1-5. はかりごと
「殿下、大変ありがたい申し出でございます、しかし」
侯爵がちらとマルティナを見た。
マルティナの青ざめた顔を見て、軽く咳払いをする。ハーラルトは「すでに誰かと約束があるのか?」と意外そうに眉を上げた。
「僭越ながら、マルティナとのファーストダンスは私と踊って欲しいとあらかじめ約束をしておりまして」
マルティナは肯定するように視線を下げた。侯爵の腕をぎゅっとつかみ直す。
「なるほど、それでは、二曲目はどうかな」
ハーラルトは微笑んだ。引き下がる気はないようだった。
マルティナは素早く周りに視線を巡らせる。
興味津々といった周囲の視線が、隠されもせず自分たちに注がれていた。ここでファーストダンスのみならず二曲目のダンスも断れば、侯爵家は皇室を軽んじているとも取られかねない。
そして、皇子もそれが分かっていてこの公衆の面前での申し込みを行ったのであろう。
しかし、皇子の面目のためを慮って侯爵とのダンスを後回しにし、皇子とのファーストダンスを受ければ、侯爵令嬢は皇子に一番に気に入られたいらしいという噂が明日にも社交会中に広がるだろう。
今後の縁談に差し支えるのが目に見えていた。
(相変わらず周囲の空気を利用するのがお上手ですこと)
マルティナは歯を噛みしめたが、ぐっと口角を引き上げるとハーラルトに対して笑顔を作った。腰を落として優雅に礼をする。
「わたくしのつたないダンスで殿下に恥ずかしい思いをさせてしまうかもしれませんが、喜んでお受けいたします。
お待たせして申し訳ございませんが、今宵はこれまでの感謝を父に伝えたいと思っておりましたので、ファーストダンスはご容赦くださいませ。
その間は他のご令嬢をお誘いになってはいかがでしょうか」
そうして、皇子に対してできる限りの笑みを向けた。
「ふむ、そうだな、しかし皇帝陛下夫妻の次に私と踊ることができるほどのご令嬢は、今日の夜会には君しかいなくてね」
皇子は苦笑した。
もっともな理由だった。現在、皇国にたったひとつしかない公爵家には同じ年頃の子どもがいない。令息がいたが十年前に急死したと聞いている。
次いで家格の高い四大侯爵家には、すでに結婚した令嬢達はいるが、マルティナの他に独身でいるもう一人は婚約者のいる身。
既婚であればパートナー、婚約者がいれば婚約者とのファーストダンスが確定しているだろう。
四大侯爵家で独身で婚約者もいないのは、マルティナしかいないのだ。
マルティナは唇を噛みたい気持ちだった。
こんなことなら誰でも良いから適当な令息と婚約を進めておくのだった。
「しょうがない、私はここで壁の花となっていようかな」
眉尻を下げ、憂いを帯びた表情で笑うハーラルトに、周囲から令嬢達のため息が漏れる。マルティナは困ったような笑顔を作った。
「どうぞそんなことをおっしゃらず。
本日デビュタントを迎えるご令嬢は私の他にもたくさんいらっしゃいますわ。
今夜の主役はデビュタントを迎える令嬢達のはず。会場の方々も今日ばかりは、どのようなご令嬢であっても目くじらを立てたりはきっとなさいませんわ」
そういって微笑むと、周囲に同意を求めるように首をかしげて見せた。
屈託のない、そしてひときわ美しい笑顔に、周囲も顔を見合わせ、まあ、たしかに、とささやきを交わしている。
周囲の空気を流しきれなかったことを察したのか、皇子はふっ、と笑うと、顔を上げてぐるりと辺りを見回した。
「……確かに、侯爵令嬢の言うとおりだね。
では、そこに立っている君、確かローザリンデ・バールケ子爵令嬢だったね、君が私とのファーストダンスのお相手を務めてくれるかな?」
ハーラルトの言葉に、背中が総毛立つような気持ちになった。そうだ、忘れていた。
彼女も同い年だから当然この会場に来ているはずだ。
動揺を表情に出さないようにゆったりとハーラルトの視線の先を見る。そこには、シンプルな白いドレスを身につけた、ローザリンデがいた。
髪色と同じ色のアクセサリーをつかい、ストロベリーブロンドの髪を巻いて白いリボンをつけている。あどけないかわいらしさを存分に生かした装いだ。
そして彼女の淡い茶色の目は驚きで見開かれ、頬は薔薇色に染まっていた。
(前世と同じね……)
本当に可愛らしいわ、と嫌味抜きで思う。マルティナは微笑みながら会釈した。
前世ではローザリンデを側に呼ぶハーラルトに対して、嫉妬らしき気持ちも持っていたが、今世は本当にまるで何とも思わない。
前世では、ハーラルトがローザリンデを側妃に召し上げるまでの一年間、一人の寝室で毎晩訪れないハーラルトを待っていた。そしてその間に、プライドも恋心もとうの昔に砕けてなくなった。
むしろ、女性を選ぶ時の好みがまるで変わっていないハーラルトに感心さえする。
(ローザと正反対の雰囲気のわたくしなど、本当に政治の駒で、公務を押しつけられる都合の良い存在だったのでしょうね)
マルティナはため息を飲み込んで侯爵を見上げると、今度は本当の笑顔で促した。
「さあ、そろそろ曲が終わりますわね、お父様、まいりましょう」
皇帝陛下夫妻がダンス後の礼をしている間に、次の曲に備えてホールに進み出る。侯爵と手を取り合い、ゆったりとステップを踏み始めた。
「マルティナ、これから足をくじくかい?」
頬を寄せるような距離で、侯爵は誰にも聞こえないよう、マルティナにささやいた。
マルティナは思わず、くす、と笑いをこぼす。
「わざとらしすぎるでしょう。それに侯爵家の評判が落ちることは、跡取りとして避けておきたいですわ」
侯爵が味方でいてくれることは何よりも嬉しい。
前世では、皇城に上がったあとにはろくに接見も許されず、相談したいことがたくさんあったのに、一度も里帰りできなかった。手紙さえ、読まれているのではないかと思って、当たり障りのない内容でしか出すことができなかった。
侯爵からの手紙も似たようなものだったが、下手なことを書いて皇子の怒りを買うことを避けてくれていたのだろう。
「そうか、それは頼もしいな」
侯爵も笑って返した。
こんなに味方になってくれると分かっていたら、もっと前世でも頼りにしていれば良かったわ。
マルティナは侯爵を見上げて微笑む。侯爵も愛娘に向かって珍しく優しい笑みを浮かべていた。今世ではもっと一緒にいられるだろう。
領地の経営も、剣技も、まだ父に習いたいことはたくさんある。
「お父様、私が侯爵を継ぐまで、元気でいてくださいね」
「もちろんだとも。継いだあとも元気でいたいのだが、継ぐまでかな?」
冗談めかして言う侯爵に、マルティナは笑う。
「いやですわ、継いだあとも元気でいてください」
その時、すぐ横をすれ違っていった令嬢がいた。ローザリンデだ。
踊りながら視線を向けると、皇子にリードされて振り回されるように踊っている。視線は皇子に釘付けだった。
皇子は余裕そうな顔で好きなように踊っている。ダンスはうまかったので、ついて行けずにローザリンデが転びそうになったらきっと巧みにフォローするのだろう。
まあ、それが女性を落とす手口なのだけれど。
マルティナが皇子を気にしているのに気づいて、侯爵は心配そうに言った。
「本当に大丈夫かな」
マルティナは少し含みのある目で笑った。
「大丈夫ですわ。わたくしも、本日から大人ですしね」
実際、回帰した五年分は実際の年齢よりも経験を重ねているのだ。自信ありげなその目を見て、侯爵は面白そうに目を細めた。
曲が終わり、マルティナは侯爵と礼をして手を離す。
振り返ると、同じように挨拶を終えたらしい皇子が待ち構えるように立っていた。
「約束通り、ダンスのお相手をお願いできるかな?」
そういってマルティナに手を差し出すと、優雅に腰を折る。
本当に、おとぎ話の皇子様のようだ。
「光栄ですわ」
マルティナは皇子の手に自分の手を重ねた。
もう怖くはない。この人にいいように丸め込まれていた過去の自分は、もういないのだ。
(振り回されたりはしませんわ)
手を強く引かれ、腰に手を添えられる。ぴたりと向きあうと、皇子の目を見上げた。
この目を見るのが怖かった過去は、今この瞬間に捨てよう。もう、怯えないし、負けない。
挑戦的ですらあるマルティナの視線に、皇子は意外そうな顔をしていた。