4-11. 隠された決意
目を開けたヴィルヘルムは、手をあげてマルティナの頬を触ろうとする。
「マルティナ、怪我はないですか」
ヴィルヘルムの言葉に、マルティナはかっと目を見開いた。
「それはこちらの台詞です!!」
怒ったようにそう言うと、ヴィルヘルムの上着の裾を剣で切り裂き、ヴィルヘルムの顔の血をぬぐった。それから指で慎重に髪の中を探る。心配したような頭部への大きな怪我はないようだ。ややほっとして顔の血をぬぐい続ける。
しかし、これが全部ネトルベアの血だとすると、瘴気を含んだ魔物の血を浴びすぎている。この状態では目や口にも入っているかもしれない。
(目に魔物の血が入ったら、失明の危険もあるって聞いた。だから注意するようにって)
マルティナは震える手でぎゅっと布きれを握りしめた。どうしよう、どうしよう。
胸の鼓動がやけに大きく聞こえる。
(そうだ、水袋を)
少しでも血を洗い流し、またヴィルヘルムに飲ませて瘴気を排出させようと、ヴィルヘルムが持っていた水袋を探す。少し離れたところに落ちているのを見つけ、ヴィルヘルムをそっと横たえて駆け寄ったが、地面に叩きつけられた衝撃で水袋の口は開き、ほとんど水がこぼれていた。
立ち上がってあたりを見回したが、近くに水場はない。かといって川に戻るのも危険だ。まだ帝国の追っ手がいるかもしれないし、こうしている間にも川を渡ったあいつらが追いついてくるかもしれない。
しぼんだ水袋を持ったまま戻り、ヴィルヘルムを見下ろす。ヴィルヘルムの首から頬にかけて、瘴気の影響による紫色の斑点が浮いてきているのが見えた。
息苦しそうに荒い息を吐いている。少しだけ水袋に残っていた水を飲ませたが、あまり効果はなさそうだ。
先の背中の傷と、川の水の瘴気の影響で、もしかしたら見かけよりずっと弱っていたのかもしれない。取り付いたネトルベアの背から降り損ねて落ちるなんて、これまでのヴィルヘルムらしくなかった。
(私のせいだ……。彼の不調に気づかなかったから)
マルティナはぎゅっと唇を噛みしめる。そしてヴィルヘルムの横に座り込んだ。
(……運ばなければ)
記憶が正しければ、そして自分の位置把握が間違っていなければ、ここからふもとの村まではたった5kmほどだ。
ヴィルヘルムをかついで、引きずりながらだとしても村まで行かなくては。途中どこかで水がくめるようなら、少しでも体を洗って、水を飲ませて。
マルティナは自分の指にはまっていた聖清石の指輪を指から引き抜き、ヴィルヘルムの指にはめようとした。マルティナの指に合わせて作ってあった指輪はヴィルヘルムの小指にすらはまらず、少し考えたのちに布を裂いて腕に巻き付けた。
水袋の中に入っていた聖清石もいくつかヴィルヘルムの体に固定する。
指輪を外してしばらくすると、瘴気の重たい作用が体にまとわりつき始めた。
「しっかりするのよ、マルティナ」
マルティナは自らを奮い立たせるようにそう言うと、ヴィルヘルムを起こした。そのまま、脇の下に手を入れ、背負うようにした。背の高さがかなり違うので、背負うようにしてもヴィルヘルムの足を浮かせることはできない。
それでもずしりと青年男性の体重のほとんどがマルティナの両脚にかかった。ブーツが土にめり込みそうだ。
「マルティナ……? いけません、あなたの肩を借りるわけには」
うっすらと意識を取り戻したヴィルヘルムが抵抗しようとする。
「大人しく背負われていてください」
「……私の事は大丈夫です、ここに置いて行ってください」
「こんな場所に、あなたをひとり置いていけません」
「ですが、追っ手が来た場合は足手まといになります。……ふもとに行って、助けを呼んできてくれれば充分です」
「魔物が出るのです、あなたひとりでは戦えないでしょう」
「大丈夫です、これでも騎士団長ですから」
「魔物が騎士団長だからと言って手加減してくれるわけではないでしょう?!」
思いのほか大きい声が出て、マルティナは自分でもびっくりした。ヴィルヘルムは一瞬息を吞み、それからくす、と少し笑った。
「それは確かに、おっしゃるとおりですね」
そう言って諦めたように息を吐く。
「では少し……肩をお借りします。実は少し視界も悪くて」
ヴィルヘルムの言葉にぎくりとする。
やはり目にも血が入っているのか。踏ん張ろうとしている足も、自分で体を立て直すほどの力が入っていないようだった。
思ったよりも状態が悪いかもしれない。
「それほど遠くありませんから。普通にすすめば一時間ほどです」
マルティナは空を見上げる。太陽は西に傾き始めている。木立の中で影がわかりにくいが、午後三時を回った頃だろう。
日が暮れる前に村に着きたい。マルティナは足を一歩踏み出した。ヴィルヘルムも歩こうとしているが、その足取りはおぼつかない。
ヴィルヘルムの体が傾かないよう、着実に歩みを進めた。もしバランスを崩して倒れてしまったら、もう一度たてなおして歩きはじめられるかどうかが不安だった。
「ヴィルは、どんな食事がお好みですか? 子爵邸の食事はどれも美味しいものでしたね。私は、豚のローストがとても好みでした。あまり豚肉は得意でなかったのですが、子爵邸で出される豚は臭みがなくて。あれは香草の使い方が上手なのでしょうか。戻ったら、作り方を教えてもらわなくては」
つとめて明るい声で、マルティナはヴィルヘルムに話しかけ続ける。ヴィルヘルムに少しでも意識を保っていてほしいからだ。
「そうですね、……私は、鳥が好きです」
「ああ、鳥料理も美味しかったです。柔らかくて……そういえば、王国に来るときにエルマークで食べた鍋焼き鳥、あれは美味しかったですね。子爵邸でお願いしたら作ってくれるでしょうか」
「そうですね、それなら是非エールもつけてもらいたい」
荒い息で必死に歩きながら、冗談ぽく話すヴィルヘルムに、マルティナは笑う。
「もちろんです、あの宿で出てきたような、大きなジョッキでエールを飲まないと」
「ふふ、そんなジョッキ、子爵邸にあるかどうか」
「ジョッキがなかったら、買えば良いのです。無事に帰れば、子爵様はきっといくつでも買ってくださいます」
「そうですね……マルティナ、重くないですか」
「大丈夫です、鍛え方はそこらの騎士には負けませんよ」
そう言ってぐい、と背負う手に力を込める。ヴィルヘルムは申し訳なさそうに「ありがとうございます」と呟いた。
他愛ない話を続けながらしばらく歩いていたが、ものの十五分もしないうちにマルティナもヴィルヘルムも汗だくになってきた。
ヴィルヘルムの頭からぽたぽたとネトルベアの血が混じった汗がマルティナにしたたりおちてくる。そのたびに立ちのぼる瘴気の強さに、マルティナは何度も目の前がくらんだ。頭の中がふわりとするたびに足を踏みしめ、肩に力を入れる。
(まだ2kmも進んでいないわ。……もつかしら)
「ヴィル、聞こえていますか。ほら、なんでしたっけ、幼い頃に読んだ本の話,もっと聞かせてください」
「ええ…………聞いています」
先ほどから、マルティナが話しかけてもヴィルヘルムの返事は「ええ」とか「そう」とかばかりになってきた。会話もかみ合っていない。
ヴィルヘルムの足はかろうじて地面についてはいるが、その体重はほとんどマルティナにかかっている。もはや意識もはっきりしていなさそうだ。
(まずいわね)
どっ、どっ、と鼓動が耳に響く。マルティナにも瘴気の影響が濃くなってきているようだ。
靄がかかったような頭で、足を止めた。暑い。冬だというのに汗がしきりに首を伝って気持ち悪い。ヴィルヘルムを背負い直し、汗で滑る手を服でぬぐってしっかりとヴィルヘルムの服を掴みなおす。
その時、かすかだが水の流れるような音が聞こえてきたような気がした。
マルティナは動きを止めて耳を澄ませた。水を渇望するあまりの幻聴かと思ったが、そうではなさそうだ。確かに水の音がする。
「ヴィル、少しここに座っていてください。水場がありそうです」
念のため木立の間の茂みにヴィルヘルムを座らせた。立っていればここに人が座っているのは見えないだろう。
マルティナは、水音がする方に走った。ヴィルヘルムを下ろしたことで、やたらと身軽に感じたが、とはいえ脚の疲労は無視できなかった。太ももがガクガクするのを叱咤しながら木の間を走る。
しばらく行ったところで、小さな湧き水を発見した。泉と言えるほどではないが少し水たまりもある。
「あったわ」
マルティナは水を聖清石が入っている水袋にためた。見た限り赤くなく、汚染はされていなさそうだ。とはいえ、土壌の瘴気は多少含んでいるだろう。水袋の中で水を振り混ぜてから慎重に口に含み、ゆすいで吐き出す。
冷たい。それに、聖清石のおかげだろう、瘴気で靄がかかった頭がすっと冴えたように感じ、生き返るような気持ちがした。




