2-2. 隣国へ
強くみぞおちを殴打されて気を失い、どさりと体を地面に投げ出す騎士の音に、たちすくんでいたもう一人の騎士も意識を取り戻したかのようにはっとする。
慌てて剣を抜いてマルティナに向かって構えた。
「扇しか持っていない令嬢に、騎士が剣を抜くのですか?」
マルティナが鼻で笑うと、騎士は逡巡する。
剣はやりすぎか、とでも思ったのか、迷ったように剣先を下ろした。
「危害を加えたいわけではありません、どうか案内に従っていただきたいのです」
騎士の言葉に、マルティナは不思議な気持ちになる。
危害を加えない?
……まあそうだ、騎士はマルティナに危害など加えないだろうから嘘ではない。
マルティナは暗く笑った。
客室に連れ込まれた後には、危害を加えられる可能性しかない。
マルティナは迷う騎士に向かって、また足を踏み出した。
騎士の裏側に素早く回りこむと、伸び上がって、首の後ろに扇を握りしめた拳を叩きつける。
残った騎士も、あえなく道に崩れ落ちた。
マルティナは騎士を見下ろし、軽く息をついた。
手に持っていた扇を見ると、あちこち折れている。開こうとすると、蝶番の部分が取れてしまったのか、バキリと音を立ててばらばらになってしまった。
最初の騎士にはみぞおちに扇の先を押し込んだせいもあり、扇の骨も無残に折れている。修復はどう見ても不可能そうだった。
「ああ……お気に入りの扇だったのに」
マルティナはがっかりしてため息をつくが「仕方がありませんわね」と言いながら背を正すと、そばの植え込みをじろりと睨みつけ、声をかけた。
「か弱い令嬢が騎士に連れ去られそうになっていたのですから、助けていただいても良かったのではありませんこと?」
くっくっ、と笑いをこらえながら植え込みの向こう側から姿を現したのは、ヴィルヘルムだった。
「気づかれていたのですね。手出しする方が無礼かと思いました故、そのまま見届けさせていただきました。
ご不快に思われたならこのとおり、陳謝いたします」
先ほどまでの神経質な様子とはうって変わって、くだけた様子で優雅に礼をしたヴィルヘルムは、好奇心を抑えきれないような瞳で、マスクの奥からマルティナを見た。
「見事な腕前です。長く剣技を? マルティナ・エーレンベルク侯爵令嬢」
どうして名前を、と思ったが、先ほどの騎士が大声でマルティナの名を呼ばわっていたことを思い出す。
「たしなむ程度ですわ」
問いかけに対して自嘲気味に笑うマルティナに、ふむ、と言ってヴィルヘルムは道に転がる騎士達を見下ろした。
「令嬢のたしなみに手も足も出ないとは、騎士として鍛錬が足りませんな」
そう言うと、マルティナに向かって手を差し伸べた。
「会場にお戻りになりますか? 私がエスコートしても?」
マルティナは黙って自分の手を差し伸べる。
ヴィルヘルムは、マルティナが騎士達を打ちのめす様子を見ていたのに、剣技について問うとき、嫌味な口調ではなかった。
マルティナは手を重ねながらヴィルヘルムに尋ねる。
「わたくしのしたことを、軽蔑なさらないのですか?」
マルティナがためらいながら口にすると、ヴィルヘルムはマルティナの手を引いて歩き始めながら、首をかしげた。
「軽蔑? いいえ。何故です?」
「その……女性が剣技などを……。それに騎士を打ちのめすなど、令嬢らしくないと思われなかったのでしょうか」
言いよどみつつもそう話すマルティナの言葉に、ヴィルヘルムは思案した。
「フレリア王国には女性の騎士もたくさんおります。身の安全を守るためにその技を使ったとして、誰に責めることができましょう」
ヴィルヘルムはそう言い、それに、と言葉を継いだ。
「あなたの動きは美しく洗練されていました。たしなむ程度の鍛錬ではあのような動きはできません。きっと長く努力されてきたはずだ。
私は騎士団長をこれでも拝命しています。動きを見ればその者がどれだけ努力しているかなど、すぐ分かります」
そういうと口角をあげて微笑む。
「誇ることこそあれ、恥じることなど一片もありません」
マルティナはぼうっとして、思わず歩みを止めた。
恥じることなど一片もない。
もちろん、自分ではそう思っていた。
だが、人から言われたのは初めてだった。父の侯爵でさえ「お前がはねのけなければならない人の目は少なくなかろう。それでも努力は続けなさい」と言っていたのだ。
偏見そのものが存在しない人など、これまで一度も出会わなかった。ゲルデやエレナでさえ、仕方のなさそうな顔でマルティナのわがままを聞いてくれていた。
女が剣を持っても何も言われない。そんな世界を想像したこともなかった。
「どうかされましたか?」
ヴィルヘルムは不思議そうに歩みを止めたマルティナを振り返る。
「いいえ、ちょっと、びっくりしてしまって」
マルティナの胸が激しく動悸を打ち始めた。
どくん、どくん、という音が耳に響いてくる。熱が頭にのぼってくるのを感じた。
これはまさか、噂に聞く恋……?
そう思った瞬間、視界がぐらりと傾いだ。
からだ全体が心臓になってしまったかのような拍動が全身を包み、急激に吐き気がせりあがってくる。
知らなかったが、恋とはこんな急激に具合がおかしくなるものなのか、と思ったマルティナは、やや考えて「違う」と思い直した。
目の前にベリー入りの飲み物がちらつく。あれだ。
「マルティナ嬢!」
ヴィルヘルムは倒れそうになるマルティナを抱きとめる。
マルティナは、自分の取ったグラスにだけベリーが入っていたことを思いだしていた。
あの侍従は、まるで私のためにもってきたかのように、一つしかグラスをトレイに載せていなかった。
思い返せば不自然だ。
令嬢達のみ特別にベリー入りの飲み物が配られたのかと思っていたが、きっとあの飲み物だけ、私を動けなくするための何かの薬が盛られていたのだ。
ひとくち、そうだ、一口しか飲んでいない。
だからきっとそれほど体に入ってはいないだろうと思うのに、いったいどれほど強い薬なのか。牛でも眠らせるつもりか。
「薬を……盛られたようです……おそらくは。不徳の致すところでございます」
マルティナはあえぐように言った。
ヴィルヘルムはマルティナの首に指を当て、脈を確認している。いかにも軍人らしい行動に、マルティナは薄く笑みを浮かべた。
毒ではなさそうだが、全身がだるい。
まぶたが重くなってくるのに抵抗するように、頭を振って意識をはっきりさせる。
あの飲み物を飲み、どこかで意識を失ったマルティナを騎士に運ばせるために、後ろをつけ回させていたのだろう。
意識のない女を手籠めにして何が楽しいのか。
いや、マルティナとも深い関係である事を内外に知らしめられれば、それで充分だったのだろう。
マルティナの服を剥いて、二人でベッドに入っていれば、誰もが「マルティナもまた皇子と深い仲だったのだ」と勘違いする。
貴族令嬢の行末は、それでもう決定的になる。皇子と結婚するか、一生独身か。
意識のない間にマルティナに誘われたことにすれば、皇子に瑕疵はない。モテる男はつらい、と言ったところだろう。
そうしてまたお飾りの皇妃への道が開かれることになる。
どこまでもすがすがしい屑っぷりを発揮する皇子殿下への悪態をつきかけて、吐き気に唾を飲み込んだ。
そしてヴィルヘルムの、銀にも見える灰色の瞳を見上げて言った。
「ゲルデを……侍女を呼んでください。会場外の控えの間にいるはずです……もしくはお父様、エーレンベルク侯爵を……」
そこまで言ったところでマルティナの意識は途切れ、世界はぐらりと暗闇の色に反転した。




