4-2. 隠された決意
翌日はどんよりとした曇り空だった。テントを出て空を見上げると、今にも雨が降りそうな雲は、ほんのり赤味を帯びているようにも見える。
良く休んだためか体調は良かった。マルティナは伸びをした。
(やはり昨日は、疲れがたまっていて、ボタンの紋章に思いのほかショックを受けてしまったのかしらね)
マルティナは空をじっと見つめる。見れば見るほど気持ちの悪い色だ。
「泉の瘴気を雲が反射しているのかもしれませんね」
赤い雲を見て眉をしかめるマルティナに、同じように空を見上げたヴィルヘルムは言った。昨晩は数時間しか寝ていないようなのに、平気そうな顔をしている。
今朝、気がついたらまたヴィルヘルムが隣に寝ていたことを、マルティナは突然思いだした。ヴィルヘルムの顔を見るのが少し恥ずかしくなり、さりげなくヴィルヘルムと距離を取った。
「瘴気は赤いのですか?」
なんでもないように問いかけると、ヴィルヘルムは頷いた。
「ああ、ご存じないかもしれませんね。そうです。瘴気は赤味を帯びています。
魔物の目も赤いでしょう? 瘴気におかされた地は赤っぽい土になりますし、泉は赤くなります。濁ってはいませんが、血のような色、というのがぴったりですかね」
マルティナは思案する。確かにこれまで見た魔物の目はみんな血のように赤かった。
(それにしても、雲に反射するほどの色なのね)
もう一度空を見つめる。ピンク色のようにも見える雲を不安に思いながら、なおも眉を寄せるマルティナに、ヴィルヘルムは微笑んだ。
「大丈夫ですよ。指輪を外さないように気をつけてください」
そういってマルティナの肩を安心させるようにぽんぽん、と叩くと、団員達をまとめるべく歩いていく。
マルティナもしばらく空を見上げていたが、みなの集まる場所へと移動した。
三時間ほど登った場所に、メリダの泉はあった。
泉の周辺は、木々が黒く焦げたように立ち枯れており、土は不自然な赤さだ。泉の水は本当に血のように赤く、風でさざ波が立っている。
「すごい濃度の瘴気ですね」
ヴィルヘルムの指示で全員が口に布を巻いていたが、それでも腕で口を覆うようにしながらマルコが小声で言った。
マルティナも口の周りを覆っているし、指輪の効果で影響が軽いはずにも関わらず、軽い目眩のような頭痛がしていた。
「これが瘴気なのですね。……こんなに濃い瘴気にも関わらず、大型の魔物がいないのは何故でしょう」
マルティナの率直な疑問の言葉に、誰もが無言になった。
「……どこかにいるやもしれません。
みな、警戒を怠らないように。泉に沈める聖清石の準備ができ次第、作戦を開始する」
ヴィルヘルムの言葉に、全員が頷いた。警戒を解かずにそれぞれが泉の浄化の準備に入る。
マルティナはいつでも剣を抜けるようにしたまま、泉のほど近くに立っていた。
山の中腹にあるとは思えないほど豊かな泉の水は風に揺れ、岸に優しく打ち寄せている。水の色が血の色のようでさえなければ、さぞ美しいだろう。しかし、今はその水は血のような赤色に染まり、流れ出てゆく川とその先の小さな滝も恐ろしげな様相だ。
マルティナは泉から目を離し、団の方を振り返る。盾隊は石の準備をしている運搬隊を取り囲むように警備し、さらにその周囲を剣士や弓兵が取り囲んで警戒していた。
「聖清石の準備、整いました」
運搬隊の騎士が石が収まった箱を掲げ持った。数十もの聖なる石がおさめられた箱は、泉の中で開くようになっている仕掛けだ。
水に沈められた聖清石は、瘴気でおかされた泉の水をゆっくりと浄化し、また水を通して周辺の土地も数ヶ月かけて浄化する。
毎年、瘴気汚染のひどい泉では同じような作戦が実行されていた。
「よし、では、箱を泉におさめよ」
ヴィルヘルムの言葉で、運搬隊が箱を移動させはじめる。
不意に風が強くなってきた。泉の水がばしゃばしゃと岸に打ち寄せてくる。
マルティナは不穏な空気を感じて、剣を抜き、下に向けて構えた。
「……なんでしょう、空気が変わりましたね」
近くのマルコがマルティナに囁くように言った。
「そうね」
マルティナも小声で答え、周囲の警戒をはらいながら、聖清石がおさめられた箱が泉に向かって進んでくるのを見守る。
そして、箱と共に泉に近づいてくるヴィルヘルムが、ギョッとした顔をしてこちらに手を伸ばすのが見えた。
「マルティナ、後ろ!!」
叫ぶような声が重なる。
はっとして後ろを振り返ったときには、大きな魚の尻尾のようなものがマルティナを弾き飛ばしていた。
耳の周りで、どぼん、という水の音がうるさく響く。水に落ちたのだと気づいてすぐに息を止めた。手で鼻と口を覆いながら薄く目を開けたが、真っ赤な水で上も下も分からない。
(まずは水上に……出なければ……)
マルティナは空気を口から少しこぼした。泡が上っていく方向を見極めようとしているときに、顔の周りの水が、少しだけ赤から普通の水の色に変わって薄くなってゆくのに気づく。
(指輪のおかげかしら)
そう思いながら水上の方向に向かって泳ごうと腕を伸ばした瞬間、すさまじい水流がマルティナを水中で流した。赤い水の中で目をこらすと、何か大きな影がゆらりと動いている。
マルティナは水に落ちても手放さなかった剣を握り直した。そして剣を構えながらも、もう片方の手で必死に水をかく。
もうすぐで水上だ、と思ったところで、また強い水流がきた。どうやら魚のような魔物が激しく動くたびに水流が発生しているようだ。
(この泉に巣くっていた大型の魔物がいたんだわ、だから周辺に小さな魔物がいなかったのね)
マルティナはできるだけ魔物と距離を取りながら水上に顔を出した。
(大きい……!!!)
水中で見えていたのは、魔物の体の一部だけだった。水上に頭を出したマルティナが見た魔物の姿は、どちらかというと魚よりもドラゴンに近い。体高は十五メートルを超えそうなくらい大きかった。
半身を浮かべるようにして長い首を水上にゆらめかせている。光るような赤いひれが首から生え、太い脚を岸にかけようとしていた。
体表はドラゴンほど硬質な鱗ではなく、柔らかい魚のような鱗に見えるが、放たれる弓はことごとく弾かれている。見た目よりも固そうだ。
長い頭を振り回し、近づく騎士達を威嚇するように暴れる魔物は、恐ろしげな咆哮を上げ、太い前脚を振り上げると、がん、と岸についた。重そうな体を岸にあげていく。
咆哮で周囲の空気がビリビリと震えた。水面もさざ波が立っている。
ゆらりと長い尾も水上にあげられていた。水中で暴れて水流を作り出していたのも、マルティナを弾き飛ばしたのも、魚のようなひれがついたあの長い尾のようだった。
尾を振りかぶると、ばしん、と騎士達に向かって振り下ろす。
かろうじてみな避けていたが、尾が打った土は大きくえぐれていた。あれにまともに打たれれば、怪我では済まないかもしれない。
マルティナはぞっとした。自分が弾き飛ばされた時は、あれほどの強さではなかったように感じた。ざっと体を確認したが、強い痛みはなく、骨折などはしていないようだった。
ホッと胸をなで下ろす。運が良い。
再度反対の岸にいる騎士達に目を向ける。
盾隊は、ドラゴンの攻撃から守るように扇形に展開していた。弓隊はその後ろから攻撃を加えているが、あまり効いていないような感じだ。
聖清石がおさめられた箱を持った騎士達は、弓隊の更に後ろに下がっている。聖清石を泉に投下するといっても、やみくもに投げ捨てれば良いわけではない。泉の中の水が湧き出す場所を探して、できるだけ水源に近い場所におさめる必要がある。しかし、魔物のせいで泉に近寄ることができず、どこに投下すれば良いかを判断することができずにいるようだった。
マルティナは近くの岸から水上に上がろうとするが、岸は柔らかい泥でできていて、つかもうとするとボロボロと崩れてしまう。なにより、手足にうまく力が入らなかった。
(瘴気におかされた水に体全体を浸してしまったからかしら)
マルティナは剣を岸に突き刺した。せめても溺れないようにしなければ。水の中に浸した体を見下ろす。
と、水の中にひときわ赤く光る何かが見えた。
「マルティナ!」
ヴィルヘルムの声と走り寄ってくる足音が聞こえた。