2-7. 隣国へ
「フレリアより戻ったらご報告にまいりますわ」
皇子との対話を諦めて切り上げようとするマルティナに、皇子は食い下がった。
「遊学したいのであれば、なにもフレリアの使節団の帰国と一緒でなくても良いのではないか?
我が国から遊学したいもの達を募って、皇国からの団を結成してもよいではないか」
得意げな皇子に、マルティナは心の中でため息をついた。
それは一体いつになるのでしょうか、わたくしは一刻も早く皇国から離れたいのです、とも言えずに、マルティナは黙り込む。
気まずい沈黙が二人の間に漂い、それをローザリンデが何とも言えない表情で見つめている状況となった。
と、横から陽気な声が割り込む。
「おや、我が国の王国騎士団が旅の護衛につくことなど滅多にありませんぞ。令嬢の道中の安全は約束されたも同然です。
大船に乗ったつもりで任せていただきたいものですな!
陸路なので船ではなく馬車ですが!」
はっはっは、と、ダルセー伯爵はただよう気まずい空気を吹き飛ばすように、ひとり大きな口を開けて笑う。
マルティナも皇子もローザリンデも、ぽかんとした表情でしばらくダルセー伯爵を見つめていたが、まっさきにマルティナが「ふふ」と笑うと、ローザリンデも「面白い方ですわね」と戸惑いながらも笑みを浮かべた。
皇子だけは、憮然とした顔をしている。
不機嫌そうなまま、口を開いた。
「ダルセー伯爵と言ったかな、伯爵にしては若いように見えるが。
使節団の長をつとめるからには、何か突出した特技でもお持ちなのかな。
……そうだな、会話に割り込むことは得意とみうける」
爵位と若さに対して嘲りを含んだ声で皇子が言い放つ。
あまりにも失礼な物言いにマルティナが皇子に目を向けるが、皇子は言ってやったという顔で得意げだ。
仮にも国の代表として訪れている人物に対して、皇族として浅はかな態度だ。国際問題にもなりかねない。
しかし、ヴィルヘルムが前に出ようとしたのを、ダルセー伯爵は右手で軽く制した。そして、人好きのする笑顔を皇子に向ける。
「はい、父が早くに引退いたしまして。さっさと伯爵領に引っ込んで母との暮らしを満喫したかったようです。
私などまだ父の足下にも及ばないのですが、まあこれが我が家のお仕事ですので引き受けないわけにもいかず……しかしながら、引き受けたことでこうして見聞を広めることができまして、まだ若い私にとって僥倖でございました。
それに、我が国は一夫一婦制でしてね、両親の仲は私が幼い頃からそれはもう睦まじくて、私もそのような家庭を慈しみ、さっさと引退したいと思っております。
あ、私はおととし結婚したばかりなんですけれども、妻が、これがまた可愛いのです。帰国して会うのが今から待ち遠しい。
皇国のお土産もたくさん買わせていただきました。特に皇国の織物はとても珍しい織りで、美しゅうございますね。妻もとても喜ぶでしょう」
にこにこと話をつなぐダルセー伯爵は、皇子の悪意にはまったく気づかないような顔だ。
マルティナはさすがのあしらいに感心した。
「まあ、素敵なお国柄なのですわね。わたくしの両親も仲がよろしいのですよ。わたくしもそうありたいと思っております」
そうして、さりげなくダルセー伯爵に同意し、皇子に向かってにこりと微笑んだ。
ローザリンデを伴っておきながら、マルティナに公然と誘いをかけようとしていたことをあてこすられているのが分かったのか、皇子は面白くなさそうな顔をしている。
しかしここで言い返しても分が悪いと思ったのか、突然ローザリンデを振り返った。
「そうだ、皇帝陛下がお呼びだったんだ。行くぞ、ローザリンデ」
そう言うと、ローザリンデの手をつかんで歩き出す。
ローザリンデは「えっ」と言いながらも、慌ててマルティナと使節団に軽く頭を下げ、皇子に引かれるままに去って行った。
マルティナは安堵のため息をついた。
「先ほどからため息ばかりですね、ご令嬢」
何もかも分かっているようなダルセー伯爵の笑みに、マルティナは苦い笑いを浮かべた。
「お見苦しいところをお見せいたしましたわね」
「いやいや、あのように執着されると難儀でしょうねえ。しかし彼が次期皇帝ですか。なかなか……」
そう言って皇子の行く方を見据えるダルセー伯爵は、先ほどまでのへらりとした態度からは想像もつかないほど、厳しい目をしている。
マルティナはダルセー伯爵の違う一面を見たような気になり、思わず聞き返した。
「なかなか……?」
扇で口元を隠したまま続きを促すと、ダルセー伯爵はまたにこっと笑ってマルティナに言った。
「……なかなかの未来が皇国を待っていそうですね」
眼鏡の奥の太陽のような橙色の目は、ゆるやかな弧を描いて笑顔を形作っているのに、まったく笑っていないように見えた。含みのある視線がマルティナに絡む。
マルティナが「それは」と言いかけたところで、音楽が急に変わる。と同時に、庭の中央に大きく場所が空けられた。
ダンスの時間だ。
ダルセー伯爵は、すっとまた明るい雰囲気をまとい、おどけるように言った。
「おや、ダンスの時間ですね。
残念ながら私、昨日の乗馬で足首を痛めてしまいまして。せっかくの機会、令嬢にダンスを申し込みたいところではありますが、本日は無理そうです。
そうだ、ヴィルヘルム、お前がマルティナ嬢と踊ってくればよい」
急に話を振られたヴィルヘルムはダルセー伯爵の後ろで直立した。
「は、急に何を」
「何を部外者みたいな顔をしているんだ、お前がマルティナ嬢の今日のパートナーなんだろう?
こういう夜会では、パートナーがダンスを申し込むのが礼儀ではないのか?」
それは、そうではありますが、とヴィルヘルムは戸惑った声を出す。
さあ、いってこいいってこい、と背を押され、マルティナとヴィルヘルムは会場の近くに進み出た。
振り返るとダルセー伯爵がひらひらと手を振っている。ヴィルヘルムはふう、と息をついた。
「ご迷惑ではありませんでしたか」
そういうと、マスクの下の口元は困ったような笑みを浮かべる。
「いいえ、迷惑など」
マルティナが答えると、ヴィルヘルムは手を差し出した。
「それでは、私に令嬢と踊る栄誉をお与えください」
「よろこんで」
マルティナはそっとヴィルヘルムの手に自分の手を重ねた。
ヴィルヘルムはマルティナの手を取ると、そっと引き寄せ、しっかりとマルティナの腰をホールドする。
皇子の強引なリードとは全く違い、壊れものを抱きしめるような優しい仕草だ。
「皇国式のダンスは少し習っただけなので、もし間違えたら遠慮なく足を踏んでください」
マルティナの耳元に、ヴィルヘルムの甘いバリトンの声が響く。
マルティナはくすくすと笑いながら、答えた。
「踏んだりいたしませんわ。私、ダンスは得意ですのよ」
「それは頼もしい限りです」
ヴィルヘルムとマルティナは、皇帝夫妻のダンスが終わったあとの会場に、他の参加者とともに進み出る。
ゆるやかなテンポのワルツが流れ始めた。
冗談を言っていた割に、ヴィルヘルムのダンスはとても優雅だった。
最初に言っていたとおり、ところどころ皇国式のダンスとはステップが異なっていたが、特にマルティナが踊りにくくなるような足さばきではなかった。
むしろ、マルティナがどちらに進みたいかを素早く見極めながら、流れるようにリードしてくれる。
アクセサリーのように振り回されるダンスではなく、音楽に乗ってお互いの呼吸を合わせ、ステップを刻んでいく。
ところどころでマルティナが遊ぶように回ったり跳んだりしても、ヴィルヘルムは少し驚いたように口角をあげ、見事に合わせてくれた。
(とても踊りやすい上に、楽しいわ)
マルティナは息を弾ませ、はじけるような笑顔でヴィルヘルムと向きあっていた。
ヴィルヘルムもマルティナをリードしながら、楽しそうな雰囲気をまとっている。
周囲の、ダンスを見ていた貴族達がざわめいているのも聞こえてきた。
「マルティナ侯爵令嬢があんなに楽しそうに踊るのは初めて見ましたわ」
「あのようなお顔もなさるのですね。印象が違いますわね」
ヴィルヘルムはその声を少し気にするようなそぶりを見せたが、マルティナは全く気にならなかった。
新しい恋のために、隣国へ遊学に向かうのだと誤解された方が良いのかもしれない、とすら思いながらステップを踏んでいた。




