1-2. はかりごと
「わたくしはね、皇子殿下にまったく恋心を抱いていないの。昔から、別に皇妃になりたいとも思っていなかったし」
「それが不思議なのですの。皇子殿下に恋心がなかったとしても、皇妃になるのは栄誉な事でしょう? お家のためにも名誉ですわ。
貴族令嬢であるからには、ご両親からもそう求められていらっしゃったのではなくて?」
ローザリンデは野望を隠さない目で、マルティナを見据える。そう、この上昇志向の強い目。わたくしを疑っている目。懐かしいわ。マルティナは目を細めた。
マルティナは穏やかな表情のまま、うーん、と視線を天井に向けた。ゆったりと口を開く。
「そうねえ、全くないと言えば嘘になりますけれど、わたくしは一人娘ですから、父の侯爵はわたくしに継がせる心づもりもあったようですわ。なのであまり強くは言われておりませんでしたの。
それに侯爵家の跡取りとしての剣術も、わたくしは好きでしたので、皇妃になったら、剣を取り上げられてしまうでしょう? 特に殿下からはことあるごとにわたくしの剣術については何かと……ねえ」
そう言うと、マルティナは剣を振りかざす仕草をした。そのまま振り下ろし、ローザリンデにまっすぐ腕を伸ばす。
腕の先にもし、剣があれば、ローザリンデの首元に剣先が突きつけられている状況だ。
ローザリンデは目を瞠った。剣はないながらも、鋭いマルティナの視線に息を吞み、ごくりと唾を飲み込む音が聞こえた。マルティナは手を下ろすと、ふふ、っと微笑んだ。
「わたくし、行動を制限されるのが本当に苦手ですの。皇子殿下に恋い焦がれていたならばまた違ったかもしれませんが。それこそ、ローザリンデ様のように」
マルティナは視線を下げ、そのままレースの手袋をはめたままの右手を愛しそうに左手で撫でる。
「でも、わたくしが守りたいのはこの、剣の腕。この手袋の下には、剣ダコがたくさんありますのよ。
皇子にはきっと文句を言われるので、目の前で手袋を外したことはありませんけれど。
しかし、私のこの勲章を取り上げられてしまうのであれば、皇妃の座など、あまり魅力がございませんの。
ですから、ローザリンデ様のお話を聞いたとき、応援することで八方うまくおさまるのではないかしら、と思いましたのよ」
ローザリンデは、目をしばたたかせ、納得したように大きく頷いた。
「ようく理解いたしましたわ。お礼を申し上げますわ。本日のお膳立ても」
「あら、本日だけではありませんのよ。今後も全力で支援させていただきますわ」
マルティナはそう言うと立ち上がり、ローザリンデに手を差し伸べた。ローザリンデはおずおずとその手に自分の手を重ね、立ち上がる。
「晴れてローザリンデ様と殿下の婚約が整った暁には、わたくし、特別なお祝いをご用意いたしますわね」
そう言うと、警戒していたローザリンデはホッとしたような笑みを浮かべる。
「お嬢様、エレナ伯爵令嬢様のご支度が整いました」
ゲルデが側に寄ってきて告げた。
その向こうに、黄色みがかった生地のフワフワとしたドレスを着たエレナ伯爵令嬢が礼をしている。彼女の可愛らしい雰囲気に、そのドレスはとても似合っていた。
「あら、とても良く似合っていてよ、エレナ。この淡い色のドレスは、仕立ててみたものの、わたくしには少し合わないかしらと思って袖を通していなかったのよ。
本当に良かったわ。このまままた夜会を楽しんでくださいな」
頬を染めたエレナは、こくこくと頷いた。
パーティはまだ中盤と言ったところだ。特に、踊りたいと言っていた令息とのダンスもまだ終わっていなかったそうだし、巻き込んでしまったお礼としてはちょうど良いだろう。
「わたくしもローザリンデ様とのお話がちょうど終わったところなの。
彼女はこのまま帰るそうですけれど、わたくしもいろいろあって少し疲れてしまったので、今日はお暇いたしますわ。
エレナ、申し訳ないのだけれど、他の令嬢にもわたくしが帰ることをお伝えくださる?」
エレナは、心得たように頷いた。
きっと、皇子の行状にわたくしが傷心していると思ってくれるだろうし、そのように周りには伝えるだろう。
マルティナは思いのほかものごとがうまく進んでいる事に気を良くして、ついにんまりとしそうになるのをさりげなく扇で隠す。
「では馬車までまいりましょうか、ローザリンデ様」
ローザリンデは頷いた。
エレナと別れ、移動して馬車の用意を待っていると、先にローザリンデの馬車が来た。
馬車の横に掲げられている、ローザリンデの生家、バールケ子爵家の紋章を見た瞬間、マルティナはくらりと眩暈をおぼえた。
「大丈夫ですか、お嬢様」
ふらついたマルティナを、横からゲルデが支える。
「大丈夫よ、今頃酔いが回ったのかしらね」
ゲルデの手を借り、軽く頭を振ると、なんでもない口調で姿勢を正す。
「本日はどうもありがとうございました。あら、マルティナ様、ご気分でも? お大事になさってくださいね」
小声でやりとりするマルティナの様子には気がつかなかったように、ローザリンデは晴れやかな顔でそう告げると、御者の手を借り、颯爽と馬車に乗り込んでいった。
「しばらくは邸宅でお過ごしくださいな、ローザリンデ様。きっと良いように進みますわ」
マルティナはにこやかに微笑んだ。ローザリンデは顔を輝かせ、頷く。頭の中は、皇妃への階段を昇り始めた喜びでいっぱいなのだろう。
「心より応援しております。ローザリンデ様」
去りゆく馬車を眺めながら、うすく、冷たい笑みを浮かべてマルティナは再度呟いた。
ようやく到着した侯爵家の馬車に乗り込むと、マルティナは一度深く背もたれにもたれかかったが、すぐに背中を前に倒した。
「ゲルデ、悪いんだけれど少し背中をゆるめてくれないかしら。息苦しいわ」
ゲルデはマルティナの隣に座ると手早くドレスを締めつけていたリボンをほどいてくれる。
「ふう、楽になったわ。ありがとう。わたくし、邸宅まで少し休みますわね」
礼を言うとまた座り直し、今度こそ深くクッションの良い背もたれに沈み込み、目を閉じる。
すぐに、眼裏に前世の、死んだ日の光景がよみがえってきた。
皇妃として慰問に訪れた貧民街で突如起きた暴動。鎮圧するための警備隊はなかなか到着せず、護衛の騎士ともはぐれたまま暴動に巻き込まれた。
首謀者の持っていた剣が、自分に向けられたときに、柄に確かに見えたバールケ子爵家の紋章。恐らく子爵家の騎士で、剣は貸与品だったのだろう。
――わたくしを確実に殺すために差し向けられたもの。
もちろん応戦はした。むざむざと殺されるわけにもいかないと思って、落ちていた剣を拾って握り、数年ぶりに構えた。
しかし、五年前に皇子に「皇妃は剣を持つな」と強く言われてから手放した腕には、拾った剣は重すぎて、剣戟を受け流すだけで精一杯だった。
目の前の男に気を取られて、後ろに下がった瞬間、背中にどん、という衝撃を受け、気がつくと剣先が自分の胸から出ているのが見えた。
皇妃として身につけていた美しい白いドレスが、みるみるうちに真っ赤に染まっていく。指が切れるのを構わずに剣先を握り、背後を振り返ると、そこには常にローザリンデ側妃の隣に立っていた近衛騎士の顔があった。
「わたくしを殺せと、命じられたのですか」
途切れそうな意識でその無表情な騎士に尋ねると、騎士はにこりともせずに首を少しかしげ、無言で剣を引き抜いた。
どう、とマルティナの体が前に倒れる。
薄れてゆく意識の中、目の前に慌ただしく駆け寄ってくる靴が見えた。
「マルティナ皇妃!」
ああ、やっと騎士がきたのか。と思った瞬間には、もうマルティナの意識は深い闇の中に飲み込まれていった。




