26 ご褒美
マーリカの膝に額を付けたまま暫く動かなかったキラだったが、そろそろ心臓に限界がきそうだったマーリカが「あ、あの、キラ?」と勇気を出して声を掛けると、思ったよりもスッキリとした表情で顔を上げた。
青い瞳が、日頃には見ることの出来ない優しい弧を描きながら、マーリカを正面から見つめる。
「お嬢。これを俺に選ぶ為に、足がこんなになるまで歩いたんですか?」
「そ、そうよ。今日の市場は広かったし、どうせなら色んな物を見比べて決めたかったし」
ドキドキしながらも、ようやくキラが少し離れたので、何とか受け答えをする。
だが未だ挙動不審げに視線を彷徨わせるマーリカを見て、キラは微笑を浮かべながら尋ねた。
「じゃあ、サイファが付けていたアレはついでですか?」
「へ……っ」
「こっちが目的で、あっちはついでという理解でいいですか?」
「え」
キラは笑顔ではあるが、目の奥に何となく怒りの炎が見える様な気がしたマーリカは、さてどう答えるべきかと迷う。
やはり、雇われた順や護衛としての矜持か何か、女性のマーリカには理解出来ない男同士の譲れない何かがあるのかもしれない。だとすれば、マーリカにとって、キラは推しであると同時に頼り甲斐のある大切な唯一無二の従者だ。従者の定義がキラの現状と当てはまっているかという疑問を覚えなくもなかったが、それでもキラがマーリカの隣にいてくれる限り、マーリカはキラを一番に推す所存である。
それにサイファのは、たまたま目についてサイファの紫色の瞳と合うなと思ったから、その場で贈ろうと思っただけだ。だから、「ついで」という言い方は如何なものかとは思うものの、事実か否かと言われれば事実そのものであることに間違いはない。
「つ、ついでよ! 市場の独り歩きは危ないのでしょう? それに男の方に贈り物なんてしたことがなかったから、経験が豊富そうなサイファに聞けば助言を貰えるかと思ったのよ」
「……お嬢、嬉しいです」
キラはマーリカの説明を聞くと、大輪の花が咲いたかの様な笑顔を惜しげもなく見せた。木箱を上着の内ポケットに大事そうにしまい込むと、唐突にスッと笑顔を引っ込める。
「つまり、この傷は俺が付けた物と言っても過言ではありませんね」
「え? いえ、そういうことでは」
「いいえ。これは俺が付けた傷なんです。ならば俺が治すのが筋というものでしょう。ね?」
キラの突然の主張にマーリカが口をパクパクしていると、キラは腿の上に乗せたままだったマーリカの両足を手に取り、キラの顔の高さまで持ち上げた。
「……アイツには触らせてないですよね?」
「足っ? 足は触ってないわよ!?」
キラの顔が、何故かマーリカの足の傷に近付いていく。ちょっと待って、一体何をしようとしているの、とマーリカが完全に混乱をきたす中、キラは躊躇いもせず傷口に唇を押し当てた。
「ひええっ! キ、キラ、汚いから! 離してっ!」
慌てて足を引っ込めようとしても、足の裏から足首までがっちりとキラの手に掴まれ、叶わない。そうこうしている間にも、キラの唇から流れてくる癒やしの力がマーリカの傷を修復していった。
「キラってば……っ!」
恥ずかしすぎて泣きそうになりながらキラの名前を呼ぶと、キラはしれっとして顔を上げる。
「前にも説明しましたよね? 治療魔法は患部に直接触れる方が効果があるんです」
「だからって、く、口は!」
「手よりもこっちの方が効果が高いんですよ」
魔力交換と同じ理論ですよ、と涼やかな声色で説明をしつつ、今度は反対の足に唇を押し当てた。マーリカは目を逸らすことも出来ず、かと言って凝視することも憚られ、顔を手のひらで覆いながら隙間からキラがやることを覗き見るという中途半端な行動を取っている。足なんて汚い筈なのに、キラは嫌ではないのか。マーリカはキラの行動が信じられず、はくはくと息をしては必死で冷静さを取り戻そうと努力した。
こういう時は対話だ。相手の意図を探る内に、納得のいく理由が見つけられる筈である。
マーリカは、大体が明後日な方向に思考する傾向にある。よって、対話の内容についてまで深く考えず、先程まで誰かに尋ねようと思っていたことを口にしてしまった。
「そっそういえばね! 今日疑問に思ったのだけれども、男性が女性の頬にキスをするのって一般的な挨拶なのかしら!? 挨拶だったのならこちらからも返した方がよかったのかしらって後で思って……」
ビキッ。
おかしな音が聞こえた気がして、マーリカは顔を覆っていた手をゆっくりと離す。
「――ひっ」
マーリカの足に唇で触れたままのキラの眉間には、一体どうしたんだと思うほど深い溝が刻まれていた。しかも、そのこめかみには、恐ろしげな青筋がくっきりと現れてピクピクと動いている。先程のおかしな音の発生源はここか、と納得したマーリカだったが、何故、という部分は一切理解していない。
なので、聞いてしまった。
「キラ? どうかしたの?」
「……アイツですか?」
アイツ。どう考えてもサイファのことだろう。これ以上事は荒立てたくない。マーリカはこくこくと頷いた。
「そ、そうなんだけど、貴族の常識と平民の常識とはまた違うのかと思って」
キラの言葉は短く、冷え冷えとしたものだ。
「そんな常識知りません」
「じゃ、じゃあ、サイファの国の習慣なのかしらね?」
キラの声が、どんどん低くなっていく。
「違うでしょ。そんな訳あるか」
「キラはゴルゴア王国についても詳しいの? さすがはキラね……!」
「まああの国のことはそれなりに知っちゃあいますが、そういう話じゃないでしょお嬢」
キラのこめかみに浮いていた青筋は次第に消えていったが、眉間の溝は刻まれたままだ。自分の発言が失言だったとこの時点でようやく気付いたマーリカだったが、さてどうしたらいいものか、と心の中で首を傾げる。
ということで、対話を継続してみることにした。
「じゃ、じゃあ、よくは分からないけど、返さなくて正解だったということね! 聞いてよかったわ、ありがとうキラ!」
これで正解かは分からなかったが、キラがマーリカの足を降ろして立ち上がったのできっと正解だ、とマーリカが思ったその瞬間。
ぐい、とキラに顎を掴まれると同時に顔を上に向かされる。キラは片膝を寝台に乗せると、眉間に皺を寄せたまま顔を近付けてきた。怖い。美形だけに、物凄い圧を感じる。
「キ、キラ……?」
辛うじてキラの名前を呼ぶと、キラは形のいい薄い唇から囁き声を出した。
「お嬢、どこにされたんです?」
「へ?」
「頬にキス、されたんですよね? 場所はどこです?」
「あ、ああ、ええとここよ」
マーリカが左頬を指で差す。
「分かりました」
何が分かったんだろう、とマーリカが首を傾げようとしたその時。
キラの顔が目の前に迫ったかと思うと、キラの柔らかな唇がマーリカが指差した部分に押し当てられる。サイファの時は比較的すぐに離されたが、キラのものは長かった。
顎を軽く掴まれているだけだから、後ろに身を引けば避けることは容易だ。だが、マーリカは動けなかった。否、動きたくなかったのかもしれない。
キラが、いつも憎まれ口ばかり言っているあのキラが、サイファに負けじと意地になっているのだ。滅多に見ることのないキラのギラギラとした人間くさい部分を見て、嬉しいと感じている自分に気付く。
いつも完璧な口の悪い従者が、マーリカの前で曝け出す感情。それがたとえサイファへの対抗心だけだとしても、そこにいつもは隠されたキラの本心が見えた気がして、嬉しかった。
キラがゆっくりと唇を離す。これで終わりかと、高鳴る心臓を意識しながら少しだけ残念に思うと、キラの顔が反対側の頬に向かい、同じ様にキスをした。
またゆっくりと離すと、キラは目を細めながらにこりともせずに囁く。
「もうさせちゃ駄目ですよ。分かりましたか?」
鼻の頭同士が今にも触れ合いそうな距離で言われてしまい、マーリカは慌てて「は、はいっ」と答えを返した。
「お嬢、いい子ですね」
「いい子って……!」
また子供扱いを、と思った直後、キラの唇がマーリカの唇に軽く触れる。即座に離れたキラを驚きで見開いた目で見上げたマーリカに、キラはいつもの調子でしれっとのたまった。
「これはいい子の返事が出来たご褒美です」
「へ……っ」
驚きすぎて口をぽかんと開けたマーリカに対し、キラは小さな笑いを返しただけだった。




