5-1. 皇国へ
気がつくと、皇国の貧民街にいた。見下ろすと、真っ白のドレスを着ている。世界が淡いもやにつつまれたように感じ、喧噪が遠くに響いていた。
手に持っているカゴを見ると、パンが入っている。
(ああ、そうだわ、わたくしは奉仕活動に……きたんだったわ)
そう思い、不安な気持ちで後ろを振り返った。ゆらりと立ち並ぶ騎士達の間にいるはずのゲルデを目で探し、唐突に思い出す。
(……ゲルデは死んだのだった。まだ、ふとしたときに探してしまうわね)
騎士達は無表情だった。皇妃が振り返ったというのに誰ひとり用件を問うわけでもない。
マルティナは分からないように小さくため息をついて向き直った。
「こちらではすでに配り終えたかしら」
背後の騎士達に尋ねる。騎士のひとりが「はい、殿下」と答えた。
「次はどこ?」
そう言って空を見上げる。初夏を過ぎた青い空が目を刺した。
(まぶしい。今日は暑くなりそうね)
そう思って手をかざした瞬間、うおおおお、という叫び声が聞こえた。次いで、ばたばたっという人が走り回る音。
何事かと思って振り向くと、傭兵のような姿の男達が剣を振りかざしているのが見えた。不意を突かれた騎士達は少し体勢を崩したが、そこからすぐに立て直すと応戦を始める。
「皇妃殿下、こちらへ」
騎士のひとりにうながされ、マルティナは小走りで道を進みはじめる。怒号のような叫び声に、誰かの泣き叫ぶような声が混じった。走り行く路地をいくつか曲がるうち、マルティナは見覚えがある風景だということに気づいた。
(だめよ、この先に行っては)
袋小路にたどり着いてしまう。そして。
「殿下、私のうしろへ」
頷いたマルティナは、急に悲しみをおぼえた。この騎士は、倒れる。私は知っている。
記憶の通りに、数度剣を交えた騎士は、屋根の上から放たれた矢に射貫かれて目の前で倒れていった。分かっていたけれど、マルティナの体は動かない。
そして、騎士の手から離れた剣を、今度は意思に反してゆらりと拾う。
斬りかかってくる傭兵の剣をかわし、矢を切り落とした。
信じられないくらい体は重く、剣がうまく振るえなかった。まるで水の中にいるかのような重さの中で、ゆっくりと剣が動いていく。相手の剣さばきは見えるのに、かわすのがやっとだ。
そうして、追い詰められていったマルティナ。
(もうすぐだわ、もうすぐ私は)
手が震える。行きたくないのに下がってしまう。背後は壁だったはずなのに、どん、と背中を押す衝撃を感じた。
ゆっくりと下を向いて、胸を貫いた剣先を握りこみ、振り向く。
見覚えのある顔がこちらを見下ろしているはず。
銀色の髪に返り血を浴び、黒い瞳を輝かせてこちらを眺め下ろしているのは、ハーラルト皇子だった。
「マルティナ!」
強く揺さぶられてマルティナは目が覚めた。はあっ、と唇から息が漏れる。
どっ、どっ、という激しい動悸が胸をついた。
目を向けると、ヴィルヘルムが心配そうにのぞき込んでいるのが見えた。ヴィルヘルムはそっと手を差し出し、マルティナのこめかみをなぞった。流れた涙をぬぐったのだということが、やけにひんやりとした感覚で分かった。
「ヴィル」
夢から醒めたばかりでぼんやりとした頭で名を呼ぶと、ヴィルヘルムはほっとしたような表情をしてマルティナの手を握った。
「ひどくうなされていました。大丈夫ですか」
「はい、死んだときの……夢を見ていました」
マルティナは夢の余韻を探った。
ローザリンデの騎士だった男が私を殺したはずだったのに、何故か夢ではハーラルトに変わっていた。どういうことだろうか。
あの暴動を起こしたのはハーラルトだったのか……?
寝起きで頭が回らない。
マルティナは体を起こそうとした。すかさずヴィルヘルムが支えてくれる。
目を上げると、窓の外は明るくなってきた頃の時間のようだった。
「水を飲みますか」
体を起こしたマルティナに、ヴィルヘルムが問うた。
「……ありがとうございます。今何時頃でしょうか?」
「今は朝の六時半頃ですね」
ヴィルヘルムは水を入れたコップをマルティナに差し出しながら答えた。
マルティナはしばし考える。村に着いたのは夕方頃だったはずだ。飲まず食わずで一晩寝てしまったので心配されてしまったか。
「出発でしょうか? 起こしに来てくださったのですよね」
水を飲んだマルティナがコップを下ろしながらそう言うと、ヴィルヘルムはくすりと少し笑った。
「そうですね、あなたが大丈夫なら。三日も寝ていましたから」
「三日!?」
驚きでコップを取り落としそうになるのを、ヴィルヘルムが受け止めた。
「はい、三日。私は一日で目が覚めたのですが、あなたは魔獣の血に慣れていないため、解毒に時間がかかってしまったのでしょう」
「……では、私が隊をこの村に足止めしてしまったのですね。申し訳ありません」
自分への失望で項垂れるマルティナの肩を、ヴィルヘルムはぽんぽん、と慰めるようにたたいた。
「いいえ、みなも疲れていましたから、よく休めて良かったです。それに」
「?」
「時間がたっぷりあったので……あの鼠たちを送り込んだ黒幕が分かりました」
「あっ」
マルティナは、ベレニスが手荒に引きずっていった男を思い出す。
「ああ……彼は無事ですか?」
「殺してはいませんよ」
マルティナの質問に対して、にこやかだが言葉少ななヴィルヘルムの顔が怖い。
「しかしどうも黒幕は皇室のようですね。バールケ子爵家の仕業をよそおいたかったようですし、男達もしきりにそう話してはいたのですが」
「……何故そうお思いに?」
怪訝に眉をひそめるマルティナに、ヴィルヘルムはにっこりと微笑む。そしてマルティナの額をなでた。
「まずは、食事にしましょうか。それからゆっくりお話しいたしましょう」
その途端、三日も何も口にしていなかったマルティナのおなかは急激に空腹を訴えた。顔を赤くするマルティナに、ヴィルヘルムは声を出して笑った。
水分をたっぷり取らされながらまずは湯浴みをし、着替えたのちにマルティナは食卓についた。スープとパンが並んでいる。
魔獣のせいでほぼ打ち捨てられた村だ。これはきっと隊の食料だろう。
「それほど豪勢な食事ではありませんが、かえって今のあなたのおなかには良いでしょう。パンをスープに浸して、ゆっくり食べてください。空腹過ぎる胃にいきなりものを詰め込むのはよくありません」
何くれとなく世話を焼くヴィルヘルムに、マルティナはくすくすと笑った。まるで親鳥のようだ。
座らせたマルティナの笑顔を見てほっとしたように、ヴィルヘルムも隣に座る。マルティナがパンを手にすると、ヴィルヘルムも食事に手をつけ、話し始めた。
「まず、魔物の核は皇室の管理です。おいそれと持ち出すことはできません。主犯がバールケ子爵か、もしくはあの令嬢だったとして、皇室の協力がなければ使えないはずです」
「魔物の核、ですか」
首をかしげるマルティナに、ヴィルヘルムは手を止めた。
「聞いた事はありませんか?」
「聞いた事はあります。魔物の心臓を動かす赤い石のことですよね」
「ええ、魔物は自然界の動物がその石を何らかのタイミングで体に取り込むことで、魔物化すると考えられています。死骸となった魔物から稀に石が取れますが、それが魔物の核です。
魔物は稀に体が核の結晶と変化することがあります。それが周りに瘴気を生み出し、地を汚染し、水にのって運ばれ、魔獣が増えていくのです」
「……あっ、泉の底の」
マルティナの言葉に、ヴィルヘルムは頷いた。
「ええ、泉の底にあった結晶がそれです。ただし」
そうして銀の瞳でじっとマルティナを見る。
「あれは、もとは人であったのだと思われますが」
「っっ!」
マルティナは息を吞んだ。




