31 自分の気持ち
穏やかな波に揺られると、眠気を誘われる。それはキラにも分け隔てなく適用されたらしく、マーリカが目を開けた時、マーリカの頭上から降ってきていたのはキラの規則的な寝息だった。
どうやら船の上にいるらしい、とマーリカは気付き、ぼんやりと周囲を見渡す。遠くに喧騒が聞こえるのでそちらを見ると、賑わう市場が見えた。その賑わいと空の明るさを見るに、ずっと寝ていた訳ではないらしいと安堵する。太陽は真上近くにあるので、それでも数時間は呑気に寝ていたらしいが。
それにしても、これはどういった状況か。マーリカは目だけを動かし確認をする。すると、今自分は片足が組まれたキラの膝の中にすっぽりと収まり、身体に腕を回されて支えられていることを知った。
まさか、気を失ってからずっとこの体勢でいたのか。それに、陸地に逃げた筈が何故船の上にいるのか。
やはり状況がよく分からず、でも折角なのでそっとキラの寝顔を盗み見た。キラはいつも忙しそうに働いているので、キラの寝顔など見たことがないかもしれない。貴重なこの機会を逃して、何が推しか。マーリカは気を抜くと緩みそうになる頬に力を込めながら、思う存分楽しむことにした。
薄い唇の間から漏れる穏やかな息。すっとした鼻梁の上にあるのは、閉じられた切れ長の目だ。銀色のまつ毛が下まぶたに影を落としていて、その美しさに思わず見惚れる。横から垂れた銀髪は、日光を浴びて白色に輝いていた。キラがこくりと小さく前に揺れる。
目で追っている間に、なびいていた銀髪が数本、風に吹かれてキラの唇に張り付いてしまった。
「あ」
深く考えずに、キラの唇に指で触れる。すると突然キラの瞼がぱちりと開き、青い虹彩がマーリカを捉えた。
「あ……お嬢?」
「ひえっ!? あっそのっ髪の毛がね……っ」
慌てて手を離そうとしたが、すかさずキラの手に握られてしまう。
目を細めたキラが、柔らかな微笑みを惜しげもなく見せた。
「お嬢、だいじょぶ……?」
まだ半覚醒状態なのか、いつもよりも舌足らずな喋り方に、マーリカの中にブワッとキラに対する愛しさが溢れる。こういうのを母性というのかもしれない。寝惚け眼の推し。可愛くない筈がない。
「だ、大丈夫よ……ごめんなさい、重かったわよね」
キラが起きたのなら、降りた方がいいだろう。マーリカは身体を起こそうとしたが、キラは拘束を緩めず、むしろきつく抱き直してしまった。
握り締めたマーリカの手に唇を当てながら、相変わらず微笑みを絶やさないまま続ける。
「……頑張りましたね、お嬢。格好よかったです」
「えっ!?」
守りたくなる様な淑女を目指す令嬢であれば褒め言葉にならないそれは、マーリカにとっては最高の褒め言葉である。
「ふ、ふふ……っ! ありがとう、キラ」
マーリカにつられた様に、キラもにっこりと笑う。
そしてのたまった。
「格好よかったご褒美を差し上げても?」
「へ? ご、ご褒美って……」
マーリカが顔を火照らせながら尋ねると、キラが囁き声で答える。
「この間のご褒美と同じものでも宜しければ、それを」
この間のご褒美。勿論忘れる筈がない。
「いや?」
こんな時ばかり可愛らしく首を傾げられてしまい、マーリカは思わず首をぶんぶん横に振ってしまった。しまった、と思ってももう遅い。
キラは艶やかに微笑むと、マーリカに顔を近付けた。
「……お嬢、目を瞑って」
キラは、マーリカにとってキラのキスがご褒美になると、何故知っているのだろうか。そもそも、従者であるキラとこんなことをしていいのか。キラはマーリカとキスをしても嫌ではないのか。
キラの気持ちが分からない。それ以上に、マーリカは自分の気持ちが分からなかった。
こんなことはいけない筈だ。だけど、常識を理由に断りたくはなかった。
出来ることなら、足に縋りついてでもキラを独り占めしたい。いつまでも、「お嬢」と呼ばれながら隣にいてほしい。
だけど、マーリカにその行為は許されていない。従者の足に縋り付くなど、絶対にあってはならないことだからだ。それに、縋り付く様な弱いだけのマーリカを見せたら、キラはマーリカを軽蔑するだろう。
キラに見捨てられたくなければ、マーリカはあくまで堂々と前を向き続けなければ駄目なのだ。
胸が締め付けられる様な苦しさを覚えながらも、マーリカは必死で自分に対する言い訳を探した。今以上のものを欲したところで、手には入らないのが分かっている。だが、これはあくまで『ご褒美』なのだから、今だけはいいじゃないか、と――。
マーリカは、素直に目を閉じた。
「お嬢……」
キラの手が、マーリカのうなじに触れる。
だが、唇は触れ合うことはなかった。
「――キラ!」
湖畔の方から二人を呼ぶ声がしたからだ。サイファの声だった。
キラは「チッ」と舌打ちをすると、大仰な溜息を吐く。マーリカは目を開けると、いそいそとキラの上から降りた。目は、合わせられなかった。
サイファが船着場の木板の上をバタバタと足音を立てながら駆け寄ると、船を覗き込む。
「キラ――あ、マーリカ様、起きてたのか」
「サイファ、寝てしまっていたみたいでごめんなさい」
マーリカが謝ると、サイファはいつもの様子でにこりと笑った。
「気にするな。それより具合はどうだ? おかしく感じるところはないか?」
「ええ、お陰様でスッキリよ」
「そうか。ならいいんだが……」
心配そうな微笑みをマーリカに向けるサイファに、それまで黙り込んでいたキラが温度を感じさせない声色で尋ねる。
「何か用があったんだろ? どうした」
「あ、そうそう!」
サイファがポンと手を打った。
「お前に言われて【マグナム】を売ってたんだがな、さっきの騒ぎを見ていた王都の騎士団って奴が声を掛けてきてな」
「騎士団……?」
王都の騎士団は、貴族の男性の中でも王道の出世街道を歩む者だけが所属することが出来る組織である。
「なんでそんな超上流階級の奴がこんな所にいるんだ。おかしいだろ」
キラの疑問は尤もで、通常遠征以外で騎士団団員が王都を離れることはない。こんな片田舎で開かれる市場に立ち寄る様な人種ではないのだ。
すると、サイファが苦笑する。
「俺も最初は騙りじゃないかと思ったんだが、どうも話を聞いていると違ってな。なんでも、この先の領に嫁いだ義妹に子供が生まれたと聞き、身重な奥方に代わり会いにきたその帰り道だと」
「ふうん……? で、その騎士団のお偉いさんがどうした」
キラが訝しげに尋ねると、サイファは腰に手を当てたまま、市場の方に向けて顎をしゃくった。
「ああ。【マグナム】はもうないのかと聞かれてな。残念ながら完売だと答えると、売買契約をして優先的に購入出来ないかと話を持ちかけられた」
「え……」
マーリカが驚きの声を上げると、キラは渋い表情のまま、サイファに先を促す。
「それで? お前はなんと答えた?」
「まあそう焦るな。責任者は別にいるから即答出来ないってちゃんと答えたぞ。そうしたら、ならば待つ、と今休憩場に」
キラが目だけで促すと、サイファが目を細めながら続けた。
「騎士団のユーリス・メイテールだと伝えてほしい、と言われたぞ。有名人なのか?」
「メイテール……」
キラは、渋面を作って黙り込んでしまった。マーリカが「どうしたんだろう」とキラの顔を覗き込む。
「キラ? 条件さえ合えばいい話だと思うのだけれど……。問題がある方なの?」
市場で売るのも勿論いいが、毎月安定収入が見込まれれば、領地復興の手配も掛けやすくなるのでは、とマーリカには思えた。だが、交渉相手が一癖も二癖もある人物ならば、こちらが足許を見られる可能性もある。キラが慎重になるのも、分からなくはなかった。
「いや……実力のある立派なお方ですよ」
力なく笑ったキラの顔色は、マーリカの目には心なしか青ざめている様に映った。




