1-3. はかりごと
目が覚め、ベッドから起き上がってすぐに胸を見下ろした。まっすぐに剣がこの胸を貫いたはずなのに、どこも痛くなく、怪我もない。
胸に手を当てた時に、着ている夜着が皇妃になってから着ていた薄手のものではなく、実家のエーレンベルク侯爵家にいたときに着ていたような、少し厚手のアイボリー色のものだと気づいた。
はっと見回すと、皇城の自室でもない。かつて侯爵家にいたときの自室にいる。怪我がひどくて、暴動の現場から近かった実家に運び込まれた……? それともこれは死後の夢というものだろうか。
ベッドから下り、鏡を見た。そこには、疲労と心労でやつれ、頬に暗いくぼみができていた顔ではなく、ふっくらとした頬の、年若い自分の姿がある。
「お嬢様、お湯をお持ちしました。お目覚めでいらっしゃいますか?」
そういって入ってきた女中に日付を尋ねた。不思議そうに「四月九日です」と日付を答える女中に、何年か、と重ねて尋ねる。
「シャイネン皇国暦一四五年でございますが……?」
とまどった様子の女中の言葉に、マルティナは絶句した。五年前の四月ですって……? 皇子との初顔合わせの前日だ。忘れもしない、四月一〇日の顔合わせで、言葉巧みに剣を捨てさせられたのだ。あれがすべての始まりだった。
死後の夢だとしたらどうしてこんな日なのか。それとも、夢ではないのか?
「ゲルデはいる……?」
青ざめたまま椅子に座り、湯を使うために軽く髪を結わえかけた女中に聞くと、
「ゲルデ様はただいま侯爵様に呼ばれておりますが、もうすぐいらっしゃるはずですよ」
と答えた。
具合の悪そうなマルティナを気遣ってくれるが、マルティナは動揺のあまり、ろくに女中の言葉が耳に入っていなかった。
そして、身支度を調え終わった頃にゲルデが部屋に入ってきた。
まだ彼女も十九歳、血色の良い顔をしている。ドアを閉めた彼女の、はしばみ色というのだろうか、黄色がかった茶色の瞳が、マルティナに向けられた。
「ああ……ゲルデ……」
その目を見た途端、どんな言葉もすべて抜け落ちてしまった。彼女はマルティナと一緒に皇城にあがり、半年ほど経ったところで、スパイの嫌疑がかけられたとして、皇城の中庭で無残な姿を発見されたはずだった。
内通者の、隣国フレリア王国出身の男と一緒に殺されたと言われ、目の前が真っ白になったのを昨日のことのようにおぼえている。
みるみるうちに目に涙をためて立ちすくむマルティナの様子を見て、ゲルデは「どうされたのですか」と心配そうに近づいてくる。
「ゲルデ……」
ひし、と抱きつき、静かに涙を流すマルティナの背を、ゲルデは慣れた手つきで撫でる。
「怖い夢でも見られたのですか」
優しく問いかける言葉。確かに腕の中にある温もり。何度も抱きしめてくれたゲルデの匂いに、マルティナは我慢しきれず、嗚咽をこぼす。
「こ、こわい、夢を、見たの。とてもこわい、夢を」
そのままマルティナは泣き続け、ついには泣きすぎてその場で昏倒し、そのまま三日三晩高熱を出して寝込んだ。うわごとのように「皇妃にはなりたくない」と言っていたらしいと、あとからゲルデに聞いた。
高熱から回復してすぐ、マルティナは両親である侯爵と侯爵夫人に、皇妃にはなりたくないこと、侯爵家を継ぎたいこと、剣術を続けたいこと、婿取りをしても良いし、良い縁がなければ遠縁の養子を迎えたいことを懇願した。
ほんの少し前まで、年頃の娘らしく「今度お目にかかる皇子様はどんな方かしら」とまんざらでもなさそうに言っていた娘の豹変ぶりに、侯爵も侯爵夫人も驚いてはいたものの、高熱の間中、うなされるように「皇妃にはなりたくない」と言っていたことが決め手となったのか、早めの皇妃候補探しを、と持ち上がっていた皇室との縁談はそのまま立ち消えた。
あれから三年が過ぎた。
マルティナはできるかぎり皇室との関わりを持たないように過ごしていた。まだ社交界デビュー前であったこともあり、失礼にならない程度の社交で済んでいたのが幸いした。令嬢達との関わりは積極的に行っていたが、令息も集まるような場所には顔を出さなかった。
しかし、十八歳のデビュタントの日、ついにハーラルトとの出会いを果たしてしまうことになる。
デビュタントには、父であるエーレンベルク侯爵にエスコートされて参加することになった。
皇城には絶対に行きたくなかったマルティナは、なんとかしてデビュタントに行かずに済む方法を考えたし、両親にも直接訴えてみた。しかし、
「さすがに侯爵家の跡取りになることを考えている人間が、デビュタントに出ず、社交界デビューをしないのは難しい」
と言われてしまった。
別に一度くらい夜会で会ったとして、なんてことないだろう。一目惚れをされるなどとは思っていない。
ハーラルトは、前世でもマルティナのことを「虐げても大人しくついてくるだろう相手」「政治的に利用しやすい家門の娘」だとしか思っていなかったのだから。
しかし、マルティナの方がもうハーラルトに会いたくなかった。
あのにやついた顔、全ての女性が自分に対して好意を持つと信じ切っている目に、自分の姿を写すことが我慢ならなかったのだ。
荘厳な結婚式のあと、たった一年でローザリンデに心を移し、昼も夜も人目をはばからず皇城に上げて側に呼び、そうしてローザリンデにその一年後、男児を産ませた。ローザリンデに夢中になってからは食事すら一緒にすることもなかった。
男児を産んだことで家格の違いをとびこえて側妃におさまったローザリンデは、それはもう有頂天だった。
表向きは皇妃である自分を立てるような物言いをしながらも、ことあるごとに子がいないことをあげつらった。
皇妃としての公務は全てマルティナに押しつけていたにもかかわらず、だんだん「お飾りの皇妃」ではなく「皇子を生んだ側妃」へと政治力も傾いていった。きっと、自分が死んだあとは手を叩いて喜んだことだろう。
十五歳の、まだ皇子と出会ったばかりの頃は、そして婚約を結んだばかりの頃は、そんなことになるなんてひとかけらも想像していなかった。
一国の皇子が自分に優しく接し、ひざまずき、丁重にもてなすことにのぼせあがった。
「優雅な皇妃になる人の手に、剣は似合わない」と言われて、そうかもしれない、とも思って剣は捨ててしまった。
「危険があれば、僕が守ってあげるんだから」という言葉にうっとりもした。
だから自分に剣は必要ないと、皇子が守りたいと思う、守られるべき存在であろうと努力をした。
十五歳の子どもに、十六歳の子どもがささやく、手垢のついた愛の言葉。どこかで読んできたおとぎ話にも、そっくりそのまま書いてありそうな言葉。だが、マルティナは気づけなかった。
皇妃になるための勉強と、ひたすら自分を磨くだけの生活。体を動かせば自然に締まるのに、ただ食事を減らして折れそうなほど華奢な体を保持しようとした。会うたびに、「皇妃らしくなったよ」と褒めてくれるハーラルトの言葉に胸を躍らせ、自分を自分の手で殺し続けていった。
「子どもだったわ」
鏡に映る自分を見ながら、マルティナは眉を寄せた。
「お嬢様、何か」
デビュタントのための髪の飾りを選んでいるゲルデが手を止めて聞き返す。
「いいえ、一人言よ。ちょっと思いだした事があっただけ」
「眉根を寄せるのをおやめください。化粧が崩れます」
「いいのよ、私の事なんて誰も見てないんだから」
「いいえ、お嬢様、婿取りをなさるのでしょう? できるだけよいご縁を見つけないといけないのですから」
ゲルデは忙しく女中にあれこれ指示を出しながらそう言った。鏡の中に映るマルティナは、女神もかくやという美しさであった。
一部を結い上げた髪には、小さな花の形に造形された宝石が色とりどりに飾られていた。宝石をつなぐチェーンには小さな真珠が通され、黒い髪の上で静かにまたたいているようだ。
残りの髪は長く背中まで垂らされていたが、飾りから同じように垂らされたチェーンがその髪にも彩りを添えていた。
デビュタントで着るのは白のドレスだと相場が決まっていたが、マルティナのドレスは白を基調にしながらも、裾から本当に淡く紫のグラデーションが掛かっている。
精巧な刺繍が胸元を飾り、小さなアメジストがそこかしこに縫い付けられていて、マルティナが動くたびに淡いラベンダー色の幻影が見えるようだった。
ようやく準備が終わったらしいゲルデは満足そうに頷いた。
「ありがとうゲルデ」
苦笑するマルティナに、ゲルデは目を細める。
「一生に一度のデビュタントですから。これくらいはなさいませんと」
晴れやかに笑うゲルデに、マルティナは口角をあげて見せた。
嬉しそうに見えているといい、と思いながら。




