4-6. 隠された決意
見上げたヴィルヘルムは、マスクをしていなかった。
その銀色の髪と瞳。
マルティナは、かつての幼いヴィルヘルムが名乗った「ヴィルフリート・アウグスト」の名前で、アウグスト公爵家のことを思い出した。
マスクに常に隠れていたとはいえ、その瞳の奥にゆらめく銀の炎には、だいぶん前に気づいていた。
どうしてすぐに思いださなかったのだろう。
銀の髪と瞳は、皇位継承者の証。
その二つを兼ね備えた人物は、特別な神力を持つとされ、どの傍系に生まれたとしても皇位継承権第一位とされるという話だった。
しかし、髪はともかく、銀の瞳はここ百年ほどは持った者が生まれていないと、授業で聞いた覚えがある。
アウグスト公爵家は、先皇帝の兄が皇位継承権を弟である先皇帝に譲り、皇室から臣に下った時に作られた公爵家だ。現在の帝国に、公爵家はそのただひとつしかない。
ハーラルト皇子と同じ髪の色。しかし、ハーラルト皇子は銀の瞳を受け継いではいなかった。先皇帝も鈍い灰色の瞳。
アウグスト公爵の息子に銀の瞳がもたらされたのは、神のいたずらか、それとも先皇帝の兄である侯爵も銀の瞳を持っていたのか、それはマルティナのあずかり知らぬところであった。
公爵はほとんど社交の場に姿を現さず、またマルティナも社交の場を避けていたため、会ったこともなければ、妙齢の令息や令嬢がいない家のことなど、噂話にも上らなかったからだ。
また、その息子は十年前に他界したと聞いていたし、マルティナは幼かったこともあるが、すっかりヴィルフリートのことを忘れていた。
(亡くなったとされていたのは、ちょうど十年前……エーレンベルク侯爵家に預けられていた頃に、何かあったのだわ)
ヴィルヘルムの焚火を見つめる瞳を見上げながら、マルティナはぼんやりと過去のヴィルヘルム、いや、当時はヴィルフリートか、に思いをはせる。
笑うときにマスクの下で弧を描く唇の形も、昔とそっくりなままだ。
「ヴィル」
身じろぎをして、かすれた声でマルティナが呼ぶと、ヴィルヘルムはマルティナを見下ろした。そっと額の濡れた髪を撫でる。
「目が覚めましたか」
ヴィルヘルムの気遣わしげな声に、マルティナは頷いた。
「……あなたの夢を見ましたわ。子どもの頃の……。小さい頃にエーレンベルクの侯爵邸にいらっしゃいましたわね。思い出しました」
ヴィルヘルムは細い唇を薄い弧の形にすると、柔らかい笑みをうかべた。
(ああやはり、昔と同じ笑顔ですわね)
「ようやく思い出してくださったのですね」
ヴィルヘルムの言葉で、彼自身はずっと幼い頃のあの出来事を忘れていなかったのだという事を知る。
「ごめんなさい、あの頃の侯爵家には、かつてのヴィルのように父に預けられる令息が多かったのです」
「仕方ありません。ほんの一ヶ月ほどの時間でしたし、あの手合わせのあとはずっとフレリア王国のケーリッヒ子爵家に身を寄せておりましたので」
そう言うとマルティナの上にかがみ込み、額に口づけた。
「……でも、私はずっと忘れていなかったので、思い出していただいて嬉しいです」
マルティナは口づけられたところにひどく熱を感じた。耳まで熱が上ってくるのが分かる。
恥ずかしさに目を閉じて頭を振ると、ヴィルヘルムを押しのけるようにして体を起こそうとした。
が、頭を上げようとするとぐらりと世界が回り、結局そのまままた膝の上に頭を戻すことになった。
「無理をされないでください。まだ、瘴気が体に入り込んでいる状態です」
マルティナの額に手を置いたヴィルヘルムは、心配そうに話を続けた。
「聖清石で浄化した水を少しずつ飲ませようとしたのですが、気を失われていたためうまく飲ませることができず、外側から浄化している状態です」
そういってマルティナの横に置いた袋を掲げた。中から、ごろりと聖清石がぶつかる音がする。
マルティナが結局魔石の横に置き損ねたものだ。
マルティナは頷いた。今は素直に体を預けている方が良さそうだ。
「少しでもいいのでこの水を飲んでもらえますか」
差し出された水袋に、少し頭を上げて素直に口をつける。
口から入り込んできた水が体に広がっていくのを感じた。胃がひっくり返りそうな悪寒が少し和らぐ。
「ところでここは……?」
あまり頭を動かさないようにして見回すと、洞窟のようだった。
「メリダの泉から細い滝が出ていたでしょう。あなたは滝の方に張り出した木の根に捕まっていたのですが、ドラゴンが暴れて流され、その滝から落ちたのです。あなたの手をつかんでいた私も一緒に落ち、そのまま流されてしまいました。ここはおそらく数百メートルほど流された川沿いの洞窟です。あなたの意識が戻ってから移動しようと思っていました」
マルティナは泉の中で見たドラゴンの赤い目を思い出した。途端に、再度胃からむかむかとした気持ち悪さが上ってくる。
気持ち悪さを抑えようと目を閉じたが、ひどい船酔いのような気持ち悪さに耐えきれず、横を向いて体を丸めた。
「大丈夫ですか。気持ちが悪ければ吐いた方が良いです。そのほうが体から瘴気を出せますし」
マルティナは首を振った。気持ちは悪いが、かといって吐きそうなほどではない。
ヴィルヘルムはゆっくりとマルティナの背をさすってくれた。
様子を見ながら水袋を差し出してくれ、マルティナは少しでも悪寒を和らげようと、差し出されるたびに口をつけることを繰り返した。
「あなたは」
気持ち悪さで喘ぐように言うマルティナに、ヴィルヘルムは「なんでしょう?」と不思議そうに答えた。
「あなたも瘴気に晒されたでしょう。大丈夫だったのですか」
マルティナの問いかけに、ヴィルヘルムがふっと笑った気配がした。
「私は大丈夫です。あなたの方がよほど重症です」
ヴィルヘルムの優しく撫でる手の平に、マルティナはひどく安心する。
しかし、同時に不安も押し寄せてきた。まだ瘴気の影響の濃い地域だ。魔物も周囲にいるだろう。
「……今すぐ移動しないと危険だったりしますか」
ヴィルヘルムはしばし考えるように沈黙していたが、やがて
「いいえ、今はむしろこの洞窟にいた方が良いでしょう。ここは奥はそれほど深くありませんし、奥には何もいないことを確認しました。入り口も広くないため、大きな魔物が何頭も入ってくることは考えにくいです。入り口には聖水を撒いておいたので、小物も警戒して入ってこないでしょう」
と慎重な口ぶりで答えた。
マルティナは安心してそっと息を吐く。
今すぐ歩けと言われても、とても歩けそうになかった。移動している途中で魔物に襲われたら、足手まといにしかならない。
安心した様子のマルティナに、ヴィルヘルムは続けて声をかける。
「もう日も暮れました。明日の朝移動した方が安全でしょう。もし騎士団がここを見つけて迎えに来たなら、かならず起こします。ゆっくり寝てください」
囁くようなバリトンの声に、マルティナはもうあらがえなかった。
(まだ、話したいことがあるのに)
なぜエーレンベルク侯爵家に身を寄せていたのか。
エーレンベルク侯爵家を出てからどうしていたのか。
どうしてアウグスト公爵家では、子息が亡くなったことになっていたのか。
フレリア王国ではどう過ごしていたのか。
……マルティナの事を、なぜ憶えていたのか。
口から出したい言葉はいろいろあるのに、目をぎゅっと瞑ったままでも世界が回るのを感じて悪寒が増してくる。
定期的に差し出される水袋に口をつけて気持ち悪さをやり過ごすことしかできず、それ以上話を続けることは困難だった。
気持ち悪さをこらえて身を固めるマルティナの背を、優しく撫でるヴィルヘルムの手を感じながら、いつしかマルティナは意識を手放した。




