2-4. 隣国へ
マルティナは落ち着かない気持ちで鏡に映る自分を見回した。
侯爵が勝手に約束してきたケーリッヒ子爵令息(騎士なので侯爵はヴィルヘルム卿と呼んでいたが)が迎えに来るまであと少し時間がある。
マルティナが着ているのは、もともと予定していた薄いブルーのドレスだった。
肩から胸元にかけて大きくひらいていて、胸に寄せた布地が大きな薔薇のような模様を作り出している。裾の方に行くにしたがって、薄いブルーは濃い色合いになり、幾重にも重ねられているひだを縁取るように真珠が縫い止めてあった。
今日は花のように真珠が形作られた髪飾りを付けている。髪は半分を巻いてまとめ上げ、ひとふさだけを右肩に垂らしていた。
首には真珠とアメジストを交互につないだネックレスが三重に下がっている。
「どこかおかしいところはないかしら」
「どこもおかしいところはございません。完璧でございます」
ゲルデは冷静な顔で答えている。先ほどから三度は同じやりとりを繰り返していた。
「お嬢様」
「なあに」
「ひょっとして、楽しみにしていらっしゃいます?」
「……そうではないわ。ご迷惑をおかけしたのに、更にお願い事をするなんて、お父様に呆れているだけよ。
わたくしが隣に立って、見劣りするなどすれば、卿に恥をかかせてしまうでしょう?
これ以上ご迷惑をおかけするわけにはいかないではありませんか」
マルティナの言い訳めいた言葉に、ゲルデは片眉をあげる。
「なによ」
ゲルデの何かを言いたげな表情にマルティナが唇を尖らせると、ゲルデは「なにも」と答えた。
「ケーリッヒ子爵令息がご到着なさいました」
侍従が開いた扉の向こうから声をかけてきた。
ゲルデは無言のまま、すっと扉の方に手の平を向け、視線でマルティナを促した。
マルティナは憮然とした顔で視線を扉の外に向けると、歩き出した。
マルティナが階段を下りようとすると、盛装のヴィルヘルムがホールに立っているのが見えた。
今日は黒のマスクではなく、白地に銀の刺繍が施されたマスクを付けている。服装は騎士団の制服だが、前回着ていた黒っぽいものではなく、白を基調にした制服だった。
皇国の騎士団だと白の制服には金糸の刺繍だったが、フレリア王国の騎士団の白の制服は銀糸での刺繍が正式のようだ。
肩から垂らした白いマントにも銀糸の縁取りがしてあった。裏地は目が覚めるような赤色だ。
制服全体に施された銀糸の刺繍や縁取りが、髪色にも目の色にも良く合っている。
「お待たせしました」
マルティナが階段を下りきると、ヴィルヘルムは少し驚いたようにマルティナを見つめ、そして優雅に礼をした。
「本日もとてもお美しいですね。まるで皇国の女神のようです。しばし見とれてしまいました」
マスクに隠された目元は良く分からないが、薄めの唇はゆるく弧を描いていた。柔和な表情をしているらしい。
からかわれているのではなさそうだ。
ヴィルヘルムが挨拶をしながら差し出した手に、マルティナがレースの手袋をした手を乗せると、ヴィルヘルムはその手を取り、甲にそっと口づけした。
(本当に子爵令息なのかしら。ハーラルト皇子よりもずっと洗練されているわ)
マルティナは感心しながらヴィルヘルムに微笑む。
「ありがとうございます。卿もとても素敵な装いですわ。その白の制服は騎士団の正装ですか?」
「そうです。式典の時くらいにしか着ないのですが、今日くらいはこれを着ろと、宰相に昨日念押しされてしまいまして。
着慣れないので、似合わないでしょう」
ヴィルヘルムは苦笑した。
「そんなことありませんわ。とてもお似合いです」
ヴィルヘルムはしばしマルティナの言葉に驚いたような顔をしていたが、そうだ、と言うとそばに控えていた侍従に手を差し出した。
ヴィルヘルムが連れてきたらしい侍従は、その手にそっと箱を乗せる。
「先日、壊れてしまっていたのを見ましたので、良ければこちらを」
ヴィルヘルムが開いて見せてくれた箱の中には、扇が収まっていた。
先日壊してしまったものと同じような大きさだった。
「まあ、ありがとうございます。拝見しても?」
「もちろんです」
マルティナは扇を手に取った。見た目よりもずっしりと重い。
広げると、繊細な銀糸の刺繍が施された扇だった。布地は青だ。
先日壊してしまったものも青の扇だったが、黒のレースを貼り込んでいたものだったので、意匠がかなり異なる。
(これではまるで、ヴィルヘルム卿の髪と目の色を意識しているかのような意匠ですわね。どういうつもりでこんなデザインを?)
マルティナはヴィルヘルムの意図をはかりかねて戸惑う。
それにしても、この銀糸は本当の銀でも縫い込んであるのだろうか? 普通の令嬢ならば重くて選ばないような重量だ。
「本日の装いをお伺いしておりませんでしたので、合うか心配だったのですが、大丈夫そうですね」
ヴィルヘルムの静かな物言いに、マルティナはややためらいながら頷いた。
「ありがとうございます。それでは本日はこちらを使用いたしますわ」
マルティナはにこりと微笑んだ。
ヴィルヘルムのマスクの下の表情は伺い知れなかった。どんなつもりでこの扇を持たせたのだろうか。
その時、すっとヴィルヘルムがマルティナに顔を寄せてきた。
マルティナは思わず体を引きそうになるが、踏みこたえる。
ヴィルヘルムはマルティナの耳元に口を寄せ、小声でささやいた。
低いバリトンの声が耳をくすぐる。
「この扇は、中心部分の骨に、鋼を使っております。少し重いですが、あなたなら扱えるはずだ。
先日のような危険があっても、敵が五人くらいまでは持ちこたえるでしょう」
そう言うと体を離した。
マルティナは目を丸くし、次いで、おかしそうにふふ、と笑った。ゲルデがこちらをみて訝しげな顔をしているのが余計におかしくなって、ついには俯いたが、こらえきれずに吹きだしてしまう。
「ありがとうございます。大切にいたします」
笑いながらも嬉しそうなマルティナに、ヴィルヘルムはにこりと口角をあげた。
「壊れるようなことがないことを祈ります」
「そうですわね」
マルティナは扇を撫でる。
皇子からも様々なものが贈られてきたが、こんなに心躍る贈り物はなかった。しみじみと扇を眺める。
扇らしからぬ重さが、手に心地よかった。
「ずいぶん楽しそうだな、何を話していたのかね」
侯爵の声がホールに響いた。
振り返ると、侯爵と侯爵夫人が連れ立って階段を下りてきている。
「本日は大切なお嬢様のエスコート役を任命いただきましてありがとうございます。騎士役を立派に務めさせていただきます」
優雅に礼を取るヴィルヘルムの隣で、マルティナは扇を広げて見せた。
「扇を贈っていただきましたの。素敵な意匠でしょう?」
これまで贈り物などされ慣れているはずのマルティナの弾んだ声に、侯爵と侯爵夫人は少し驚き、顔を見合わせた。
「これは気を遣わせてしまったな」
侯爵の言葉に、ヴィルヘルムはそつなく応えた。
「とんでもないことです。贈り物のひとつくらいは、パートナーとして当然のことです」
侯爵は眉を上げると、ふむ、と髭を触ってにやりと笑みを浮かべ、そのまま何も言わずに皆を促した。
「では行こうか」
マルティナは侯爵の含みのある笑みに気づいてじろりと視線を投げたが、侯爵は気づかないような顔をしたまま、夫人を伴って先に玄関を出ていった。




