2-8. 隣国へ
ずっと終わらなければ良い、と思っていたダンスは、瞬く間に終わってしまった。
婚約者でもなければ、同じ人と二曲続けて踊ることはないため、マルティナとヴィルヘルムのダンスもこれで終わりだ。
マルティナが名残惜しい気持ちで体を離すと、ヴィルヘルムは深く頭を下げ、マルティナの手の甲に口づけた。
マルティナは好意を顕わにした顔でふわりと微笑む。周囲がざわり、とざわめいた。
「私の存在が、マルティナ嬢のご迷惑にならなければ良いのですが」
ヴィルヘルムが困ったような声音で、マルティナにだけ聞こえる程度の小声で呟いた。
マルティナは立ち上がったヴィルヘルムに近づくと口を開いた。
「わたくしをあまり侮らないで欲しいですわ。だてに女の身で侯爵家を継ごうとは思っておりません」
顔を上げて周囲に目を向けた。扇を広げ、口元に寄せる。ヴィルヘルムにだけ聞こえるように、頭を寄せ、声をひそめた。
「人の噂は、利用するためにあるのです」
そういってヴィルヘルムを見上げ、いたずらっぽく微笑む。
マルティナの華やかな笑顔に、ヴィルヘルムは虚を突かれたように少し黙ると、厳しく結んでいた唇をゆるめた。
「本当に頼もしいお方だ」
マルティナは、ヴィルヘルムの言葉に満足したように頷くと、ぱちん、と音を立てて扇を閉じる。
「さて、では、しあさっての出発のことについていくつかお伺いしたいので、ダルセー伯爵様の元に戻りましょうか。
旅、とても楽しみですわ。わたくし、国外に出るのは初めてですの」
ヴィルヘルムは頷くと、エスコートのために手を差し伸べた。
出発の日は、残念ながら雨模様だった。
玄関の扉が開かれた瞬間、むっとする湿気を含んだ空気が侯爵邸に流れ込む。マルティナはほんの少しだけ眉根を寄せた。
「お嬢様、荷はもう積み終わりました」
ゲルデがマルティナに声をかけた。
「ありがとう。では、行ってまいりますわ。お父様、お母様」
マルティナは後ろに立っていた侯爵夫妻を振り返った。
侯爵夫人はマルティナを抱きしめる。侯爵はマルティナの肩に手を乗せた。
「マルティナ、気をつけて」
「しっかり見聞を深め、実力を磨いてくるんだ」
「手紙を書いてね。わたくしも書きますから」
「気候が違って乾燥するそうだ。体には充分気をつけなさい」
次々とかけられる声に、マルティナはくすぐったそうに笑う。
「ありがとうございます。そんなに心配なさらなくても大丈夫ですわ。ゲルデも一緒ですし。手紙も書きますわね」
そう言うと、侯爵夫人の背中をぽんぽんと叩き、侯爵に向かって笑いかけた。
侯爵夫妻は次にゲルデに向きあった。夫人はゲルデの手を取ると、優しく言った。
「ゲルデ、あなたが頼りよ。マルティナをしっかり支えてくれると信じているわ」
「そうだな、ゲルデがそばにいれば安心だ。私からもよろしく頼む」
ゲルデは真面目な顔のまま「承知いたしました」と頭を下げる。
マルティナは、その光景に前世で見覚えがあった。
皇妃になることになり、皇城に上がるとき、同じように両親はゲルデにマルティナのことを頼んだのだ。
その思い出がちくりと、マルティナの胸を刺す。
皆に見送られながら、ゲルデと一緒に馬車に乗り込んだ。
窓から、侍従達に傘を差し掛けられた侯爵夫妻が白い雨に遮られながら馬車に手をあげているのが見える。
低い馬のいななきが聞こえると、馬車はゆっくりと動き出した。
しばらく窓の外は鮮明に見えていたが、水滴で窓が濡れ、侯爵邸のアーチを出て行く頃には外もおぼろげにしか見えなくなってきた。
「カーテンを閉めましょうか、お嬢様」
「いいわ、このままで」
マルティナは雨の降る窓を眺め続けていた。
「……お嬢様、寂しいのですか?」
マルティナを気遣うようなゲルデの言葉に、マルティナは驚いて振り返った。
「どうして?」
「何やら、ぼんやりとされておりましたので」
「違うわ」
マルティナはにこりとした。
「わたくしはね、これまでこの国から出たことはありませんでした。……ですから、こうやってゲルデと旅をするのが、少し不思議で、嬉しくて」
「そうですか。それはようございました」
ゲルデは少しほっとしたような顔をする。
普段からすました顔をしているゲルデは、侍女としてマルティナの側についているときにはほとんど感情を表に出さなかったが、他の誰よりもマルティナに心を砕いてくれている。
(前世では、それが皇子に疎まれたのでしょうね)
今思えば、前世では皇妃になってから、さまざまな嫌がらせや公務の妨害があり、それをゲルデがいつも解決してくれていた。
事前に女中達からの情報をすくい上げ、手配の不備をなくしてくれ、皇妃としての対面が保てるように動いてくれていた。
わざとマルティナを貶めようとしていた皇子にも、ローザリンデにも、ゲルデは邪魔な存在だっただろう。
マルティナはゲルデを見る。ゲルデは静かに目を伏せ、書物に目を通していた。
ゲルデは十年前、侯爵家に侍女としてやってきた。
ゲルデの生家であるトラレス子爵家は、書類上では侯爵家とは遠い親戚に当たるが、それまで交流はほとんどなかった。
子爵領は、もとは豊かな領地だったが、十二年前に川の流れが変わってから急に穀物が育たなくなってしまい、ゆるやかに困窮した。
ゲルデの父である子爵は私財をなげうって領地の民を救おうとしたようだった。
皇室にも何度か支援を申し入れたが、それまでの収穫量が豊かだっただけに一時的なものだろうと看過されたらしく、二年経ったときには子爵家の財政はどうにもならなくなっていた。
侯爵家に来たときのゲルデは、着ているものは平民かと思うような服で、とても痩せていたことを、マルティナもうっすらと覚えている。
侯爵はゲルデを養女として受け入れる事も考えていたが、ゲルデがそれを固辞した。
両親との縁を切りたくないと泣くゲルデに、侯爵は子爵家再興のための支援を約束して、マルティナの侍女として迎え入れたのだった。
年が近かったこともあり、マルティナとゲルデはすぐに仲良くなった。
ゲルデは物静かでおとなしい性格だったが、頑固で厳格な一面もあり、行動的なマルティナとは良い組み合わせだったようだ。
ゲルデはマルティナの姉のように寄りそい、マルティナもゲルデを実の姉のように慕っていた。
侯爵家の助けで、子爵領に新たな水源地からの用水路が整備され、子爵家は現在では再興している。一度、養子に出されたゲルデの弟が、今は子爵家に戻って家督を継ぐ準備をしているらしい。
ゲルデに実家に戻りたいか、と尋ねたこともあったが、ゲルデは静かに首を振り「お嬢様を放り出して帰ったら、心配でおちおち寝ていられませんわ」と笑っていた。
物静かだが意志が強く、受けた恩を決して忘れないゲルデを、マルティナも心から信頼して皇城にも伴った。
だからこそ、前世で、女中にゲルデの死を知らされたときの衝撃は忘れない。
ゲルデが謀反や反逆を企むなど、考えられなかった。
皇子にきっと無実だと訴えたが、反逆の罪を犯したものは弔うことは許さない、と言われ、葬儀すら出せなかった。
ゲルデの遺体は教会の集合墓地にひっそりと埋葬されたと、あとから聞いた。
その事件があった夜も、こんな雨の降る日だった。
中庭で衛兵に切られたゲルデの血は、夜半から数日にわたって降り続いた雨に洗い流され、数日後にマルティナが中庭を訪れたときには、何事もなかったかのように美しい花が咲き乱れていた。
そうして、前世でマルティナはひとりぼっちになってしまった。
(今世では死なせないわ)
少なくとも、フレリアに行けばゲルデも安全なはずだ。マルティナはそう思い、雨音を聞きながら目を閉じた。




