39 好き
ムーンシュタイナー卿と母の墓参りを済ませたマーリカは、嫌がるムーンシュタイナー卿の腕に自分の腕を絡ませ、執務室へと連れて戻った。「今日は私がお父様をお助けします!」と拳を握り締めたマーリカを見て緩み切った笑顔に変わったムーンシュタイナー卿は、キラが見たら「普段からそれくらいやる気を出せよ」とでも言いそうな勢いで、颯爽と書類を片付けていったのだった。
「亡き奥様がご存命でいらした頃を見ているかの様です」
執事のゴーランが、そっと涙を拭う。なるほど、傍に格好つけたい相手がいれば、ムーンシュタイナー卿は張り切るらしい。いいことを聞いた、とマーリカは心の中で呟いた。書類仕事はまだ殆ど関わらせてもらっていないが、そんな自分にも出来ることがあると分かれば、今後キラの血管が切れるのも避けられるかもしれない。
ムーンシュタイナー卿の溜めた書類仕事を見守っている内に、あっという間に夕方になった。
ようやく開放されたマーリカが、キラはまだかな、と自室の露台から湖をぼんやりと眺めていると、遠くに帆船が数艘こちらに向かってくるのが見えた。サイファたちは今日も市場に出掛けていたが、王都に行ったキラたちを帰りの船に乗せる手筈となっている。六艘あれば、あそこにキラも乗っているということだ。
マーリカは指でひとつずつ帆船の数を数え、六艘全ていることを確認すると、「……ふふ」と小さな笑みを漏らした。こんなにも長い時間をキラと離れて過ごしたのは、寄宿学校以来かもしれない。今日一日何かと落ち着かない気分でいたのは、隣にいつもいる筈のキラがいなかったからだと気付く。
卒業後領地に戻ってきたマーリカの生活にはキラがしっかりと組み込まれていて、もうキラのいない毎日など想像出来ない。キラに褒めてもらいたい、キラに笑ってほしい。マーリカの原動力の殆どがキラであることを最近自覚し始めたマーリカは、こんなことでムーンシュタイナー卿が今朝口にした誰かとの婚姻など果たして出来るのか、と首を傾げた。
ムーンシュタイナー卿がはたして誰のことを指しているのかさっぱり理解出来なかったが、マーリカの隣にキラがいるのが当たり前となっている以上、マーリカの伴侶となる相手もキラとうまくやってもらわねばならない。
顔のない誰かと並ぶマーリカと、二人の正面に立ちこちらを見ているキラを想像する。――何故か、胸がモヤモヤと嫌な感じになった。
頭をプルプルと振り、まだ少し先と思われる未来の想像を頭の中から追い出す。楽しいことを考えよう、とマーリカは楽しみにしていたことを思考の波の中から手繰り寄せた。
マーリカが通っていた寄宿学校は王都の郊外にあった為、王城がある中心部には殆ど立ち寄ったことがない。騎士団の駐屯所は、そんな王城の一角に設けられている。ということは、キラは王城の中に入ったのだ。中は一体どうなっていたのか、是非ともキラの話を聞きたいと思っていたのだ。
まずはどんな質問から尋ねよう。気分が少し晴れたマーリカは、ワクワクしながら、船が船着き場に到着するまでずっと様子を見守っていたのだった。
◇
キラはぐったりと疲れ切った様子だったが、マーリカが目を輝かせながら今日の様子を知りたがると、苦笑しながら「お土産があります」とマーリカの部屋でお茶の用意を始めた。王都で流行っている茶葉を買ってきたそうで、マーリカが淹れると言ったがやんわりと断られた。曰く、「お土産を買ってきた相手に用意させるなんてとんでもない」ということらしい。
マーリカの部屋の長椅子に、二人並んで座る。王都土産の焼き菓子を堪能しながら聞く話は、純粋に楽しかった。ユーリスが自宅へ招こうとあまりにもしつこかったので逃げる様に帰ってきた、と話すキラの呆れ顔を見たマーリカは、「キラが帰ってきてくれてよかったわ。いないと落ち着かないもの」と素直な気持ちを伝える。
すると、一瞬ハッとした表情になったキラだったが、すぐにいつもの冷たい無表情に変わると、膝の上にあるマーリカの手に片手を伸ばす。マーリカは心の中で「ひえっ」と声を上げたが、決して嫌ではなく、むしろこうされることが嬉しくて、頬が緩みそうになるのを懸命に堪えた。
「お嬢、俺は今日頑張りました」
「ええ、大変だったわね。お疲れ様、キラ」
マーリカが微笑みながら答えると、キラはジリ、と身体をずらしてマーリカに近付いた。近い。キラとマーリカの膝が触れ合っている。この距離は主と従者の距離として正しいのだろうか、と疑問に思ったマーリカだったが、キラが嫌がっていないのならいいのかな……と距離を置くという選択肢を即座に破棄した。
どうせ魔力交換でもっと触れ合っているのだ。この程度なんてことはない筈、と心臓をバクバクさせながら、マーリカは自分に言い聞かせる。
キラは切れ長の青い瞳でマーリカをじっと見つめながら、聞いたことのない様な甘えている様にも聞こえる囁き声を発した。まるで恋い焦がれる相手に懇願するかの様に。
「……頑張ったご褒美をいただいても?」
ご褒美と聞いて、マーリカは一瞬固まった。まさかここでそうくるとは思ってもおらず、マーリカの目は泳ぎまくる。
「え、あの、その、ご褒美って、その、どんな」
明らかに動揺しているマーリカの言動にもキラは一切動じた様子を見せないまま、薄い笑みを浮かべた。形のいい唇が柔らかな弧を描く様に、マーリカはつい見惚れる。
「前回、サイファに邪魔をされたものと同じです」
それが答えだった。マーリカは緑色の瞳を見開くと、どうしたってキラの唇を見てしまう。
「お嬢、ただいま」
キラが囁くと、薄い唇がどんどんマーリカへと近付いてきて。
「お、おかえりなさ……」
マーリカは言葉は、キラの口の中に吸い込まれていった。
最初は啄む様に、ちゅ、という音を立てては繰り返されるキスに、強張っていたマーリカの身体の力がどんどん抜けていく。
「お嬢、目を閉じて」
「え、ええ……」
唇が触れ合っている時に喋られてしまい、キラの熱い息がかかりもう何が何だか分からなくなってしまった。キラの手が、マーリカの項へと伸ばされる。それと同時に、手を握っていた方の手がマーリカの腰へと伸ばされ、キラの方へと引き寄せられていった。
マーリカがぽやんとしながら目を閉じると、「お嬢、かわいい」という囁き声の後、キラが何度目かのキスをする。すると突然、温かいものがマーリカの唇を割って口の中に入ってきた。驚いて思わず目を開けると、半目を開けてマーリカを見つめる青い虹彩と視線がぶつかる。
「……マーリカ」
キラはマーリカの名を確かに呼ぶと、そのままマーリカをきつく抱き締めた。どこに手を置いていいのやらでだらんとしていたマーリカの手が、目の前のキラの服をぎゅっと摘む。鳥肌が立つ様な感覚がマーリカを襲い、これは幸福感でジンとしているのだ、と気付いた。
繰り返される深い口づけを、泣きそうになりながらマーリカは懸命に受け止める。キラの熱を、少しでも逃さない様に。全てを独り占めに出来る様に。
そして気付いた。ようやく気付いたのだ。
――ああ、キラが好き、と。




