36 親子の会話
マーリカたちが城の外に出ると、複数の帆船が湖の上を走る活気のある光景が広がっていた。
「帆船の操作を伝授する様、部下に伝えておいたんだよ」
この感じだと問題なさそうだね、というユーリスの言葉の通り、よく見ると帆船を操縦しているのはムーンシュタイナーの領民たちだった。その中に、ひときわ身体の大きい褐色の肌の人間も混じっている。
すっかり馴染んでしまっているな、とマーリカは苦笑を浮かべずにはいられなかった。ひょっこりやってきた、頼りになる異国人。ここのところの彼の態度には不可解な部分も多く、正直マーリカは戸惑いを隠せていないが、気のいい人間であることに間違いない。少なくとも、マーリカが本気で嫌がる様なことは決してしてこない。根が紳士なのだろう、とマーリカは思っていた。
丘の上に立つ城の前から、陽光を受け光る湖と時折翻る帆船の白い帆の眩しさに、ユーリスが目を細めた。マーリカの隣でマーリカを守る様に立つマーリカの従者に向かって、「キラ」と親しげに呼ぶ。
「……何でしょう」
「少しだけいいか。これは真面目な話だ」
穏やかな笑みを浮かべているが、いつになく真剣に聞こえる声色に、キラは大人しく従った。キラの腰に手を回したユーリスが、一歩前に進む。
何故侯爵家の人間がキラの名前を親しげに呼ぶのか。離れていく二人の背中を見つめながら、マーリカは僅かだが首を傾げた。そんなマーリカの隣に、ムーンシュタイナー卿が並ぶ。
「お父様。侯爵とキラは、知り合いなのでしょうか? 侯爵の態度がやけにあれなのですけど」
「んー? どうだろうねえ。ただ、キラは数年王都にいたこともあるからね。そこでの知り合いの可能性はあるんじゃないかなあ」
マーリカと同じ赤味を帯びた金髪を風になびかせながら、気持ちよさそうに目を細めたムーンシュタイナー卿が答えた。聞くなら今だろうか。マーリカは、常々気になっていたことを、この機会に尋ねてみることにした。
「お父様は、キラが何故ここにきたのかご存知なのですか?」
「ん? ああ、まあね。一応雇い主だし、大切な君の側に仕えることになる人間だからね。当然聞いたし、調べもしたよ」
そうだったのか、とマーリカは驚いた。言ってはなんだが、ぽやっとしている様にしか見えない父親が、まさか調べもしていたなど思いもよらなかったのだ。
ムーンシュタイナー卿が、くっつきながら何やら話し込んでいる二人の背中を眺めながら、穏やかに問う。
「逆に、マーリカは聞かなかったのかい?」
「……最初の頃に、何度か尋ねたことは」
「キラは答えなかった?」
「どうなんでしょう。もっとしつこく聞けば、もしかしたら答えたかもしれないですが」
ムーンシュタイナー卿はフッと笑うと、マーリカの頭を撫でた。
「それ以上は聞かなかった? それは何故?」
「だって……苦しそうだったから」
キラは、平民とは思えないほどの知識を身に着けている。そのことに度々驚かされたマーリカは、その度に「どうして知っているの?」と尋ねた。だが、毎回キラは少し悲しそうな目をして言い淀んだのだ。それが重なれば、忘れたい何かがあるのだと考えるのは当然のことだろう。
そしてマーリカは、自身の好奇心を満たす為だけにキラに嫌な思い出を思い起こさせることなど、絶対にしたくはなかったのだ。
だから、もう聞くのをやめた。キラの過去よりも、キラの現在を見ればいいのだと。一抹の寂しさを覚えながらも、そう考えたのだ。
「……マーリカ」
「はい?」
ムーンシュタイナー卿が、目を細めながらマーリカを愛おしそうに見下ろす。
「キラにはキラの事情がある。それを消化させるには、時間がいった。それと同時に、心を癒やす場所もね」
「心……ですか?」
うん、とムーンシュタイナー卿が微笑んだ。
「マーリカは自信を持つといいよ」
「え? 何の自信ですか?」
一体何のことだろう、と問い返しても、ムーンシュタイナー卿は微笑みを返すだけだ。さっぱり分からない、とマーリカは首を傾げる。
「僕はね、思うんだ。ひとりの人間を立ち直らせてやる気を起こさせるなんて、並大抵のことじゃ出来ないと」
「お父様? 一体何の話を」
肝心な言葉を避けている様にも思えるムーンシュタイナー卿の言葉には、きっとマーリカに伝えたい何かがあるのだとは思う。だけど、あまりにも曖昧模糊としていて、マーリカにはそれが何か分からなかった。
「だからね、キラが彼の過去を自ら話そうとした時は、ちゃんと聞いてあげてくれるかな?」
「え……ええ、それは勿論ですけど……」
はなからキラの話を遮ろうなどというつもりは、マーリカにはない。
「だから、投げやりになっちゃいけないよ。僕の可愛いマーリカ」
「? はい……」
何のことやらさっぱりだが、いずれ判明することなのだろう。これ以上考えてもすぐに答えは出なそうなのであれば、何はともあれ目の前のことに注力するのみだ。
「まずはとにかく、帆船を乗りこなして漁獲量増加を目指さないと! そうしたら、投網ももっと大きなものが必要かしら……?」
マーリカが拳を握り締めながら首を傾げると、ムーンシュタイナー卿が破顔した。
「投網ね、分かった分かった。キラに相談してみるから」
おかしそうにクツクツと笑っている理由が分からず、マーリカは尋ねようとする。だが、丁度話が終わったキラとユーリスがこちらへ戻ってきたので、マーリカは問いかけを中断せざるを得なかった。
ユーリスが、和やかな雰囲気で丁寧なお辞儀をする。
「ムーンシュタイナー卿、マーリカ嬢。本日はこれにて失礼します」
「大したお構いも出来ず、心苦しいです」
ムーンシュタイナー卿がそう返すと、マーリカがパアッと明るい笑顔に変わる。
「メイテール卿、もしよろしければ、魔魚肉の瓶詰めをお持ちになられませんか?」
「なんと、そんなものもあるのか?」
興味津々といった体でユーリスが答えると、マーリカはこくこくと頷いた。
「現在色々な味の試作を行なっていたところなのです! もしよろしければ、騎士団の方々に試食いただき、後日感想をいただけたらと思いまして」
マーリカの提案に、ユーリスは大仰に喜びを表す。
「なんと! では、またこちらに遊びにきてもよろしいのか!?」
「ええ、次回は是非もっとゆっくり過ごしていただければと思います」
ユーリスは頬を朱に染めると、マーリカの手を両手で握って上下に揺さぶった。
「おお! それは是非! この地はとても穏やかなのに活気があって、ひと目見て気に入ったのだ!」
本当かよ、という誰かの小声が聞こえた気がしたが、空耳だろう、とマーリカは深く気にしないことにする。遠くの声が丁度その様に聞こえたのだろう、と。
「そっそれはよかったですわっ」
ブンブン振られ続けていたマーリカだったが、何とか手の拘束から逃れると、嬉しそうにユーリスを見上げた。
「それでは、今から船に運ばせます! 少々お待ちになって下さいね!」
「ああ、是非!」
マーリカは軽く一礼をすると、城の中に駆け戻っていく。嵐の様なマーリカの勢いにも、残された男三人に呆れるような色は一切なく、慈愛に満ちた眼差しを傾けているだけだ。
「では、ひと声掛けてこようかな」
ほくほくしながら跳ねる様に船へと向かうユーリスの背中を見ながら、ムーンシュタイナー卿が小声で呟く。
「……まあ、君が逞しく育つ筈だよね」
その言葉がきちんと耳に届いたキラは、片方の口角を上げ、同じく小声で答えた。
「理解いただけた様で光栄です」
「――あははっ」
耐え切れないといった様子で笑い出したムーンシュタイナー卿を見たキラの顔にも、滅多に見られない穏やかな笑みが浮かんだのだった。




