72 ユーリスの後悔
ウィスロー王国メイテール領領主城の大広間にて、三国の特使団による会談が即座に執り行われた。
マーリカは参加していないので、会談の様子を窺い知ることは出来ない。
最初はキラの部屋で大人しく待機していたが、どうも落ち着かない。ムーンシュタイナー卿が次期宰相に任命されてしまったことが、マーリカを不安にさせていた。
あの隙あらばさぼろうとする父親が、そんな大役に抜擢されてうまくやっていけるのか。その最初の力量の見せ場ともなる今回の三国間会談で、不興を買ってしまったら。
考え始めたらきりがなく、部屋の中をウロウロ歩いても心はちっとも穏やかになってはくれなかった。
残念ながら、マーリカの父親の仕事に対する信頼度は割と低い。日頃の執務態度を見ていれば当然だろう。だけど何故か国王は随分とムーンシュタイナー卿を買っている様なので、そこが逆に怖かった。何か大きな失敗をして罰せられたりしたらと思うと、心配でならなかったのだ。
ムーンシュタイナー卿がかなり強かな性格をしていることは、マーリカも理解はしているつもりだ。だが、宰相となるとそれとは全く別次元の話になる気がした。様々な知識がないと務まらない。あの日頃ヘラヘラとしているムーンシュタイナー卿にそれだけのものが備わっているのか。はっきり言って心配以外の何ものでもなかった。
マーリカは胸に手を当てると、祈る。
「お父様……どうかご無事で」
ただし、今回はあの超優秀なキラが同じウィスロー王国側の代表のひとりとして参加している。ムーンシュタイナー卿のことは知り尽くしているキラのことだから、きっときっちりと手綱を握ってくれるに違いない。そう信じるしかなかった。
それにしても落ち着かない。
外の空気でも吸おうと部屋を出ると、同じく参加しなかったユーリスが落ち着きなく廊下を彷徨いていた。
「ユーリス様」
「ああ、これはマーリカ嬢」
互いに落ち着かない様を見られ、照れ笑いを浮かべる。
「ここでただこうしていても落ち着かないだけだな」
「ですね」
ユーリスにお茶に誘われたマーリカは、ユーリスの言葉に甘えることにした。
大広間も客間も現在は埋まってしまっている為、日頃はメイテールの人間と庭師しか立ち寄ることがないという温室に連れて行かれる。
温室の中央に置かれた二脚の長椅子に向かい合わせに腰掛けると、侍女が給仕を始めた。ムーンシュタイナー領に侍女はいないので、マーリカは何だかドキドキしてしまう。
「マーリカ嬢。キラはムーンシュタイナー領ではどの様に過ごしていたのだ?」
やけに熱心に聞かれたマーリカは、聞かれるがままにキラとの出会いから隣領ナイワールの口ひげ令息シヴァに対するキラの対応まで喋ってしまった。
ユーリスは、弟のことを心から大切に思っているのだろう。終始笑顔で頷いて聞いている様は、兄弟がいないマーリカから見て、純粋に羨ましいと思えるほど慈愛に満ちたものだった。
話が途切れたところで、ユーリスが顎を引いて言いにくそうに口をつぐむ。
もしかして、何か粗相でもしたか。それとも、実はマーリカとの結婚は反対なのか。あまりにも続く突然の沈黙に、マーリカが不安を覚えていると。
「……俺はずっと、キラの人生を狂わせてしまったと後悔していた」
「ユーリス様……?」
先程までの軽快な口調とは打って変わり、しんみりとした口調だ。憂いを帯びた目を伏せながら、時折チラチラとマーリカの顔を窺う。
「その……俺の妻アリアとキラの話は、マーリカ嬢は聞いているか?」
「幼馴染みで、宿舎学校で公爵令息に大変な目に遭わされたと聞いています」
「……そうか、あいつはちゃんと話したのか」
安堵の表情を浮かべたユーリスは、ようやく顔を上げるとマーリカに語り出した。
「精霊の血の所為かどうかは分からないが、キラは何でも呑み込みが早くてな。幼い内から、周りからは一歩抜きん出た才覚を現していた」
「子供の頃から優秀だったんですね」
マーリカの知るキラは、直近の三年のキラだけだ。成人前のキラの話は、これまでキラから直接聞いた寄宿学校の時の話しか聞いていない。
自分の恋人の幼い頃の話は、純粋に興味があった。
「しかもあの見た目だろう? 『精霊の御子』と呼ばれ、気の置けない友人が領内では出来なくてな。キラはずっと孤独だった」
「……はい」
討伐隊の兵がキラをひと目見た瞬間の士気の急上昇を目の当たりにすれば、マーリカにもキラの存在が如何に崇められているのかは容易に理解出来た。あれは、崇拝だ。
「俺はそんなキラが心配で心配で、あまりにも周りを彷徨きすぎてウザがられたがな」
苦笑するユーリスは、優しい兄の顔をしていた。
「同い年のアリアは、はとこということもあり、キラを色眼鏡で見ることはなかった。キラそのものを幼い頃から見て知っていたから、キラが御子だの崇められる様な神秘的な存在じゃないのは最初から分かっていたんだろう」
「はい……」
キラはただのひとりの人間だ。だけど、頭では理解出来ても、心では納得出来ない者が大半だったのではないか。
そんな中、アリアや兄たちは、キラの数少ない理解者だったのだろう。
「キラ自身を見てくれる貴重な存在であるアリアが寄宿学校に進学する際、俺はキラに『アリアを頼む』と言った。あいつは……」
ぐ、と唇を噛み締めると、ユーリスは辛そうに眉を垂らす。
「――あいつは、約束を守り抜いてくれた。キラにとって、アリアは大切な存在であると理解した上で、俺は……キラが逃げる道を選ばないと知りながら、あいつに頼んだんだ」
「ユーリス様……でも、そうでなければアリア様は」
キラが守らなければ、アリアは確実に公爵令息の毒牙にかかっていただろう。
ユーリスの目が、赤くなってきた。
「……逃げたらよかったんだ。これ以上守り切れないと、助けを求めたらよかったんだ。だが、あいつは守り抜き、それが俺やアリアのせいでないと言わんばかりに、卒業まで学園に居続けた」
今更どうしようもないことだ。そんなことは分かっていても、吐露せずにはいられなかったのかもしれない。
ユーリスは、ずっとずっと、弟に謝りたかったのだ。
「こちらに戻ってきても、あいつはしれっとした顔で何でもない様に過ごして……公爵が馬鹿な提案をしてきた時に、俺はあいつの人生を奪ったのだと気付いた」
ユーリスの独白に口を挟めず、マーリカは無言でそのまま次の言葉を待つ。何を言っても気休めにしかならない気がした。
「オージン兄様が手を打って、キラは出奔してしまった。俺は――……」
ぐしゃ、と前髪を掴んで暫し停止する。ゆっくりと手を離すと、顔を上げてマーリカを涙目で見た。
「……マーリカ嬢。貴女の存在が、キラを救ってくれたのだ」
唐突に言われてしまい、マーリカは目を点にする。
「へ? え、いいえ、そんな私は何も」
以前ムーンシュタイナー卿も似た様なことを言っていた記憶があるが、マーリカは何もしていない。
「いや。俺はな、愛想のないあいつにあんな顔をさせる人が現れるなんて、思ってもいなかったんだよ」
「あんな顔……?」
マーリカが首を傾げると、ユーリスが苦笑した。
「宝物を見つめる顔だよ、マーリカ嬢」
「え……っ」
キラからの好意ははっきりと感じているものの、親しい人間から見てもそう見えると聞くと、照れ臭さが込み上げる。
「キラが帝国の第五皇子に閉じ込められた時。マーリカ嬢が爆発を起こし助け出そうとする姿を見て、俺は心が震えた」
「爆発」
ユーリスはあくまで真剣な表現で頷いた。
「マーリカ嬢は、キラの心の分厚い氷の壁を文字通り爆破して、キラの奥に隠されたキラ本人を見つけてくれたんだな」
語るユーリスの目は、穏やかに弧を描いている。
「これまでのキラは、自分を盾にすることで大切な人を守ってきた。貴女は、寄り添い共に戦う選択肢があることをキラに教えてくれた――心から感謝する」
頭を下げられたマーリカは。
「……ムーンシュタイナーの民は逞しいんです、ユーリス様」
と、笑顔で言った。
「キラももう、ムーンシュタイナーの民ですから」
それに、とマーリカは続ける。
「爆発させるのは、得意なんです」
「……ふふ、得意……その様だな」
二人は目を合わせると、最初は小さく、やがて声を大きく上げて笑い合ったのだった。




