている気がした。夜目にも、庭園のところどころに白やら赤の花弁が透けて見えた。

 踏み石の端々に置かれた燈々色の明かりを辿って、大きな屋敷の玄関に着く。

 広々とした玄関に人が三人しかいないのは、どこか奇妙に寂しい気がした。

 うながされるままに屋敷へ上がり、通されたのは広い室だった。

 青々とした畳が美しい壮麗なその室の中央には、雅也と、何故か小さな子供が一人座っていた。

「来たね。ようこそ」

 片手に扇を持ちながら、歓待するかのように腕を広げた雅也は、相変わらず女物を身に纏っている。

 その横で見事に硬直している少年を見ながら、秋孝は辰巳と共にその向かい側に座った。

「……約束通り、夕刻に来ました。それで、相手は?」

 秋孝の言葉に、雅也はからかうような笑みをもらした。

「急いては事をなんとやら、と言うだろう。まず先に、この少年を紹介したいんだが」

 雅也はそう言って、傍らに目を向けた。

 室内の視線を一身に集めた少年は、そこで初めて会話の内容が自分のことであると気付いたらしい。驚いたかのように、雅也を見つめ返している。

 秋孝と辰巳が少年に注目していれば、雅也の白い指がその額にかかった。

 さらりと払われた前髪の下から現れたのは――。

「な…………」

「……っ」

 緑色に光る、まぎれもない鱗だった。

 同時に息を呑んだ二人の前で、雅也は指先を引っ込める。その鱗は若草色の髪に隠れて、たちまち見えなくなった。

「…………」

 黙ったままの秋孝と辰巳に、雅也は首を傾けてみせる。

「言葉もない、かい?」

「……聞くのと、実際に見るのとでは、随分な違いがあるものですから」

 何とかそれだけ答えると、秋孝は自分が見たものが間違いではないことを確かめるように、幾度かまばたきを繰り返した。

「これが鱗惑いだ。覚えておくといい」

 そう言われて、秋孝は神妙に頷いた。それから少年の方をちらりと見て――驚きに目を見開いた。

 少年は、いたって冷静に畳の上に座っていた。その表情のどこにも、晒しもののように扱われたことに対する怒りや、ましてや傷ついた悲しみなどは見当たらない。

 代わりにその明るい水色の瞳に浮かぶのは、ひどく静かな光だった。

まるですべての覚悟をすでに決めているかのような、大人びた雰囲気がそこから感じられる。

 先ほどまで硬直していた少年とは似ても似つかないその姿に、秋孝は何故か背筋が寒くなるものを感じた。

「この子は龍緋。――さて。紹介が済んだところで、本題に移ろうか」

 すい、と雅也が指し示したのは、室の両側にひっそりとある、山水画を描いた襖だった。

「香坂殿は左の室、無堂殿は右の室へ」

「………同時に面会は出来ないと?」

「いや、今回だけだ。これはこちらの決まりごとの一つだから、守ってもらわないと困る」

 雅也はそれだけ言い置くと、少年を伴って室を出ていく。

「無粋な真似は不本意だから、私はこれで失礼するよ。さあ、どうぞお二人共、室へ入ってくれないか」

 つまり、秋孝と辰巳が入るのを見届けてから帰るということだろう。

 秋孝は溜息をひとつこぼすと、一瞬だけ辰巳と視線を交わらせ、襖の前に立った。

 指先だけでさりげなく腰の剣をなぞり、その存在を確認する。

「――失礼する」

 一言そう声をかけて、秋孝は襖を引いた。

 室の中に入り、ひと息に再び戸を閉めて――そこで初めて、秋孝は室の中にいるのが少女だということに気付いた。

 漆黒の黒髪に、艶やかな紅蓮の衣。ぽかんとこちらを見返す瞳の色は、変わった赤葡萄色をしている。

 その瞳に、見覚えがあった。

 数日前、往来で見事な身のこなしを見せた芸妓――。

 あの少女が、いま秋孝の目の前にいた。



 ヒツギは、布団の上に座り込んだまま、入ってきた青年の顔を呆然と見つめた。

 銅に似た茶色の髪に、紅茶色の瞳。背は高く、立ったままだとよりいっそうそれが顕著に感じられる。

 そうして入って来る時に聞いた、聞き覚えのある低い声――。

 ついこの間、ヒツギが往来で引っぱたいた青年が、目の前にいた。

(………………はっ)

 思考が真っ白になったのは数秒のことで、すぐに我に返ったヒツギは―――我に返らなきゃよかったと心底後悔した。

 視線の先に見上げた青年の瞳は、ヒツギを覚えていると雄弁に語っている。

(どっ、どどどどどどうしよう…………!)

 真っ白になったヒツギの思考が、今度は混乱の渦の真っただ中へ突き落されてゆく。

 その思考を現実に引き戻したのは、目の前の青年の声だった。

「……座ってもいいだろうか」

 いきなりそう問いかけられて、ヒツギは一瞬何を言われたのか分からなかった。

「えっ、ええ、どうぞ……」

 そう言って青年が座れるだけの場所を確保しようとして――ヒツギは畳の上に布団が敷いてあるという事実を思い出した。

 カチン、と見事に固まったヒツギの前で、青年は怪訝そうな顔をして布団を見下ろす。

「ここはお前の室なのか?」

「いえ、そういうわけでは、ないんですが……」

 いくらなんでも水揚げの為に敷いたとは言えない。とそこまで思って、ヒツギは「ん?」と首を傾げた。

(あれ、この人、雅也が水揚げの為に呼んだのよね……?)

 だとすれば、この布団の意味が分からないはずがない。

 しかし青年は鬱陶しそうに布団の端をつかむと、ひと息にそれを二つ折りにして、室の隅へ追いやってしまう。

 そうして出来た畳の上に、青年は腰を下ろした。

「それで、お前が皇華省の人間というのは本当なのか?」

 青年の口から出た意外な言葉に、ヒツギは驚くと同時に警戒心を強めた。

「……まず、あなたからお名乗り下さいますか」

 ヒツギの問いに、青年は居住まいを正して答えた。

「帝国近衛軍少佐、従六位近衛大隊長、香坂秋孝だ」

 近衛軍、とヒツギが繰り返せば、秋孝と名乗った青年は頷く。

「今回は鱗惑いの件で皇華省と組むことになった。もう一度問う。お前は皇華省の人間か?」

 青年の問いに、ヒツギにも徐々に話が呑み込めてくる。

「それは、庵主の命ですか」

「神城殿の? そうだ。神城殿と近衛卿から任を受けて、俺は動いている」

 秋孝という青年は、先ほどの問いの答えを待つかのように、ヒツギに視線を投げかけた。

 その言葉を聞いて、ヒツギはすべてを理解する。

(……そういうこと)

 花庵の芸妓の水揚げが、他の芸者衆の水揚げと違うとは聞いていた。しかし、これがそういうことだったとは。

 ただ単に、一夜を共にするだけではない。

 雅也直々に、選ばれた相手。華族につなぎを持ちたければ華族の人間を、財閥につなぎを持ちたければ財閥の人間を。

 そして今回は、近衛軍の人間を。

 花庵の本来の姿は、皇華省情報部。

 すなわち、すべては任務の内。

 ――ならこれは、ヒツギが繭姫として最初に受ける仕事ということだ。

 ヒツギはさっと衣の裾を整えると、優美に一礼した。

「皇華省所属、ヒツギと申します。位はございません」

「ヒツギ、か」

 秋孝はそう一人ごちると、にやりと含みのある笑いを浮かべた。

「この前は、結構な挨拶をもらったが」

 ぺちりと頬を叩いてみせたその顔に、ヒツギの背筋が凍りつく。

(や、やっぱり、覚えてる…………!)

 ヒツギの頭は解決策を探して急回転し、そうしてひとつの方法を見つけ出した。

 ――――すっとぼける。

「な、何のことでしょう……」

「三日前、銀座の往来で俺の頬を引っぱたいただろう」

「ぞ、存じませんが」

「嘘だな」

 くい、と指先で顎を引き寄せられながら、あの時と同じように間近から瞳を覗きこまれ、ヒツギは息を呑んだ。

「この赤葡萄色の瞳を、見間違うはずがない」

 至近距離に接近した整った顔立ちを、ヒツギはやや乱暴に押しのけた。

「ええ、ええ覚えています! でもそれはあなたがしつこいからで、私が悪いんじゃありません!」

 キッと相手の顔を睨みすえてヒツギがそう言い放てば、秋孝は首をすくめた。

「何だ、やっぱり覚えているじゃないか」

 けろりとそう言った相手の顔は、いたってごく普通のものだ。

(…………は?)

 てっきり怒鳴られるか、謝れと言われるかのどちらかと思っていたのだが、秋孝にそれを気にしたところはないように見える。

 どうやら本当にヒツギが秋孝のことを覚えているのかどうか、たんに確かめたかっただけらしい。

 どっと疲れが押し寄せてきた気がして、ヒツギはすとんと肩の力が抜けるのを感じる。

 秋孝は気楽にあぐらをかいて、その一部始終を見ていた。

「それにしても、往来では見事な転がり方だったな」

「……見てたの」

「目が吸い寄せられた。あまりに鮮やかだったから」

 誰にも見咎められていないと思っていたのに、よりにもよってこの相手に見られていたとは。

 ヒツギが重々しく溜息をつくと、秋孝は気取りのない仕草で髪をかき上げる。

「今回はどうやら手を組むことになりそうだから、あれだけ体術の心得があるのは助かる。いちいち守ってはやれないからな」

 その言葉に、ヒツギはむっとして言い返す。

「もとから守ってもらおうなんて考えてないわよ」

「だろうな。そんな風には見えない」

「…………」

 どうにも出鼻をくじかれているようで、ヒツギは黙り込んだ。噛みつこうとしては褒められ、飛びかかろうとしては撫でられているような気がする。

「……分からない人ね」

 ヒツギがぽつりとそう言えば、秋孝は苦笑した。

「そうでもない。辰巳には、考えが読めすぎて危なっかしいとよく言われる」

 辰巳、という聞き慣れない名前に、ヒツギは首を傾げる。

「向こうの室に入っていった俺の部下――というか、もう兄のようなものだな。幼いころからずっと一緒にいるから」

「ってことは、蚕の相手っ?」

 向こうの室と言われて、ヒツギは思わず背後を振り返った。

 そのまま立ち上がろうとして、秋孝に肩をつかまれる。

「離し――」

「心配することはない。辰巳は俺よりもよほど人間が出来ているから。……自分で言うのもかなり不本意だがな」

 やれやれといったように首を振る秋孝の言葉に、ヒツギは唇を噛んで畳の上に座った。どちらにしても今ここを出て行くわけにはいかないのは、ヒツギが一番よく分かっている。

(蚕っ……)

 心配そうに襖の向こうを見やるヒツギの傍らで、秋孝が口を開く。

「そうか、向こうの室にいる者は蚕というのか」

「……ええ」

「少なくともここにいるということは、それなりの実力があるんだろう。心配する必要はないんじゃないのか」

「生まれつき、体が弱いのよ。あの体で水揚げなんてしたらどうなるか――」

「水揚げ?」

 ふいに出てしまったその言葉に、ヒツギはしまったと口を押さえるが、もう後の祭りだ。

 気まずそうにうつむいたヒツギを見やり、次いで彼自身が室の隅に追いやった布団に目をやって、秋孝はだいたいの事情を呑み込んだようだった。

「…………ここは、そういう場所なのか?」

「花庵の芸妓は初めて座敷に出る前に、雅也が連れて来た相手とこうやって水揚げするのが決まりなのよ。是非を言う権利は、こちらにはないわ」

「……逃げ出せばいいだろう」

「そう思ったけど、あいにく逃げ出せば庵から出て行けって釘を刺されてるの」

「なら、庵から出て行けばいい」

「出来ないわ」

 それきり黙りこんだヒツギに、秋孝は問いを重ねる。

「今では女性の職は広がっている。喫茶店の給仕や電話交換手にでもなれば、暮らしていけないわけでもないだろう」

 大戦前とは違い、帝国政府も今では女性の就職を奨励している。働こうと思えば職はいくらでもあると言う秋孝に、ヒツギは首を振った。

 しばらくうつむいた後、ヒツギは意を決したように口を開いた。

「私の家は、財閥だったの」

 目を細める秋孝に、言葉を続ける。

「財閥で、大金持ちで――それで、最後には解体された家なのよ」

 その言葉に、今までヒツギの話を静かに聞いていた秋孝が驚きに目を見開いた。

『財閥解体』――その言葉は、今の帝国では禁忌とされる。

 先の大戦の当時、帝国には無数の財閥があった。その数は現在の倍以上で、各々が人々から富を搾取し、贅を極めた暮らしをしていた。

 そんな中、財閥の幾つかに、ある考えを持ったものが生まれた。

 天皇などいらない。自分こそがこの国を手にしよう。

 帝国の主である天皇を弑し、己こそが帝国の主になろうと企んだその財閥達は、様々な方法でそれを実行に移した。

 大戦の戦火に見せかけて皇居に火を放つもの、民を洗脳し天皇に差し向けるもの、あるいは他の財閥と手を組むもの――。

 それらのすべてを一掃した政策を、『財閥解体』という。

 証拠の揃った全ての財閥を一斉に天皇の兵が襲い、その家の者をすべて捕え、あるいは殺した。

 捕らえたというのは方便で、実際に連行されていった者は獄中で死んだという話がほとんどであることから、解体された財閥の人間はすべて殺されたというのが本当のところだ。

「ちょっと考えれば分かるでしょう。その解体されたはずの財閥の人間が、のんきに帝都で給仕をやっていればどうなるか」

 ヒツギのその言葉に、秋孝は視線を床に落とした。

 確かにその言葉は帝国の禁忌とされているが、近衛軍にも解体の際に逃げ出した人々の特徴書きが回っている。それは政府内にいれば暗黙の了解というやつで、見つければ捕えてこいという命令に他ならない。

 つまり陸軍や近衛軍が帝都じゅうに散らばっている昨今、ヒツギの生きていける場所は花庵というここ以外にはないということだ。

 財閥の生き残りであるがゆえに、神城雅也という変わり者の手中にいるしかない。ひいては、天皇の手中に。

 秋孝はそこまで理解すると、深々と溜息をついた。

「なるほどな。籠の鳥というわけか」

「それは違うわ」

 思わぬ否定の言葉に、秋孝はヒツギを見やった。

 顔を上げ顎を引いて、真っ直ぐにこちらを見返すその視線。

 往来でも目にした、赤葡萄色の瞳に宿る、射抜かれそうなほどに強い光。

「私は、私で望んでここにいるの。それは誰に言われたからでも、何に仕方なく従ったからでもない」

 凛とした、その声。

「自分の生き方くらい、自分で決めるわ。それだけよ」

 きっぱりとそう言い切ったヒツギは、真正面から秋孝を見つめ返した。

「…………くっ」

 しばしの沈黙の後、秋孝は堪え切れないように口元を押さえると、笑い声をもらした。

「くっ、はは、そうだな」

「ちょっと何よ――」

「いや、笑ってすまない。だが、――俺もそう思う」

 秋孝のその言葉に、ヒツギは目を見開く。

 堪え切れない笑みを口元に浮かべたまま、秋孝は顔を上げた。

「俺の名字は香坂――この意味が分かるか?」

「……華族の伯爵様でしょ」

「そう、名高い伯爵様だ。だが、俺の母は妾だった」

「でもあなた、確か長子なんじゃ……」

 ヒツギの言葉に、秋孝は頷いてみせる。

「俺の母は妾だが、俺を産んですぐに死んだ。産後の肥立ちが悪かったらしい。それで正妻が子供を産めないと分かった直後だった俺の父親は、それまで放っておいた妾の家から、さっさと俺だけを香坂の家に連れていった」

「それじゃ……」

「俺自身の記憶はないが、そういうことが本当のところだそうだ。確かそれを初めて聞いたのは、十歳の頃だったか」

 十年もずっと香坂家の長子として育ってきた後で聞いたその事実は、秋孝の中に父親への根深い不信と、香坂家に対する嫌悪感を残した。

 それから寄宿制の士官学校へ入り、近衛軍に入隊してからは官舎へ移り、ここ数年は全く家へ帰っていない。

「家名なんて不確かなものだ。それに頼らずやってきたら、いつの間にかここまで来ていた」

 そう言って、秋孝は笑う。

「自分自身の評価くらい、自分の力で勝ち取る。俺の考えもお前の考えも、よく似ているとは思わないか?」

「……やっぱり、あなたって分からない人だわ」

 呆れたように首を振ったヒツギを横目で見ながら、秋孝は立ち上がる。

「では、お前がここから追い出されないように、少し協力をしようか」

 そう言って室の隅に追いやっていた布団をずるずると運んでくる秋孝を見て、ヒツギは固まった。

「………………えっと、あの?」

 ヒツギの言葉を無視して、秋孝は手際よく布団を広げていく。

 掛布をはねのけて、するりと臙脂色の上着を脱ぐ秋孝の姿に、ヒツギの体がじわりと冷えた。

 秋孝は白いシャツの釦を二つほど外して襟元をくつろげると、ヒツギの目の前に座る。

「いいか、声を出すなよ」

「は? え、ちょっと何――」

 問い返す間もなく、秋孝はヒツギが身に纏っていた紅蓮の衣の袷を、ぐいと広げた。

「――――――――っ!」

 悲鳴を上げそうになったヒツギの唇を、秋孝の手がすっぽりと覆う。

 そのままぐるりと視界が反転するかのような揺れがあった後、ぽすんと柔らかい感触がヒツギの体を受け止めた。

 何が起こったのか気付くまでに、たっぷり三秒。

 ヒツギは秋孝に抱え込まれるようにして、布団の上に寝転がっていた。

(嫌――――っ!)

 相変わらず手で塞がれたヒツギの口から、声にならない叫びがもれる。

 それを見かねたかのように、秋孝がそっと囁いた。

「……水揚げしたか、してないかなんて、結局は当の本人達にしか分からない。こうやってそれらしく体裁だけ整えて、あとは嘘をつき通せばいいだろう?」

 思わず声のした方を見上げれば、鮮紅色の瞳と視線がかち合う。

 ざわり、とヒツギの肌が粟立った。

 まただ。

 どうしてもこの瞳を見ると、ざわざわと落ち着かない気分にさせられる。

「今回の件では、よろしく頼む。では、おやすみ」

 しーっ、とまるで小さな子供に言い聞かせるかのように唇に指を当てられて、そっと秋孝の手はヒツギから離れる。

 それきり瞳を閉じて、秋孝は穏やかな寝息をたてはじめた。

(なっ、なん、何…………)

 何か言い返そうにも、何も思いつかない。自分でも頬が熱くなっているのが感じられて、それが余計に腹立たしい。

 腰のあたりに回った力強い腕の感触も、抱え込まれている広い胸板も、そのどれもが今までヒツギが知らなかった温もりを持って、そこにある。

 睨みつけようにもヒツギの顔は秋孝の鎖骨のあたりにあるので、横顔がかすかに見える程度だ。それもまた二人の明らかな身長差を感じさせて、わけもなくヒツギを悔しくさせる。

 どうにも起きそうにない秋孝の顔をしばらく眺めて、ヒツギは観念したかのように溜息をついた。

 抱きしめられている腕の中で、そろそろと指先を持ち上げる。そうして髪を結い上げている簪を幾本か抜きとると、布団からなるべく離れた場所にころりと転がした。簪を頭につけたままでは、寝にくいことこの上ない。

 ふー、とひとつ深呼吸をして、おとなしく秋孝の腕の中に横たわる。

 どうやら退庵をまぬがれることが出来そうだ、という安堵がヒツギの中に徐々に広がって、やがてそれは眠気に変わっていく。

(変な人……)

 最後にそう思ってから、ヒツギの意識は闇に落ちた。




 するりと音もなく開いた襖の前で、蚕は一礼をしたまま、その人物を出迎えた。

 再び襖が閉まるのを待ってから、ゆっくりと顔を上げる。

「ようこそ」

 楽のような声音で蚕がそう言えば、入ってきた人物――長身に濃紺の髪を持った青年は、その琥珀色の瞳でじっとこちらを見つめた。

「……やはり、そうか」

 呟かれた声は静かで、深い落ち着きを感じさせた。

「やはり、とは?」

 蚕がうっすらと微笑みながら問い返せば、青年は布団の上であることも構わずにスッとその場に腰を下ろした。

「神城雅也殿お抱えの名妓の集団、花庵――それがまさかまるごと、皇華省の人間だったとは驚いた」

 驚いた、と言っているわりには動じていないその青年の様子に、蚕は小首を傾げる。

「さて、何のお話しで――」

「後ろ手に隠している小刀が、何よりその証拠かと思うが」

 こちらの言葉を遮って放たれた青年の言葉に、蚕の笑みがざわりとその質を変えた。

 あどけなく純粋な少女の笑みから、どこか暗いものを含んだ嘲笑に。

「……お名前を、お聞かせ下さい」

「帝国近衛軍大尉、正七位近衛中隊長、無堂辰巳」

「辰巳様、ですね。私めは蚕。ただの蚕です」

「ああ。それで、この部屋は?」

「見て、お分かりになりませんか?」

 問い返した蚕に、辰巳は足元の布団をちらりと見やって、少しの間、沈黙した。

「……そういう趣味はないんだが」

「趣味うんぬんよりも、ここの取り決めのひとつと言った方が正しいかもしれません。ですが」

 蚕はそこまで言うと、サッと衣の裾を払って、ひらめくような速さで小刀を取り出した。

 同じ速さで腰の長剣の柄に手をかけた辰巳は、しかし少女の思わぬ行動に目を見開く。

 少女は銀色に鈍く輝く小刀を、自身の白く細い首に突きつけたのだ。

「私に指一筋でも触れれば、このまま死ぬくらいのつもりではおります」

 顔色ひとつ変えずにそう言い切った蚕の前で、辰巳は長々と溜息をついた。

 辰巳は剣の柄から手を離すと、感情の読めない瞳で蚕を見つめる。

「……そうまでして、何故」

「秘密は多ければ多いほど、女は美しいもの。お答えはしませんが、ただ私の中で殿方の地位は驚くほど低いとだけ申しておきます」

 すなわち、この上なく男は嫌いだと言いきった蚕の前で、辰巳は首を傾けた。

「俺は別に構わないが、今回の件では協力を仰ぎたい」

 その言葉に、蚕は美しく笑って答える。

「ヒツギが、そうするつもりなら」

 ヒツギ、と繰り返した辰巳に、蚕は頷いた。

「向こうの室にいる、私の一番大切な友人です。彼女が協力すると言えば、私はそれに賛同するだけのこと」

 つ、と繊細な横顔を襖の方へ向けて、蚕は呟く。

「こちらに無堂家の方が見えたということは、あちらは十中八九、香坂家の方ですね。……香坂、秋孝様とおっしゃったかしら?」

 何故、と視線だけで問うてくる辰巳に、蚕は当たり前のことのように言った。

「武門無堂家が仕えるのは、香坂家のみ。それも近衛軍ともなれば、お名前の浮かぶのはお一人だけです」

「……それで? いつまでその小刀をそこに突き付けているつもりだ?」

 辰巳の声に、蚕はたった今そのことを思い出したかのように、ちらりと自分の喉元に視線をやった。

「そうですね。ひとまず今晩はずっと、と思っておりましたが」

「………………やめてくれ。こちらの気が持たない」

「あら、そうですか。でもそれは、私の知ったことではありませんね」

「……」

 ゆらりと立ちのぼった怒気に、蚕はにこりと笑っただけだ。

 やがて長い沈黙の後、辰巳は深々と溜息をついた。

「分かった」

「あら、どうされますの?」

「会話をしよう」

 急に飛び出たその言葉を、蚕は思わず聞き返してしまう。

「…………何とおっしゃいました?」

「会話をしよう。夜が明けるまで」

「はい?」

 辰巳はくしゃりと濃紺の髪をかき上げると、腹を決めたかのように姿勢を正した。

「黙ったままでは、いつ気が狂うかわからない。全く、普段は黙っている方が楽なんだが――歳はいくつだ」

「は?」

「歳はいくつだ」

「…………十六ですが」

「そうか、俺は二十四だ。では好きな物は」

「……羊羹」

 その晩、蚕は夜が明けるまで小刀を手放さずに、辰巳の質問に答え続けることになった。



 瞼の向こうをやけに明るい何かがかすめた気がして、ヒツギは目を開けた。

(ん……)

 ぱしぱしと何度かまばたきした後、目の前にある白いシャツに気付いて「ん?」と首を傾げる。

 何だろう。同じ室の蚕は、寝る時に洋装を着たりはしなかったはずだが。

 そのまま目をこするために腕を動かそうとして、二の腕のあたりに何か重いものが乗っていることに気付く。

 何気なくそちらに視線をやると、自分の腕の上に、もう一本腕が乗っている。

(…………)

 その腕を辿って徐々に視線を上げていけば、もう一本の腕の先は肩、首とつながっていき――

 見上げた先に、整った秋孝の顔があった。

「…………うっわ、ちょっと、ちょっと起きてっ!」

 ようやくはっきりと目覚めたヒツギは、目の前にある胸板をとんとんと叩く。

 秋孝はうっすらと目を開けると、ひどく掠れた声で呟いた。

「……朝か?」

「朝っ、そうよ朝よっ! 起きて起きて、っていうか早くどいて!」

 必死に訴えるヒツギに、秋孝はぼうっとしたまま動かない。

「朝、か……」

 そんなのんきに呟いている場合ではない。早くしないと誰かがきっと呼びに来てしまうだろう。そうなれば(ヒツギは)一巻の終わりだ。

「ちょっと、ぼうっとしてないでどいてよ! 誰か来たら――」

「ヒツギー、起きてる?」

 襖の向こうから聞こえた声に、ヒツギはぴたりと動きを止めた。あの聞き慣れた声は、蚕のものだ。

「ヒツギ、開けるよー?」

「いや、待って! 蚕、まだ開けないでっ!」

 思わず必死に叫んだヒツギは、じたじたと秋孝の腕の中から出ようと試みる。

「ちょっと、腕だけでもいいから外し――」

 べしべしと胸板を叩きながらそう言ったヒツギは、襖の向こうで不自然な沈黙が流れていることに気付いた。

「……ヒツギ? ちょっとまさか」

「蚕、何でもないっ! 何でもないからお願いちょっと待っ――」

 ヒツギの願いもむなしく、蚕はがらりと襖を開け放った。

 見目も鮮やかな白金色の衣を纏った蚕は、室の中の光景を見るなり、ぴたりと動きを止めて黙り込んだ。

 室の中の光景――すなわち、ヒツギが秋孝に抱きしめられたまま、布団に横たわっている姿を見て。

「あ、あの蚕、これは誤解というか。いや誤解じゃないんだけど、それに近いっていうか」

「ヒツギ、袷が乱れてる」

 蚕のものとは思えぬほど、低くおどろおどろしい声でそう指摘されて、ヒツギは慌てて袷を引っつかんだ。そういえば昨日、これも秋孝がやった気がする。

 あまりの衝撃に黙り込んだ蚕の後ろから、背の高い見知らぬ男がひょいと身をかがめて、室へ入ってきた。

 そうしてヒツギを抱きしめたまま、まどろんでいる秋孝の傍にしゃがみ込むと、その頬を軽く叩いた。

「起きろ、秋孝」

「……辰巳?」

「そうだ。お前が朝に弱いのは知っているが、いま起きてもらわないとちょっとした惨事になりそうだ」

 辰巳と呼ばれた男がそう言うと、秋孝はぼうっとした瞳のまま、むくりと起き上がる。

 ヒツギの長い髪がしゃらりとその腕の上を滑って、布団の上に広がった。

 ようやく解放されたヒツギが身を起こすと、室の入口に立っていた蚕が、世にも恐ろしい顔をしてこちらを見ていた。

「ヒツギ、簪は?」

「簪?」

 ぱっと頭に手をやると、そこにあるはずの感触がない。昨晩、寝る前に自分で外したことを思い出したのは、布団からかなり離れた位置にそれを見つけてからだった。

 起きぬけの姿、乱れた着物の袷、解けて広がった髪――。

 蚕から見れば今のヒツギは、どこからどう見ても水揚げされてしまったとしか思えない姿をしていただろう。

「…………」

「あの、蚕、落ち着いて、ねっ?」

 不穏な空気が室いっぱいに漂いはじめる中、背後からは辰巳と秋孝の声が聞こえてくる。

「秋孝、ほら起きろ」

「ああ……あ、ヒツギは?」

「あの子のことか? そこにいるだろう」

「……ヒツギ?」

 呼びかけられて、ヒツギは振り向く。

「おはよう。よく眠れたか?」

 この状況でその発言が、蚕にどう受け取られるかは推して知るべし、である。

「あんたは何でこんな時によりにもよってそんなことを――っ!」

 ガッとヒツギが秋孝の襟元につかみかかるが、時すでに遅し。

「…………ちょっと、そこの男」

 地を這うような低い声音が背後から響き、ヒツギはおそるおそる、そちらを振り返った。

 蚕は一瞬だけ清らかで美しい笑みを浮かべて――次の瞬間、悪鬼のように凄絶に口の端を吊り上げた。

「三枚におろして、裏の沼に捨ててあげるわ」

 ゆらゆらと立ちのぼる怒気に、ヒツギは咄嗟に止めに入ろうとする。

「ちょっと蚕、落ち着い」

「ヒツギは何にもしなくていいよ。そこに座ってて」

 ――駄目だ。人の話を聞いていない。

 布団の傍らに膝をついていた辰巳という男が、素早くその状況を見てとって、秋孝を抱え起こした。

「おい秋孝、逃げるぞ」

「あ?」

 起きぬけでまだ状況が呑み込めていない秋孝を放って、ヒツギはそちらの男の方に声をかける。

「そこの辰巳って人、早く逃げて!」

「ああ、失礼する」

 男は心得たかのように頷くと、踵を返した。

「……逃がさないわ」

 立ちふさがろうとした蚕を、ヒツギは必死にその体に抱きつくことで引き止める。

「蚕、駄目だって! 一応あれは仕事相手――」

「仕事相手だろうが何だろうが、ヒツギに手を出した時点で死刑は確定よ」

 ごく冷静にそう言い切る蚕の瞳は、とても静かだ。静かすぎて、逆に怖い。

「だからそれは誤解――じゃないんだけど、何ていうかっ」

 ヒツギが蚕を引き止めている傍らを、辰巳は秋孝を支えたまま通り過ぎる。

「では、また後ほど」

「こらっ、逃げてるんじゃないわよ! ヒツギ、離してっ」

「駄目駄目駄目。絶対、本当に、冗談じゃなく三枚におろすでしょ?」

 そう問うたヒツギに、蚕は間髪入れずに頷いた。

「当たり前よ」

「だから駄目だって!」

 大騒動の水揚げの夜は、こうして朝を迎えた。




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