4-1. 隠された決意
タティーマ山脈は、シャイネン皇国の北側と東側をぐるりと取り囲んでいる険しい山脈だ。標高は一部をのぞいて三千メートルを下らず、真夏であっても頂上付近には冠雪が見られる。
青くすら見える山肌は、天に突き刺さるようにそびえ立ち、山すそから見上げるとまるで壁のようだ。
魔物も出るため、興味本位で登山をするような輩はあまりいなかったが、冒険者の一部は、頂上付近にある珍しい鉱石を求めてまれに登ると聞いた。
どんな宝物があったとしても、あの山に登ろうと思うだけですごい気概だ、とマルティナはそびえる山を見上げてため息をついた。
メリダの泉も、山すその村からはかなり登った場所に位置していた。メリダの泉が瘴気におかされたことはこれまでなく、位置や道を確認しながらの登坂となる。
メリダの泉から流れる川は周囲の村を潤していたが、水が瘴気におかされたため周辺の村びとはすべて避難を終えている。
王国騎士団も、険しい道を歩いて登ることを余儀なくされていた。魔物との遭遇も少なくなく、幸いにも怪我人を出さずにいられたものの、計画四日目ですでに団全体がかなり疲弊していた。
「こんなに険しい道中になるとは思ってもみなかったよ」
ユーグが小さくおこした火で干し肉をあぶりながらぼやくように言う。
「そうだな。そろそろ、みな疲れが溜まっている頃だ。大物が多いと言われていたのに、それほど大きな魔物に遭遇していないのも気になる」
ヴィルヘルムが厳しい口調でこたえた。
「そうだな、昨日出たネトルベアが一番大きかったくらいか。あいつは他の魔物を捕食するといっても小物だろうしな」
あれがそれほど大きくない部類なのか、とマルティナはひそかにため息をついた。
ネトルベア、と呼ばれる魔物とは、昨日の夕方に遭遇した。体長はゆうに四メートルを超すと思われる大型のクマだった。
ユーグ達の率いる盾隊が前に出て攻撃を防ぎ、その間に弓隊が攻撃してひるませ、他の隊の剣士が十人がかりぐらいで倒した。
魔物の血は毒になるため、血を浴びてしまった団員は聖清石を漬けてあった浄化水を用いて洗浄して休息させる必要がある。あまりひらけている場所がなかったこともあり、昨晩は木々の間で座ったままでしか休憩が取れず、睡眠不足で疲れていた。
その後一日また山を登ってきたが、今日は大きな魔物どころか、小さな魔物もあまり見かけない。
(あれよりも大きな個体がこの後たくさん出てくるって事かしら)
マルティナは指にはめた聖清石の指輪を見つめた。相変わらず安定しない色合いを石の中に閉じ込めている。
この指輪のおかげか、マルティナにはほとんど瘴気の影響はなかった。しかし、他の団員には汚染されたこの地の瘴気もじわじわと影響を及ぼしているだろう。
少し心配になってヴィルヘルムをみたが、マスクを付けた顔はいつもと同じように見える。立ち居振る舞いには疲れは見えなかった。
(行軍に慣れていらっしゃるのかしらね)
感心する気持ちで息を吐くと、周囲を見渡した。マルティナもくたびれていたが、周囲でまめに働く団員達にも疲れの色が濃い。
今日は見通しの良い開けた場所が見つかったため、周囲では野営のためにテントがいくつか張られようとしていた。暮れていく空はもう赤色に染まり、太陽の最後の光が木々の間に消え去ろうとしている。
いくつか炊かれている小さな火が、せわしげに行き来する団員達の足下を照らしていた。
ふと、マルティナは何かが草むらの間できらりと光を反射したのに気づいた。
近づいてよく見ると、紋章のボタンのようだった。
(誰かが落としてしまったのかしら)
何気なく拾う。ボタンは草の間に埋もれるようにして落ちていたため、土にまみれていて家紋はよく見えなかった。
指でボタンをこする。再度顔を近づけて見たマルティナは、言葉を失った。
(どうしてバールケ子爵家の家紋のボタンが、ここに……?!)
立ち尽くしてボタンを凝視していると、後ろから声がかかった。
「マルティナ? どうかしましたか」
ヴィルヘルムだ。
青ざめた顔で振り返ったマルティナは、手に持っていたボタンを見せるか見せまいか迷う。
しかし、手に乗せたボタンをそっと差し出し、ヴィルヘルムに見せた。
「これは? どこかの家紋が刻まれたボタンのようですが」
ヴィルヘルムは覚えがないのか、首をかしげている。
マルティナは震える声で言った。
「これは、シャイネン皇国の、バールケ子爵家の家紋ですわ」
「バールケ子爵?」
なおも不思議そうな顔をするヴィルヘルム。マルティナはぎゅっと目を閉じた。
前世での暴動の記憶がよみがえってくる。
背中から深く突き刺さった剣も、胸から突き出た剣先を血でぬめる指で握った記憶も、昨日のことのようだ。
はっ、はっ、と息を吐き出して落ち着こうとするが、落ち着こうとすればするほど息が吸えなくなっていく。
「マルティナ? どうしました、マルティナ」
ヴィルヘルムの声が遠のいていく。
腕を掴まれたのが分かったが、視界は黒く、狭くなっていき、そして唐突に光を失った。
目が覚めると、テントの布が眼前に迫って見えた。
いつものベッドの天蓋じゃないことで、ああ、そうだ討伐行軍中だったのだ、と思い出す。
「目が覚めましたか」
思いのほか近くから声がした、と思ってそちらに目を向けると、寄り添うように横たわっていたヴィルヘルムの顔と目があった。
しばらくぼんやりとヴィルヘルムを見ていて、はっと気づいた。
「えっ、何故、ヴィルヘルム卿がこちらに?」
「ヴィルです」
「……」
今、それは指摘することなのか、と一瞬思ったが、マスクごしの瞳は真剣だった。こんな夜でもマスクは外さないのか、と頭の片隅で考えながら、マルティナは口を開く。
「ヴィル……は、何故わたくしの横で寝ているのですか」
「いけませんか」
ヴィルヘルムはマルティナの髪をすくうと、口づけた。
マルティナの頬がかっと赤くなる。
「行軍中ですよ」
マルティナは、髪をつかんで引き戻す。しかし、起き上がろうとするとヴィルヘルムが押しとどめた。
「そのまま。疲れていたのでしょう。もう夜中ですし、交代のもの以外は休んでいます。あなたもこのまま朝まで寝てください」
「わたくしも交代しますわ」
顔を赤くしたままそう言い張るマルティナの顔に、ヴィルヘルムが近づいてきた。
マルティナが体を硬くしていると、そっと唇が額に寄せられる。
「倒れた人が何をおっしゃっているんですか」
触れるか触れないかくらいの口づけのあと体を離し、赤い顔で固まっているマルティナを見て、くすくすとヴィルヘルムは笑った。
「あなたの分も、私が見張りに立ちますから、今日は休んでいてください。疲れが出たのでしょう」
そう言って体を起こすと離れていく。
マルティナは体を硬くしてヴィルヘルムが離れていくのを見ていたが、突然、思い出したようにヴィルヘルムの腕をつかんだ。
「ボタン、ボタンがありましたよね」
「ああ、これですか。ボタンそのものには特に変わった点はありませんでしたよ」
ヴィルヘルムはポケットから先ほどのボタンを取り出した。
銀色のボタンの内側の中央には狐、そしてそれを囲むようにヒナギクの花が配置されている。忘れようにも忘れられない、バールケ子爵家の家紋だ。
マルティナが怯えるようにボタンを見つめるのを、ヴィルヘルムは訝しそうな顔で見ている。
「……それは、バールケ子爵家、今、皇子の最も近くに……おそらく愛妾として側にいるローザリンデ子爵令嬢の生家の紋章です」
マルティナが震える声を抑えながら言うと、ヴィルヘルムは少し考え込むような顔をした。
「なるほど……バールケ子爵の領地はシャイネン皇国でも北側の方ではありませんでしたか?」
「その通りです」
頷くマルティナに、ヴィルヘルムはボタンを握りこんだ。
「偶然ここに落ちていた、というのはいささか無理な解釈になりそうですね。皇国の騎士の姿を見た、という話とも関係がありそうです。
とりあえず、いったんこれは私が預かりましょう」
そう言ってヴィルヘルムはボタンをまたポケットにしまった。
そして、マルティナの額を、愛しげに指でそっと撫でる。
「眠れないかもしれませんが、目を閉じて、少しでも休んでください」
「……はい」
マルティナは素直に頷いた。テントを出ていくヴィルヘルムを見送り、しばらく考えを巡らせていたが、いつの間にかまた眠りに落ちていた。




