25 足の怪我
サイファは宣言通り、マーリカを部屋の前まで抱きかかえて連れて行った。
途中ですれ違った領民たちが、サイファの隣で恐ろしげな冷気を発しているキラを見て、「ひっ」と小さな悲鳴を上げる。サイファの表情はキラのものとは対照的で、この状況を楽しんでいる様にも見える明るいものだった。
「では、俺はここで」
「サイファ、今日はありがとう」
マーリカの私室の前で下ろされると、マーリカは素直にサイファに礼を述べた。マーリカの背後でサイファを実に面白くなさそうに見ているキラの顔を盗み見したサイファは、口元を楽しそうに緩めながら恭しく一礼をする。
「どう致しまして。こちらこそ、素敵な贈り物をありがとう」
サイファはそう言うと、自分の左耳に嵌められた紫色の耳輪を指でチョンと突いた。
「贈り物……?」
訝しげな表情で、キラがサイファとマーリカを交互に見やる。
サイファはニカッと笑うと、「いいだろ? 俺の宝物だ」と突然マーリカの手を取った。
「ではまた明日。今日はゆっくりお休み下さいませ、お嬢様」
「ひゃっ」
チュッと音を立てて、サイファはマーリカの手の甲に口づけを落とす。慌てふためくマーリカに屈託のない笑顔を見せた後、背を向けて立ち去っていった。
サイファは一体どうしたんだろう。突然増えた接触の数々に、マーリカは再びぐるぐると考え始めてしまった。
そんなマーリカの背後から、キラがしかめ面でマーリカの顔を覗き込む。ふう、と息をひとつ吐くと、無言のままマーリカの部屋の鍵を開け、扉を開け放った。不機嫌そのものの顔でマーリカの元に戻ると、先程のサイファと同様にマーリカをひょいと横抱きにする。
突然のことに、マーリカは思わず小さな悲鳴を上げてしまった。
「きゃっ! キ、キラってば! これくらいは歩けるわよっ」
サイファといいキラといい、今日は一体どうしたのか。サイファの時には跳ねなかった心臓が、爆速で鼓動を打ち始める。
キラがボソリと呟いた。
「……サイファには抱かせといて、俺は駄目なんですか」
「へっ」
普段よりも低い声に、さすがのマーリカも、キラの機嫌がすこぶる悪いことに気付かされた。しかし原因はどれだろうか。靴ずれをしたことか、それとも自分で歩いて戻らなかったことか。考えてもちっとも分からない。
キラはマーリカを寝台に下ろすと、マーリカの足許にしゃがみ込み、片足を手に取った。驚くほど優しい手付きに、マーリカの心臓は更に飛び跳ねる。
「足、見ていいですか」
マーリカを涼やかな瞳で真っ直ぐに見上げたキラは、マーリカの返事がないことを知ると、スルスルと靴の紐を解き始めてしまった。マーリカが「え!? え!?」と心の中で大騒ぎをしている間に、まずは右の靴が脱がされていく。
ムーンシュタイナー領は貧乏領なので、男爵令嬢といえどマーリカは身の回りのことは基本全て自分で行なっている。だから、従者に靴を履かせてもらうことも脱がせてもらうことも、これまではなかった。世の令嬢たちは、皆こんな羞恥に耐えているというのか。マーリカは、驚愕の思いでただ成り行きを見守ることしか出来なかった。
靴が脱げた瞬間、痛みに思わず呻き声が漏れる。
「つ……っ」
皮がめくれてしまっているらしい。空気に触れた部分が酷くピリピリする。
「ちょっとお嬢、これ……っ」
キラが足に視線を落としながら目を剥いたので、マーリカも自分の足を覗き込んでみた。……小指の爪先の皮がめくれ、血が出てしまっている。道理で痛い筈だ。
「反対も見せて」
「え、ええ」
先程までの怒りは消えたのか、キラの顔にあるのは、マーリカへの心配だけの様に見える。心から案じているのだろうか、それともまたこんな無茶をしてと呆れているのか。マーリカには判別がつかなかった。
左足も素足にされる。やはり同じ場所から、血が滲んでいた。
「どうしてこんなになるまで歩いたんです?」
キラは、床に膝を付いた自分の足の上にマーリカの両足を置く。足にそっと触れてくるキラの手の温かさに、マーリカの心臓は今にも口から飛び出してきそうになっていた。そろそろ本当に出てくるかもしれない。出来れば自分の心臓は見たくはなかった。
さてこれは一体どんな症状なんだろう、とマーリカは冷静に分析しようと試みたが、如何せん冷静ではないので、思考があちこちを彷徨ってしまい考えがまとまらない。だから、何も答えられない。
ならば行動で示せば答えになるのではないか。ぐるぐると訳の分からない状態に陥りながら、マーリカは咄嗟に行動に移した。
「……お嬢?」
マーリカが返事をしないままでいると、キラが不審そうに上目遣いでマーリカを見る。そして、驚きに目を見開いた。
キラの目の前には、リボンが巻かれた綺麗な小箱が無言で突き出されていた。ずっと手に握り締めていた、例の贈り物である。
だが、買った時はキラにぴったりだと思えた贈り物だったが、キラが本当に喜んでくれるのか、マーリカは今更ながら不安になってしまっていた。その為、キラの顔を直視することが出来ずにいる。
「……お嬢? これは?」
「う……あの、その……」
すぐ近くにいるキラの顔を見て、その中に呆れや憐れみの様な、日頃よく目にする表情が浮かんだらどうしよう。そう考えたら、顔を上げることが出来なかった。
よく考えてみたら、マーリカのお小遣いで買える程度の安価な物だ。もうすでに持っている可能性だってあるし、特別嬉しくないかもしれない。自分はキラの主人な筈なのに、いつもキラに頼り切りで、キラが欲しがっている物すら知らない駄目主人だ。
そんなことを思っている内に、不甲斐なさに涙が滲んできてしまった。
「あ、あの、キラにどうしてもありがとうって伝えたくて、その、贈り物をね、か、買ったんだけど……っ」
「……え、俺にですか?」
震え始めてしまったマーリカの手を、小箱ごとキラの両手が包み込む。
「そ、そのっ、き、気に入らなかったら全然使わなくてもいいし、だから……っ」
こんなもの、どうやって直視すればいいのか。サイファの時には至極簡単だったことが、どうしてキラには出来ないのか。
――考えて、気付いた。お嬢いい物選ぶじゃないですか、と褒めて喜んで欲しかったからだと。いつもつい突っ走ってしまい、結果周りの足を引っ張っているばかりの一向に淑女らしく振る舞えないマーリカでも、幼稚なんかじゃない、ひとりの大人の女性だと認めてもらいたい気持ちがあったからだと。
素敵だ、趣味のいい贈り物だと、キラに認めてもらいたかった。キラに喜んでもらいたい以上に、自分の欲が背景にあったことに気付かされ、マーリカは己の浅ましさを恥じた。これでは、本当に幼稚だと思われても仕方がない。
余計にどうしたらいいか分からなくなったマーリカは、視線を小箱から剥がすことが出来なくなっていた。何故キラは自分の手を握っているのか。そちらも分からなくて、自分の部屋にいるというのに今すぐ逃げ出してしまいたい。
キラが、少し掠れた声で尋ねる。
「……開けても?」
「え、ええ。でも本当に、趣味に合わなかったらあれだからっ」
やっぱりやめようか。咄嗟に小箱ごと手を引っ込めようとしたが、キラがマーリカの手から小箱をさっと取り上げてしまった。
「あのっキラ、本当にあのっ」
「お嬢、ちょっと黙ってて」
「……」
マーリカは素直に黙り込む。キラはマーリカの両足を腿の上に乗せたまま、スルスルとリボンを解いていった。手にリボンを掛けたまま、木製の小箱をゆっくりと開ける。
「これ……!」
中から出てきたのは、市場で購入した硝子ペンだ。色は数種類あったが、キラといえば銀髪と青い瞳だと思い、水色が練り込まれた物を選んだ。
「お嬢が選んだんです……?」
囁く様な声で尋ねながら、箱の中から硝子ペンを取り出す。キラは室内を照らす魔魚油を使用している藍丹に向けてペンを翳すと、――無邪気とも思える艶やかな笑みを浮かべた。
「……っ!」
笑みのあまりの可愛さに、マーリカは言葉を失う。
キラは暫くペンの角度を変えながら恍惚とした表情でそれを眺めていたが、やがてゆっくりと視線をマーリカに移動させた。
「お嬢……一生の宝物にします……!」
何故か声を震わせつつそう言うと、マーリカの膝の上に額を付けたのだった。




