2-11. 隣国へ
翌朝、マルティナはエルマークまで護衛をしてくれた侯爵家の騎士達と別れを告げる。
皇国の北側と東側をぐるりと囲むように位置するタティーマ山脈は、自然の要塞のようになっている。
東側にある谷を切り開いて馬車が往来できるようになっており、唯一フレリア王国との街道として整備されていた。
谷あいではあるものの、それなりに登り、それなりに下る道だ。
ちょうど山脈の峰に当たる場所に関所があり、そこから向こうはフレリア王国だった。
関所に着いた一行は、国境を越えるための手続きで一度馬車を降りた。
谷となっている両側の崖をつなぐように作られた関所は、洪水すら止められそうなほど巨大だった。ゆうに五十メートルは超えそうな高さの白い建物を、マルティナは見上げて大きく息をつく。
「国境の関所とは、このようになっているのね。大きいわ」
「私も初めてまいりましたが、壮観ですね」
ゲルデも驚いたように見上げている。
「この関所は、もちろんお互いの国の安全のためもありますが、特に皇国にとっては魔物を防ぐ重要な役割を持っているのです」
近くにいたヴィルヘルムが、マルティナに説明する。
「魔物?」
マルティナの言葉にヴィルヘルムは頷いた。
「フレリア王国の北側から、魔物が来ます。
遠い北の土地の瘴気が、通常の動物を変化させて魔物が生まれる、と考えられています。
力の強い魔物は瘴気の強い土地にしか住めないので、ここまで南下してくるものは飛行型の、しかもあまり強くないものばかりですが、それでも時おり、山沿いに南下してくるものがいまして。
皇国ではタティーマ山脈に守られてあまり魔物を目にする機会はないと思いますが、この谷を通って皇国側に出るものは少しいるのです。
ほとんど国境の騎士達に討伐されているとは思いますが。ですので、この関所はこのように大きく作られています」
「なるほど、そうだったのですね」
マルティナは顎に手を当てて思案する。
ヴィルヘルムに言われたとおり、エルマークからは動きやすい騎士服のような服装に替えていた。
上は麻のブラウスに、ぴったりとしたベストを身につけており、動きやすい乗馬用のパンツに、膝から下はブーツを履いている。
そして腰には剣を下げていた。ヴィルヘルムはマルティナの剣をちらと見る。
「魔物と戦ったことは?」
「ありません」
ヴィルヘルムの問いにマルティナが首を振ると、ヴィルヘルムは、ふむ、と言って思案した。
今日は布の軽そうなマスクを付けている。普段のものよりも目元が大きく開いていて、瞳が見えやすい。
灰色だとばかり思っていた瞳に、ふと銀色の光が煙のようにゆらめいた気がして、思わずヴィルヘルムの目をじっと見ると、ヴィルヘルムはマルティナの視線を避けるようにして目を逸らし、地面を見た。
「できるだけ馬車から出ないようにしていただきたいところですが、やむを得ず出なければいけない状況になったときに備えて、注意事項を申し上げます。
まず、魔物とは目を合わせないようにしてください。できるだけ音を頼りに戦うこと。
令嬢であればできると思いますが、どうでしょう」
そこまで言って、ヴィルヘルムが視線をマルティナに戻したときには、もう灰色の瞳に戻っていた。マルティナが頷くと、ヴィルヘルムも軽く頷いた。
「また、体液も毒なので、剣で切ったあとは魔物の体液がかからないように気をつけてください。
それから、ゲルデ嬢、万が一馬車から出ざるを得ない場合になったときには、できるだけ魔物と目を合わせないようにして、騎士団の方へ逃げてきてください」
ゲルデも手を胸の前で組み合わせ、こくこくと頷いた。
「国境を越えて数時間のところまで、王国騎士団の別隊が迎えに来る予定になっているので、それほど危険な状況にはならないと考えています。
また、魔物が活発になるのは冬の時期なので、今はそれほど大きな群れはいないはずです。
怖がらせるようなことを申し上げてすみません。しかし、油断はされませんよう」
そういってヴィルヘルムはにこりと口元で笑い、頭を下げる。
その時、ちょうど馬車や使節団の検査が終わったことを告げる声が響き、マルティナとゲルデは顔を見合わせてうなずき合うと、再度馬車に乗り込んだ。
関所を抜け、一時間ほど進むと、両側にそびえ立つようにあった崖はなくなり、鬱蒼とした森になってきた。
雲が重く垂れ込め、空は雨が降り出しそうな様子に変わっている。
マルティナが窓から空を見上げていると、突如、布を裂くような鋭い音が響いた。
最初は一つだけだった音に、重なるように複数の音が響いてくる。
「デーバグーの群れだ」
騎士が一人、叫ぶように言うのが聞こえた。一行に緊張が走る。
馬車を操る騎士達が、速度を上げるために、馬に鞭を打つ音が聞こえた。
騎士団の馬の足音も重く響き、馬車を護衛するような陣形に変化して伴走している。
「このまま森を抜けるぞ。戦うにしても森の中では分が悪い」
ヴィルヘルムの声が響いた。
はい、と呼応する騎士達の声に守られながら馬車は速度を上げていく。
森の中の道なので、馬車が速度を上げると腰が浮き上がるほど揺れ、マルティナとゲルデは馬車の中の手すりにつかまって耐えるので必死だった。
「ゲルデ、大丈夫?」
「お嬢様、こそ」
「余計な、おしゃべりしてると、舌を、噛むわね」
マルティナが馬車の揺れに耐えながらにやりと笑うと、ゲルデは顔をしかめた。こんな時に冗談を言っている場合ではない、とでも言いたいのだろう。
突然、森を抜けた。木々が見えなくなり、空が広く見える。
窓の外にちらと目をやると、今にも降り出しそうな雲の下に、使節団を追ってくる黒い鳥のような群れが見えた。
つばさを四枚持ち、くちばしのように見える口は上下左右に分かれている。口から、赤い舌が複数本伸びていた。
(なかなかにおぞましい見た目ね……)
マルティナは心の中で呟く。
その中の一羽が、マルティナ達の馬車をめがけて滑空してきた。
魔物の赤い目がちらと見えた瞬間、マルティナはヴィルヘルムの言葉を思い出してさっと目をそらし、頭を下げる。
馬車に近づいたデーバグーは、馬車を護衛していた騎士の一人に切り捨てられ、鋭い声を上げながら地面に落ちていった。
一瞬目が合っただけなのに、心臓がバクバクと音を立てる。かるい眩暈のような感覚がマルティナの視界をゆがめた。
(これが魔物の力)
飛行型の魔物のため、滑空してきたものについては騎士団が剣でなぎ払っていたが、空に固まった群れを追い払うことは難しそうだった。
そのうちに、雨がぽつぽつと馬車の屋根を打ち始める。雨の勢いはすぐに増し、騎士達の外套を雨が叩いて白く弾けているのが見てとれた。
雨に混じって、デーバグーの滑空してくる頻度が上がる。
雨の音でデーバグーの声を判別できないのか、数人の騎士が頭に取り付かれたりしており、別の騎士が助けに駆け寄っていくのが見えた。
(私も出て戦うべきかしら)
マルティナの頭にちらとそういう気持ちが掠めるが、この馬車から飛び出したとして、馬もないマルティナは、足手まといになるのが目に見えている。
また、魔物との実戦経験も少なく、その点でも自信がなかった。
(歯がゆいわ)
自分が戦力にならない事が悔しかった。冷静に考えて、出ない判断をせざるを得ない。
それでも、魔物の目を見ないようにしながら戦況をちらちらと見ていると、一閃、まばゆい光をまとった矢が進行方向から飛んでいくのが見えた。
火がついた矢のようだ。次々に馬車の上を越えて、デーバグーの群れに刺さっていく。矢がささった個体は燃える体をくねらせて地面に落ちていくのが見えた。
馬車の進行方向に目をこらすと、一列に並んだ弓隊が、まだ遠くに見えた。かなりの距離があるにも関わらず、次々に火矢が弓にかけられ、頭上を越えていく。
やがて、半数ほどに数を減らしたデーバグーの群れは、諦めて森の方へ去って行った。
弓隊と合流する頃には、雨脚は弱くなっていた。
ダルセー伯爵の乗る馬車の近くにマルティナ達の馬車も寄せられる。弓隊を率いていたのであろう女性騎士が、フードを外して馬車の前に跪いた。
「ベレニス・マルタン、第二弓隊隊長として、お迎えに上がりました」
「いやあ、ありがとうベレニス。危なかったよ」
馬車の扉を開けて歓迎するダルセー伯爵が見える。
ベレニスと呼ばれた女性騎士は、立ち上がって胸に手を当て、美しい笑顔で敬礼した。
「ご無事で何よりです。国王陛下」
「あー」
ダルセー伯爵、いや、ダルセー伯爵だと思っていたフレリア国王は、ちらりとマルティナの馬車に目を向けた。
いたずらがばれてしまったような顔をしている。
ヴィルヘルムの表情はマスクで半分隠れていたが、呆れたように口をへの字に曲げていた。
「国王陛下ですって……?」
マルティナは、そう言ったきり、言葉を失った。




