2-9. 隣国へ
使節団とは皇都を抜ける関所で合流することになっていた。
侯爵家の馬車が到着すると、既に使節団の馬車は全て関所に着いている状況のようだった。
侯爵家の騎士がマルティナ達の馬車を護衛しており、ここから三日ほどの距離の、皇国でもっとも東にあるエルマークという都市までは一緒に行く予定だ。
騎士の一人が、使節団の長であるダルセー伯爵が乗っている馬車へと、マルティナ達の到着を告げに行く。
ほどなくして、馬に乗ったヴィルヘルムが騎士と一緒に戻って来た。
大きな黒い馬を操るヴィルヘルムは、窓の外からマルティナに向かって口角をあげた。
マルティナが窓を少し開けると「おはようございます」という落ち着いた声が聞こえる。
今日は、皮のシンプルなマスクを付けているようだ。雨を避けるために重そうな外套に身を包んでいる。
かすかに聞こえる音で、外套の下に甲冑の類いも身につけていることがうかがえた。
「おはようございます。鎧を着ていらっしゃるのですか?」
「はい、護衛のために来ておりますので」
ヴィルヘルムはくすりと笑うと、外套を少し開いて見せた。銀色の鎧と、長剣が見える。
「危険なことがあるようなら、この先の街からは私も動きやすい服装にいたしますわ」
「そうですね……。私達が守るのでご心配には及ばない、と言いたいところではありますが、特に、フレリアとの国境を越えるあたりで魔物が少し出ることがあります。
この時期はあまり大きな魔物が出ることはないので、東の都市エルマークまではそれほど気にされなくて良いですが、エルマークから先は動きやすい服装の方が良いかもしれません」
マルティナは自分のデイドレスを見下ろす。もっともな意見だった。
「情報ありがとうございます。ではそこからはわたくしも帯剣してまいります」
「ご自身の身を守れるご令嬢だとは重々承知しておりますが、私達も全力で護衛をいたします。どうぞ不安なことがあればいつでもお声をかけてください」
ヴィルヘルムははきはきと騎士団長らしく答えると、礼をして去って行った。
夜会では目立たぬように控えめな行動をしていたようだったが、背筋をピンと伸ばして手際よく他の騎士達に指示を出しているのを見ると、やはり騎士団長なのだなと感心する。
ゲルデも同じことを思ったようで、目を見開いて驚いていた。
「先日とは、雰囲気が違いますね」
ゲルデの言葉にマルティナも頷く。頼もしい背中だと感じた。
エルマークまでの旅は穏やかに進んだ。
初日こそ雨だったが、翌日からは天候にも恵まれ、予定通りの行程で進むことができた。
気温が高いために馬には厳しい気候となり、たびたび休憩を挟んだが、その分スピードを上げて調整しているようだった。
皇都から離れて国境への路を進むにつれ、視界が広がり、自然は豊かになっていく。
侯爵領も皇都の近くだったマルティナは、田園風景そのものが珍しく、飽きることがなかった。
エルマークまで、もう二時間ほど、という場所に大きな池があり、そこで一行は最後の昼休憩を取ることにした。
大きな木の陰に敷物を敷き、ゲルデと一緒に座って、宿でうけとってきたサンドイッチを食べていたマルティナは、池の周囲に牛が数頭いるのを見つけた。
親子だろうか、体格の異なる数頭が水を飲んだりしている。
皇都で見かけたことがある牛は毛が短いが、その牛は体表に十センチは越える毛を生やしているようだった。
「見て、ゲルデ、あの牛、毛が長いわ」
「あれはベルメイという種類の牛です。力が強く、また子をたくさん産むので、地方ではとても重宝されています。
子爵領にもたくさんおりましたよ。広い場所を移動して餌を探すのが好きな種ですので、皇都の近くでは飼われておりませんね」
「もし狭いところで飼ったらどうなるの」
不思議そうに尋ねるマルティナに、ゲルデは少し眉を上げた。
「ストレスで母牛の乳が出なくなり、子が育たなくなります」
「……そう、それは無理ね」
大きな体の割に繊細な種らしい。
飲み物を飲みながら池と牛を眺める。使節団の馬たちも、池の水で体を流してもらい、涼んでいるようだった。
めいめい、いくつかのグループに分かれて昼ごはんを食べたり飲み物を飲んだりしている。
池の上を、風が渡ってきた。涼しくて気持ちが良い。
マルティナはとても穏やかな気持ちだった。
東に行くにしたがって少しずつ標高が上がっているせいか、首都の近くほど暑くも無く過ごしやすい。
そして、その風に乗り、皇都にいるときには感じたことのない、土のにおいと、緑のにおいと、花のにおい、そして動物のにおいが混じってマルティナに届く。
「いい気分だわ。ゲルデ」
「気持ちようございますね。子爵領にいた頃は私もよくこうしてピクニックをしたりしておりました」
「これがほんとうのピクニックなのね」
マルティナは目を閉じる。
もちろん侯爵家にいたときにもピクニックと称して外で食事をしたことはあった。
が、整備された庭園内か、または侯爵家の敷地内。広さもあり気持ちは良かったが、抜けるような景観はなかったし、噴水はあれど池もなかった。また、馬も牛もいなかった。
「世界は広いのね。ゲルデ」
マルティナの言葉に、ゲルデは「そうでございますね」と返す。
「ここに来るまでの街道沿いに、ずっと、ずっと家があったわ。
しばらく民家がない場所もあったけれど、皇都以外の場所にも民がいることを、わたくしは初めて実感したの。
頭の中ではもちろん知っていたわ。
皇都以外の場所にも仕事があって、そこに色んな家族がいて、生き物がいて、日々の営みを繰り返している。何百、何千、何万の民がいることを、数字では分かっていた。
どの地域にどのくらい民がいて、どのような仕事があって、産業があって、動物がいて、どんな生業をしている人たちがいるのか、全部おぼえている。勉強はたくさんしたから」
マルティナは膝を抱えた。
「でも、頭の中で知っている、ということと、見たことがある、というのは、本当に全然違うのね。
わたくしは、ここまでの街で見かけた人たちが「本当に生きている」ことを、生まれて初めて実感したの。
家がどんな形なのか、どんな家族構成なのか、何時に起きているのか。
農作業をしている人たちは、朝にまだ日が昇る前から牛を外に出して、畑に向かっていたわ。
その人達に朝ごはんを用意する仕事の人は、もっと暗いうちに起きているの。宿の窓から見えたわ」
池の方にいる牛を見ながら、マルティナは静かに言った。
ゲルデは何も言わずに聞いている。
「貴族が貴族として生きているのは、民を守るためだと、お父様はいつも言っていたわ。それが建国の時に、皇帝のそばで剣となり民を守った、エーレンベルク侯爵家の大事な役割なのだと。
分かったつもりでいたわ。
何度も言わなくても、知っているって。……でもほんとうには分かっていなかったのだわ。私が守らなければいけない人たちの、暮らしや顔が」
ゲルデは昼のサンドイッチを包んでいた紙を静かに畳み、片付けながら聞いていた。
「わたくし、旅に出ることにして本当に良かったわ」
マルティナがしんみりというのを聞くと、ゲルデはふっと笑ってマルティナにお茶を差し出した。
「お嬢様は立派な侯爵様になられますね」
「……だといいわ」
マルティナは髪をおさえながらカップを受け取り、ゆっくりと口に運んだ。
最初はただ、皇子から逃げるためだけだった。
けれど今は、旅に出て良かったと心から思っていた。
これがわたくしの国だ。戻って来て、侯爵家を継ぐときにも、きっと忘れないようにしようと。




